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きみの声がする

「一緒に行こう」

 シドがそう言うと、フォルテは答えなかった。

 ただ、保管室の白い灯りの下で、机に並べられた紙片を見つめていた。赤い糸の絡んだ小さな欠片。滲んだ文字。焦げた端。紅玉硝子の箱に紛れ、三年ものあいだ誰にも読まれず、けれど消えずに残っていた言葉。

 観覧車を、動かして。

 一番上で、待っているから。

 その言葉が、保管室の中にまだ残っているようだった。

 私は紙片を見た。

 ラウルはそれを一つずつ薄い紙へ挟み、さらに平たい箱へしまっていく。手つきは慎重で、紙をしまうというより、まだ息のある小さな声を寝かせているみたいだった。

「紙片は私が預かる」

 ラウルが言った。

「夕方までに、読めるところをもう一度整理する。欠けている部分は多いが、順番を並べ替えればもう少し分かるかもしれない」

「ありがとう、ラウル」

 シドは静かに言った。

 その声は、いつものふんわりしたものより少し低かった。

「ただし」

 ラウルは箱を鞄へしまいながら、シドを見た。

「これを読んだからといって、すべて分かったと思うな」

「うん」

「手紙は欠けている。まだ読めていない言葉がある」

「分かっているよ」

「本当に分かっているのか」

「たぶん」

「たぶん、では困る」

 ラウルの声は厳しかった。

 けれど、それはシドを責めるためではなかった。今にも海の方へ歩き出してしまいそうな大きな猫を、言葉で引き留めているように聞こえた。

 シドは少し困ったように笑った。

「でも、ラウル」

「何だ」

「ツムギが待っているなら、行かないと」

 その一言で、保管室の空気が変わった。

 フォルテの耳が、わずかに動いた。

 ラウルはすぐに返事をしなかった。

 私も、言葉に詰まった。

 待っている。

 たしかに紙にはそう書かれていた。

 一番上で、待っているから。

 けれど、それは本当に、シドが思っている通りの意味なのだろうか。

 分からない。

 でも、今のシドには、もうその言葉しか見えていないように思えた。

「シド」

 フォルテが低く呼んだ。

「お前は、また勝手に決めつけている」

「そうかな」

「そうだ」

 フォルテは一歩、机の方へ近づいた。

「待っているという言葉だけを見て、その先を見ていない」

「その先は、観覧車の一番上だよ」

「違う」

「フォルテ」

「違うと言っている」

 フォルテの声は、保管室の石壁に冷たく当たった。

「ツムギが何を言いたかったのか、まだ分からない。紙は欠けている。ラウルもそう言った。それなのに、お前はもう行く気でいる」

「うん」

「なぜだ」

「行かない理由が、もう分からないから」

 シドの声は穏やかだった。

 でも、その穏やかさが怖かった。

 怒りも、迷いも、怯えも、表にはほとんど出ていない。なのに、その言葉の奥にあるものだけが、まっすぐ観覧車へ向かっている。

 フォルテは唇を引き結んだ。

 何かを言おうとして、やめたように見えた。

 ラウルが静かに息を吐く。

「止めても無駄だな」

「無駄かもしれないねえ」

「なら、せめて準備をする」

 ラウルは鞄を肩にかけ直した。

「観覧車を動かすなら、夕方までに機械の確認が必要だ。シド一匹に任せるな。フォルテ、お前の屋敷から工具と人手を出せ」

「なぜ私が」

「止めたいなら、なおさらだ。動かすにしても、安全でなければならない」

