エピローグ
次に目を開けた時、そこには灰色の空間が広がっていた。
どこまでも薄い灰色。
上も下も分からないような場所。
でも、私はもう最初ほど怯えなかった。足元の感覚を確かめ、息を吸い、前を見る。ぼんやりとした灰色の向こうに、古びた駅が浮かび上がっていた。
寂れた木造の駅。
色の抜けた壁。
小さな待合室。
窓枠には、乾いた花が飾られている。
私は、その花の前で足を止めた。
赤いドライフラワーだった。
けれど、ただ赤いだけではない。潮風に揺れても折れなかった、あの町の低い花に少し似ていた。フォルテがくれた花と、完全に同じではない。けれど、どこか面影がある。
私は星型ポーチへ手を入れ、包みの中の花を少しだけ確かめた。
モルタルの赤。
シドの涙を照らした夕陽の赤。
ツムギが好きだった赤。
それらが、この古びた駅の窓辺で、静かに重なった気がした。
「また来たのか」
低く、ひび割れたような声がした。
私は振り返る。
改札の向こうに、猿の駅員がいた。
古びた制服。少し大きな帽子。皺の深い顔。細い指。最初に会った時は、何を考えているのか分からなくて怖かった。けれど今は、その姿を見ても、胸が跳ねるほど驚きはしなかった。
「はい」
私は答えた。
「また来ました」
猿の駅員は、じっと私を見た。
その目が、少しだけ細くなる。
「ほう」
「何ですか」
「慣れてきたな」
「え」
「最初は、もっとびくびくしていたもんだがなぁ」
私は言い返そうとして、少し考え、それから諦めた。
「それは、そうです。いきなり変な駅で、猿の駅員さんが出てきたら、びっくりします」
「変な駅とは失礼なやつだな」
「普通の駅ではないと思います」
「お前の普通がここでの普通とは、限らない」
猿の駅員は、愉快そうに喉を鳴らした。
その様子が少しだけ嬉しそうで、私は不思議な気持ちになった。
この駅にも、何度も来た。
来たくて来たわけではない。
けれど、ここは私の旅の始まりで、区切りで、次へ向かう場所なのだ。
「行きたい場所が、あるように見えるな」
猿の駅員が訊いた。
私は改札の上にある表示を見た。
読めない文字が並んでいる。
相変わらず、何が書いてあるのか分からない。
けれど、今日は迷わなかった。
「魔女の国へ行きたいです」
口にした瞬間、自分の声が思ったよりはっきりしていることに気づいた。
猿の駅員は片眉を上げる。
「魔女の国」
「はい」
「ふぅん、なぜだ」
「夢から覚める方法を探しています」
「そんなものを探してるのか」
「はい。でも、ルチトクでも、モルタルでも、分かりませんでした。ハルクさんと月へ行っても、シドさんの町でいろいろ探しても、夢から覚める方法を知るものは、どこにもありませんでした」
私は言葉を切った。
月まで飛んだ旅も、港町で過ごした日々も思い出す。
たくさんの場所が浮かんでは消えていく。
「でも、魔女なら」
私は続けた。
「魔女なら、何か知っているかもしれないと思ったんです。すべてではなくても、少しだけでも。元の世界へ戻る方法に近づくための、何かを」
猿の駅員は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、古い駅の木の床に落ちる。
窓枠の赤いドライフラワーが、風もないのにかすかに揺れた。
「魔女は面倒だぞ」
「分かっています」
「意地悪だぞ」
「それも、少し分かっています」
「分かった気になるのが、一番危ないんだぜ?」
私は少しだけ肩を落とした。
「気をつけます」
「それでいい、人間はそうでなくっちゃあな」
猿の駅員は、浅い箱を取り出した。
最初にきっぷを渡された時と同じような箱だった。古びていて、角が擦り切れていて、中には小さな紙片がいくつも入っている。私は思わず、自分の星型ポーチへ手を当てた。
私のきっぷは、まだそこにある。
けれど猿の駅員は、それとは別の紙片を一枚つまみ上げた。
「本来なら、行き先は勝手に決まる」
「そうなんですか」
「そういうものだ、これもまたここの普通」
「でも、今回は」
「お前が少しは駅に慣れてきたからな」
猿の駅員は、にやりと笑った。
「特別サービスだ」
「特別サービス」
「喜べ」
「ありがとうございます」
私が素直に頭を下げると、猿の駅員はますます満足そうな顔をした。
「よし」
彼は紙片を差し出した。
「魔女の国行きだ」
私はそれを受け取った。
きっぷは、前のものより少しだけ手触りが違った。ざらりとしていて、端に薄い黒い模様が走っている。文字は相変わらず読めない。けれど、見つめていると、どこか森の匂いがするような気がした。湿った土。古い木。甘い菓子のような匂い。そして、ほんの少しだけ、焦げたマシュマロの匂い。
私はきっぷを握りしめた。
「行ってきます」
「戻ってくるかは、知らんぞ」
「戻ります」
猿の駅員が目を細めた。
「言うようになったな」
「少しだけです」
「少しで十分だ」
遠くで、汽笛が鳴った。
灰色の空間の向こうから、白い煙が立ちのぼる。線路の先に、列車が入ってきた。黒く艶めく蒸気機関車。緑の線が入った車両。黒い布に覆われた不思議な車両。古風な洋風車両。そして、その後ろに続く、どこか別の世界へ向かうための車両たち。
何度見ても、変な列車だった。
でも、もう私はそれを少しだけ頼もしく思っていた。
扉が開く。
ぷしゅう、と空気の抜ける音がする。
私は振り返った。
窓枠の赤いドライフラワーが見える。
モルタルの花と少し似たその花は、寂れた駅の中で静かに咲いていた。枯れているのに、そこにある。水を失っているのに、色を残している。
シドの涙を思い出す。
フォルテの言葉を思い出す。
観覧車が、一番上から地上へ戻ってきたことを思い出す。
私は星型ポーチを押さえた。
中には、町からもらった赤い花がある。
そして、魔女の国行きのきっぷがある。
夢から覚める方法は、まだ分からない。
全てを知る者も、どこにもいなかった。
けれど、何も知らないまま立ち止まるわけにはいかない。
ならば、次は魔女の国へ。
魔女ならば、私の知らないすべを知っているかもしれない。
知らなくても、きっと何かを試してくる。
その時、私はまた考えなければならない。
何を見て、何に触れて、どこまで踏み込むのか。
私は息を吸った。
そして、列車へ乗り込んだ。
木の床が、靴の下で小さく鳴る。
座席の背に手を添えると、列車がゆっくり震えた。
ガタ、ゴト。
ガタ、ゴト。
窓の外で、猿の駅員が帽子のつばを持ち上げる。
初めて、彼がここまで来た。
私は小さく頭を下げた。
扉が閉まる。
汽笛が鳴る。
列車は灰色の駅を離れ、次の夢へ向かって走り出した。




