夕暮れの贖罪
窓の外の景色が、ゆっくり流れ始めた。
最初に見えたのは、海だった。
赤い夕陽に染まった海。波は動いているのに、音はない。海面には薄い硝子を敷いたような光が広がり、その奥を、いくつもの赤いものが沈んでいく。
赤い布や花、菓子の包み紙や糸、硝子瓶まで、部屋のあちこちに赤いものが飾られていた。
それから、小さな宝石。
私は窓に手をついた。
列車は走っているはずなのに、景色は遠ざかるというより、こちらへ近づいてくるようだった。赤いものたちは海の底へ沈みながら、ひとつひとつ形を変えていく。花びらは布になり、布は手紙になり、手紙は波に濡れて、文字だけを残して崩れていく。
ガタ、ゴト。
ガタ、ゴト。
列車の音だけが、胸の奥に響いた。
次に窓へ映ったのは、壊れた町だった。
黒い煙が空を覆っている。崩れた壁。割れた硝子。泥に沈んだ靴。遠くで砲声のようなものが光だけになって瞬く。そこに、一人の男がいた。猫ではない。灰色の毛並みも、尾のない背中もない。泥に汚れた軍服を着て、肩に銃をかけ、疲れきった顔で焼け跡の中にしゃがんでいる。
それでも、私はすぐに分かった。
シドだ。
今のシドよりずっと若く、今のシドよりずっと硬い顔をしている。けれど、その目の奥には、同じやわらかさがあった。彼は焼けた棚の下から小さな箱を取り出し、そっと蓋を開ける。
赤い光が、窓いっぱいに広がった。
るびぃ。
夕陽より深く、火より静かな赤。
シドはそれを見つめていた。
誰かを思い出すように。
帰る場所を思い出すように。
戦場の中で、その小さな赤だけが、壊れていない約束のように燃えていた。
列車は止まらなかった。
次の景色は、船だった。
広い海の上を、帰りの船が進んでいる。シドは甲板に立ち、胸元に手を当てていた。潮風が軍服の裾を揺らす。彼の顔は疲れているのに、どこか子どものように前を見ていた。
帰れる。
渡せる。
きっと、そう思っている。
私は声をかけようとした。
けれど窓の向こうのシドに、私の声は届かない。
景色はまた流れた。
白い壁の家。
閉じられた窓。
赤い花のない窓辺。
誰かが口を開く。
その声は聞こえないのに、何を告げているのかだけが分かってしまう。
シドの顔から、色が消えた。
るびぃの赤だけが、胸元で燃えている。
次の瞬間、景色は暗い部屋になった。
机の上には書きかけの紙。赤い糸。針。窓辺に置かれるはずだった花のない花瓶。シドは椅子に座り、掌の上のるびぃを見つめている。
帰ってきたのに、渡す相手がいない。
そんな言葉が、列車の床下から滲み出してくるようだった。
私は胸元を押さえた。
列車の揺れが、少し強くなる。
ガタ、ゴト。
ガタ、ゴト。
窓の外が、海に変わった。
夕暮れの海だった。
シドは靴を脱ぎ、赤い花を置き、るびぃを胸に抱えている。波が足首に触れ、膝へ、腰へ、胸へ上がっていく。彼は振り返る。町は赤い。彼女が好きだった赤に染まっている。
その赤を見て、彼は泣かなかった。
ただ、ひどく静かな顔をしていた。
「止まって」
私は窓を叩いた。
「止まってください」
列車は止まらない。
海の水がシドの口元まで届く。
その手には、るびぃがある。
彼はそれを離さない。
波が彼を包み、夕陽が割れ、窓の外が真っ赤に染まった。
その赤の中で、ようやく列車が速度を落とした。
車輪の音が、ゆっくりになる。
ガタ、ゴト。
ガタ。
ゴト。
列車が停まった。
扉が開く。
外にあったのは、駅だった。
けれど、普通の駅ではなかった。
海の底に沈んだ小さな駅。
水の中なのに、私は息ができた。ホームの上には光が揺れ、天井の代わりに波打つ海面が遠く見える。古びた柱には貝殻が張りつき、駅名の書かれた看板は水に滲んで読めない。線路の上には、赤い花びらがいくつも沈んでいた。
列車を降りると、足元で水が揺れた。
けれど濡れる感覚はない。
私はきっぷを握りしめたまま、ホームの先を見た。
駅の向こうには、細い道が続いている。
海底なのに、そこには夕陽が差していた。水の揺らぎを通して届く赤い光が、道の上にゆらゆらと落ちている。その先に、小さな光があった。
るびぃの赤だ。
私は歩き出した。
水の中にいるはずなのに、足は重くなかった。ただ、周りのすべてが遅かった。沈んだ花びらも、流れていく泡も、遠くを泳ぐ小さな魚の影も、みんなゆっくり動いている。
