私の探しものを見つけに
観覧車が地上へ戻ったあと、町の時間は少しだけ違う速さで流れ始めた。
シドは泣き腫らした顔のままゴンドラから降りた。フォルテはそんなシドの横に立って、いつものように背筋を伸ばそうとしていたけれど、目元の赤さまでは隠せていなかった。地上で待っていた町の猫たちは、最初こそどう声をかければいいのか分からないように黙っていた。子猫たちも、魚屋の白猫も、布屋の三毛猫も、港から戻ってきた猫たちも、みんな観覧車の前で立ち尽くしていた。
けれど、シドが少し困ったように笑って、
「お腹が、すいたなあ」
と言った瞬間、町のあちこちから、泣き笑いのような声が上がった。
「そりゃそうだろうよ」
「倒れていたやつが何を言っているんだい」
「魚を焼いてやるよ」
「スープもいるね」
「パンも持ってこよう」
その声は、あっという間に町へ広がっていった。誰かが走り、誰かが鍋を取りに戻り、誰かが椅子を運び、誰かが布を敷く。小さな遊園地の前は、いつの間にか即席の食卓みたいになっていた。白い皿の上に焼いた魚が並び、丸いパンが積まれ、貝の入ったスープが湯気を立てる。赤い実を煮た甘いソースまで出てきて、シドはそれを見た瞬間、少しだけ目を細めた。
「赤いねえ」
その声は、まだ少し震えていた。
けれど、もう逃げるための声ではなかった。
布屋の三毛猫が、何でもないことのように言う。
「ツムギが好きだった色だよ」
その名前が出ても、町はもう凍りつかなかった。
シドは黙って頷き、赤いソースのかかったパンをひと口食べた。
それだけのことだった。
けれど、フォルテは顔を背けた。ラウルは帳面を閉じた。魚屋の白猫は乱暴に鼻をすすった。私はその光景を見ながら、胸の奥が静かにあたたかくなっていくのを感じていた。
ひとつの恋が、ようやく地上へ戻ってきたのだと思った。
その夜、町は遅くまで明るかった。
祭りというほど派手ではなかった。音楽隊が出たわけでも、大きな飾りが掛けられたわけでもない。ただ、観覧車の灯りが久しぶりに灯り、赤や橙や金色の光が、ゆっくりと町の上を回っていた。子猫たちはそれを見上げて歓声をあげ、大人たちは少し離れた場所で静かに見守っていた。
シドは観覧車の足元に座って、よく食べた。
フォルテはその横で、いちいち皿の中身を確認していた。
「野菜も食べろ」
「食べているよ」
「それは魚だ」
「魚も大事だからねえ」
「野菜も大事だ」
「フォルテは厳しいねえ」
「今さらだ」
二匹のやり取りに、町の猫たちが笑う。
その笑い声を聞きながら、私は、これでよかったのだと思った。
シドが泣いたから終わりなのではない。
フォルテが泣いたから終わりなのでもない。
泣いたあとに、食べること。
食べたあとに、明日の話をすること。
観覧車の点検表を作るとか、しばらくは交代で様子を見に来るとか、シドの家の掃除を町のみんなで手伝うとか、そういう小さくて現実的な話が、次々に生まれていくこと。
それがきっと、戻るということなのだ。
翌朝、町はいつも通りの顔をしていた。
魚屋は魚を並べ、布屋は店先に布を広げ、記録屋のラウルはいつものように帳面を積み上げていた。けれど、観覧車は昨日までの観覧車ではなかった。
止まっている時でさえ、もう動かないものには見えなかった。次に空へ昇る時を静かに待っているようだった。
私は、町を出る準備をした。
シドのことは気がかりだったけれど、ここに長くいればいるほど、私の本当の探し物が遠のいていくことも分かっていた。
私は夢から覚める方法を探している。
ハルクと月へ行っても、シドの観覧車に乗っても、その答えはまだ見つからなかった。
この町にも、なかった。
ラウルの記録屋には古い帳面が山ほどあった。港町に伝わる言い伝えも、他の町から流れ着いた書き付けも、観覧車や海にまつわる話も、彼は丁寧に探してくれた。けれど、夢から覚める方法について書かれたものはなかった。
フォルテの屋敷にも、なかった。
町を治める者として、フォルテは古い書物や記録をいくつも持っていた。港町に来た不思議な旅人の話、海に沈んだものが別の場所へ届く話、夕陽の中に見える幻の話。そういうものはあっても、私が知りたい答えにはつながらなかった。
「すまない」
フォルテは屋敷の応接室で、そう言った。
昨日とは違って、目元はもう落ち着いていた。けれど、声には少しだけ申し訳なさがあった。
「君の望むものは、私の持つ記録にはなかった」
「いえ。探してくれて、ありがとうございます」
「夢から覚める方法、か」
フォルテは窓の外を見た。
庭の低い花が、潮風に揺れていた。
「この町は、失くしたものを抱えた者が流れ着くことが多い。だが、夢そのものから抜け出す話は聞いたことがない」
「そうですか」
「ただ」
フォルテは私へ視線を戻した。
「魔女ならば、何かを知っているかもしれない」
「魔女」
「この世界では、そういうものを知っているのは、たいてい魔女だ。あるいは、知っているふりをするのも魔女だ」
少しだけ苦い言い方だった。
「信じすぎるな。だが、避けても通れないだろう」
私は頷いた。
魔女。
ルチトクでも、樹海の魔女がいた。
空炉も、マシュマロも、月へ向かうための部品も、あの不思議な魔女の存在があったからこそ繋がった。魔女は何でも叶える存在ではない。親切とも限らない。むしろ、試されることの方が多いのかもしれない。
