底に隠されたもの
窓の外で、夜の海がかすかに鳴っている。
その音を聞きながら、私はようやく目を閉じた。
翌朝、私を起こしたのは鳥の声ではなかった。
にゃりん。
にゃりん。
どこか間の抜けた鈴の音が、扉の向こうから二度鳴った。
私は薄く目を開け、しばらく天井を見つめていた。ここがどこなのか、ほんの一瞬だけ分からなかった。白い天井。潮の匂い。窓辺の貝殻。遠くで鳴る波の音。そうだ。私は港町の宿に泊まっているのだった。
私は慌てて身体を起こした。寝間着のまま扉へ向かい、そっと開けると、宿の主人である茶色の猫が廊下に立っていた。丸眼鏡の奥の目が、やさしく細められている。
「おはよう、ひかりちゃん。朝ごはん、できているわよ」
「あ、おはようございます」
「よく眠れた?」
「はい。たぶん」
「たぶん、なのね」
茶色の猫はくすりと笑った。
私は少しだけ気まずくなって視線を逸らす。昨夜、勝手に宿を抜け出したことは完全に知られている。怒られるかと思ったけれど、茶色の猫はそれ以上何も言わなかった。ただ、階段の方へ顔を向ける。
「下で待っているわ。シドも来ているから」
「シドさんが?」
「ええ。朝ごはんを食べにね」
「食べに」
「いいことよ。朝から自分で歩いてきたんだから」
宿の主人は、まるでそれだけで今日一日分の喜ばしい出来事が起きたみたいに頷いた。
私は急いで身支度をした。
鏡の前に立つと、髪が少し跳ねていた。手ぐしで直そうとしたけれど、潮風のせいか、なかなか言うことを聞いてくれない。仕方なく星型ポーチから櫛が出てくれないかと願うと、小さな貝殻飾りのついた櫛がころんと手の中に落ちてきた。
このポーチは相変わらず不思議だ。
けれど、今はその不思議さに驚く余裕もあまりなかった。
私は髪を整え、部屋を出た。
一階の食堂へ降りると、焼いた魚と温かいパンの匂いがした。窓からは朝の光が差し込み、木の床を明るく照らしている。夜には静かだった宿も、朝になると小さな音で満ちていた。食器の触れ合う音。椅子を引く音。宿の主人が台所で何かを混ぜる音。外からは、店を開ける猫たちの声も聞こえてくる。
食堂の隅の席に、シドが座っていた。
昨日と同じ灰色がかった毛並み。片方の耳の欠けた大きな猫。尾のない背中。けれど今朝のシドは、床に倒れていた時よりずっとまともに見えた。少なくとも、椅子に座っている。目も半分以上開いている。
「おはよう、ひかり」
「おはようございます、シドさん」
「今日は起きられたねえ」
「シドさんに言われたくありません」
「それもそうだ」
シドは素直に頷き、皿の上の焼き魚を少しずつ食べていた。
宿の主人が私の分の朝食を運んでくれる。焼き魚、温かいパン、薄いスープ、それから小さな果物。港町らしく魚が多い。けれど昨日の揚げ魚とは違って、朝の魚はふっくらしていて、やさしい味がした。
「シド、ちゃんと全部食べるのよ」
宿の主人が釘を刺す。
「食べているよ」
「途中で忘れない」
「食べている途中で忘れることは、あまりないよ」
「あまり、なのね」
「うん。あまり」
「そこは自信を持ちなさい」
昨日、私がシドへ言ったようなことを宿の主人も言ったので、私は少し笑ってしまった。
シドは困ったように耳を伏せた。
食事をしながら、私は窓の外を見た。
朝の港町は、昨日の夕方とも夜とも違う色をしていた。赤褐色の大通りにはまだ長い影が落ちているけれど、空はすでに明るい。店先では猫たちが看板を出し、魚屋は氷を並べ、布屋は日よけの布を広げ始めている。遠くの港では、朝の船が出るのか、帆を張る音が聞こえた。
そして、観覧車は今日も止まっていた。
