私の探しものは
私たちは再び正面の門へ戻った。
黒い鉄の門は、さっきと同じように静かに閉ざされている。銀の呼び鈴は陽の光を受けて、小さく光っていた。
シドはその前に立ち、ひとつ息を吐いた。
「シドさん」
「うん」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫かどうかは、鳴らしてみないと分からないねえ」
「そうですね」
「ひかりは、後ろにいてもいいよ」
「いえ」
私は首を横に振った。
「一緒に来ましたから」
シドは私を見た。
そして、少しだけ笑った。
「ありがとう」
シドが銀の鈴を鳴らした。
りん、と澄んだ音が響く。
魚の形の呼び鈴の、にゃーんという気の抜けた音とはまるで違った。こちらの鈴の音は、まっすぐ屋敷の奥へ届いていくようだった。
しばらくして、門の向こうに黒い外套の猫が現れた。
さっき小箱を抱えていた猫ではない。少し年上に見える、背筋の伸びた猫だった。彼は門越しに私たちを見ると、表情を変えずに言った。
「どのようなご用件でしょう」
「フォルテに会いたいんだ」
シドが言うと、外套の猫はわずかに眉を動かした。
「お約束は」
「ないよ」
「では、お通しできません」
「そうだねえ」
シドは困ったように笑った。
「でも、伝えてくれないかな。紅い宝石のことで話がある、と」
外套の猫の表情が、ほんの少しだけ変わった。
本当にわずかだ。
けれど、私には分かった。
やはり、屋敷の者たちは知っている。
外套の猫はしばらくシドを見たあと、低く言った。
「お待ちください」
彼は門を開けないまま、屋敷の方へ戻っていった。
私とシドは門の外に残された。
潮風が流れてくる。
遠くで市場の声が聞こえる。
さっきまで歩いていた町の明るさが、ここでは少し遠い。
「入れてくれるでしょうか」
「どうだろうねえ」
「フォルテさん、怒りますかね」
「怒るだろうねえ」
「シドさんは落ち着いていますね」
「落ち着いているように見えるだけかもしれない」
「そうなんですか?」
「うん。お腹の中は、干し魚が泳いでいるみたいだよ」
「それは緊張なんですか?」
「たぶんね」
シドのたとえは分かるようで分からない。
けれど、それを聞いて少しだけ私の緊張もゆるんだ。
やがて、門の向こうに別の足音が聞こえた。
外套の猫ではない。
もっと静かで、迷いのない足音。
黒い巻き毛が見えた瞬間、私は背筋を伸ばした。
フォルテだった。
広場で見た時と同じ、艶のある黒い巻き毛。整った上着。アーモンド形の鋭い瞳。屋敷を背にして立つ姿は、広場で見るよりさらに似合っていた。
まるでこの門も、白い壁も、黒い屋根も、全部フォルテの一部であるかのようだった。
「何の用だ」
フォルテは門を開けないまま言った。
声は静かだった。
でも、広場で聞いた時よりも低い。
「話をしに来たんだ」
シドは穏やかに答えた。
「広場でしたはずだ」
「もう少しだけ、詳しく」
「私はやめろと言った」
「うん。聞いたよ」
「なら帰れ」
フォルテの目が、私へ移る。
「君もだ」
私は思わず息を詰めた。
でも、下がらなかった。
「赤い光を見ました」
私が言うと、フォルテの瞳が細くなった。
「何の話だ」
「屋敷の裏で、小箱を持った猫がいて。その箱から、赤い光が見えました」
「見間違いだ」
「見間違いかもしれません。でも、確かめたいんです」
「君に確かめる権利はない」
その言葉は冷たかった。
けれど、私は黙らなかった。
「シドさんにはあります」
フォルテの視線がシドへ戻る。
シドはいつものように立っている。
少し背中を丸めて、けれど逃げるわけではなく。
「シド」
フォルテは低く言った。
「お前は分かっているはずだ」
「うん。分かっていることもあるし、分からないこともある」
「ふざけるな」
「ふざけてはいないよ」