 フォルテはしばらくラウルを見ていた。

 それから、短くネロへ命じた。

「整備用の油と工具を運ばせろ。人手は二匹。余計な口を利かない者を選べ」

「はい」

 ネロは深く頭を下げ、保管室を出ていった。

 フォルテはシドを見た。

「私は許したわけではない」

「うん」

「同行するだけだ」

「うん」

「そして、危ないと思えば止める」

「それでいいよ」

 シドは本当に嬉しそうに笑った。

「フォルテも来てくれるんだねえ」

「勘違いするな」

「していないよ」

「している顔だ」

「そうかな」

 シドは少しだけ首を傾げた。

 そのやり取りは、ほんの一瞬だけ昔の二匹を思わせた。

 フォルテが怒り、シドが受け流す。

 そこにツムギがいたら、どちらを叱ったのだろう。

 私はそんなことを思ってしまい、胸の奥が少し痛くなった。

 保管室を出る時、私はもう一度だけ振り返った。

 赤い硝子の箱が並ぶ棚。

 きちんと番号を振られた札。

 閉じられた木箱。

 ここは、壊れやすいものを守る場所だった。

 でも、守られすぎた言葉は、三年も誰にも届かなかった。

 ラウルが言った通り、鍵にもいろいろあるのだ。

 閉じ込める鍵と守る鍵。

 それらを取り出すための鍵。

 今、私たちはそのうちの一つをようやく開けたのかもしれない。

 屋敷を出ると、昼前の光が庭に満ちていた。

 保管室の白い灯りに慣れた目には、外の色が少し強く見えた。

 広がる港町はいつも通りだった。

 魚屋は声を張り、布屋の布は風に揺れ、子猫たちは井戸のそばを走っている。けれど私には、町全体が少しだけこちらを見ているように感じられた。

 フォルテの屋敷から、シドとフォルテとラウルと私が一緒に出てくる。

 それだけで、町の猫たちにとっては十分に珍しい光景なのだろう。

 魚屋の白猫が、遠くから目を丸くしていた。

 布屋の三毛猫は、針を持ったまま手を止めている。

 子猫たちは「シドとフォルテが一緒だ」と小声で騒ぎ始めた。

 シドはそんな視線を気にしているのかいないのか、いつものようにゆっくり歩く。

 けれど、その歩き方には確かな目的地があった。

 観覧車。

 町のどこからでも見える大きな輪。

 その下へ、私たちは向かっていた。

「夕方まで、どれくらいありますか」

 私が訊くと、ラウルが空を見上げた。

「まだ時間はある。だが、整備には十分とは言えない」

「シドさん、昨日の夜も見ていましたよね」

「少しだけねえ」

「少しだけで大丈夫なんですか」

「大丈夫にするよ」

 シドはそう言った。

 昨日までの「どうだろうねえ」ではなかった。

 大丈夫にする。

 その言い方だけで、彼が本気なのだと分かった。

 フォルテは無言だった。

 ただ、シドの横を歩いている。

 いつものように背筋は伸び、黒い巻き毛は乱れず、町の視線にも顔色を変えない。けれど、彼の歩幅はシドに合わせられていた。

 速すぎず、遅すぎず。

 まるで、早く行きたい気持ちと、行かせたくない気持ちの間で、ぎりぎりの速度を選んでいるみたいだった。

 観覧車のある小さな遊園地に着く頃には、昼の光が少しだけ傾き始めていた。

 まだ夕方ではない。

 けれど、海の方角には、すでにほんのりと赤みが混ざっている。

 遊園地は相変わらず静かだった。

 けれど今日は、昨日までと違って少しだけざわめきがあった。フォルテの屋敷から来た使用人たちが工具や油を運び、ラウルが記録帳を広げ、フォルテが腕を組んで全体を見ている。

