歌は何を意味する
町の朝は明るかった。
でも、私たちの足音だけが、少しだけ静かに聞こえた。
記録屋へ向かう道は、昨日と同じはずだった。
けれど、シドが黙っているだけで、町の色は少し違って見えた。
シドは上着の内側に、何度も手をやりそうになってはやめていた。
例の紙がそこにあるのだろう。
私は横目でシドを見る。
いつものように歩いている。急がない。足取りも乱れない。けれど、昨日までのふわふわした軽さとは少し違った。空を眺めたり、魚屋の匂いに反応したり、干し魚の包みを嬉しそうに触ったりする余裕が、今はあまりないように見えた。
「シドさん」
「うん」
「読んでもらうの、怖いですか」
訊いてから、少し直接すぎたかもしれないと思った。
けれどシドは怒らなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、朝の道を見た。
「怖いねえ」
あまりにも素直な返事だった。
「やっぱり、怖いんですね」
「うん。怖いよ」
「読まない、という選択もあります」
「そうだねえ」
シドは頷いた。
「読まないまま、また畳んでしまっておくこともできる。フォルテは、たぶんそれを望んでいた」
「シドさんは?」
「僕は」
シドは少しだけ間を置いた。
通りの向こうで、子猫が転んだ。すぐに起き上がり、何事もなかったように走っていく。母親らしい猫が「あんまり急がないの」と声をかける。
シドはその光景を見てから、静かに言った。
「しまっておくのは、もう少し苦手になったみたいだねえ」
「苦手に?」
「うん。昨日までは、しまっておく方が楽だった。宝石を探していると言いながら、僕もいろいろなものを畳んで、見えない場所へ置いていたのかもしれない」
フォルテはしまうのが上手だと、シドは言っていた。
でもシドもまた、自分の中に何かをしまっていた。
それを私に少しずつ見せながら、重要なところだけはまだ布で包んでいた。
「ひかりが一緒に見てくれるなら、読める気がする」
シドは言った。
私は思わず背筋を伸ばした。
「私でいいんですか」
「ひかりがいいんだと思うよ」
「どうしてですか」
「さあ」
シドは少し笑った。
「僕にも、まだうまく言えないねえ。でも、ひかりは急ぐ時もあるけれど、待とうともしてくれる」
「急いでいますか」
「昨日は少し」
「すみません」
「謝らなくていいよ。僕は遅すぎるからねえ。ひかりくらい急いでくれる子がいないと、ずっと同じところで干し魚を食べているかもしれない」
「それは本当にありそうです」
「あるねえ」
シドは少しだけいつもの調子に戻った。
そのことに、私はほっとした。
けれど、すぐに記録屋の青い扉が見えてくる。
ほっとした気持ちは、また胸の奥で小さく固くなった。
ラウルは店の中にいた。
机に向かい、昨日と同じようにペンを持っている。けれど、私たちが入ってくると、書きかけの帳面を閉じた。まるで、こうなることを最初から分かっていたみたいだった。
「戻ったか」
「うん」
シドは短く答えた。
ラウルの視線が、シドの上着の内側へ向かう。
「何か見つけたな」
「宝石ではなかったよ」
「紅玉硝子か」
「うん。箱の中身は硝子だった」
「なら、その顔は何だ」
ラウルの声は静かだった。
責めているわけではない。
けれど、逃がさない声だった。
シドは上着の内側から、紙片を取り出した。
古く、薄く、端の焦げた紙。
朝の光の中で見ると、昨日よりさらに頼りなく見えた。少し強く触れたら、粉のように崩れてしまいそうだった。
「箱の底に入っていた」
シドは言った。
「ツムギの字だと思う」
ラウルの顔が変わった。
ほんの少し。
けれど、昨日から見てきた中で、一番大きな変化だったかもしれない。
彼はペンを置き、ゆっくり立ち上がった。
「見せてくれ」
シドは紙片を両手で差し出した。
ラウルはすぐには受け取らなかった。
机の引き出しを開け、薄い手袋を取り出してはめる。それから、平らな硝子板のようなものを机の上に置いた。紙片をその上へそっと乗せ、また別の薄い板を横に置く。
その手つきはとても慎重だった。
