あかいものは好きですか?
私の恋人は、赤いものが好きだった。
甘い菓子の包み紙も、熟れたいちごも、窓辺に飾った花も、夕暮れに灯る提灯も。彼女がそれを見て笑うのなら、私は世界中の赤を集めて、彼女の前に並べてやりたかった。
なかでも、るびぃは特別だった。
あの石の中には、火ではなく、彼女のためだけに燃える小さな心臓が入っているように見えたからだ。
彼女が欲しがるかは分からなかった。
でも、私が彼女に贈るならそれがいい。
そんな気がしてならなかったのだ。
それを手に入れたのは、海の向こうの町だった。
町と呼ぶには、あまりに多くのものが壊れていた。屋根は抜け、壁は崩れ、道には割れた陶器と焦げた木片が散らばっていた。どこからどこまでが家で、どこからが広場だったのか、もう誰にも分からない。砲声は遠くでまだ鳴っていて、空には黒い煙が低く垂れ込めていた。
私はその町で、兵士だった。
猫ではなかった。
尾も、耳も、毛並みもない。二本の足で泥の上を歩き、重い靴で割れた石畳を踏みしめ、肩には銃を背負っていた。手袋の指先は破れ、爪の間には土と煤が入り込んでいた。どれだけ洗っても落ちない匂いが、服にも髪にも染みついていた。
火薬の匂い。
血の匂い。
雨の降らない空の下で、いつまでも乾かない泥の匂い。
私はそれらを嫌っていた。
けれど、嫌うだけの余裕も、いつの間にか少なくなっていた。
戦場では、赤いものはありふれている。
燃える家の赤。
裂けた旗の赤。
誰かの口元に滲む赤。
夕暮れでもないのに、地面に残る赤。
彼女が好きだった赤とは、まるで違った。
同じ色のはずなのに、触れるたび、私は彼女の笑顔から遠ざかっていくような気がした。
だから、あの石を見つけた時、私はしばらく動けなかった。
それは、壊れた商店の奥にあった。
表の看板は焼け落ちていて、何の店だったのか分からなかった。だが棚には割れた硝子の器や、煤をかぶった金具や、潰れた箱が残っていた。私たちはその中から使えるものを探していた。包帯になりそうな布、火を起こせる油、食べられるもの、水を入れられる瓶。そういうものは、どれだけあっても足りなかった。
その時、棚の下で小さな箱を見つけた。
箱は黒い布で包まれていた。焼け跡の中にあったのに、不思議と中身までは燃えていなかった。私は手袋の破れた指で布を解き、蓋を開けた。
赤が、あった。
暗い店の奥で、その石だけが燃えていた。
炎ではない。
血でもない。
夕暮れでもない。
もっと静かで、もっと深くて、けれど目を逸らせない赤だった。
私は思わず、彼女の名前を呼びそうになった。
ツムギ。
声には出さなかった。
戦場で恋人の名前を呼ぶのは、なぜかとても危ういことのように思えた。呼んだ瞬間、その名まで壊れた町の煤に汚れてしまいそうだった。
私は石を掌に乗せた。
小さい。
けれど、重かった。
掌の中に落ちたそれは、ただの宝石にしては不思議なほど熱を持っているように感じられた。もちろん、本当に熱いわけではない。けれど私には、その赤の奥で何かが静かに脈打っているように見えた。
「それ、持っていくのか」
仲間の一人が言った。
私ははっとして顔を上げた。
彼は疲れきった顔で笑っていた。からかう元気もあまり残っていない、薄い笑みだった。
「売れば、いい金になるかもしれないな」
「売らない」
自分でも驚くほど、早く言っていた。
仲間は少しだけ目を丸くし、それから肩をすくめた。
「じゃあ、誰かにやるのか」
「国に帰ったら」
私は石を見つめたまま答えた。
「彼女に」
「そうか」
仲間はそれ以上何も訊かなかった。
戦場では、そういう話を長くしない。
誰に帰るのか。
何を持って帰るのか。
帰ったら何をするのか。
そういう話は、口に出した瞬間、次の砲声に持っていかれることがある。だからみんな、少しだけ聞いて、少しだけ頷き、それ以上は触れない。
私は小箱をしまった。
胸元に近い内ポケットへ。
それから、その日も、その次の日も、私は生き延びた。
生き延びるという言い方が正しいのかは分からない。
ただ、倒れなかった。
撃たれなかった。
燃え残った道を歩き、崩れた橋を渡り、泥の中で眠り、知らない誰かの最後の声を聞き、また朝になれば立ち上がった。
胸元には、るびぃがあった。
戦場の赤に囲まれながら、あの石だけは彼女の赤だった。
私は夜になると、ときどきそれを取り出した。
仲間たちが眠り、見張りの足音だけが遠くを行き来する頃、私は布を少しだけ解き、石を見た。