 止まっていた場所が、急に動き出す準備を始めていた。

 シドは機械室の鍵を開けた。

 かちり、という音がすると、彼はほんの少しだけ扉の前で立ち止まった。

「シドさん?」

「うん」

「どうしましたか」

「久しぶりに、ちゃんと開ける気がしてねえ」

「昨日も開けました」

「昨日は、様子を見に来ただけだったから」

 シドはそう言って、扉を押した。

 機械室の中に光が入る。

 シドはまず、窓を開けた。

 潮風が入る。

 油と鉄の匂いに、海の匂いが混ざる。

「ひかりは、そこにいてね」

 シドが私へ言った。

「触ったら危ないものが多いから」

「はい」

「ラウルも」

「私は分かっている」

「フォルテも」

「私は触らん」

「そうかい」

 シドは少し笑い、それから使用人たちへ指示を出し始めた。

 その様子は、私が知っているシドとは少し違っていた。

 のんびりしているのは同じだ。

 けれど、何をすべきかは分かっている。どの歯車を確認し、どこへ油を差し、どのレバーを最後に動かすのか、彼は一つずつ確かめながら進めていった。

「そこはゆっくり」

「その鎖は引かないでねえ。まだ早い」

「ブレーキは最後」

「油は少なめでいいよ。多すぎると滑るから」

 声はやわらかいのに、指示は迷わない。

 フォルテは少し離れたところで、それを見ていた。

 彼の表情は読みづらい。

 けれど、シドが管理人として動いている姿を見ているその目には、冷たさだけではないものがあった。

 驚きと、懐かしさ。

 それから、少しだけ悔しさが入り混じるようであった。

 シドは本当は、動けるのだ。

 食べることを忘れ、眠ることを忘れ、部屋を散らかして、床で倒れていたとしても。

 観覧車のことになると、彼はちゃんと覚えている。

 それが分かったからこそ、フォルテは苦しそうなのかもしれなかった。

 ラウルは運行記録を確認していた。

「最後に正式に動かしたのは、三年前の秋か」

「うん」

「試運転は」

「何度か」

「記録が薄い」

「ごめんねえ」

「謝るくらいなら書け」

「今度からそうする」

「今度があるならな」

 その言葉に、機械室が一瞬だけ静かになった。

 ラウルは自分で言ってから、少しだけ口を閉じた。

 シドは笑った。

「あるといいねえ」

 それだけだった。

 私は胸の奥がきゅっとした。

 あるといい。とか。

 明日。とか。

 次。

 また。なんてことも言う。

 そんな言葉が、今のシドにはどれくらい確かなものなのだろう。

 準備はゆっくり進んだ。

 油が差され、歯車が拭かれ、鎖の張りが確認される。使用人たちは無駄口を叩かず、シドの指示に従った。フォルテが選んだ猫たちらしく、手際はよかった。

 やがて、シドは大きなレバーの前に立った。

「動かす前に、ゴンドラの確認をしないとねえ」

「私も行きます」

 私が言うと、シドは頷いた。

「ひかりはお客さん候補だからねえ」

「まだ候補ですか」

「乗るまでは候補だよ」

 シドは機械室を出た。

 観覧車の乗り場へ回る。

 ゴンドラは全部でいくつも並んでいた。丸みのある形で、白と青を基調に塗られている。ところどころ塗装は古くなっているけれど、座席はきれいに拭かれていた。

 シドは一つずつ扉を開け、留め具を確認する。

 私はその後ろをついて歩いた。

 フォルテも来た。

 ラウルは少し離れて記録を取っている。

「このゴンドラ」

 シドが一つの扉の前で止まった。

「夕陽を見るなら、これがいい」

「どうしてですか」

「一番上に来る時、ちょうど海の方を向く」

 シドは扉の縁を撫でた。

「昔から、そうだった」

「ツムギさんと乗る約束をしたのも、これですか」

 私が訊くと、シドは少しだけ手を止めた。

「うん」

 短い返事だった。

 フォルテが顔を背けた。

 私はそれを見たけれど、何も言わなかった。

 シドはゴンドラの中を確認し、座席を布で拭いた。

 丁寧に。

 本当に丁寧に。

 まるで、誰かを迎える準備をしているようだった。

