すり抜けた愛に告げたのは
意識が戻ると、列車の揺れる音は、ゴンドラの揺れる音に変わっていた。
どこか遠くで聞こえていた車輪の音が、ゆっくりほどけていく。木の床を伝っていた振動は、いつの間にか足元から消え、かわりに、観覧車の小さな軋みが耳の奥へ戻ってきた。鉄がゆっくり回る音。ゴンドラの金具が風に揺れる音。遠くで海が光る気配。町のざわめきは、まだずっと下にある。
私は目を開けた。
最初に見えたのは、夕陽だった。
窓いっぱいに広がる赤。さっきまで私を飲み込んでいた海底の夕暮れと同じ色なのに、ここにある赤はもう水の底のものではなかった。海の上にあり、空の端にあり、町の白い壁を染め、シドの灰色の毛並みをやわらかく照らしている。
次に、フォルテが見えた。
彼は、今にも壊れてしまいそうな顔で泣いていた。
黒い巻き毛は夕陽を受けて艶を帯びているのに、琥珀色の瞳からは涙がいくつもこぼれていた。あの整った姿勢も、冷たい声も、近寄りがたいほどの威厳も、今はどこかへ置いてきてしまったみたいだった。フォルテはシドの腕を掴んだまま、震えていた。爪が食い込むほど強く掴んでいるのに、その手は頼りなく見えた。
「なにが……」
フォルテの声は掠れていた。
「なにが、どうなったんだ」
私にも、すぐには分からなかった。
私はゴンドラの中にいる。シドもいる。フォルテもいる。扉は閉まっている。観覧車は、ゆっくりと回り続けている。地上は遠く、海は赤く、夕陽は窓の向こうで燃えている。
でも、さっきまでシドの手は扉へ伸びていた。
今度こそ渡せるから、と言って。
ツムギがそこにいる、と言って。
その手に私が触れて、列車が現れて、私はシドの奥へ行った。海底の駅。赤い花びら。るびぃ。ツムギの部屋。欠けた手紙の続き。観覧車は一番上まで行って、それから地上へ戻るものだということ。
すべてが、まだ私の中で熱を持っていた。
けれど、その答えは、私が言うより先に現れた。
「ごめん、フォルテ」
シドの声だった。
ひどく落ち着いた声だった。
いつものようにのんびりしているわけではない。軽くもない。泣いているわけでもない。けれど、そこには長い長い時間をかけてようやくたどり着いたような、静かな重さがあった。
「君は、ずっとこれを知っていたんだね」
フォルテが顔を上げた。
涙で濡れた目が、シドを見つめる。
「知っていたわけじゃない」
フォルテは、ほとんど呻くように言った。
「全部を、知っていたわけじゃない。読んでもいなかった。読めなかった。読むのが怖かった。読めば、お前に渡さなければならないと分かっていたからだ」
「うん」
シドは頷いた。
「それでも、知っていたんだと思う」
「何を」
「それを読んだら、僕が動いてしまうこと」
フォルテの指が、シドの腕をさらに強く掴んだ。
「だから止めた」
「うん」
「止めるしかなかった」
「うん」
「お前は、何でもない顔をして、何度でもあそこへ向かうから」
フォルテの声が崩れた。
「あの宝石のことになると、食べることも、眠ることも、今日が何日なのかも、明日が来ることも、全部置いていく。町の誰もがお前を見ていた。誰もが心配していた。だが、誰もお前を止めきれなかった。だから私が止めるしかなかった。怒って、奪って、隠してでも」
フォルテは歯を食いしばるように言った。
「お前が、これ以上どこかへ行かないように」
シドは黙って聞いていた。
夕陽が、二匹の間に落ちている。
赤い光が、フォルテの涙を照らし、シドの大きな手を照らし、私の膝の上にまで届いていた。
「君はずっと、僕を大事に思ってくれていた」
シドが言った。
「僕も、そうだと思っていた。フォルテは怒るのが上手で、しまうのが上手で、鍵をかけるのが上手で。僕はいつも、少し困っていた」
「困らせるつもりなど」
「うん。分かっているよ」
シドはやわらかく言った。
「でも、今ようやく分かったんだ」
彼は、自分の胸元に手を当てた。
そこには、空の布がある。
紅い宝石はない。けれど、シドはもう、その空をただの空とは思っていないようだった。
「僕は、僕自身が、大事じゃなかったみたいだ」
フォルテの顔が歪んだ。
「そんなことは」
「うん」
シドは小さく首を振る。
「二人が、みんなが、大事にしてくれていたのにねえ」
シドの大きな指が、フォルテの頬へ伸びた。
フォルテは逃げなかった。
逃げられなかったのかもしれない。
シドはその指先で、フォルテの涙を掬った。
黒い毛並みの上を伝っていた涙が、夕陽を受けて小さく光る。るびぃの赤とは違う。硝子の赤とも違う。けれどそれもまた、夕暮れの中できれいな赤を含んでいた。