赤い。
深い。
壊れた町のどこにもない赤。
彼女に見せたら、どんな顔をするだろう。
笑うだろうか。
怒るだろうか。
「こんなものを買う余裕があるなら、ちゃんと自分の靴を直しなさい」と言うかもしれない。
それから、結局は受け取ってくれるだろう。
窓辺に置いて、夕暮れに透かして、きれいね、と小さく笑うかもしれない。
私はその想像だけで、何度も朝まで持ちこたえた。
彼女への手紙は、何通も書いた。
届いたかどうかは分からない。
戦場から出した手紙は、途中で濡れたり、破れたり、誰かの鞄の中で忘れられたりする。返事も届く時と届かない時があった。それでも私は書いた。
今日も生きている。
赤い石を見つけた。
君に似合うと思った。
帰ったら渡す。
観覧車の一番上から夕陽を見よう。
そんなことを、何度も書いた。
実際には、同じ言葉ばかりだったかもしれない。
無事だ。
帰る。
待っていて。
その三つだけを、形を変えて書いていたのかもしれない。
戦争は、終わった。
終わった、と告げられた時、誰もすぐには喜ばなかった。
本当に終わったのか、誰も信じられなかったのだと思う。砲声が止んでも、耳の奥ではまだ鳴っていた。煙が薄くなっても、空はしばらく汚れて見えた。銃を置いていいと言われても、手はしばらくその重さを覚えていた。
それでも、船は出た。
私たちは国へ帰る船に乗った。
海は広かった。
行く時に見た海と、帰る時に見る海は違うものに思えた。行きの海は遠ざかる場所を隠していた。帰りの海は、戻る場所を少しずつ近づけてくれた。
私は船の甲板で、何度も胸元に触れた。
るびぃはまだある。
小さな箱に入れ、布で包み、さらに内ポケットへしまっていた。波が高い日も、眠れない夜も、私はそれだけは確かめた。
帰ったら、まず靴を脱ぐ。
風呂に入る。
髪を切る。
それから彼女に会いに行く。
いや、その前に花を買おう。
赤い花がいい。
彼女は赤いものが好きだから。
その花と一緒に、るびぃを渡す。
私がそう考えている間、船はゆっくり国へ近づいていった。
港が見えた時、私はしばらく息ができなかった。
懐かしい町だった。
白い壁。低い屋根。海鳥の声。潮の匂い。帰ってきたのだと、頭では分かっていた。けれど身体はまだ戦場の泥を覚えていて、港の石畳へ足を下ろした時、自分だけが別の場所から剥がれ落ちてきたような気がした。
それでも私は歩いた。
彼女の家へ。
ツムギの家は、町の奥にあった。窓辺に花を飾るのが好きで、いつも何かしら赤いものが置かれていた。小さな布だったり、瓶だったり、菓子の包み紙だったりする。私はその窓を見るのが好きだった。
道を曲がる。
坂を少し上がる。
角の店を過ぎる。
そこに、彼女の家がある。
私は胸元の箱を押さえた。
でも、窓辺に赤い花はなかった。
布もなかった。
菓子の包み紙も、瓶も、何もなかった。
窓は閉じられていた。
私はしばらくその前に立っていた。
留守なのだろうと思った。
そう思おうとした。
すると、隣の家の扉が開いた。
年老いた女が、私を見た。
私の名を呼んだ。
ひどく驚いた顔だった。
まるで、帰ってくるはずのないものが帰ってきたみたいな顔だった。
「ツムギは」
私は訊いた。
それだけを訊いた。
女は口を開き、閉じた。
その一瞬で、私はもう何かを知ってしまった気がした。
聞きたくない。
そう思った。
けれど、言葉は止まらない。
女は言った。
ツムギは病だった、と。
長く寝込んでいた、と。
手紙は読んでいた、と。
返事も書いていた、と。
でも、最後の頃は手がうまく動かなくなっていた、と。
それから。
それから、私の帰りを待っていた、と。
私は何も言えなかった。
戦場で何度も砲声を聞いた。
近くで建物が崩れる音も聞いた。
誰かが叫ぶ声も聞いた。
けれど、そのどれよりも静かなその知らせが、私の中のどこかを一番深く壊した。
私はいつの間にか、彼女の部屋にいた。
誰が案内してくれたのか、よく覚えていない。
部屋は片づいていた。
窓辺には何もなかった。
机の上に、書きかけの紙があった。
赤い糸が、針に通されたまま置かれていた。
ああ、と思った。
彼女は、まだ何かを作っていたのだ。
私のためか、自分のためか、誰かのためかは分からない。
でも、途中だった。
すべてが、途中だった。
私は椅子に座った。
胸元から小箱を取り出した。
布を解く。
るびぃは、まだそこにあった。