「シド」

 フォルテが言った。

「まだやめられる」

 シドは振り返らなかった。

「うん」

「今なら、手紙の続きが読めるまで待つこともできる」

「うん」

「ラウルに全部預けて、明日でも、明後日でも」

「フォルテ」

 シドはゆっくり振り返った。

「ツムギが待っているんだ」

 それを聞いた瞬間、私は胸の奥に小さな違和感を覚えた。

 待っている。

 その言葉を、シドはまるで一つの道しるべのように受け取っている。

 でも、紙にはまだ続きがある。

 欠けている言葉がある。

 ラウルもそう言っていた。

 それなのに、シドの中ではもう、答えが決まっているように見えた。

「シドさん」

「うん?」

「本当に、今日でいいんですか」

 私が訊くと、シドは私を見た。

 やわらかい目だった。

 でも、その目の奥に、遠くの夕陽みたいな赤が揺れている気がした。

「今日がいいんだと思う」

「どうして」

「今日は、夕陽が綺麗になりそうだから」

 それは理由のようで、理由ではなかった。

 私は何かを言おうとした。

 けれど、言葉が出る前に、ラウルが近づいてきた。

「準備は」

「大丈夫だよ」

「試運転をする」

「うん」

 シドは機械室へ戻り、レバーを握った。

 みんなが少し離れる。

 私は乗り場から観覧車を見上げた。

 大きな輪。

 昨日までずっと止まっていた輪。

 町のどこからでも見えていた、動かない空の円。

 シドがレバーを引いた。

 最初は、何も起こらなかった。

 ただ、機械室の奥で低い音がした。

 ごうん、と深いところが目覚めるような音。

 次に、鎖が小さく震えた。

 歯車がゆっくり噛み合う。

 軸のあたりから、長く眠っていたものが息を吸うような音が響く。

 そして。

 観覧車が、動いた。

 本当に、ゆっくり。

 けれど確かに。

 大きな輪が、空の中で少しだけ角度を変えた。

 私は思わず息を呑んだ。

 ゴンドラが一つ、かすかに揺れる。

 支柱が低く鳴る。

 止まっていたものが動く音が、遊園地全体へ広がっていく。

 遠くの町から声が上がった。

「動いた!」

「観覧車だ!」

「シドが動かした!」

 子猫たちの声が最初だった。

 それから魚屋の白猫が店先から顔を出し、布屋の三毛猫が布を持ったまま立ち尽くし、港の猫たちも振り返る。

 町全体が、観覧車を見上げていた。

 シドは機械室の中で、レバーを握ったまま目を細めていた。

「動いたねえ」

 その声は、小さかった。

 けれど、私はその声を聞いて、胸の奥が熱くなった。

 フォルテは黙っていた。

 ラウルも、しばらく記録を書く手を止めていた。

 観覧車は一周する前に止められた。

 試運転は問題なかったらしい。

 ラウルが軸の音を確認し、フォルテの使用人たちが鎖を見て、シドが最後にゴンドラの揺れを確かめる。

 すべてが終わる頃には、空の色が少しずつ変わり始めていた。

 昼の青に、薄い橙が混ざっていく。

 夕陽の時間が近づいている。

「ひかり」

 シドが私を呼んだ。

「はい」

「乗ろうか」

 私は頷いた。

 でも、すぐに足は動かなかった。

 シドが選んだゴンドラの扉が開いている。

 白と青の古いゴンドラ。

 ツムギと乗る約束をしたというゴンドラ。

 その中へ入ることが、ただ観覧車に乗ることではないと、もう分かっていた。

 フォルテも近づいてきた。

「私も乗る」

「うん」

 シドは当然のように頷いた。

「ラウルは?」

「私は下で見る」

「乗らないのかい」

「誰かが下で記録を取る必要がある」

「ラウルらしいねえ」

「それに、上で何かあったら、下から止める」

 その言い方が少し引っかかった。

 上で何かあったら。

 でも、今さら何を言えばいいのか分からない。

 私とシドとフォルテは、ゴンドラに乗った。

 中は思ったより狭かった。

 向かい合う座席があり、小さな窓が四方についている。座ると、外の町が少し低く見えた。まだ地上にいるのに、もう日常から少しだけ離れたような気がする。

