夜はただ思い返す時間へ
その夜、私はなかなか寝つけなかった。
部屋のベッドは柔らかく、窓から入ってくる潮風も気持ちよかった。宿の廊下は静かで、下の階から時々、宿の主人らしい茶色の猫が片づけをする音が聞こえるくらいだった。木の床を歩く足音。食器を重ねる音。扉が小さく閉まる音。それらはどれも穏やかで、この町が夜へ沈んでいく支度をしているようだった。
それなのに、私の内側だけが落ち着かなかった。
目を閉じるたびに色んなものが浮かんできて、眠ろうとする私のまぶたをそっと押し上げてしまう。
私は寝返りを打った。
天井には、月明かりの代わりに港町の灯りが薄く揺れていた。窓辺に吊るされた貝殻の飾りが、夜風に押されて、かちり、と鳴る。
ルチトクの夜とは違う音だった。
あの町の夜には、坂の上から聞こえる風や、遠くで軋む看板や、森の気配が混じっていた。ここには海がある。どこにいても、潮の匂いが細く忍び込んでくる。窓の外からは、波が岸壁に触れる音がかすかに届いていた。
私は上体を起こし、窓の方を見た。
観覧車が見える。
昼間よりも黒く、大きく、空に輪郭だけを残している。ゴンドラは闇の中に沈み、支柱だけが宿の灯りや町の明かりを少しだけ受けていた。
あれは、眠っているのだろうか。
それとも、眠れずにいるのだろうか。
シドの家で見た途中のものたちを思い出す。読まれかけの本。飲みかけだったカップ。散らばった布。空の皿。あの家も、観覧車も、どこか似ていた。
終わっていない。
でも、進んでもいない。
ただ、途中の形のまま、じっとしている。
私はベッドから降り、窓辺へ近づいた。
夜の港町は、昼間とはまるで違う顔をしていた。大通りの店はほとんど閉まり、軒先の灯りだけがぽつぽつと残っている。赤褐色の道は夜の色を吸い込んで、昼間より深い色になっていた。遠くの港では、船の明かりが小さく揺れている。海の上に落ちた星みたいだった。
星型ポーチに指先が触れる。
私はそれを握りしめた。
夢から覚める方法。
それが、私の探し物だった。
なのに今の私は、シドの紅い宝石のことばかり考えている。
それでいいのだろうか。
私はいつも、誰かの願いに触れるたび、自分の帰り道を後回しにしている。ルチトクでもそうだった。ハルクの月を見届けた。キースの痛みも知った。そうすることで少しだけ進めた気がしたけれど、結局、元の世界へ戻る方法は分からないままだった。
今回もまた、そうなるのだろうか。
シドの探し物を手伝って、観覧車に乗って、それでも私は夢の中に残されるのだろうか。
そう考えると、不安が胸の奥で小さく膨らんだ。
けれど同時に、シドの背中を思い出した。
尾のない、大きな灰色の背中。
のんびり歩いているのに、どこか消えてしまいそうな背中。
あの背中を見たあとで、自分の帰り道だけを探せるほど、私は器用ではなかった。
私は窓を少しだけ開けた。
夜風が入ってくる。
潮の匂いと、油の残り香と、少し冷えた木の匂いが混ざっていた。遠くで、猫の笑い声が一瞬聞こえ、それからすぐに静かになる。
その時、観覧車の方で何かが光った。
私は息を止めた。
赤ではない。
白に近い、小さな光だった。
観覧車の機械室のあたり。昼間、シドに案内された場所だ。窓の隙間から、細い灯りが漏れているように見える。
シドだろうか。
帰ると言っていたはずなのに。
私は窓辺に身を乗り出した。
灯りは、すぐには消えなかった。風に揺れているのか、少しだけ明るくなったり暗くなったりしている。
宿の部屋から観覧車までは、そう遠くない。
けれど、夜に一人で出歩くのはよくない。知らない町だし、宿の人にも何も言っていない。そう分かっているのに、私はじっとしていられなかった。
あの灯りがシドなら、何をしているのだろう。
もしシドでないなら、誰があそこにいるのだろう。
フォルテの屋敷で見た赤い光のことが、頭をよぎる。
私は急いで上着を羽織り、星型ポーチを持った。
部屋の扉をそっと開ける。