朝の光の中で見ると、昨日より少しだけ白く見える。大きな輪は、空の中にきちんと置かれているようで、けれどやはり動かない。
「今日は、屋敷へ行くんですよね」
私が小さく訊くと、シドは焼き魚を飲み込んでから頷いた。
「うん。行こうと思う」
「正面から?」
「まずはね」
「また追い返されたら?」
「その時は、少し考える」
「横から?」
「ひかりは横からが気に入ったのかい?」
「気に入ったわけではありません」
シドは笑った。
「でも、昨日ラウルが言っていたね。訊くべきことを間違えるなって」
「はい」
「だから今日は、宝石を返してくれ、とだけ言うのはやめようと思う」
「何を訊くんですか?」
「赤いものをなぜしまっているのか」
シドの声は穏やかだった。
「それが僕の宝石なのか、違うものなのか。違うなら、なぜ見せられないのか。もし僕のものなら、なぜ黙っていたのか」
「フォルテさん、答えてくれるでしょうか」
「分からないねえ」
「分からないことばかりですね」
「そうだねえ。でも、分からないから歩くんだと思うよ」
シドはそう言って、スープを一口飲んだ。
分からないから歩く。
その言葉は、今の私にも少し当てはまる気がした。
私は夢から覚める方法を探している。
けれど、その方法はまだ分からない。きっぷの文字も読めない。列車が次にいつ来るのかも分からない。それでも私は、この町でシドの探し物を手伝っている。
本当の自分の探し物は、後回しにして。
でも、それが完全に間違っているとは思えなかった。
きっと私は、誰かの探し物を一緒に見つめることで、自分の帰り道へ近づいている。そんな気がする。
食事を終えると、宿の主人が小さな包みを二つ渡してくれた。
「お昼用よ。どうせ二人とも、また食べるのを忘れるでしょう」
「僕は忘れないかもしれない」
「忘れるわよ」
「みんな、僕のことをよく知っているねえ」
「長い付き合いだからね」
宿の主人はそう言って、包みを私にも持たせた。
「ひかりちゃん、シドが食べ忘れたら食べさせてね」
「はい」
「ひかりも食べるんだよ」
シドが横から言う。
「はい」
「いい返事だねえ」
「シドさんもです」
「はい」
シドの返事があまりにも素直だったので、宿の主人は声を出して笑った。
私たちは宿を出た。
朝の大通りは、昨日歩いた時とはまた違っていた。昼の賑わいよりも少し準備中の感じが強く、町全体が一日の始まりに身体を伸ばしているみたいだった。魚屋では白猫が氷を砕いている。布屋では三毛猫が赤い布を広げて、朝の光に透かしていた。古道具屋の店主は看板を拭き、船具屋の縞猫はロープを肩に担いで港へ向かっている。
みんな、シドを見る。
昨日より少し驚きが少ない。
代わりに、どこかほっとしたような顔をする。
「シド、今日も歩いてる」
「うん。二日連続だよ」
「雨が降るんじゃないか」
「この町はあまり降らないよ」
「それでも降ったら、あんたのせいだね」
「責任重大だ」
そんなやり取りをしながら、シドはのんびり歩く。
私はその隣に並んだ。
昨日は町を見ながら歩いていたけれど、今日は町の方が私たちを見ている気がした。シドが今日も宝石を探しに行くことを、みんな何となく察しているのかもしれない。声をかける猫たちは明るい。でも、その明るさの端に、小さな不安がひっかかっている。
白猫の魚屋の前を通ると、彼女は包丁を置いてこちらを見た。
「シド」
「おはよう」
「行くのかい」
「うん。少し、話をしに」
「そうかい」
白猫は私を見た。
「ひかりちゃん」
「はい」
「シドはふわふわしてるけど、頑固なところがあるからね」
「はい」
「止めろとは言わないよ。でも、ちゃんと見てておやり」
私は頷いた。
「ちゃんと見ます」
