小さな紙片
私達はフォルテの屋敷へ足を踏み入れた。
門の内側は、外から見ていたよりもずっと静かだった。
白い壁に囲まれた庭には、低い花が整然と植えられている。赤、白、薄黄色。どの花も背丈は低く、潮風に煽られても折れないように、地面へ寄り添うように咲いていた。小道には細かな白い石が敷かれ、歩くたびに靴の下で小さく鳴る。町の赤褐色の道とは違う、乾いた音だった。
屋敷は大きかった。
けれど、威張っているような大きさではない。むしろ、必要なものを必要な場所に置き、余計なものを削り落としたような建物だった。白い壁。黒い屋根。影の濃い窓。飾りは少ないのに、どこを見てもきちんと手入れされている。
フォルテらしい屋敷だと思った。
冷たく見える。
整っている。
けれど、放っておかれているものが一つもない。
廊下へ入る前に、私はちらりとシドを見た。
シドは庭を見回していた。懐かしそう、という言葉が合っているのかは分からない。けれど、初めて来た場所を見る目ではなかった。彼はこの庭を知っている。どこに何が植えられていて、どの角を曲がればどこに出るのか、たぶん昔は分かっていたのだ。
「変わっていないねえ」
シドが小さく言った。
フォルテは振り返らなかった。
「変える理由がない」
「そうだねえ」
「昔のまま残しているわけではない。必要だから残しているだけだ」
「うん」
シドは、それ以上何も言わなかった。
けれど、二匹の間に落ちたその短いやり取りだけで、私はまた一つ分かった気がした。
フォルテは、昔という言葉を嫌がる。
少なくとも、シドの口から出る昔を。
屋敷の扉は重かった。
ネロが先に立ち、両開きの扉を開ける。中へ入ると、空気の温度が少し下がった。白い石の床が広がり、壁には細長い窓から朝の光が差し込んでいる。外の港町の明るさとは違う、静かでまっすぐな光だった。
屋敷の中には、猫の気配がいくつもあった。
黒い外套を着た使用人たちが、廊下の端で一礼する。誰も大きな声を出さない。足音も控えめで、物の置き方も丁寧だった。ここでは、何かを乱すこと自体が禁じられているように感じる。
私は自然と背筋を伸ばした。
ラウルは平然としている。鞄を肩に掛け、目だけで壁や廊下の様子を見ている。記録屋らしく、屋敷の形そのものを頭に入れているみたいだった。
シドはというと、やはり少しだけ歩くのが遅い。
いつもののんびりした歩き方に見える。けれど、私はもうそれだけではないと分かっていた。たぶん彼は、ここを歩くたびに何かを思い出している。
庭でお茶を飲んだこと。
フォルテが湯の温度にうるさかったこと。
ツムギに怒られたこと。
そして、もしかすると、その続きも。
「保管室は地下だ」
フォルテが言った。
「地下」
私は思わず呟いた。
「湿気は大丈夫なんですか」
ラウルがすぐに訊く。
「管理している」
「紙片の状態を見る限り、万全とは言えない」
「もともと傷んでいた」
「それも含めて確認する」
ラウルの声は遠慮がなかった。
フォルテは一度だけ彼を見たが、何も言い返さなかった。
廊下の奥に、地下へ降りる階段があった。
石でできた階段は、ゆるく下へ続いている。壁には小さな灯りが等間隔に並び、足元は暗くない。けれど、下へ降りるにつれて、外の光が遠くなっていくのが分かった。
階段を降りる音が響く。
こつん。
こつん。
シドの足音は大きく、私の足音は少し軽く、ラウルの足音は短い。フォルテの足音はほとんど迷いがなかった。
地下の廊下は、思ったより広かった。
壁は白ではなく、灰色の石でできている。空気はひんやりしているけれど、嫌な湿気はない。ところどころに換気用の細い窓があり、そこから淡い光が入っていた。海の近い町なのに、ここは潮の匂いが薄い。かわりに、古い木箱と乾いた紙、それから少しだけ油の匂いがした。
廊下の突き当たりに、重そうな扉があった。
黒い木でできていて、金属の補強がされている。鍵穴は三つ。扉の横には、記録板のようなものが掛けられていた。