「なら、なぜまだ探す」
門の向こうで、フォルテの声がわずかに揺れた。
怒りなのか、別のものなのか、私には分からなかった。
「渡したい相手がいるから」
シドは言った。
フォルテの目が、はっきりと険しくなった。
「その話はするな」
「まだ名前も出していないよ」
「出すな」
短い言葉だった。
けれど、その響きには、広場で聞いた「やめろ」よりも深い拒絶があった。
私は二匹の間を見た。
シドは変わらず穏やかに立っている。
フォルテは門の向こうでまっすぐ立っている。
けれど二匹の間には、見えない深い溝のようなものがあった。
そこにあるものを、私はまだ知らない。
「フォルテ」
シドは静かに呼んだ。
「もし本当に君が持っているなら、返してほしい」
「持っていない」
「今、見間違いだと言ったね」
「見間違いだ」
「それなら、見せてくれてもいいんじゃないかな」
シドの声はあくまでやわらかかった。
怒るでも、責めるでもない。
ただ、まっすぐに訊いている。
そのやわらかさが、かえってフォルテの硬さを浮き上がらせていた。
「屋敷の保管物を、お前に一つ一つ見せる義務はない」
「それもそうだねえ」
「帰れ」
「でも、探し物がそこにあるかもしれない」
「ない」
「フォルテ」
「ないと言っている」
フォルテの声がわずかに強くなった。
門の前の空気が固くなる。
黒い鉄の格子が、二匹の間にくっきりと線を引いているように見えた。
「フォルテさん」
私は思わず声を出した。
フォルテの目がこちらへ向く。
「もし違うなら、そう言ってください。赤い光は別のもので、シドさんの宝石じゃないって」
「そう言っている」
「でも」
「君はこの町のことを知らない」
フォルテは静かに言った。
「この町のことも、シドのことも、あの宝石のことも、何も知らない」
その通りだった。
私は何も知らない。
この町に来たばかりで、シドとも今日出会ったばかりで、フォルテのことも、宝石のことも、ほとんど知らない。
それでも。
「知らないから、見たいんです」
私は言った。
「知らないまま、やめることはできません」
フォルテは私を見ていた。
その瞳は冷たい。
けれど、完全に私を見下しているわけではなかった。
何かを測っているようだった。
答えだけを急いで探すと、大切なものを見落とすことがある。
ふいに、ハートの言葉が蘇った。
私は息を吸った。
もしかすると、今の私は急いでいるのかもしれない。
赤い光を見た。
屋敷の猫が知っていた。
だから宝石はここにある。
フォルテが隠している。
そう決めつけようとしている。
でも、本当にそれだけなのだろうか。
フォルテの目には、ただ嘘を隠している猫とは違うものがあった。
怒り。
焦り。
それから、触れられたくないものを守るような硬さ。
「シド」
フォルテは私から視線を外し、シドを見た。
「最後に言う。探すな」
「最後は、困るねえ」
「何度でも同じことを言わせるな」
「何度でも訊くことになるよ」
「なぜだ」
「大切なものだから」
シドは、広場で言ったのと同じ言葉を口にした。
大切なものだから。
フォルテはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を伏せた。
それは一瞬だった。
すぐにいつもの鋭い瞳へ戻った。
「……ならばなおさらだ」
フォルテは低く言った。
「大切なものなら、触れ方を誤るな」
「誤っているのは、僕かな」
「そうだ」
「フォルテは?」
「私は、守っている」
守っている。
その言葉に、私は胸の奥を引かれるような気がした。
シドも、同じようにその言葉を受け取ったのかもしれない。
少しだけ目を細めた。
「そうだねえ」
シドは言った。
「フォルテはいつも、守ろうとする」
「悪いか」
「悪くないよ」
シドの声はやさしかった。