「いい返事だ」
白猫は紙に包んだ小さな干し魚をシドへ投げるように渡した。
「持っていきな」
「朝ごはんは食べたよ」
「昼までにお腹がすくだろ」
「すくねえ」
「ほらね」
シドは受け取り、上着のポケットへしまった。
その少し先で、布屋の三毛猫も店先から顔を出した。
「シド、顔が昨日よりましね」
「ひかりと宿の朝ごはんのおかげだねえ」
「食事って大事なのよ」
「みんなに言われる」
「みんなが言うほど大事なの」
三毛猫は私に向かって、ひそりと声を落とした。
「あの子、宝石のことになると、食べるのも眠るのも忘れるから」
「忘れないようにします」
「お願いね」
シドは聞こえているのか、いないのか、通りの向こうで海鳥を見上げていた。
その姿があまりにもいつも通りで、私は少しだけ不安になる。
これからフォルテの屋敷へ行く。
昨日、追い返されたばかりの場所へ。
それなのにシドは、朝の鳥を見上げて、雲の形を眺めて、干し魚の包みを大事そうにポケットへ入れている。
強いのか、鈍いのか、分からない。
けれど、たぶんそのどちらでもない。
シドはただ、急ぎ方を忘れてしまっただけなのかもしれない。
大切なものを探し続けるうちに、時間の流れ方が少し変わってしまったのかもしれない。
広場に出ると、噴水の水が朝日を受けてきらきらしていた。
昨日フォルテが現れた場所だ。
今朝の広場はまだ混み合っておらず、屋台も半分ほどしか開いていない。子猫たちは噴水の縁に並んで座り、魚の形をした石像の口から出る水を眺めていた。昨日の二匹もいたようで、私たちを見つけると手を振った。
「シド!」
「今日も歩いてる!」
「すごい!」
「すごいねえ」
シドは自分でも驚いているように頷いた。
「観覧車、今日動く?」
「どうだろうねえ」
「動かしてよ」
「動かしたいねえ」
子猫たちはそれだけで満足したのか、また噴水の水で遊び始めた。
私は観覧車を見る。
朝の光の中で、大きな輪はやはり動かない。
でも、昨日より少しだけ違って見えた。
機械室を見たからだろうか。
シドが夜に部品を拭いていたことを知ったからだろうか。
止まっているからといって、完全に捨てられているわけではない。止まりながらも、誰かが手を入れている。動かないまま、動く日を待っている。
シドも、そうなのかもしれない。
広場を抜け、町の奥へ向かう。
記録屋の青い扉の前を通ると、ちょうどラウルが店を開けているところだった。彼は私たちを見るなり、眼鏡の奥の目を細めた。
「行くのか」
「うん」
「紙は持ったか」
「持ったよ」
「なくしていないな」
「今のところは」
「不安になる返事をするな」
ラウルはため息をつく。
それから私を見た。
「ひかり」
「はい」
「昨日言ったことを覚えているか」
「赤い宝石だけを見ない。シドさんだけを見ない。フォルテさんだけを見ない。この町全体を見る、です」
「よろしい」
私は少し背筋が伸びた。
「でも、全部を見るって難しいですね」
「難しいから、見るんだ」
ラウルは店の鍵を開けながら言った。
「簡単に見えるものだけを見ていると、間違える」
私は頷いた。
シドは隣で「ラウルは先生みたいだねえ」と言った。
「君が生徒に向かなすぎるだけだ」
「それは困った」
「困ってから言え」
ラウルはそう言って、店の中へ入っていった。
町の奥へ進むほど、道は静かになっていく。
昨日も通った道だ。
白い壁の家が増え、窓辺の花もきちんと整えられている。赤褐色の道は朝の光を受けて、夕方とは違う明るさを持っていた。花壇の花は夜露を少し残し、低い柵の影が細く伸びている。
そして、その先にフォルテの屋敷が見えた。