ラウルがそれを見る。
「入出庫記録か」
「そうだ」
フォルテが答える。
「保管物を出し入れする時には、必ず記録する」
「なら、紅玉硝子の箱を昨日出した記録もあるな」
「ある」
「紙片については」
「記録していない。気づかなかったことにしていた」
その言い方は静かだった。
でも、はじめてフォルテがはっきりと認めた。
気づかなかったことにしていた。
知らなかった、ではない。
気づかなかったことに、していた。
ラウルの目が細くなる。
「後で詳しく聞く」
「今ではないのか」
「今は探すのが先だ」
ラウルはそう言って、鞄から手袋を取り出した。
フォルテはネロへ合図をした。
ネロは鍵を三つ取り出し、一つずつ鍵穴へ差し込む。かちり、かちり、かちり、と音が鳴る。そのたびに、扉の向こうにあるものが少しずつ近づいてくる気がした。
重い扉が開いた。
中は、思っていたより明るかった。
保管室の壁には灯りがいくつもあり、棚が整然と並んでいる。木箱、布袋、硝子瓶、古い額、封のされた箱。すべてに札がつけられ、番号らしいものが振られていた。埃っぽさはほとんどない。むしろ、あまりにもきちんとしすぎていて、ここにしまわれたものたちが声を出せないように見えた。
フォルテらしい場所だった。
大切なものを、壊れないように、失われないように、きちんと並べている。
でも、並べたまま、誰にも触れさせない。
「紅玉硝子はどこだ」
ラウルが訊く。
ネロが棚の一角へ案内した。
そこには赤い印のついた木箱がいくつか並んでいた。昨日見た小箱より大きいものも、小さいものもある。札には細かい文字が書かれている。私には全部は読めないが、同じような記号と日付が並んでいた。
「三年前の秋に入ったものは」
ラウルが記録を見ながら言う。
ネロは少し迷い、棚の二段目を指した。
「こちらです」
「全部出して」
フォルテが命じる。
ネロともう一匹の使用人が、慎重に箱を机の上へ運んだ。
保管室の中央には、確認作業のためらしい大きな机があった。ラウルはそこへ自分の道具を広げる。薄い手袋。硝子板。小さな筆。紙を挟む板。昨日見たものより数が多い。
「勝手に触るな」
ラウルが私を見る。
「はい」
「シドも」
「僕もかい」
「君が一番危ない」
「そうかな」
「そうだ」
シドは困ったように笑い、両手を上げた。
それから、少し後ろに下がる。
でも目は箱から離れない。
一つ目の箱が開けられた。
中には赤い硝子片が入っていた。昨日見たものと同じような、薄い赤い欠片。朝ではなく地下の灯りを受けても、やはり強く光る。ラウルはそれを一枚ずつ確認し、底を見た。
「紙片なし」
二つ目。
赤い丸い硝子玉がいくつも入っていた。
灯りに使うものだろうか。中が空洞になっていて、透かすと光が赤く揺れた。
「紙片なし」
三つ目。
細長い硝子棒。
四つ目。
砕けた欠片。
五つ目。
飾り用の赤い小板。
ラウルは淡々と確認していく。
フォルテは腕を組んだまま立っていた。
シドは黙っている。
私は机の端を見つめながら、息を詰めていた。
一つ開くたびに、何かが見つかってほしいと思う。
でも同時に、見つかるのが少し怖い。
何もなければ、また違ったねえで終わるかもしれない。けれど、何かが見つかったら、きっともう戻れない。
七つ目の箱を開けた時だった。
ラウルの手が止まった。
中には、赤い硝子の板が何枚も重なっていた。その一番下、木箱の底との間に、薄いものが挟まっている。
紙だ。
私は声を出しそうになり、慌てて口を押さえた。
ラウルは慎重に硝子板を一枚ずつ持ち上げ、横へ移していく。最後に残った薄い紙片は、昨日のものより少し大きかった。端は破れているが、焦げてはいない。ただ、水に濡れた跡があり、文字はところどころ滲んでいた。
シドが一歩近づく。
ラウルは手で制した。
「待て」
「うん」
「まだ触るな」
「うん」
ラウルは紙片を硝子板に乗せ、ランプの光を横から当てた。