廊下は薄暗かった。壁に掛けられた小さなランプが、床に丸い光を落としている。宿の木の床は歩くと少し鳴るので、私は足音を殺しながら階段を下りた。
途中、受付の奥から茶色の猫の寝息が聞こえた。
起こして事情を話すべきか、迷った。
けれど、もし何でもなかったら申し訳ない。もしシドが一人で機械室にいるだけなら、私が騒ぎにすることで、かえって彼を困らせるかもしれない。
私は「少しだけ」と自分に言い聞かせた。
少しだけ見に行って、何もなければすぐ戻る。
そう決めて、宿の扉を開けた。
夜の町は、昼間よりずっと広く感じた。
同じ道なのに、店の看板が影になり、布のひさしが畳まれ、窓が閉じられているだけで、知らない場所のように見える。赤褐色の道も、今は黒に近い。足元だけが、宿や店先の灯りに照らされてぼんやり浮かんでいた。
猫の町は、完全に眠っているわけではなかった。
港へ向かう道では、夜番らしい猫がランプを持って歩いている。遠くの船着き場では、まだ魚の箱を運んでいる猫たちがいた。どこかの窓からは、低い歌声のようなものも聞こえる。けれど、そのどれもが昼間より小さく、夜の底を邪魔しないようにしていた。
私は観覧車を目印に歩いた。
大きな輪は夜空に黒く浮かんでいる。
不思議だった。
昼間は空を抱えているように見えたのに、夜には空に抱えられているように見える。止まっていることは同じなのに、夜の観覧車は昼間よりずっと寂しそうだった。
遊園地の入口に着くと、門は昼間と同じように開いていた。
小さな旗は夜風に揺れ、ぱたぱたではなく、かすかな布擦れの音だけを立てている。
誰もいない遊園地というものは、眠っているというより、誰かの夢の端に置かれているみたいだった。
私は観覧車の裏側へ回った。
昼間シドと歩いた細い道を思い出しながら、低い柵に沿って進む。草花は夜風に揺れて、白い花びらだけがほのかに浮かんで見えた。
機械室の窓には、やはり灯りがついていた。
私は扉の前で足を止めた。
中から、かすかな音が聞こえる。
金属が触れ合う音がする。
そして何かを拭く音。
低い声は——。
歌だ。
誰かが小さく歌っている。
私は扉の前で固まった。
その声はシドだった。
けれど、昼間ののんびりした話し声とは少し違った。低くて、かすれていて、それでも音の一つ一つを大切に置いているような歌だった。
知らない歌。
でも、どこか港に似合う歌。
遠くへ行く船を見送り、戻らないものを待ち、それでも朝にはまた網を広げるような歌。
私はしばらく、そのまま聞いていた。
扉を叩くことを忘れてしまうくらい、声が静かに夜へ溶けていた。
やがて歌が止まった。
「そこにいるのは、ひかりかい?」
中からシドの声がした。
私は肩を跳ねさせた。
「す、すみません」
「謝らなくていいよ。入っておいで」
扉は鍵がかかっていなかった。
私はそっと開ける。
機械室の中には、小さなランプが灯っていた。昼間よりも影が濃く、歯車や鎖が壁に大きな影を落としている。その奥で、シドが布を手にしていた。観覧車の部品を拭いていたらしい。机の上には油差しと、古い帳面と、半分かじられた干し魚が置かれている。
「シドさん」
「うん」
「何をしているんですか?」
「観覧車の様子を見ていた」
「夜に?」
「夜の方が、音がよく聞こえるからねえ」
「音」
「うん。昼間は町がにぎやかだから、軸の小さな鳴り方が分かりづらいんだ」
シドはそう言って、布を机に置いた。
「それに、今日は少し眠れなくて」
「私もです」
「そうかい」
シドは困ったように笑った。
「ひかりも、お腹がすいているのかな」
「たぶん違います」
「それは残念」
「残念なんですか?」
「干し魚を分けようと思ったのに」
机の上の干し魚を見て、私は少しだけ笑った。
こんな夜でも、シドはシドだった。
でも、機械室に漂っている空気は、昼間よりもずっと静かだった。ここにいるシドは、町の猫たちに声をかけられて笑っていたシドとも、フォルテの門の前で穏やかに立っていたシドとも、少し違って見えた。