戦場の泥も、煙も、船の揺れも越えて、壊れずにそこにあった。
けれど、彼女はいなかった。
私は石を掌に乗せた。
赤い。
美しい。
彼女に似合うと思った赤。
渡すはずだった赤。
彼女が笑ってくれるはずだった赤。
その赤が、今はひどく冷たく見えた。
「帰ってきたよ」
私は言った。
誰に向けた言葉だったのか分からない。
部屋は答えなかった。
窓の外で、風が小さく鳴った。
私は何度も同じことを考えた。
もっと早く帰っていれば。
もっと早く戦争が終わっていれば。
もっと手紙を書いていれば。
もっと、何かを。
何かを。
その何かが何なのか分からないまま、私は同じところを回り続けた。
町の人たちは私にやさしかった。
食べ物を持ってきてくれた。
眠った方がいいと言ってくれた。
ツムギはあなたを待っていたと、何度も言ってくれた。
でも、その言葉は慰めにはならなかった。
待っていたのに、私は間に合わなかった。
その事実だけが、どんな言葉よりも重かった。
私は、るびぃを渡せなかった。
ただそれだけのことが、私からあらゆる明日を奪っていった。
日が経つにつれて、町の色は薄くなった。
魚の匂いも、焼き菓子の甘さも、夕暮れの赤も、彼女の好きだったものは全部そこにあるのに、私の目にはうまく届かなかった。窓辺に赤い花を置いてみたこともある。けれど、それを見て笑う彼女はいない。
るびぃは小箱の中にあった。
私は毎日それを開けた。
そして毎日、渡せないことを確かめた。
そのうち、私は自分が何のために起き上がっているのか分からなくなった。
食べる。
眠る。
歩く。
話す。
そういう当たり前のことが、一つずつ遠くなっていった。
戦場では、明日を迎えるために必死だった。
なのに帰ってきた町では、明日が来ることが苦しかった。
夕暮れになると、海へ行った。
港の先、町の灯りが少し遠くなる場所。
そこから見る夕陽は、彼女が好きだった赤に似ていた。
私は小箱を持って、何度もそこへ立った。
今日こそ渡そう。
そう思った。
誰に。
海の向こうにいる誰かに。
もういない彼女に。
それとも、彼女へ渡せなかったままの自分に。
分からなかった。
ある日、私は赤い花を買った。
一輪だけ。
それから、小箱を胸に入れて海へ向かった。
町は夕暮れだった。
提灯に火が灯り、窓辺の硝子が赤く光り、海は静かに揺れていた。彼女が見たら、きっときれいだと言っただろう。
私は靴を脱いだ。
それを揃えた。
赤い花をその上に置いた。
波打ち際に立つと、水は冷たかった。
けれど、私はそれを嫌だとは思わなかった。
胸元の小箱を取り出す。
蓋を開ける。
るびぃは夕陽を受けて、今までで一番深く燃えていた。
「ツムギ」
今度は、声に出した。
戦場では呼べなかった名前。
帰ってきた時には、もう届かなかった名前。
私はその名を、海へ向かって呼んだ。
「ごめん」
それ以外に言葉が見つからなかった。
好きだった。
帰りたかった。
渡したかった。
待っていてほしかった。
いや、待たせたくなかった。
そんな言葉はいくらでもあったはずなのに、口から出たのは、ごめん、だけだった。
私はるびぃを握った。
彼女のために燃える小さな石。
渡せなかった赤。
それを胸に抱いたまま、一歩、海へ入った。
冷たさが足首を越える。
もう一歩。
膝を越える。
さらに一歩。
衣服が水を吸い、重くなる。
夕陽は海の向こうに沈みかけていた。
波が腰に触れ、胸に届く。
私はるびぃを離さなかった。
これだけは、離せなかった。
海の水が顎の下まで来た時、私は最後に町を振り返った。
窓辺に赤い花は見えなかった。
でも、夕暮れの町全体が、彼女の好きだった赤に染まっていた。
ああ。
世界中の赤を集めたいと思っていた。
なのに私は、彼女のいない世界で、その赤を見ることに耐えられなかった。
波が口元に触れた。
私は目を閉じた。
るびぃを胸に押し当てる。
彼女のためだけに燃える小さな赤が、最後まで掌の中にあった。
音が遠くなる。
海の冷たさも、服の重さも、夕陽の赤も、少しずつほどけていく。
その奥で、誰かの歌が聞こえた気がした。
港で船を待つ時に、彼女がよく歌っていた歌。
大きな声ではないのに、遠くまで届く歌。
海鳥まで静かになる歌。
私はその歌へ手を伸ばそうとした。
けれど、指はもう動かなかった。
胸の中で、るびぃだけが赤く燃えていた。
そして、私の命は、静かな海の底へ沈んでいった。