文字を読むというより、息をしている小さなものを扱うみたいだった。
「古いな」
ラウルが呟く。
「水と熱の跡がある。端は焦げているが、全部燃えたわけではない。折り目もある。もともとはもう少し大きい紙だったはずだ」
「読めるかい」
「急かすな」
「急かしているつもりはないよ」
「君ののんびりした声は、時々妙に急かす」
「それは難しいねえ」
ラウルは返事をせず、机の横にある小さなランプを点けた。
昼間なのに、ランプを使うのだろうか。
そう思って見ていると、ラウルはランプの光を紙の横から当てた。すると、薄れていた文字のいくつかが、影のように浮かび上がった。
私は思わず息を止めた。
文字がある。
確かに、そこに誰かが書いたものがある。
それはただの紙片ではなく、誰かの手から離れ、何かに紛れ、三年も箱の底に隠れていた言葉だった。
「ひかり」
ラウルがこちらを見ずに言った。
「君は少し離れて見ていなさい。息がかかる」
「あ、はい」
私は一歩下がった。
シドは机のそばに立っている。
けれど、手は出さなかった。ただ、紙片から目を離さない。
ラウルは細い筆のようなもので、紙の端を少しだけ押さえた。
「全部は無理だ」
彼は言った。
「焼けている部分と、滲んでいる部分が多い。だが、読めるところはある」
シドは黙って頷いた。
ラウルは紙片へ目を落とす。
「最初の行は欠けている。……『もし、これを』……いや、『もし、これが』かもしれない。次が読みにくい」
彼はランプの角度を変えた。
赤茶色に滲んだ紙の上で、細い文字がかすかに浮かぶ。
「『あなたに届くなら』」
その言葉が、店の中に落ちた。
あなたに届くなら。
私は胸の奥で、山羊の郵便鞄の音を聞いた気がした。
届けられなかったもの。
まだ届いていないだけかもしれないもの。
シドは何も言わない。
ただ、紙片を見ている。
ラウルは続けた。
「次は……『観覧車』。これは読める。『観覧車の一番上で』」
シドの耳がぴくりと動いた。
「一番上」
小さく、彼が繰り返す。
ラウルは頷く。
「その次は欠けている。だが、下に『夕陽』がある。これは君の言った通りだ」
「うん」
「さらにその下。……『赤い石』ではないな。『赤い』までは読めるが、次は潰れている」
赤い。
私の中で、宝石の色と夕陽の色と紅玉硝子の色が重なる。
けれどまだ、どれでもない。
ラウルは眉を寄せた。
「ここから先は、かなり読みにくい」
「少しでもいいよ」
シドが言った。
その声は穏やかだった。
でも、私はその中に小さな震えを聞いた気がした。
ラウルは慎重に文字を追った。
「『渡せなかったら』……いや、『渡せなかったものは』か。次が……」
彼は言葉を止めた。
店の中が静かになる。
外では町の音がしているはずなのに、今は遠い。
紙の上に残った薄い文字だけが、世界の真ん中にあるみたいだった。
「どうしたんですか」
私が小さく訊くと、ラウルは眼鏡の位置を直した。
「いや」
彼は一度シドを見た。
それから、ゆっくり読んだ。
「『渡せなかったものは、消えたわけではない』」
私は息を呑んだ。
山羊の言葉と、あまりにも近かった。
届かなかったものは、まだ途中かもしれない。
捨てた瞬間に、本当に届かなくなる。
ツムギの紙片にも、同じような言葉が残っている。
シドは紙片を見ていた。
表情は変わらない。
でも、尾のない背中が、少しだけ小さく見えた。
「続きは」
シドが訊いた。
ラウルは紙を見つめる。
「欠けている。だが、最後の方にもう一文ある」
ランプの光が揺れた。
ラウルは、少し時間をかけて、その文字を辿った。
「『だから、シド』」
シドの名前。
その瞬間、シドの呼吸が止まったように見えた。
「その先は?」
シドの声は、ひどく静かだった。
ラウルは紙片を見つめたまま、しばらく黙る。
「読めるところだけ言う」
「うん」
「『……待っていて』」
待っていて。
私はその言葉を胸の奥で繰り返した。
誰が。
誰を。
何を。
待っていて。
ラウルは続ける。
「その次に、『一番上』。さらに『夕陽』。そして、最後はほとんど消えている」
「ほとんど」
「だが、一文字だけ残っている」
シドは何も言わない。