昨日と同じはずなのに、朝に見る屋敷は少しだけ表情が違った。昨日は夕方の影をまとっていたが、今は朝の光の中にきちんと立っている。冷たさはある。けれど、暗さだけではない。
まるで町の奥で、背筋を伸ばしている猫そのもののようだった。
シドは門の前で足を止めた。
「来ちゃったねえ」
「昨日も言っていました」
「毎回思うんだよ。ここまで来ちゃったなあって」
「帰りますか?」
「帰らないよ」
シドは少し笑って、銀の呼び鈴へ手を伸ばした。
りん、と澄んだ音が鳴る。
昨日と同じ音。
けれど今日は、私も少しだけ落ち着いて聞くことができた。
しばらくして、黒い外套の猫が門の向こうに現れた。昨日の猫と同じかは分からない。けれど、背筋の伸び方も、表情の動かなさもよく似ている。
「どのようなご用件でしょう」
「フォルテに会いたいんだ」
「お約束は」
「ないよ」
「では」
「紅玉硝子のことで、と伝えてくれるかな」
シドがそう言った瞬間、外套の猫の表情が変わった。
昨日の「紅い宝石」よりも、はっきりと。
紅玉硝子。
ラウルがくれた記録にあった言葉。
外套の猫はしばらくシドを見て、それから短く言った。
「お待ちください」
彼は屋敷の方へ戻っていった。
私は小さく息を吐く。
「反応しましたね」
「したねえ」
「ラウルさんの言った通りでした」
「ラウルは記録に強いからねえ」
「シドさん」
「うん」
「緊張していますか?」
「しているよ」
「お腹の中は?」
「今日は干し魚が隊列を組んで泳いでいる」
「昨日より整っていますね」
「朝ごはんを食べたからかな」
そんな会話をしていると、少しだけ怖さが薄れた。
けれど、門の向こうからフォルテが現れた瞬間、空気はまた硬くなった。
フォルテは昨日と同じように整っていた。
艶のある黒い巻き毛は朝の光を受けても乱れず、むしろその輪郭がいっそうはっきり見える。アーモンド形の瞳は涼やかで、低い朝の光の中では琥珀の奥に金が沈んでいるようだった。黒に近い上着の襟元には、昨日と同じ銀の留め具が光っている。
美しい猫だと思った。
けれど、今日はその美しさが少しだけ痛かった。
きちんと整えられた毛並みも、揺れない声も、まっすぐな姿勢も、何かを崩さないためのものに見えたからだ。
「また来たのか」
フォルテは門を開けずに言った。
昨日と同じだ。
けれど、今日はシドも昨日と同じ言葉では返さなかった。
「紅玉硝子のことを訊きに来た」
フォルテの目が、わずかに細くなる。
「どこでその名を聞いた」
「記録に残っていた」
「記録」
「三年前の秋。フォルテの屋敷に運ばれた赤い硝子だねえ」
フォルテは黙った。
否定しない。
その沈黙だけで、私の手に力が入った。
「それがどうした」
やがてフォルテは言った。
「見せてほしい」
「断る」
「僕の探し物かもしれない」
「違う」
「見ないと分からない」
「私が違うと言っている」
「フォルテがそう言うのは分かるよ。でも、僕は自分の目で見たい」
シドの声はやわらかい。
でも、昨日より少しだけ揺らがなかった。
フォルテもそれを感じたのか、門の向こうで静かにシドを見据えた。
「シド」
「うん」
「お前は、あれを見てどうする」
「あれが僕の探し物なら、返してもらう」
「違ったら」
「違ったと分かる」
「それだけか」
「それだけでも、大事だよ」
フォルテの目が険しくなった。
「違ったと分かれば、お前はまた別の場所を探す」
「そうだねえ」
「また歩き回る」
「うん」
「また町の猫たちを巻き込む」
「巻き込まないようにするよ」
「できない」
フォルテの声が少し低くなった。
「お前が探しているだけで、周りは巻き込まれる」
その言葉に、シドは返事をしなかった。