文字が浮かび上がる。
私は思わず身を乗り出した。
フォルテも、無意識だったのか、一歩だけ近づいていた。
「これは」
ラウルが呟く。
「昨日の続きかもしれない」
シドの耳が揺れた。
「読める?」
「読む」
ラウルは慎重に文字を追った。
「最初は欠けている。……『一番上で』。これは昨日の紙片と繋がる可能性がある」
観覧車の一番上。
私は胸の奥でその景色を思い浮かべた。
まだ見たことのない、観覧車の一番上。
そこから見える夕陽。
「次は……『あなたが眠そうにしていたら』」
シドが小さく笑った。
けれどその笑いはすぐに消えた。
ラウルは続ける。
「『叱る』」
「ツムギらしいねえ」
シドが呟く。
「『でも、逃げてもいい』……いや、『逃げてもいいけれど』か。そのあとが滲んでいる」
私はシドを見る。
逃げるのが上手だったと、シドは言っていた。
ツムギは怒る時、相手の目を見るから逃げられないとも。
この手紙は、やっぱりツムギがシドへ向けて書いたものなのだ。
「次」
ラウルの声が、少しだけ低くなる。
「『シド、あなたは』」
シドの名前。
保管室の空気が止まる。
ラウルは文字をなぞるように読んだ。
「『あなたは、すぐに自分を置いていく』」
私は意味を掴めず、少し遅れて胸が痛んだ。
自分を置いていく。
それは、どういうことだろう。
食べることを忘れること?
眠ることを忘れること?
それとも——。
シドは、自分のことを少しずつ置き去りにしてきたのだろうか。
シドは黙っていた。
いつもの困った笑いも浮かべていない。
ただ、紙片を見つめていた。
「続きは」
フォルテが言った。
その声が低く、硬かった。
ラウルは少しだけ彼を見た。
それから、紙へ目を戻す。
「『だから、私が』……ここは欠けている。『あなたの分まで』……次が読めない」
「あなたの分まで」
私は小さく繰り返した。
シドの耳が伏せられる。
フォルテは目を逸らさなかった。
「下にもう一文ある」
ラウルが言う。
「『観覧車に乗る日』」
その言葉が出た瞬間、シドの手がぴくりと動いた。
ラウルは続けた。
「『忘れないで』」
忘れないで。
紙片の文字は、三年も箱の底にしまわれていた。
それなのに、そこに書かれた言葉は、今ようやくシドへ届こうとしている。
私は息をするのも忘れそうだった。
「ここまでだ」
ラウルは言った。
「まだ続きがあるはずだ。これだけでは文が繋がらない」
シドはゆっくり頷いた。
「そうだねえ」
声が掠れていた。
でも、泣いてはいない。
泣いていないことが、また胸を締めつけた。
「他の箱も見る」
ラウルが言った。
フォルテは何も言わなかった。
ただ、ネロへ頷く。
次の箱。
次の箱。
そのまた次の箱。
赤い硝子の下、箱の隅、札の裏、緩衝材に使われた布の間。ラウルは一つずつ丁寧に確認していく。
紙片は、さらに二つ見つかった。
一つは、ほとんど文字が読めなかった。ただ「赤い」「贈り物」「怒らない」という言葉だけが残っていた。
もう一つは、小さな紙片だった。
そこには、こう書かれていた。
「『あなたが渡そうとしてくれるなら、私はきっと笑う』」
ラウルが読み上げた時、シドはとうとう目を閉じた。
長い睫毛ではない。
猫の目が、ただ静かに閉じられただけ。
けれど、その一瞬だけ、シドがとても遠くに行ってしまったように見えた。
「シドさん」
私が呼ぶと、彼は目を開けた。
「うん」
「大丈夫ですか」
「大丈夫、とは言いづらいねえ」
それでも、シドは笑った。
やっぱり笑った。
「でも、読めてよかった」
フォルテが小さく息を吐いた。
私はそちらを見た。
フォルテは、机の上の紙片を見ている。表情は硬い。けれど、その硬さの奥に、怒りだけではないものがあった。
痛みや後悔。
それに近いもの。
「フォルテ」
シドが言った。
「君は、この紙を知っていたんだね」
フォルテは答えなかった。
「全部を読んだの?」
「読んでいない」
「本当に?」
「読めなかった」