ラウルはゆっくり言った。
「『歌』」
歌。
シドの歌。
ツムギの歌。
港で船を待つ時に歌っていた歌。
昨夜、シドが機械室で小さく歌っていた歌。
その言葉が紙片の最後に残っている。
私はもう何も言えなかった。
シドは、しばらく動かなかった。
店の中には、紙の匂いと、ランプの熱の匂いが漂っている。ラウルの眼鏡に光が映り、机の上の硝子板が薄く光っていた。
やがてシドは、ゆっくり息を吐いた。
「ツムギらしいねえ」
そう言って、笑った。
笑ったのだ。
いつものように。
けれど、その笑顔を見た瞬間、私は泣きそうになった。
どうして笑えるのだろう。
どうして、そんなふうにやわらかく笑えるのだろう。
でも、もしかすると、シドは泣き方を忘れているのかもしれない。
そんなことを思ってしまった。
「ラウル」
シドが言った。
「ありがとう」
「まだ終わっていない」
ラウルは紙片から目を離さずに答えた。
「この紙は、もっと大きかったはずだ。欠けている部分がある。燃えたか、破られたか、どこかに残っているか」
「残っているかな」
「分からない」
「ラウルが分からないと言うのは、珍しいねえ」
「分からないものは分からない」
ラウルは顔を上げた。
「だが、分かったこともある」
「うん」
「この紙は、ただの包み紙ではない。誰かに向けて書かれたものだ。おそらく、手紙の一部だ」
「手紙」
私が呟く。
また、山羊のことを思い出した。
届けられなかった手紙を運ぶ、年老いた山羊。
この町に来る前、列車で出会ったあの山羊は、まるでこのことを知っていたかのような言葉をくれた。
届く形が、最初に思っていたものと違うだけ。
シドが探していたのは、紅い宝石だった。
でも今、見つかったのはツムギの手紙の欠片だ。
これは違うものなのか。
それとも、違う形で届こうとしているものなのか。
「手紙なら、他の欠片があるかもしれないですね」
私が言うと、ラウルは頷いた。
「可能性はある」
「どこに?」
「紅玉硝子の箱に紛れていたなら、他の箱。あるいは、三年前に搬入された荷の中。フォルテ邸の保管室。市場側の古い荷札。業者の記録。考えられる場所はいくつかある」
「探しましょう」
私はすぐに言った。
ラウルが私を見る。
シドも私を見る。
私は少しだけ身を固くした。
「すみません。また急ぎました」
「いや」
ラウルは静かに言った。
「今度は、急ぐ理由がある」
「あるんですか」
「紙は劣化する。しかも、一部は焦げている。欠片が残っているなら、早く保護した方がいい」
ラウルの声は、少しだけ実務的になった。
それに私はほっとした。
気持ちだけで走っているのではない。探す理由がある。急ぐ理由がある。そう言われると、足元に少しだけ地面が戻ってくる気がした。
「まずはフォルテ邸だ」
ラウルは言った。
「保管室を確認する必要がある」
「フォルテさん、見せてくれるでしょうか」
「見せないだろうな」
「ですよね」
「だから、訊き方を考える」
ラウルは机の上の紙片を見た。
「これはもう、シドの宝石だけの話ではない。ツムギの手紙の一部だ。フォルテがそれを知っていてしまっていたなら、彼にも説明する義務がある」
「フォルテは怒るねえ」
シドが言った。
「怒るだろう」
ラウルは即答した。
「だが、怒ればいい。怒るだけなら町は壊れない」
「ラウルは強いねえ」
「君が弱いとは言っていない」
「言ってないけど、そう聞こえた」
「君は弱いのではなく、逃げ方が柔らかすぎる」
シドは「それは新しい言われ方だねえ」と小さく笑った。
ラウルは紙片をそのままにはせず、薄い紙に挟み、さらに小さな平たい箱へ入れた。
「これは一度、こちらで保管する」
「持っていっちゃうのかい」
シドの声が少しだけ寂しそうになった。
ラウルは眼鏡の奥から、じっとシドを見る。
「君が持って歩けば、折る」
「折らないかもしれない」
「折る」
「否定が早いねえ」
「それに、湿気にも弱い。港町の空気には向かない。保管するなら記録屋が一番ましだ」
シドは少しだけ迷ったようだった。
けれど、最後には頷いた。
「分かった。お願いするよ」
「任された」