誰にも見せない時間の中にいるシド。
そう思った。
「さっき、歌っていましたよね」
私が言うと、シドは少しだけ耳を伏せた。
「聞こえていたかい」
「はい。きれいでした」
「僕の歌じゃないんだ」
「そうなんですか?」
「うん。教えてもらった歌」
誰に、と訊きそうになって、私は言葉を飲み込んだ。
けれどシドは、私が訊かなかった問いを分かっているようだった。
「ツムギがよく歌っていた」
シドは静かに言った。
「昼間も言っていましたね。歌がうまいって」
「うん。上手なんだ。僕は、なかなか同じようには歌えない」
「でも、シドさんの歌もよかったです」
「ありがとう」
シドは少し照れたように笑った。
それから、観覧車の軸の方へ目を向ける。
「忘れたくなくてねえ」
「歌を?」
「うん。歌も、声も、怒り方も、笑う時の顔も」
シドの声は穏やかだった。
でも、その穏やかさは、ただ懐かしんでいるだけではなかった。
忘れたくない。
その言葉は、何かを必死に握っているように聞こえた。
「忘れそうなんですか?」
私が訊くと、シドは少し考えた。
「忘れてはいないよ」
「じゃあ」
「でも、覚えているものは、時々取り出して風に当てないと、少しずつ形が変わってしまう気がする」
列車の山羊を思い出した。
古い手紙は、時々風に当ててやらないと黴びる。
シドの中にも、届けられなかった手紙のようなものがあるのだろうか。
「宝石も、そうなんですか?」
「うん」
シドは机の上に置いた帳面を見た。
「僕が覚えているだけでは、足りない気がするんだ」
「足りない」
「うん。ちゃんと形のあるものとして渡したかった。見れば、ああこれだって分かるものを」
その言い方が、やけに切実に聞こえた。
けれどシドは、それ以上深くは話さなかった。
私は機械室の中を見回した。
昼間見た時よりも、すべてのものが近く感じる。歯車の影、油差しの光、古い帳面の角。どれも、シドが少しずつ手をかけてきたものだ。
「観覧車、動かす準備をしているんですか?」
「少しだけね」
「宝石が見つかったら、動かすんですか?」
「約束だからねえ」
「私との約束ですか?」
「ひかりとの約束でもある」
「他にも?」
シドはすぐには答えなかった。
ランプの光が、彼の灰色の毛をやわらかく照らしている。
「昔の約束も、少し」
それだけだった。
私は頷いた。
観覧車に乗る約束。
ツムギと交わしたのだろう。
でも、その約束がどうなったのかは、まだ分からない。
今はまだ、訊いてはいけない。
「シドさん」
「うん?」
「明日、どうしますか」
「フォルテの屋敷へ行く」
シドは静かに言った。
昼間より、はっきりした声だった。
「正面からですか?」
「できればね」
「できれば」
「正面が閉じていたら、横から考える」
「裏口ですか?」
「ひかりは大胆だねえ」
「シドさんが横からって言ったんです」
「そうだった」
シドは少し笑った。
「でも、まずはもう一度話すよ。フォルテは怒るけれど、話が通じない猫ではない」
「今日、帰れって言われました」
「うん。よく言われる」
「よく言われるんですか」
「昔からねえ」
シドは機械室の小さな窓を開けた。
夜風が入ってくる。
ランプの火が小さく揺れ、油と鉄の匂いに潮の匂いが混ざった。
「フォルテは、扉を閉めるのが上手なんだ」
「また、しまう話ですか」
「うん。似ているねえ。扉を閉める。鍵をかける。中にあるものを守る。そういうことが上手だ」
「シドさんは?」
「僕は、鍵をなくすのが上手」
「それは困ります」
「困るねえ」
シドはゆるく笑った。
けれど、その目は窓の外を見ていた。
「でも、閉めた扉は、いつか開けないと空気が悪くなる」
その言葉に、私は少し迷った。
そして、口を開いた。
「フォルテさんは、どうしてそこまで止めるんでしょう」
「フォルテにしか分からないねえ」