「ただ、しまい込まれたものは、届かなくなることもある」
フォルテの瞳が揺れた。
ほんの少し。
でも確かに。
「……帰れ」
フォルテはそれだけ言った。
それ以上、何も答えなかった。
彼は背を向けた。
黒い巻き毛が陽を受けて揺れ、屋敷の白い壁の中へ遠ざかっていく。
「フォルテさん!」
私は呼び止めた。
けれどフォルテは振り返らなかった。
外套の猫が門の内側へ戻ってきて、静かに頭を下げる。
「お引き取りください」
門は閉ざされたままだった。
私は黒い鉄の格子を見つめた。
その向こうに、宝石があるかもしれない。
シドがずっと探していたものがあるかもしれない。
そして、フォルテはそれを見せる気がない。
「シドさん」
私は振り返った。
シドは門を見ていた。
怒ってはいない。
泣いてもいない。
ただ、少しだけ遠い場所を見るような目をしていた。
「帰りましょうか」
シドが言った。
「帰るんですか?」
「うん。今日はね」
「でも」
「ひかり、お腹はすいていないかい?」
「今ですか?」
「今だよ」
突然の言葉に、私は戸惑った。
シドはゆっくり歩き出す。
「考えるには、少し食べた方がいい。お腹がすくと、世界が遠くなるからねえ」
その言葉は、さっき家で聞いた時よりも少しだけ重く響いた。
私は門をもう一度見た。
フォルテの屋敷は静かにそこにある。
閉ざされた門の奥に、赤い光の正体がある。
そして、まだ私の知らない何か。
私はシドの後を追った。
潮風が吹く。
屋敷の前の花が、低く揺れている。
その花の色の中に、赤いものが混じっていた。
宝石の赤とは違う。
夕陽の赤とも違う。
けれどその赤を見ていると、なぜか胸の奥がざわついた。
シドはゆっくり歩いていく。
その背中には尾がない。
灰色の毛並みが風に揺れる。
大きくて、やわらかくて、今にもどこかへ消えてしまいそうな背中だった。
私はその背中を見失わないように、少し早足で隣へ並んだ。
「シドさん」
「うん?」
「私は、まだ手伝います」
シドは私を見た。
「怖くなかったかい?」
「怖くないわけじゃないです」
「うん」
「でも、ここでやめたら、観覧車にも乗れません」
「ひかりは本当に観覧車が好きだねえ」
「それもあります」
私は少しだけ息を吸った。
「でも、それだけじゃないです」
シドは何も言わず、私の言葉を待っていた。
「届けられなかったものは、まだ途中かもしれないって、列車で会った山羊が言っていました」
「山羊が」
「はい」
「いいことを言う山羊だねえ」
「だから、シドさんの宝石も、まだ途中なのかもしれないと思ったんです」
シドはしばらく黙っていた。
それから、やわらかく笑った。
「そうだねえ」
その声は、風に溶けるくらい静かだった。
「まだ、途中だといいねえ」
私たちは町へ戻った。
赤褐色の大通りの向こうで、観覧車が空を抱えている。
止まったまま。
けれど、さっきより少しだけ近く見えた。
動かない輪の下で、町は変わらず賑やかだった。
魚屋の声がする。
子猫たちが走る。
海鳥が鳴く。
そして、どこかで鐘が鳴った。
夕方が近づいているのだろうか。
陽の光は少しだけ赤みを帯び始め、白い壁の町並みを柔らかく染めていた。
その色が、まだ見ぬ紅い宝石の色と重なる。
私は思った。
きっと、この探し物は簡単には終わらない。
見つけることより、見つけたあとがずっと重い。
山羊の言葉が、また胸の奥で鳴った。
私はその重さを、まだ知らない。
けれど、知らないからといって、ここで目を逸らしたくはなかった。
町へ戻る道で、シドは本当に食べ物の店へ寄った。
こんな時に、と思わなかったわけではない。
フォルテの屋敷には赤い光の正体があるかもしれない。しかも、フォルテはそれを見せる気がない。シドがずっと探していたものは、すぐそこにあるのかもしれないのに、私たちは屋敷から離れ、港の方へ向かって歩いている。