 シドは私の向かいに座った。

 フォルテはシドの隣ではなく、少し斜めの位置に腰を下ろした。

 扉が閉まる。

 金具がかちりと鳴る。

 外でラウルが何かを確認し、機械室の使用人に合図を出した。

 観覧車が動き出す。

 ゆっくりと。

 ゴンドラがわずかに揺れ、地面が少しずつ下がっていく。

 私は窓に手を添えた。

 遊園地が見える。

 それから、観覧車を見上げる猫たち。

 子猫たちが手を振っている。

 私は小さく手を振り返した。

 シドは窓の外を見ていた。

 その横顔は、今まで見たどの表情とも違っていた。

 嬉しそうでもある。

 怖そうでもある。

 遠くの何かに呼ばれているようでもある。

「シド」

 フォルテが低く言った。

「無理をするな」

「うん」

「何かあれば、すぐ下ろす」

「うん」

「聞いているのか」

「聞いているよ」

 シドは窓の外を見たまま答えた。

 地面は少しずつ遠くなる。

 町の赤褐色の道が、細い線になっていく。

 白い壁の家々が、積み木みたいに並んで見える。

 海が広がる。

 昼間見た海よりも、夕方に近づいた海は色が深かった。青の中に橙が流れ込み、波の端が金色に光っている。

 私は息を呑んだ。

 観覧車から見る海。

 ずっと見たいと思っていた景色。

 でも、その美しさを素直に喜べないほど、ゴンドラの中には静けさがあった。

 中腹を過ぎた頃、シドが小さく息を吸った。

「聞こえる」

 私は顔を上げた。

「何がですか」

「歌」

 フォルテの顔色が変わった。

「シド」

「聞こえるんだ」

 シドは窓の外を見ていた。

 その目は、海を見ているようで、海の向こうの何かを見ているようだった。

 私は耳を澄ませた。

 けれど、聞こえるのは観覧車の軋む音と、遠くの町のざわめきと、海風だけだった。

 歌は聞こえない。

「シドさん、私には」

「うん」

 シドは静かに頷いた。

「ひかりには、まだ聞こえないかもしれないねえ」

 その言い方が、不自然だった。

 まだ。

 まるで、聞こえる方が正しいみたいに。

 ゴンドラはさらに上がっていく。

 夕陽が近づく。

 窓の外の光が、少しずつ赤くなっていく。

 シドの灰色の毛も、フォルテの黒い巻き毛も、私の手も、赤く染まっていく。

 その赤は、紅い宝石の色に似ていた。

 夕陽を少しだけ固めたみたいな色。

「いた」

 シドが呟いた。

 私は凍りついた。

「シドさん?」

「ツムギが、そこにいる」

 夕陽の赤の奥に、ほんの一筋だけ、黒いものが混じっていた。

 煙のようにも、糸のようにも見えた。

 それはツムギの影の足元に絡み、ゆっくりと海の方へ引いているように見えた。

 私は目を凝らした。

 けれど次の瞬間には、赤い光に紛れて見えなくなっていた。

 フォルテが立ち上がりかけた。

 ゴンドラが揺れる。

「座っていろ」

 フォルテの声が鋭くなる。

 シドは聞いていないようだった。

 彼は窓の向こうを見つめている。

 夕陽の光が、彼の瞳の中で燃えていた。

「待っていたんだねえ」

 シドの声はやわらかかった。

 やわらかすぎた。

「ずっと、一番上で」

「シド、違う」

 フォルテが言った。

「違わないよ」

「違う。まだ手紙は全部読めていない」

「でも、書いてあった」

「シド」

「観覧車を動かして。一番上で待っているから」

 シドはゆっくり立ち上がった。

 ゴンドラがまた揺れる。

 私は座席の端を掴んだ。

「シドさん、危ないです」

「大丈夫だよ」

 シドは微笑んだ。

「今度こそ、渡せるから」

「何を」

 私が訊くと、シドは胸元に手を当てた。

 そこには、空の布がしまわれている。

 宝石はない。

 でもシドは、まるでそこにまだ紅い宝石があるかのように、大切そうに胸元を押さえていた。

「ずっと渡せなかったもの」

 ゴンドラの窓の外で、夕陽が強くなった。

 赤い。

 赤い。

 町も、海も、空も、全部が紅い硝子の中へ沈んでいくようだった。