道の途中に、シドがいた。
今のシドではなかった。
人間の姿をしたシド。
けれど、その影の背中には、尾のない猫の輪郭が重なって見えた。二つの姿が、波に揺れるように重なり合っている。
彼は海の方へ歩いていた。
胸に、るびぃを抱いて。
「シドさん!」
私は叫んだ。
シドは振り返らなかった。
ただ、夕陽の海へ向かって歩いていく。
「シドさん、待ってください!」
私は走った。
海底の道なのに、足元の赤い花びらがぱっと舞った。ようやく追いつき、彼の袖を掴む。
シドはそこで、ゆっくり振り返った。
人間の顔。
でも目だけは、今のシドだった。
「ひかり」
彼は言った。
声は水の中を通って届くように、少し丸く聞こえた。
「どうしてここにいるの」
「シドさんを止めに来ました」
「止める?」
シドは不思議そうに首を傾げた。
「どうして」
「どうしてって」
「ツムギが待っているんだ」
彼は胸元のるびぃを見せた。
赤い石は、海底の夕陽を受けて深く燃えていた。
「今度こそ、渡さないと」
「違います」
私は首を横に振った。
「まだ、全部分かっていません。手紙は欠けていました。ツムギさんが何を言いたかったのか、まだ」
「でも、待っているって」
シドは穏やかに言った。
「一番上で、待っているって」
「それが、どういう意味か分からないじゃないですか」
「分かるよ」
「分かりません」
「分かるんだ」
シドの声はやさしかった。
やさしいのに、どこにも逃げ場がなかった。
「ずっと、待たせていたからねえ。戦争から帰るのも、るびぃを渡すのも、観覧車に乗るのも、全部遅かった。だから今度こそ、行かないと」
「行くって、どこへですか」
シドは海を見た。
夕陽に染まった海。
その先に、誰かの影が立っているように見えた。
歌うような影。
でも、波が揺れるたびに消えてしまう。
「ツムギのところ」
「シドさん」
「大丈夫だよ」
彼は笑った。
今のシドと同じ、困ったような笑い方だった。
「怒られるだけだから」
その言葉に、私はぞっとした。
ゴンドラの中でも、シドは同じことを言っていた。
怒られるだけ。
それはきっと、彼にとっては救いの形なのだ。
ツムギに怒られれば、まだ間に合う。
叱られれば、まだ戻れる。
けれど、その戻る場所を、シドは間違えている。
私はるびぃへ手を伸ばした。
「見せてください」
「これを?」
「はい」
「これは、ツムギに渡すものだよ」
「分かっています。でも、だから見せてください」
シドは少し迷ったようだった。
けれど、やがて掌を開いた。
るびぃがそこにある。
私はそっと触れた。
その瞬間、赤い光が弾けた。
海底の駅も、シドも、夕陽の海も消えた。
次に目を開けた時、私は小さな部屋にいた。
窓辺に、赤いものがたくさん飾られている部屋だった。
赤い布。
赤い花。
赤い菓子の包み紙。
赤い糸。
赤い硝子瓶。
どれも綺麗なはずなのに、少しずつ色褪せていた。夕陽の光が差し込んでいるのに、部屋の中の赤はどこか薄い。長いあいだ誰にも触れられず、声をかけられず、少しずつ眠ってしまったみたいだった。
机の上に、手紙があった。
何枚もの紙片が、ばらばらに置かれている。
フォルテの屋敷で見つけたものと同じ、薄く古い紙。焦げた端。水に滲んだ文字。赤い糸。
それらはここでは、まだ完全には壊れていなかった。
私は机へ近づいた。
椅子の背には、細い肩掛けがかかっている。窓辺には、観覧車の絵が貼られていた。夕陽の中で、観覧車がゆっくり回っている絵。その一番上のゴンドラだけが、赤い糸で小さく印をつけられていた。
「ここは」
ツムギの部屋。
そう思った。
見たことはない。
でも、分かった。
ここは、ツムギが最後までシドへ何かを届けようとしていた場所だ。
机の上の紙へ目を落とす。
そこには、外側で読めた言葉があった。
観覧車を、動かして。
一番上で、待っているから。
けれど、その下の文字は、黒い糸に絡め取られていた。
赤い糸のように誰かの想いを結ぶものではない。
文字の上に影を落とし、読まれるはずだった言葉を、暗い方へ折り曲げようとしているように見えた。
私はそっと指を伸ばす。
黒い糸は、触れる前に震えた。
まるで私を嫌がるように。
次の瞬間、それはぷつりと切れ、薄い煙になって消えた。
隠れていた文字が、夕陽の光の中へ浮かび上がった。