ラウルは平たい箱を棚の奥へしまった。
その棚には鍵がかかっている。かちり、という音が店の中に響いた。
フォルテの屋敷にも鍵があった。
ラウルの棚にも鍵をかけた。
けれど、同じ鍵でも意味が違うように感じた。
隠すための鍵もあればいつか取り出すための鍵もある。
鍵にも、いろいろあるのだ。
「これからどうしますか」
私が訊くと、ラウルはすぐに答えた。
「フォルテ邸へ行く」
「今から?」
「今からだ。時間を置けば、フォルテは保管室を閉ざす」
シドは困ったように笑った。
「それはありそうだねえ」
「君は笑っている場合じゃない」
「笑っていないと、少し固くなるからねえ」
「固くなってもいい場面だ」
「そうかな」
「そうだ」
ラウルは棚から別の帳面を取り出し、鞄に入れた。
「三年前の搬入記録の写しと、市場側の控えを持っていく。こちらに根拠があることを示す」
「ラウルさんも来てくれるんですか?」
私が訊くと、ラウルは当然のように頷いた。
「記録に関わる話だ。私が行く方が早い」
「ありがとうございます」
「礼は解決してからでいい」
そう言いつつ、ラウルは店の戸締まりを始めた。
青い扉に札を下げる。
『調査中』と書かれているらしい。
「お店はいいんですか?」
「今日は開店を遅らせる。なくし物は逃げない」
「でも、紙は劣化する」
「そうだ」
ラウルは淡々と言った。
「だから行く」
私たちは記録屋を出た。
今度は三人でフォルテの屋敷へ向かう。
朝の町は相変わらず明るい。けれど、私たちの歩き方はさっきとは違っていた。シドは静かで、ラウルはまっすぐで、私はその間で何度も息を整えた。
町の猫たちが、ちらちらとこちらを見る。
記録屋のラウルまで一緒に歩いているのが珍しいのだろう。魚屋の白猫は手を止め、布屋の三毛猫は針を持つ手を止めた。子猫たちは何かを察したのか、声をかけずにじっと見ていた。
「なんだか、見られていますね」
私が小声で言うと、ラウルが答えた。
「見られて当然だ」
「当然なんですか」
「シドが二日続けて歩き、私が店を閉めて同行している。町の者からすれば、大事件だ」
「大事件」
「少なくとも、雨より珍しい」
シドが少し笑った。
「じゃあ、やっぱり降るかもしれないねえ」
「降らせるな」
「僕には難しいよ」
そんな会話をしながらも、三人の足は止まらなかった。
フォルテの屋敷が近づく。
朝の光の中に立つその屋敷は、さっき見た時よりも少し硬く見えた。私たちが戻ってくることを、もう知っているのかもしれない。そんな気がするほど、門の前の空気は張りつめていた。
シドが鈴を鳴らそうとした時、門の向こうからネロが現れた。
まるで待っていたようだった。
「フォルテ様は、これ以上の面会を望まれていません」
ネロは門越しに言った。
予想通りだった。
シドは困ったように笑う。
「そう言われると思ったよ」
「お引き取りください」
「今日は、ラウルもいる」
ネロの目がラウルへ向いた。
ラウルは鞄から帳面を取り出した。
「三年前の紅玉硝子の搬入記録、および市場控えについて確認したい」
「それは屋敷の保管物です」
「保管物の中に、私物と思われる手紙片が混入していた」
ネロの耳がわずかに動いた。
「手紙片」
「差出人、あるいは筆跡に関して、関係者の確認が必要だ」
「私は存じません」
「君に訊いていない。フォルテに訊いている」
ラウルの声は静かだった。
でも、門の前の空気が少し変わった。
シドのやわらかさとも、フォルテの冷たさとも違う。
記録という地面の上に立って、動かない声だった。
「フォルテへ伝えろ。これは感傷の話ではなく、記録と保管の話だ」
ネロはしばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げる。
「お待ちください」
彼は屋敷の奥へ戻っていった。
私は小さく息を吐いた。
「ラウルさん、すごいですね」
「すごくはない。相手が逃げにくい言い方をしただけだ」
「それをすごいと言うんだと思います」
「ひかりは褒め方が素直だな」
「そうでしょうか」
「シドの周りでは珍しい」
シドが隣で「僕も褒めるよ」と言った。