「僕だけが、僕を大事にできなかった」
シドは言った。
フォルテの喉が震えた。
「そうだ」
その声は、怒りのようで、祈りのようでもあった。
「そうだ。お前だけが、お前を粗末にした。ツムギが大事にしていたお前を、町のみんなが大事にしていたお前を、私が、私たちが必死に引き留めようとしたお前を、お前だけが、いらないものみたいに扱った」
言いながら、フォルテの涙は止まらなかった。
「私はそれが許せなかった」
「うん」
「ツムギのことを忘れろと言いたかったわけじゃない。宝石がくだらないと言いたかったわけでもない。ただ、お前がその石と一緒に、また海へ沈んでいくように見えたんだ」
シドは目を伏せた。
「うん」
「止めたかった」
「うん」
「止めたかったんだ、シド」
フォルテの声がついに崩れた。
その瞬間、彼がずっと閉めていた扉が内側から開いたように見えた。
領主でも、町を守る黒猫でも、冷たく命じるフォルテでもない。
ただ、友を失いたくなかった一匹の猫が、そこにいた。
シドはフォルテの涙を拭いながら、静かに言った。
「フォルテ」
「何だ」
「僕は、まだ赦されるのかなあ」
その声は、あまりに儚かった。
さっきまで海へ向かおうとしていた声でも、観覧車を動かそうとした声でもない。もっと小さく、もっと奥から出てきた声だった。触れたら消えてしまいそうで、それでも確かにそこにある声。
「ツムギに間に合わなかった僕も」
シドは続けた。
「るびぃを渡せなかった僕も」
その手が、胸元の布をそっと押さえる。
「みんなが大事にしてくれたものを、僕だけが置いていこうとしたことも」
フォルテの身体が、そこで途端に頽れた。
彼は座席へ落ちるように膝をつき、顔を伏せた。黒い巻き毛が頬を隠し、涙で濡れた顔はほとんど見えなくなる。
その顔を最後まで見せないことが、彼に残されたプライドのかけらだったのかもしれない。
けれど、肩は震えていた。
声も震えていた。
「どうしようもない」
フォルテは言った。
「どうしようもないやつだよ、お前は」
シドは何も言わなかった。
ただ、フォルテを見ていた。
「赦されるかどうかを、私に訊くな」
フォルテは顔を伏せたまま言った。
「私がどれだけ赦しても、お前がまた自分を海へ置いていくなら意味がない。ツムギがどれだけ言葉を残しても、お前がそれを向こうへ行く理由に変えるなら意味がない」
彼は一度、息を詰まらせた。
「だから」
次の言葉は、ほとんど叫びだった。
「だから、お前も、生きるんだよ!」
ゴンドラが小さく揺れた。
フォルテの声は、狭いゴンドラの中で弾け、窓の外の夕陽へぶつかっていくようだった。
「生きて、生きて、生きて。それで飯を食って、眠って、朝になったら起きて、町を歩いて、観覧車を動かして、腹が減ったら食べて、赤いものを綺麗だと思え。そうやって、嫌になるほど生きろ」
フォルテは顔を上げなかった。
「そして――そこで初めて、赦されるんだ」
声がまた震える。
「俺も……お前も……」
俺。
その一人称に、私は息を呑んだ。
フォルテの仮面が、ほんの一瞬、完全に落ちたような気がした。
町を守る領主でも、冷たい黒猫でもなく、シドとツムギと一緒に庭でお茶を飲んでいた頃のフォルテが、そこにいた。
シドはゆっくりと身を屈めた。
フォルテの丸くなった身体を、大きな身体で覆い被さるように抱き締める。フォルテは抵抗しなかった。むしろ、その腕の中でようやく力を抜いたように見えた。
黒い毛並みと灰色の毛並みが、夕陽の中で重なった。
「ごめんねえ」
シドは言った。
「本当に、ごめん」
「謝るな」
「うん」
「謝るくらいなら、食べろ」
「うん」
「眠れ」
「うん」
「観覧車を放っておくな」
「うん」
「町を歩け」
「うん」
「返事だけするな」
「難しいねえ」
「難しくない」
そのやり取りがあまりにも二匹らしくて、私は泣きそうになった。
フォルテはまだ泣いている。
シドはまだ泣いていない。
けれど、シドの顔は、さっきまでとは違っていた。
やわらかい。
穏やか。
でも、逃げていない。
彼はフォルテを抱き締めたまま、窓の外を見た。
観覧車は、一番上を越えていた。
空に一番近い場所を過ぎ、ゆっくりと地上へ戻り始めている。
夕陽は、今が一番深かった。
海は赤く、町は金色で、ゴンドラの窓に映るシドの横顔には、もう海底の暗さはなかった。
「ひかり」
突然、名前を呼ばれた。
「はい」
私は背筋を伸ばした。
シドはフォルテを抱き締めたまま、私の方を見ていた。
細い、猫の目。
夕陽を受けたその瞳は、どこまでも静かだった。
けれど、その静けさの奥に、ようやく水が溢れようとしているのが分かった。