それでも、私が次に向かうなら。
夢から覚める方法を知る者がいるとしたら。
それは、魔女のいる場所なのではないか。
そう思った。
町を出る時、たくさんの猫たちが見送りに来てくれた。
魚屋の白猫は、干した魚を包んでくれた。
「旅の途中で食べな。変なものばかり食っていると倒れるぞ」
「ありがとうございます」
布屋の三毛猫は、小さな赤い布をくれた。
「お守りみたいなものさ。赤はいい色だからね」
その言葉に、シドが少しだけ笑った。
「うん。いい色だねえ」
それを聞いた三毛猫は、目を潤ませながらも、わざとらしく鼻を鳴らした。
「ようやく分かったかい」
「時間がかかったねえ」
「かかりすぎだよ」
ラウルは、紙片を保護した箱を抱えていた。
「手紙は、私が記録に残す」
彼はシドへ言った。
「ただし、展示物にはしない。これは町の記録である前に、君たちのものだ」
「ありがとう、ラウル」
「礼はいい。今後は運行記録を怠るな」
「うん」
「食事の記録もつけるか」
「それは大げさじゃないかなあ」
「必要ならつける」
フォルテが横から言った。
シドは困ったように笑う。
その顔を見て、私はほっとした。
昨日の涙は消えていない。
でも、涙のあとに残ったものは、空っぽではなかった。
シドは私の前に来ると、少しだけ腰を屈めた。
「ひかり」
「はい」
「ありがとう」
たったそれだけだった。
でも、シドの声には、たくさんのものが入っていた。
観覧車に乗ってくれたこと。
止めてくれたこと。
シドの奥へ来てくれたこと。
ツムギの言葉を届けてくれたこと。
そして、泣いていいと言ってくれたこと。
私は首を横に振った。
「私は、シドさんが戻ってきてくれてよかったです」
「戻ってきたねえ」
シドは観覧車を見上げた。
朝の光の中で、観覧車は静かに立っている。
「一番上から、ちゃんと」
「はい」
「今度は、ひかりがお客さんとして乗りにおいで」
「また来られたら」
「来られるよ」
シドは、当然のように言った。
「道は一つじゃないからねえ」
その言葉が、なぜか胸に残った。
フォルテは少し離れた場所に立っていた。
私はそちらへ歩いていく。
「フォルテさん」
「何だ」
「ありがとうございました」
「礼を言われることはしていない」
「探してくれました」
「見つけられなかった」
「それでも、です」
フォルテは少し黙った。
それから、まっすぐ私を見た。
「君は、危うい」
「え」
「他人の奥へ踏み込むことに、あまりにも迷いが少ない」
私は言葉に詰まった。
フォルテの声は冷たくはなかった。
ただ、慎重だった。
「それで救えるものもあるだろう。だが、傷つくこともある。君自身も、相手も」
「はい」
「忘れるな。触れ方を誤れば、大切なものも壊れる」
「はい」
それは、フォルテ自身の後悔から出た言葉なのだと思った。
だから私は、きちんと受け取った。
「でも」
フォルテは少しだけ目を伏せた。
「今回だけは、君が踏み込んでくれてよかった」
その一言で、胸の奥がふわりと揺れた。
「はい」
「返事が早い」
「すみません」
「謝るところではない」
フォルテは小さく息を吐き、それから、私の手に小さな包みを渡した。
中には、窓辺に飾られていた低い赤い花を乾かしたものが入っていた。
「この町の花だ。潮風に強い。背は低いが、簡単には折れない」
「きれいです」
「そうか」
フォルテは少しだけ横を向いた。
「持っていけ」
「ありがとうございます」
私はその赤いドライフラワーを星型ポーチへしまった。
花は軽かった。
けれど、町の夕陽の色を少しだけ残しているように見えた。
別れは、長くならなかった。
長くすればするほど、足が止まってしまいそうだったからだ。
私は何度も振り返りながら、町の大通りを歩いた。赤褐色の道。白い窓枠。布のひさし。潮の匂い。大通りの先に見える観覧車。昨日まで止まっていたものが、今は町の真ん中で静かに空を抱えている。
シドが手を振っていた。
フォルテは腕を組んで立っていたけれど、目はそらさなかった。
町の猫たちも、それぞれの場所から私を見送ってくれた。
私は手を振り返した。
そして、駅からこの町へ出てきた場所へ向かった。
港町へ来た時、私はそこから歩き出した。
海の匂いに戸惑い、観覧車を見上げ、何も分からないまま町へ足を踏み入れた。あの時は、ただ夢から覚める方法を探していた。今も、それは変わっていない。
何も見つからなかった。
この町には、私が元の世界へ戻るための答えはなかった。
シドを助けても、フォルテと話しても、ラウルの記録を辿っても、夢から覚める方法はどこにも書かれていなかった。
けれど、何も得なかったわけではない。
シドの町で見た赤い花や観覧車のことを思い出す。上がったあとに地上へ戻ること、誰かが待っているという言葉の意味も。
泣いてもいいと伝えること。
それらは、答えではない。
でも、私の中に残っている。
町の出口に近づくと、風が少し変わった。
潮の匂いが薄くなり、空の色が灰色へ近づいていく。
ああ、まただ。
そう思った瞬間、意識の端がほどけ始めた。
足元の道が遠くなる。
町の声が遠のく。
観覧車の輪郭が、波に滲むみたいに揺れる。
私は星型ポーチを押さえた。
中には、古いきっぷと、赤いドライフラワーがある。
大丈夫。
そう思う間もなく、私の意識はふっと途切れた。