――あなたが、ちゃんと地上へ戻ってくるところを。
私は目を見開いた。
一番上で、待っているから。
そこで終わりではなかった。
その先があった。
あなたが、ちゃんと地上へ戻ってくるところを。
震える指で、次の紙片へ手を伸ばす。
そこには、さらに続きがあった。
――夕陽を見たら、私のところへ来るんじゃなくて、明日の朝を迎えて。
胸の奥が詰まった。
私は次の紙を見る。
――ちゃんと食べて。
――ちゃんと眠って。
――赤いものを、嫌いにならないで。
文字はところどころ滲んでいた。
でも、読めた。
読めてしまった。
――るびぃなんて、なくしたっていいの。
そこで、私は息を呑んだ。
るびぃなんて。
シドが命と一緒に沈めたもの。
渡せなかったことを、自分の罪のように抱え続けたもの。
それを、ツムギは。
――あなたが帰ってくる方が、ずっとよかった。
私は机に手をついた。
部屋の赤いものたちが、かすかに揺れた。
窓辺の花。
布。
糸。
包み紙。
それらが、少しずつ色を取り戻していくように見えた。
手紙はまだ続いていた。
――私が好きだった赤を、あなたが嫌いにならないで。
――私が好きだった海を、あなたが怖がらないで。
――私が好きだった夕陽を、あなたが終わりの色にしないで。
そして最後に、震えた字でこう書かれていた。
――私が好きだったあなたを、あなたが置いていかないで。
私はその場に立ち尽くした。
置いていかないで。
シドはツムギに置いていかれたと思っていたのかもしれない。
でも、ツムギは逆だった。
シドが自分自身を置いていくことを恐れていた。
食べること。
眠ること。
歩くこと。
笑うこと。
赤いものを綺麗だと思うこと。
夕陽を見て、明日へ帰ること。
それらを、シドが海の底へ置いていくことを、ツムギは止めたかったのだ。
窓辺で、かすかに歌が聞こえた。
私は顔を上げる。
そこに、猫がいた。
細くしなやかな猫。
夕陽のような瞳をした猫。
歌うように微笑んでいる。
ツムギ。
たぶん、そうだった。
けれど彼女は、私に長く話しかけなかった。
ただ、窓辺の赤い花に触れ、机の手紙を見て、それから私を見た。
彼女の声は、小さかった。
「届けて」
それだけだった。
私は頷いた。
「はい」
次の瞬間、部屋の赤いものたちが一斉に光った。
赤い布も、花も、糸も、包み紙も、硝子瓶も、手紙の文字も。
すべてが夕陽の光になって、私の身体を包む。
気がつくと、私はまた海底の道に立っていた。
シドは、まだ海へ向かって歩いている。
同じ夕暮れ。
同じ波。
同じるびぃ。
何度も繰り返された、命が途切れる直前の景色。
でも、今の私はもう、同じようには見ていなかった。
「シドさん!」
私は走った。
今度は袖ではなく、彼の前へ回り込んだ。
シドは困ったように私を見る。
「ひかり」
「行かないでください」
「ツムギが待っているんだ」
「待っています」
私は言った。
「でも、それはシドさんが思っている場所じゃありません」
シドの目が揺れた。
「どういうこと」
「ツムギさんは、待っていたんです。あなたが向こうへ来るのをじゃありません」
私は息を吸った。
海の冷たさは、もう膝のあたりまで来ている。
このまま放っておけば、シドはまた同じ場所へ沈む。
何度でも。
るびぃを抱いたまま。
渡せなかったものだけを抱いたまま。
「観覧車が一番上まで行って、それからちゃんと下へ戻るのを」
シドは瞬きをした。
「戻る」
「はい」
「ツムギは、一番上で待っているって」
「シドさんが、一番上から戻ってくるのを待っているんです」
私はシドの胸元のるびぃを見た。
それはまだ燃えている。
でも、その赤はもう海へ沈むための赤ではない。
ツムギが好きだった赤だ。
「夕陽を見たあなたが、明日の朝もご飯を食べるのを」
シドの指が、るびぃを握る。
「赤いものを、もう一度きれいだと思える日を」
彼の表情が、少しずつ崩れていく。
困ったような笑みを作ろうとして、作れなくなっていく。
「ツムギさんは、るびぃなんて、なくしたっていいって」
「そんなこと」
「あなたが帰ってくる方が、ずっとよかったって」
シドの息が止まった。
海が揺れる。
夕陽が揺れる。
彼の手の中のるびぃが、赤い光を弱めたように見えた。
「そんなこと、言うかなあ」
シドは笑おうとした。