「もう――泣いてもいいかい?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
まるで、ツムギの部屋で見た赤い花が、私の中でもう一度咲いたみたいだった。
私は何度も頷きそうになって、けれど一度だけ、きちんと答えた。
「……はい」
声が少し震えた。
「泣いて、いいです」
シドは目を閉じた。
そして、初めて泣いた。
声はすぐには出なかった。
ただ、大きな涙が一粒、灰色の毛並みを伝って落ちた。夕陽を受けて、それは紅い宝石みたいに光った。二粒目。三粒目。涙は次々に溢れ、シドの頬を濡らし、フォルテの黒い毛並みにも落ちた。
フォルテも、もう顔を隠しきれなかった。
彼はシドの胸元に額を押しつけたまま、押し殺すように泣いていた。泣き声を噛み殺しても、肩の震えは隠せない。シドはその背を抱き、泣きながら何度も息を吸った。
この夕暮れに、二匹の猫が鳴いた。
それは、獣の鳴き声ではなかった。
誰かを呼ぶ声でも、誰かを責める声でもなかった。
長いあいだ喉の奥に沈めていたものが、ようやく外へ出てくる音だった。
きっとシドは、この世に生まれてから一度も、こんなふうに泣いたことがなかったのだろう。
前世でも。
この町に来てからも。
ツムギを失った時でさえ、るびぃを抱えて海へ入った時でさえ、彼は泣く前に自分を沈めてしまったのかもしれない。
だから、今こぼれている涙は、今日の分だけではない。
その涙は今日だけのものではなかった。
戦場から持ち帰ったものも、帰ってきた町で抱え続けたものも、ツムギの部屋で握り潰した後悔も、この三年間ずっと胸の奥へ沈めてきたものも、今になってようやく溢れ出しているようだった。
シドの涙はとても大粒だった。
観覧車の窓から見える海よりも、深く、深く、広がっていくようだった。海は夕陽を受けて赤く光っている。その光と、シドの涙の光が重なって、どちらが海で、どちらが涙なのか分からなくなる。
私は何も言えなかった。
言葉をかけることが、今は違う気がした。
泣いていいと言った。
それ以上は、ただ見ていることしかできない。
でも、見ていた。
目を逸らさずに。
シドが泣くところを。
フォルテが泣くところを。
二匹が、ようやく同じ場所で崩れるところを。
観覧車は、下りていく。
一番上を越えて、ゆっくり、ゆっくり、地上へ戻っていく。
その動きが、今はたまらなく大切なものに思えた。
上へ行くためだけの輪ではない。
誰かのところへ行って、そのまま消えるための輪でもない。
上がって、夕陽を見て、それから戻る。
地上へ。
町へ。
明日へ。
シドの恋は、そこで終わりを告げたのだと思う。
けれどそれは、消えるという意味ではなかった。
人生二回分の一途な恋は、るびぃを渡せなかった悲しみでも、海へ沈むための重りでもなくなった。
ツムギが好きだった赤。
ツムギが好きだった夕陽。
ツムギが好きだったシド。
それらを、もう一度この世界へ返すための、愛のようなものになった。
泣きながら、シドは何度もフォルテの背を撫でた。
フォルテは何かを言おうとして、言えずにいた。
私は窓の外を見る。
地上が近づいてくる。
私が町を見るのと同時に町全体が、観覧車を見ていた。
止まっていた輪が、動いている。
上がって、下りてくる。
それだけのことが、こんなにも大きい。
シドは泣き続けていた。
フォルテも泣いていた。
私は、その涙の中に、紅い宝石を見た気がした。
もう渡されることのなかった石。
けれど、なくなったわけではないもの。
形を変えて、ようやく届いたもの。
観覧車が地上へ近づくにつれ、ゴンドラの揺れは少しずつ小さくなっていった。
シドはようやく顔を上げた。
涙で濡れた顔は、くしゃくしゃだった。
それでも、今まで見たどのシドよりも、ちゃんとここにいる顔だった。
「ひかり」
「はい」
「お腹が、すいたねえ」
その言葉に、私は一瞬ぽかんとした。
それから、どうしようもなく笑ってしまった。
フォルテも、涙の残った顔で呆れたように息を吐いた。
「本当に、どうしようもないやつだ」
「でも、食べるのは大事だからねえ」
「分かっているなら、最初から食べろ」
「これからは、そうするよ」
シドはそう言った。
その言葉は、いつもの曖昧な返事ではなかった。
これから。
シドが、これから、と言った。
私はそれだけで、また泣きそうになった。
ゴンドラが、ゆっくり地上へ降りていく。
夕陽はまだ、海の上に残っていた。
赤い。
とても赤い。
けれどその赤はもう、終わりの色ではなかった。
明日へ戻るために、一度だけ世界を染める色だった。