私は、昨日から見てきた猫たちの顔を思い出した。
みんなシドを気にしている。
シドが何かを探している限り、町の猫たちはそれを見てしまう。放っておけない。だから、巻き込まれる。
フォルテの言葉は冷たい。
でも、完全に間違っているとは言えなかった。
「それでも」
シドは静かに言った。
「僕は見たいんだ」
「なぜ」
「自分の探し物だから」
「ただの物だ」
「ただの物ではないよ」
「物だ」
フォルテの声が硬くなる。
「どれほど思いを乗せようと、石は石だ。硝子は硝子だ。宝石は宝石だ。それ以上にはならない」
「フォルテ」
「そんなもの一つに、町がいつまでも引きずられていいはずがない」
私は思わず口を開きかけた。
でも、言葉が出なかった。
フォルテは町を見ている。
シドは宝石を見ている。
そう単純に言ってしまえば楽なのに、たぶんそれだけではない。フォルテも宝石の重さを知っている。知っているから、それをただの物だと言い切ろうとしている。
そんな気がした。
「ひかり」
フォルテの目が私へ向いた。
「君は昨日、知らないから見たいと言ったな」
「はい」
「なら一つ教える。この町では、探し物をずっと続ける者を、美談にはしない」
私はフォルテを見た。
「どういう意味ですか」
「探し続けることは、時に前へ進むことではない。同じ場所を掘り返し続けることでもある」
その言葉は、私に向けられているのに、シドへ届くように言われていた。
「シドはもう十分に探した。町も十分に付き合った。これ以上は、誰のためにもならない」
「でも」
「君は昨日来たばかりだ」
フォルテの声は静かだった。
「昨日来たばかりの君には、シドの探し物が尊く見えるかもしれない。手伝うことが正しいように思えるかもしれない。けれど、町はそれを何年も見てきた」
何年も。
その言葉が、私の内側に重く落ちた。
私はまだ、昨日と今日しか知らない。
シドが宝石を探している姿を、二日しか見ていない。
町の猫たちは、それを何年も見てきた。
フォルテは、きっとその最初から見てきた。
その重さは、私にはまだ分からない。
でも、分からないからといって、引き下がれるわけでもなかった。
「それでも、シドさんはまだ探しています」
私は言った。
「その理由を、私は知りたいです」
「知ってどうする」
「分かりません」
フォルテの目がわずかに動いた。
私は続けた。
「でも、分からないから、見ないことにするのは違うと思います」
「見た結果、余計な傷を作ることもある」
「それでも、見ないままだと届かないものもあります」
山羊の言葉を思い出す。
捨てた瞬間に、本当に届かなくなる。
シドはまだ捨てていない。
なら、まだ途中なのだ。
フォルテは私をしばらく見ていた。
その目は冷たい。
けれど昨日よりも、ほんの少しだけ迷いが見えた。
「……ネロ」
フォルテが低く呼ぶと、門の奥に控えていた黒い外套の猫が一歩進み出た。
「保管室から、紅玉硝子の箱を持ってこい」
私は息を呑んだ。
シドの耳が揺れる。
ネロと呼ばれた猫は、わずかに目を見開いた。
「よろしいのですか」
「構わない」
「しかし」
「持ってこい」
フォルテの声は静かだった。
けれど反論を許さない強さがあった。
ネロは頭を下げ、屋敷の中へ消えた。
門はまだ開かない。
けれど、今まで閉じていた何かが少しだけ動いた気がした。
私はシドを見た。
シドは門の向こうを見つめている。
いつものように穏やかな顔だ。
でも、その手は上着の裾を軽く握っていた。
「シドさん」
「うん」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫かどうかは、見てみないと分からないねえ」