 私は違和感に気づいた。

 夕陽が、強すぎる。

 窓の外の景色が歪んでいる。

 海の上に、誰かの影が立っているように見えた。

 細い猫の影。

 長い髪のように揺れる毛。

 歌うように開いた口。

 でも、次の瞬間にはただの光になる。

 見えたのか。

 見えなかったのか。

 分からない。

 分からないのに、シドだけは確かに見えている顔をしていた。

「やめろ、シド」

 フォルテがシドの腕を掴んだ。

「そちらへ行くな」

「大丈夫だよ、フォルテ」

 シドは穏やかに言った。

「怒られるだけだから」

「ふざけるな」

「ふざけてないよ」

「なら座れ」

「もう少しで、一番上だ」

 シドはゴンドラの扉へ手を伸ばした。

 私は考えるより先に動いていた。

「シドさん!」

 その手に、私の手が触れた。

 瞬間。

 世界から音が消えた。

 観覧車の軋みも、フォルテの声も、海風も、町のざわめきも、すべてが遠くへ引き伸ばされる。

 窓の外の夕陽が、紅い宝石みたいにひび割れた。

 割れ目から光があふれる。

 シドの灰色の毛が赤く染まり、フォルテの伸ばした手が空中で止まり、私の指先だけが熱を持った。

 落ちる。

 そう思った。

 けれど、落ちた先にあったのは、底ではなかった。

 ガタ、ゴト。

 ガタ、ゴト。

 どこかで、列車の音がした。

 私は目を開けた。

 そこは、夕陽の中に沈んだ線路の上だった。

 空は赤い。けれど、港町の夕暮れとは違う。赤い硝子を何枚も重ねたような空で、遠くの雲まで透き通って見えた。足元には一本の線路が伸びている。枕木は古く、ところどころ焦げたように黒ずんでいた。

 線路を一歩でも外れると、夕陽のような橙色の水面が、波の音を立てどこまでもどこまでも広がっていた。

 その時、胸元がかすかに熱を持った。

 私は反射的に星型ポーチへ手を当てる。

 中に入れていたきっぷが、震えていた。

 古びた駅で猿の駅員から受け取ってから、ずっと持っていたきっぷ。列車に乗るたびに私を次の場所へ運んできた、小さな紙片。

 私はそれを取り出した。

 読めない文字は、今も読めない。

 けれど、その文字の上を、夕陽のような赤い光がすっと走った。

 まるで、今だけは行き先を示してくれているみたいだった。

 線路の先に、列車が停まっていた。

 私がこの夢の世界で何度も見てきた、あの不思議な列車。

 けれど今は、いつもと少し違って見えた。

 先頭の蒸気機関車は黒く艶めき、吐き出す煙は白ではなく、薄い夕陽色をしている。二両目の窓には海が映り、三両目を覆う黒い布の隙間からは、赤い光の粒がこぼれていた。洋風の車両の扉には、古びた貝殻の飾りが揺れている。後ろの方に続く車両は、夕陽の中に溶けて、どこまであるのか分からなかった。

「どうして、ここに……」

 私は呟いた。

 列車は答えない。

 ただ、ガタ、ゴト、とまだ走ってもいないのに、どこかで車輪の音だけが鳴っている。

 きっぷの熱が、少しだけ強くなった。

 これは、町へ行くためのきっぷではない。

 元の世界へ戻るためのきっぷでもない。

 たぶん、シドの奥へ向かうためのきっぷだ。

 そう思った瞬間、列車の扉が開いた。

 ぷしゅう、と空気の抜ける音がして、二両目の車両の入口が私を待つように口を開ける。

 乗るしかない。

 シドは、あの夕陽の向こうへ行こうとしていた。

 フォルテの声は届かなかった。

 私の手は触れた。

 そして私は、ここにいる。

 なら、この列車はきっと、私をシドの奥へ連れていくために現れたのだ。

 私はきっぷを握りしめ、車両へ乗り込んだ。

 中には誰もいなかった。

 木の床を踏み締めると、目の前には緑の座席が広がる。

 窓の外には、赤い空と線路が続いている。

 けれど、席に座る前に列車は動き出した。

 身体が小さく揺れる。

 窓の外の景色が、ゆっくり流れ始めた。

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