「シドさんにも分からないんですか?」
「分かることもある。でも、全部は分からない」
シドは窓を閉めた。
「全部分かっているつもりになると、相手の声が聞こえなくなるからねえ」
それはフォルテのことを言っているのだろうか。
それとも、シド自身のことだろうか。
私は何も言えなかった。
その時、機械室の外で、草を踏む音がした。
私は反射的に振り返った。
シドも耳を動かす。
扉の向こうに、誰かがいる。
夜風とは違う気配。
私が息を止めると、扉が軽く叩かれた。
こん、こん。
控えめな音だった。
「誰だろうねえ」
シドはそう言って扉へ向かった。
「待ってください」
私は小声で言った。
「フォルテさんの屋敷の猫かもしれません」
「そうかもしれない」
「開けるんですか?」
「叩かれたからねえ」
シドはためらわず扉を開けた。
外に立っていたのは、昼間、記録屋で会ったラウルだった。
眼鏡の奥の目は、いつもより少し険しい。肩には小さな鞄をかけ、手には紙束を持っている。
「やっぱりここにいた」
「こんばんは、ラウル」
「こんばんは、じゃない。夜に子どもを連れ回すな」
「ひかりは自分で来たんだよ」
「なお悪い」
ラウルは私を見た。
「宿を抜け出したのか」
「すみません」
「謝る相手は宿の主人だ。朝になったら言いなさい」
「はい」
きっぱり言われて、私は小さく頷いた。
ラウルはため息をつき、機械室の中へ入った。
「二人とも、明日フォルテ邸へ行くつもりだろう」
「そのつもりだよ」
「止めても無駄か」
「たぶんねえ」
「分かっていた」
ラウルは鞄から一枚の紙を取り出した。
「なら、これを見ておけ」
「これは?」
「屋敷の古い搬入記録だ。正式なものではない。市場側に残っていた控えだ」
ラウルは机の上に紙を広げた。
私は覗き込む。
そこには細かな文字と日付、品名らしいものが並んでいた。私には読みにくい部分もあったが、ラウルが指で一箇所を示した。
「三年前の秋。紅玉硝子、ひと箱」
「紅玉硝子?」
私が訊くと、ラウルは頷いた。
「赤い装飾硝子のことだ。祭りの飾りや灯りに使う。宝石ではない」
「じゃあ、関係ないんですか?」
「普通ならな」
ラウルはもう一箇所を指した。
「しかし、その搬入先がフォルテ邸。しかも、搬入した業者は翌月に店を畳んでいる。記録もここで途切れている」
シドは紙を見ていた。
表情は変わらない。
けれど、耳が少しだけ前を向いている。
「赤い硝子なら、夜番が見た光も説明できる」
「じゃあ、やっぱり宝石じゃない可能性があるんですね」
「ある」
ラウルは静かに言った。
「でも、妙なことが一つある」
「妙なこと?」
「紅玉硝子は、屋敷へ入ったあと一度も外へ出ていない。祭りにも使われていない。灯りにも使われていない。帳面上は、ただ保管されたままだ」
「保管」
それが宝石なのか硝子なのか、まだ分からない。
けれど、赤い何かがあそこにあることは、少しずつ確かになっていく。
「ラウル」
シドが言った。
「どうしてこれを?」
「君が明日、何も知らずに行くよりはましだと思った」
「ありがとう」
「礼はまだ早い」
ラウルは紙を畳まず、机の上に置いたまま、シドを見た。
「これは、フォルテを疑うための紙ではない。決めつけるな」
「うん」
「そして、君の宝石だとも限らない」
「うん」
「それでも行くなら、訊くべきことを間違えるな」
「訊くべきこと」
「宝石を持っているかどうかだけを訊けば、フォルテは否定する。今日と同じだ。赤いものを何のために保管しているのか。なぜ見せられないのか。そこを訊け」
ラウルの声は低かった。
紙に文字を書く時のように、無駄がない。
「ラウルは、フォルテの味方なのかい」
シドが穏やかに訊いた。
ラウルは即答した。
「町の味方だ」
「そうだったねえ」
「そして、君の味方でもあるつもりだ」
シドは少しだけ目を細めた。
「それはありがたいねえ」