なのにシドは、魚の揚げ物を売っている小さな屋台の前で立ち止まった。
屋台の上では、丸く切った魚に衣をつけたものが、油の中でぱちぱちと音を立てている。薄い湯気と一緒に、香ばしい匂いが風に乗って広がった。昼間に見た海のきらきらとはまた違う、少しだけ夕方に近い匂いだった。
「おや、シド」
屋台の中にいたふくよかな猫が、目を丸くした。
「今日はずいぶん歩くじゃないか」
「うん。今日は歩く日みたいだねえ」
「歩く日なら食べなきゃね」
「だから来たんだ」
「正しい」
ふくよかな猫は満足そうに頷くと、揚げたての魚を紙に包んだ。
シドはそれを二つ受け取り、一つを私へ差し出した。
「ひかりもどうぞ」
「え、いいんですか?」
「うん。さっきから一緒に歩いているからねえ。歩くとお腹がすく」
「シドさん、そればっかりですね」
「大事だからねえ」
私は受け取った紙包みを両手で持った。
熱い。
指先から伝わる温かさに、さっきまで張りつめていたものが少しだけゆるむ。恐る恐るかじると、外側はさくっとしていて、中の魚はほろりとほどけた。塩味が強いのに、油の甘さもあって、なんだか不思議と元気が出る味だった。
「おいしいです」
「よかったねえ」
シドは自分の分をゆっくり食べながら、屋台の横の木箱に腰を下ろした。
私は少し迷って、その隣に座った。
屋台の周りには、仕事帰りらしい猫たちが集まっていた。港から戻った漁師、布を抱えた店員、白い前掛けをした料理人。みんな何かしら手に持ち、何かしら話し、夕方に向かう町の中で少しだけ足を止めている。
「シド、今日は顔色がいいじゃない」
「ひかりにご飯を作ってもらったからねえ」
「まあ、よかったねえ」
「倒れてたのか?」
「少し横に」
「倒れてたんだな」
そんな会話が、あちこちから飛んでくる。
シドはそのたびに、ゆるく笑って返事をした。
やっぱり、この町の猫たちはシドを放っておけないのだ。
誰も彼を特別扱いしすぎない。けれど、誰も完全には見ないふりをしない。食べたか、倒れていないか、外に出たのか、そんなことを当たり前のように声に出す。
私はそれを見ていて、少しだけ不思議な気持ちになった。
ルチトクで会ったハルクは、月を目指して一人で空を見上げていた。
でもシドは、一人でいるように見えて、町のあちこちに薄く繋がれている。
魚屋の白猫も布屋の三毛猫。
ラウルもニノも。
みんながシドを知っている。
みんなが、シドが宝石を探していることも、きっと知っている。
そしてそれでも、誰も彼を完全には止められない。
「シドさん」
「うん?」
「宝石を探すこと、町のみんなが知っているんですね」
「うん。長く探しているからねえ」
「どれくらいですか?」
私が訊くと、シドは揚げ魚を食べる手を止めた。
けれど嫌そうな顔はしなかった。
少しだけ考えるように、夕方へ傾きかけた空を見上げる。
「この町の子猫が、少し大きくなるくらいかな」
「それは、長いですね」
「長いねえ」
「ずっと、一人で探していたんですか?」
「一人の時もあるし、誰かが一緒に探してくれた時もあるよ。最初の頃は、たくさんの猫が探してくれた」
「最初の頃」
「うん。みんな優しいからねえ。箱の下も、倉庫の隅も、港の板の隙間も、観覧車の機械室も、たくさん探してくれた」
「でも、見つからなかった」
「見つからなかったねえ」
シドはそう言って、また一口食べた。
その横顔は穏やかだった。
けれど、その穏やかさの向こうに、探しても探しても何も出てこなかった日々があるのだと思うと、胸の奥が少し重くなった。
「みんな、だんだん探さなくなった」
シドは続けた。
「それはそうだよねえ。暮らしがあるから。魚を獲らなきゃいけないし、布を売らなきゃいけないし、子猫は大きくなるし、屋根は直さなきゃいけない。ずっと僕の探し物ばかりしているわけにはいかない」