「そうですね」
「ひかり」
「はい」
「もし違っていたら、笑ってくれるかい」
「え?」
「僕が、また違ったねえって言ったら、ひかりは笑ってくれるかな」
私はすぐには答えられなかった。
笑えるだろうか。
違ったと分かった時、シドはまた探し続けるのだろう。町はまたそれを見守るのだろう。フォルテはまた止めようとするのだろう。
でも、シドは笑ってほしいと言った。
泣くでも、怒るでもなく。
また違ったねえ、と言えるように。
「笑えるかは分かりません」
私は正直に言った。
「でも、一緒に見ます」
シドは少しだけ目を細めた。
「ありがとう」
やがて、屋敷の奥からネロが戻ってきた。
両手に、小さな木箱を抱えている。
昨日見た小箱より少し大きい。黒い木で作られていて、角には金属の飾りがついている。鍵はかかっていないようだったが、蓋はきっちり閉じられていた。
ネロはフォルテの前まで来ると、慎重に箱を差し出した。
フォルテはそれを受け取らなかった。
ただ、ネロへ短く命じる。
「開けろ」
ネロは一瞬ためらったあと、箱の蓋へ手をかけた。
私の呼吸が止まる。
シドも、動かなかった。
蓋が開いた。
朝の光が、箱の中へ落ちる。
そこには赤いものが入っていた。
宝石ではなかった。
少なくとも、私にはそう見えた。
薄く削られた赤い硝子の欠片が、何枚も重ねられている。花びらのような形のもの、丸いもの、細長いもの。透明度の高い赤い硝子は、光を受けると確かに強く輝いた。昨日見た赤い光は、たぶんこれだ。
夕陽を細く削ったような赤。
でも、シドが布に包んでいた跡に合うような一つの宝石ではない。
たくさんの赤い硝子片。
紅玉硝子。
「これが、昨日見た赤い光だ」
フォルテは言った。
「これで満足か」
私はシドを見た。
シドは箱の中をじっと見つめていた。
長い時間だった。
本当に長い時間。
朝の風が吹き、門の前の花が揺れ、ネロの外套の裾が小さく動く。それでもシドは、箱の中から目を離さなかった。
「違うねえ」
やがてシドは言った。
声は穏やかだった。
でも、私は胸の奥が痛くなった。
「僕の探し物じゃない」
フォルテの表情は変わらなかった。
けれど、その目の奥に、一瞬だけ何かが過ぎった。
安堵なのか、痛みなのか、私には分からない。
「だから言った」
フォルテは静かに言った。
「ここにはない」
シドは頷いた。
「うん。これは違う」
「なら帰れ」
「そうだねえ」
シドは少し笑った。
「でも、見せてくれてありがとう」
フォルテは返事をしなかった。
ネロが箱を閉じようとした、その時だった。
箱の底で、何かが小さく動いた。
違う。
動いたのではない。
赤い硝子の隙間に、何かが挟まっている。
私は思わず身を乗り出した。
「待ってください」
ネロの手が止まる。
フォルテの目が私へ向いた。
「何だ」
「箱の底に、何かあります」
「硝子片だ」
「違います。たぶん、紙みたいな」
私が言うと、ネロは眉をひそめながら、硝子片を少しだけ寄せた。
そこに、小さな紙片があった。
赤い光に紛れて分かりづらいほど薄い紙。
端は少し焦げたように茶色くなっていて、折り畳まれている。
フォルテの顔色が変わった。
本当に一瞬だった。
けれど、今度は私にもはっきり分かった。
フォルテは、その紙片を知っている。
「ネロ」
フォルテが低く言った。
「箱を閉じろ」
「待ってください」
私は声を上げた。
「今の紙は何ですか」
「君には関係ない」
「シドさんには?」
フォルテは黙った。
シドは箱の底を見ていた。
赤い硝子ではなく、その小さな紙片を。
ネロの手は、箱を閉じる寸前で止まっている。
朝の屋敷の前で、誰も動かなかった。