「ありがたいと思うなら、もう少し自分を大切にしろ」
その言葉に、私は思わずラウルを見た。
彼はそれ以上何も言わなかった。
シドも、いつものように困った顔で笑うだけだった。
けれど、その笑顔は少し薄かった。
ラウルは私へ向き直った。
「ひかり」
「はい」
「君も、見るべきものを間違えるな」
「見るべきもの」
「赤い宝石だけを見るな。シドだけを見るな。フォルテだけを見るな。この町全体を見るんだ」
私は息を飲んだ。
ハートにも似たことを言われた。
答えだけを急ぐと、大切なものを見落とすことがある。
この町では、みんなが何かを少しずつ知っていて、少しずつ隠している。
シドだけじゃない。
フォルテも。
町の猫たちも。
その全部を見なければ、きっと間違える。
「分かりました」
私は頷いた。
「分かったなら、宿に戻りなさい」
「はい」
今度は逆らえなかった。
ラウルは机の上の紙を畳み、シドへ渡した。
「これは預ける。なくすな」
「鍵よりはなくさないと思う」
「不安になる返事をするな」
「気をつけるよ」
シドは紙を大切そうに受け取った。
それから、私を宿まで送ると言った。
ラウルも途中まで一緒に歩くことになった。
機械室のランプを消すと、観覧車の裏側は一気に暗くなった。夜空に大きな輪だけが残る。さっきまで内側に灯っていた小さな明かりが消えたせいか、観覧車はまた眠ったように見えた。
私たちは遊園地を出た。
夜の町を三人で歩く。
シドはいつも通りゆっくりで、ラウルは少し早足だった。私はその間を歩いた。どちらに合わせればいいのか迷っていると、ラウルが歩幅を少し緩め、シドがほんの少しだけ早く歩いた。
それだけのことなのに、この二匹もまた長く知り合いなのだと分かった。
町の灯りは少なくなっていた。
それでも、完全な闇ではない。窓から漏れる明かり、港の灯り、夜番のランプ、星の光。それぞれが小さく町を支えている。
宿の前に着くと、ラウルは私を見た。
「明日は、勝手に抜け出すな」
「はい」
「何かあったら、誰かに言え」
「はい」
「返事だけはいいな」
「すみません」
ラウルはため息をついた。
けれど怒っているというより、私のことを想ってくれているようだった。
シドは隣でにこにこしている。
「ラウルは面倒見がいいねえ」
「君の周りは、面倒を見ないといけない者が多すぎる」
「それは大変だ」
「君もその一匹だ」
「そうだった」
シドは素直に頷いた。
私は少し笑ってしまった。
宿の扉に手をかけると、シドが私を呼んだ。
「ひかり」
「はい」
「明日、よろしくね」
「こちらこそ」
「怖かったら、途中でやめてもいいよ」
「やめません」
すぐに答えると、シドは少し驚いたように瞬きをした。
それから、やわらかく笑った。
「そうかい」
「はい。まだ、見ていないものがありますから」
ラウルが小さく頷いた。
シドは何も言わず、ただ手を振った。
私は宿へ戻った。
今度こそ、宿の主人に見つからないように階段を上がる。けれど部屋へ入ったところで、扉の外から茶色の猫の声がした。
「ひかりちゃん」
私は固まった。
「はい」
「夜に外へ出る時は、一言かけてね」
「……すみません」
「無事ならいいわ。明日は朝ごはん、しっかり食べるのよ」
「はい」
足音が遠ざかる。
私は扉にもたれて、深く息を吐いた。
みんな、面倒見がいい。
この町の猫たちは、本当に誰かを放っておけないのだ。
それなのに、シドの宝石だけは、誰もどうにもできずにいる。
私はベッドへ戻った。
窓の外には観覧車が見える。
機械室の灯りはもう消えている。
けれど、私の中にはさっき聞いたシドの歌が残っていた。
明日、何が分かるのだろう。
まだ何も分からない。
でも、少なくとも一つだけ決めた。
この町全体を見るのだ、と。
そうしなければ、きっと私はまた、大切なものを見落としてしまう。
窓の外で、夜の海がかすかに鳴っている。
その音を聞きながら、私はようやく目を閉じた。