フォルテは低く言った。
「読むつもりもなかった」
「どうして」
「読めば、お前に渡さなければならなくなる」
保管室の空気が、一段冷えた気がした。
「だから、読まなかったことにしたんですか」
私の声が出た。
フォルテは私を見た。
怒るかと思った。
けれど、怒らなかった。
「そうだ」
たった一言だった。
認めた。
フォルテは、逃げなかった。
「私は、これを見つけた時、紅玉硝子の中に戻した」
「どうして」
私が訊く。
「燃やすことも捨てることもできなかった。だが、シドに渡すこともできなかった」
「それは」
「言い訳だと分かっている」
フォルテの声は静かだった。
「だが、私はそうした」
シドはフォルテを見ていた。
ただ、見ている。
それがフォルテにはつらいのかもしれない。彼の目が少しだけ細くなる。
「私は、お前がそれ以上、あの日に戻るのを見たくなかった」
あの日。
その言葉が、保管室の中に落ちた。
私は、また何も知らない場所の前に立たされた気がした。
あの日とは、いつなのか。
ツムギはどこにいるのか。
観覧車に乗る約束は、どうなったのか。
紅い宝石はどこへ消えたのか。
まだ分からない。
でも、確実に近づいている。
「フォルテ」
ラウルが口を開いた。
「この紙片を見つけたのは、いつだ」
「三年前」
「紅玉硝子が搬入された時か」
「そうだ」
「その時、他にも紙片はあったか」
「分からない」
「本当に分からないのか」
フォルテはラウルを見た。
「分からない。私は箱を開け、中に紙があることを見た。そしてすぐに閉じた」
「それ以降は」
「触れていない」
ラウルはしばらくフォルテを見ていた。
嘘を探しているようだった。
やがて、短く頷く。
「なら、まだこの部屋のどこかに残っている可能性がある」
「紅玉硝子の箱は、これで全部だ」
ネロが言った。
ラウルは首を横に振る。
「紙は箱から落ちる。札の間に挟まる。記録板の裏に貼りつく。床の隙間に入り込む。保管室にあったなら、箱だけ見て終わりにはできない」
「ラウル」
フォルテの声に、苛立ちが戻る。
「どこまで調べるつもりだ」
「見つかるまで」
「ここは私の屋敷だ」
「だから許可を取っている」
「私はまだ許可していない」
「今、拒めば余計に疑われる」
ラウルはきっぱり言った。
「町の領主として、それは賢くない」
フォルテの目が鋭くなる。
ラウルは怯まない。
「怒るなら後で怒れ。今は探す」
その言葉は、シドでは絶対に言えないものだった。
私はラウルを少しすごいと思った。
フォルテはしばらく黙っていた。
やがて、短く言う。
「一刻だけだ」
「十分だ」
「保管物を傷つけるな」
「当然だ」
ラウルはすぐに動き出した。
ネロや使用人たちへ指示を出し、棚の下を空け、箱の札を外し、記録板を確認する。彼は静かだが、手際がよかった。記録屋というのは、ただ帳面を読んでいるだけではないのだと思った。
私も何か手伝いたかったけれど、触るなと言われているので、目で探すことにした。
紙片。
薄く、古く、赤い光に紛れていたもの。
それはどこに落ちていてもおかしくない。
私は床の隅や棚の下を見た。
石の床はきれいに掃除されている。埃は少ない。けれど、棚と壁の隙間には、細い影がある。そこに何かが入り込んでいたら、見つけるのは難しそうだった。
シドは何も触らず、机の近くに立っていた。
見つかった紙片から、目を離せないようだった。
フォルテは扉の近くに立っている。
彼は部屋全体を見ているようで、本当はシドだけを見ているようにも思えた。
その時、私はふと壁の下の方に目を留めた。
保管室の隅に、換気用の細い窓がある。その下に、古い木箱が一つ置かれていた。札はついている。けれど、他の箱より少しだけ位置がずれているように見えた。
「ラウルさん」
私は声を出した。
「何だ」
「あの箱の下、少し浮いていませんか」
ラウルがすぐに来た。
フォルテもこちらを見る。
ラウルはしゃがみ、箱の下を覗き込んだ。