「フォルテ」
シドが言った。
穏やかな声だった。
けれど、今までで一番静かに深い声だった。
「それは、何かな」
フォルテは答えなかった。
門の向こうで、彼の黒い巻き毛だけが風に揺れる。
「紅玉硝子は、僕の探し物ではなかった」
シドは続けた。
「でも、その紙は違うね」
「違わない」
「フォルテ」
「違わないと言っている」
フォルテの声が硬くなる。
それは、赤い硝子を見せる前の声とは違っていた。
守ろうとしている。
また、扉を閉めようとしている。
私はそう感じた。
「見せてください」
私は言った。
「ひかり」
フォルテが私を見た。
その目は鋭かった。
「君は、どこまで踏み込むつもりだ」
私は息を吸った。
怖かった。
フォルテの目は、今までで一番怖かった。
けれど、引けなかった。
「分かりません」
「分からないまま踏み込むな」
「でも、ここでやめたら、また何かが届かないままになります」
私の声は震えていた。
でも、言葉は止まらなかった。
「それがシドさんのものか、フォルテさんのものか、町のものか、まだ分かりません。でも、シドさんはずっと探していました。フォルテさんはずっと止めていました。町のみんなはずっと見ていました。だったら、その紙も、見ないまましまっておくものじゃないと思います」
フォルテは私を見ていた。
長い沈黙だった。
やがて、シドが小さく言った。
「フォルテ」
その声に、フォルテはほんの少しだけ目を伏せた。
「僕は、怒らないよ」
「お前はそう言う」
「うん」
「それが困るんだ」
フォルテの声は、ほとんど呟きのようだった。
それから彼は、ネロに向かって短く言った。
「紙を出せ」
「フォルテ様」
「出せ」
ネロは慎重に赤い硝子片の間から紙を取り出した。
その手は少し震えているように見えた。
紙片は小さかった。
古く、薄く、端が少し焦げている。
ネロはそれをフォルテへ渡そうとしたが、フォルテは受け取らなかった。
「シドに」
ネロは息を呑んだ。
そして門越しに、紙片を差し出した。
門はまだ閉じている。
だからネロは格子の隙間から、それをシドへ渡した。
シドは両手で受け取った。
まるで、割れやすい貝殻を受け取るみたいに。
私は隣から覗き込む。
紙には、文字が書かれていた。
けれど、薄れていてほとんど読めない。
水に濡れたのか、焦げたのか、ところどころが滲んでいる。
それでも、シドはそれを見つめていた。
長く。
長く。
やがて、彼の耳がわずかに震えた。
「これは」
シドの声が、ほんの少しだけ掠れた。
「ツムギの字だねえ」
その名前が朝の空気に落ちた瞬間、フォルテの顔が硬くなった。
私は紙片を見た。
ツムギの字。
でも、何が書いてあるのかは分からない。
シドは紙を見つめたまま、何度か瞬きをした。
「読めますか?」
私が訊くと、シドは少しだけ首を横に振った。
「全部は、読めないねえ」
「何て書いてあるんですか」
「……たぶん」
シドは、紙の端を指でそっとなぞった。
「観覧車、という字がある」
私は息を呑んだ。
フォルテは何も言わない。
「それから」
シドはゆっくり続ける。
「夕陽」
その言葉を静かに口にした。
「フォルテ」
シドが顔を上げた。
「これは、どうしてここに?」
フォルテは黙っていた。
その沈黙は、昨日までのような拒絶だけではなかった。
何かを言おうとして、言えずにいる沈黙だった。
「答えてください」
私は言った。
フォルテは私を見た。
けれど今度は、すぐに突き放す言葉を返さなかった。
「……その紙は」
フォルテは低く言った。
「紅玉硝子の箱に、最初から紛れていた」
「最初から?」