でも、声が震えた。
「ツムギは、怒ると怖いからねえ。きっと、るびぃをなくしたら、叱るよ」
「叱ると思います」
私は言った。
「でも、るびぃをなくしたことじゃなくて、シドさんが自分を置いていくことを叱ると思います」
シドは何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
その目の奥で、長いあいだ動かなかった水が、少しずつ揺れているようだった。
「私が好きだったあなたを、あなたが置いていかないで」
私は、ツムギの言葉を口にした。
シドの顔が、はっきりと歪んだ。
初めてだった。
彼が笑わなかった。
困った顔にも、のんびりした顔にも逃げなかった。
ただ、傷ついたままの顔で、そこに立っていた。
「置いていったのは」
シドは掠れた声で言った。
「僕じゃないよ」
「はい」
「ツムギが」
「はい」
「僕を待っていたのに」
「はい」
「僕は間に合わなかった」
海が胸の高さまで来ている。
でも、シドはもう前へ進んでいなかった。
「渡せなかった」
「はい」
「帰ってきたのに」
「はい」
「もう、いなかった」
私は頷いた。
否定しなかった。
間に合わなかったことは、消せない。
渡せなかったことも、消せない。
でも、それがシドのすべてではない。
「それでも、ツムギさんはシドさんに戻ってほしかったんです」
「どこへ」
「海の底じゃなくて」
私は観覧車を思い出した。
一番上まで行き、夕陽を見て、それから地上へ戻ってくる輪。
「地上へ」
シドは、ゆっくりと自分の手を見た。
るびぃがある。
深い赤。
渡せなかったもの。
罪のように抱えていたもの。
彼はそれを両手で包み、長いあいだ見つめていた。
「これは」
シドは言った。
「渡せなかったものだねえ」
「はい」
「でも」
彼の声が、少し震えた。
「捨てなくてもいいのかな」
「いいと思います」
「持ったまま、戻っても」
「はい」
私は頷いた。
「それは、ツムギさんを愛していた証だと思います。沈むための重りじゃなくて」
シドの目から、涙はまだ落ちなかった。
けれど、その奥が大きく揺れた。
「ひかりは、難しいことを言うねえ」
「シドさんほどじゃありません」
「そうかな」
「そうです」
シドは少しだけ笑った。
でも、その笑いはもう逃げるためのものではなかった。
彼は海の方を見た。
夕陽の中、遠くに立っていたツムギの影が見える。
細く、やわらかく、歌うように揺れている影。
シドはその影へ向かって、一歩進もうとした。
私は息を呑む。
けれど彼は、そこで止まった。
るびぃを胸に抱え直し、深く頭を下げた。
「遅くなって、ごめんねえ」
その声は、海底の夕陽の中へ溶けていった。
「渡せなくて、ごめん」
波が静かに揺れた。
ツムギの影は、怒っているようには見えなかった。
笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
ただ、シドを見ていた。
逃げられないように。
ちゃんと、目を見て。
シドは顔を上げた。
「帰るよ」
その言葉が出た瞬間、海が引いた。
胸元まで来ていた水が、腰へ、膝へ、足首へ下がっていく。赤い花びらが水面に浮かび、るびぃの赤が夕陽の中で静かに光る。
ツムギの影は、ゆっくりと薄くなった。
消える直前、歌が聞こえた。
小さな歌。
港で船を待つ時に歌っていたという歌。
大きな声ではないのに、遠くまで届く歌。
シドはその歌を聞いていた。
今度は、海へ沈むためではなく、地上へ戻るために。
足元で線路の音がした。
ガタ、ゴト。
ガタ、ゴト。
海底の駅の方から、列車の音が近づいてくる。
私はシドを見た。
人間の姿と猫の姿が、また波のように重なる。
やがてそこにいたのは、灰色がかった大きな猫だった。
片方の耳が少し欠け、尾がなく、でも今はしっかりと両足で立っているシドだった。
「帰りましょう」
私が言うと、シドは頷いた。
「うん」
その返事は、今まで聞いたどの「うん」よりも小さく、でも確かだった。
次の瞬間、赤い光がほどけた。
海底の駅も、夕陽の海も、ツムギの部屋も、るびぃの光も、すべてが観覧車の窓に映る夕陽へ吸い込まれていく。
私は手を伸ばした。
シドの手が、そこにあった。
今度は、扉へ伸びる手ではない。
戻るために、こちらへ伸ばされた手だった。