「動かす」
彼が言うと、ネロが手伝い、箱を少しずらした。
その下に、紙片があった。
今までのものより、小さい。
けれど、そこには赤い糸の切れ端が絡んでいた。
私は息を呑んだ。
ラウルが慎重に拾い上げる。
紙はかなり傷んでいたが、赤い糸だけは不思議と鮮やかだった。
「これは」
シドの声が震えた。
彼は一歩近づいた。
「それは、僕が使った糸だ」
「糸?」
私が訊く。
「宝石を包む布に、同じ色の糸を縫い込んだ」
シドはそう言って、上着の内側から、空の布を取り出した。
昨日見せてくれた布。
紅い宝石があった跡だけが残っている、古びた布。
その端には、よく見ると赤い糸で小さな模様が縫われていた。
ラウルが紙片の糸と見比べる。
「同じだな」
フォルテの顔が強張った。
シドは布を両手で持っていた。
その手が、ほんの少し震えている。
「じゃあ」
私は声を抑えきれなかった。
「この紙は、宝石を包んでいた布と一緒にあったんですか」
誰もすぐには答えなかった。
ラウルは紙片を硝子板に乗せる。
赤い糸を傷つけないようにしながら、ランプの光を当てた。
文字は少なかった。
けれど、今までのどれよりもはっきり残っていた。
ラウルが読む。
「『もし、あなたがこれを見つけたら』」
シドが目を閉じる。
「続きは?」
フォルテの声が低く出た。
ラウルは読み進める。
「『観覧車を、動かして』」
その言葉が、保管室の空気を変えた。
今まで抱えていたすべてが、突然一つの方向を向いた気がした。
観覧車を、動かして。
それは、シドがずっと止めていたものへの言葉だった。
シドは動かなかった。
ラウルはさらに紙片を見つめる。
「まだ続きがある」
私は息を止めた。
「『一番上で、待っているから』」
シドは、ゆっくりと息を吐いた。
その音が、保管室の中にやけに大きく聞こえた。
「ツムギは」
シドは言った。
声がかすれていた。
「ずっと、怒っていたんだねえ」
誰も笑わなかった。
シドも笑っていなかった。
ただ、泣いてもいなかった。
私はその横顔を見て、胸の奥が苦しくなった。
フォルテが一歩近づいた。
「シド」
その声は、今までより少しだけ低く、柔らかかった。
「これを読んでも、まだ動かすつもりか」
シドはフォルテを見た。
「うん」
「なぜだ」
「叱られたからねえ」
「ふざけるな」
「ふざけていないよ」
シドは静かに言った。
「ツムギは、怒る時にちゃんと相手の目を見るんだ。逃げられない」
フォルテは言葉を失ったように黙った。
「手紙でも、逃げられないねえ」
シドは布を畳んだ。
それから、ラウルが持つ紙片を見た。
「ラウル」
「何だ」
「全部、読めるようにしてほしい」
「できる限りはする」
「それから」
シドは、ゆっくりフォルテを見た。
「観覧車を動かしたい」
保管室が静まり返った。
フォルテの瞳が、はっきり揺れた。
「今すぐか」
「夕陽までには」
「急すぎる」
「ずっと待たせたからねえ」
「シド」
「フォルテ」
シドの声は穏やかだった。
けれど、もう後ろへ下がる声ではなかった。
「止めないでほしい」
フォルテは何も言わなかった。
ただ、シドを見ていた。
長い時間だった。
私は、二匹の間に何があるのか、まだ全部は知らない。
けれど、今そこにあるものは分かった。
フォルテは止めたい。
シドは動かしたい。
そしてその真ん中に、ツムギの言葉がある。
観覧車を、動かして。
一番上で、待っているから。
フォルテは目を伏せた。
それは負けたようにも、諦めたようにも見えなかった。
ただ、長い間閉めていた扉の前で、ようやく手を下ろしたように見えた。
「……勝手にしろ」
フォルテは低く言った。
「ただし、私も行く」
シドは少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「うん」
その笑顔は、今日初めて少しだけいつものシドに戻っていた。
「一緒に行こう」