「三年前、箱が屋敷へ運ばれた時には、すでに入っていた」
「どうして今まで」
「読む必要がなかった」
「そんな」
「読めば、また始まる」
フォルテの声は低く、硬かった。
「終わらせるためにしまったものを、また始めることになる」
私は言葉を失った。
終わらせるためにしまった。
フォルテは、宝石そのものではなくても、この紙をしまっていた。
シドに見せなかった。
その理由はまだ分からない。
でも、この紙がシドに関係あるものだと知っていた。
ツムギの字だと知っていた。
だから、隠していた。
「フォルテ」
シドは紙を両手で持ったまま言った。
「僕は、読まない方がよかったのかな」
その声があまりに静かで、私は胸の奥が痛くなった。
フォルテは答えなかった。
ただ、門の向こうで、まっすぐシドを見ていた。
「そうかもしれない」
やがて、フォルテは言った。
「だが、もう渡った」
その言葉には、諦めに似た響きがあった。
シドは紙片をそっと上着の内側へしまった。
「ありがとう」
「礼を言うな」
「でも、渡してくれた」
「私ではない。君たちが見つけた」
「そうかい」
シドは少しだけ笑った。
その笑顔は、いつものふわりとしたものとは違った。
やわらかいのに、どこか遠くを見ていた。
「フォルテ」
「何だ」
「この紙、ラウルに見せてもいいかな」
フォルテの眉が動く。
「記録屋に?」
「読めないところが多いからねえ。ラウルなら、何か分かるかもしれない」
「好きにしろ」
「怒らない?」
「もう怒っている」
「そうだった」
シドは小さく笑った。
フォルテはそれ以上何も言わず、ネロに箱を閉じさせた。
門は結局、最後まで開かなかった。
私たちは門の外にいて、フォルテは門の内側にいた。
それでも今日は、昨日より少しだけ何かが渡った。
紅い宝石ではない。
けれど、ツムギの字が書かれた紙片。
観覧車。
夕陽。
その二つの言葉。
私は思った。
これはまだ答えではない。
でも、答えへ向かうための小さな扉なのかもしれない。
シドは門から離れた。
私はその隣に並ぶ。
フォルテはまだ門の内側に立っていた。
黒い巻き毛が朝の光を受けて、静かに揺れている。
「フォルテさん」
私は振り返って言った。
「ありがとうございました」
フォルテは私を見た。
何か言うかと思った。
けれど彼は何も言わず、背を向けた。
その背中は、昨日より少しだけ疲れて見えた。
屋敷から離れる道で、シドはずっと黙っていた。
いつもなら、干し魚の話や、空の形や、歩くとお腹がすく話をするのに、今日は何も言わない。
私はその横で、何も訊けなかった。
紙片はシドの上着の内側にある。
紅い宝石ではなかった。
でも、ツムギの字だった。
シドがずっと渡したかった相手の、残した文字だった。
それがどういう意味を持つのか、まだ分からない。
けれどシドの歩き方は、昨日と少し違っていた。
のんびりしている。
でも、どこか足元を確かめている。
まるで長い間忘れていた道を、もう一度歩いているようだった。
「シドさん」
「うん」
「ラウルさんのところへ行きますか」
「うん」
シドは静かに頷いた。
「読んでもらおう」
その声には、怖さがあった。
たぶん。
シドは怖いのだ。
紙に何が書いてあるのか。
読めた時、自分が何を思うのか。
それでも、読もうとしている。
私は隣を歩きながら、そっと星型ポーチに触れた。
今日は、宝石は見つからなかった。
けれど、見つけたものがある。
紅い硝子の箱の底に隠れていた、薄い紙。
しまわれていた言葉。
届かなかったかもしれない言葉。
それが、今、シドの手元にある。
町の朝は明るかった。
でも、私たちの足音だけが、少しだけ静かに聞こえた。