「君は褒める前に寝る」
「それはあるねえ」
ほんの少しだけ空気がゆるんだ。
けれど、それは長く続かなかった。
屋敷の奥からフォルテが現れた。
さっきよりもさらに表情が硬い。
黒い巻き毛は美しく整っているのに、目の奥だけがひどく疲れて見えた。
「ラウル」
フォルテは低く言った。
「お前まで何をしに来た」
「記録の確認だ」
「これは町政の問題ではない」
「町の保管物に、個人宛と思われる手紙片が混じっていた。十分に記録の問題だ」
「詭弁だな」
「必要なら、そう受け取ってくれて構わない」
ラウルは一歩も引かなかった。
フォルテの目が細くなる。
その視線だけで、空気が冷たくなった気がした。
「保管室を見せてほしい」
ラウルは言った。
「断る」
「理由は」
「屋敷の管理下にあるものを、外部の者に見せる義務はない」
「ならば、屋敷の管理下に個人の手紙片が混入した経緯を説明してほしい」
「知らん」
「知らないなら、確認が必要だ」
フォルテの眉がわずかに動いた。
ラウルは淡々と続ける。
「君が隠していたと断定しているわけではない。だが、結果として、手紙片は三年間保管室にあった。ならば、同様の欠片が他にも残っている可能性がある。確認しない理由はない」
「ある」
フォルテは言った。
「私が許可しない」
その言葉は冷たかった。
けれど、私は昨日から何度も見てきた。
フォルテがこうして冷たく言う時、その奥には必ず何かがある。
守ろうとしている何か。
閉じておきたい何か。
でも今は、それを閉じたままにはできない。
「フォルテさん」
私は声を出した。
フォルテの目が私へ向く。
「また君か」
「はい」
「君は、自分が何をしているのか分かっているのか」
「分かっていないことの方が多いです」
「なら黙っていろ」
「でも、黙っていたら何も見えません」
私の声は震えなかった。
少しだけ、自分でも驚いた。
「紙には、ツムギさんの字がありました」
その名前を出した瞬間、フォルテの表情がはっきりと変わった。
シドも、ラウルも、私を見た。
けれど私は続けた。
ここで名前を避けていたら、また扉が閉まると思った。
「シドさんは、その字を見て分かりました。観覧車と夕陽と歌という言葉がありました。まだ全部は読めません。でも、あれはきっと、届くはずだった言葉です」
「君に何が分かる」
「分かりません」
私はまっすぐフォルテを見た。
「でも、分からないから見たいんです。シドさんだけじゃなく、フォルテさんが何を守ろうとしているのかも」
フォルテは黙った。
門の向こうで、彼はまっすぐ立っている。
でも、その立ち姿がさっきより少しだけ苦しそうに見えた。
「私は、シドだけを守っているわけではない」
フォルテは低く言った。
「分かっています」
「分かっていない」
「分かっていないけど、分かりたいです」
それは、今の私に言える精一杯だった。
フォルテは長く黙った。
潮風が吹く。
屋敷の庭の花が揺れる。
遠くで、町の鐘が一つ鳴った。
やがてフォルテは、ネロへ目を向けた。
「保管室を開ける」
ネロが目を見開いた。
「フォルテ様」
「ただし、入るのはシド、ラウル、その子だけだ」
その子。
私のことだ。
私は思わず息を呑む。
「中のものに勝手に触れるな。見るだけだ。必要があれば、ラウルが確認する」
ラウルが頷いた。
「十分だ」
フォルテは門の鍵を開けさせた。
黒い鉄の門が、ゆっくり動く。
ぎい、と低い音がした。
昨日からずっと閉じられていた門が、初めて開いた。
私はその音を聞きながら、胸の奥が強く鳴るのを感じた。
ここから先へ入る。
フォルテの屋敷へ。
赤い硝子がしまわれていた場所へ。
ツムギの手紙の欠片が、三年間眠っていた場所へ。
そしてきっと、まだ私たちの知らない何かがある場所へ。
シドが一歩進んだ。
ラウルが続く。
私もその後を追った。
門をくぐる時、フォルテが私の横で低く言った。
「見たものを、簡単に答えだと思うな」
私は足を止めずに頷いた。
「はい」
答えだけを急がない。
でも、見ないままにもしておかない。
その二つを胸の奥で抱えながら、私はフォルテの屋敷へ足を踏み入れた。