「シドさんは?」
「僕は、他にすることがあまりなかったからねえ」
「観覧車の管理は」
「それも、あまりしていなかったから」
シドは困ったように笑った。
自分で言っていて情けなくならないのだろうかと、少しだけ思った。
けれどすぐに、その考えは引っ込んだ。
情けないと思う力すら、きっとシドにはずっと薄かったのかもしれない。
食べることも、観覧車を動かすことも、部屋を片づけることも、全部途中で止まってしまう。
それでも宝石だけは探し続けている。
それがどれだけ重たいことなのか、まだ私には分からない。
「フォルテさんは、いつから止めているんですか?」
私がそう訊いた時、シドは少しだけ目を細めた。
「最初からではないよ」
「最初は手伝ってくれたんですか?」
「うん。フォルテは何でも早いからね。誰よりも早く猫たちを集めて、探す場所を分けて、記録を取らせて、港にも灯台にも見張りを出した」
「じゃあ、どうして」
「探しても見つからなかったから」
シドは紙包みを膝の上に置いた。
風が吹き、紙の端が少し揺れる。
「見つからないものをずっと探しているとね、探している方も、見ている方も、少しずつ削れていくんだと思う」
「削れる」
「うん。角が丸くなるんじゃなくて、薄くなる感じだねえ」
私はシドの横顔を見た。
シドの声は相変わらずやわらかい。
でも言っていることは、少しも軽くなかった。
「フォルテは、それを見ていられなかったんじゃないかな」
「だから、やめろって」
「たぶんねえ」
「でも、今は宝石がフォルテさんの屋敷にあるかもしれないんですよね」
「うん」
「それは、どうしてなんでしょう」
シドは答えなかった。
屋台の前を、子猫が二匹走っていく。
その後ろを、母親らしい猫が「走るなら魚を落とさないで」と言いながら追いかける。子猫たちは笑い、魚の包みを抱えたまま角を曲がっていった。
その明るさの中で、シドは静かに座っていた。
「フォルテは、しまうのが上手なんだ」
しばらくして、シドは言った。
「しまう?」
「うん。物も、町の困りごとも、言葉も、昔の約束も。散らかったものを見つけると、きれいに畳んで、鍵のかかる場所へ入れたくなる」
「それは、悪いことなんですか?」
「悪いことではないよ。町を守るには、そういう力も必要だからねえ」
シドは顔を上げ、広場の向こうを見た。
フォルテが去っていった方角だ。
「でも、しまわれたものが、外へ出たがっている時もある」
私は紙包みを握った。
宝石。
空の布。
赤い光。
フォルテの屋敷。
それらが少しずつ、一本の糸のように繋がっていく。
でも、その糸がどこへ向かっているのかは、まだ見えない。
「シドさんは、怒っていないんですか?」
「フォルテに?」
「はい」
「怒っていない、というと嘘になるかもしれないねえ」
シドは少し困ったように笑った。
「でも、怒り方が分からない」
「怒り方」
「うん。怒るには、相手が全部間違っていると思えた方が楽なんだろうけど、フォルテは全部間違っているわけではないから」
その言葉に、私は何も返せなかった。
ルチトクでもそうだった。
誰かが誰かを止める時、そのすべてが意地悪や悪意からできているわけではなかった。
キースはハルクを傷つけたいわけではなかった。
むしろ、傷つけたくなかったから止めようとしていた。
フォルテも、そうなのだろうか。
でも、どれだけ理由があっても、シドの宝石を隠していいことにはならない。
私の中では、まだその二つがうまく並ばなかった。
「ひかり」
シドが私を呼んだ。
「はい」
「顔が難しくなっているよ」
「難しいことを考えていました」
「そうかい」
「シドさんは、難しくないんですか?」
「難しいよ」
「そう見えません」
「よく言われる」
シドはまた少し笑った。
「でも、難しいことを難しい顔で考えていると、もっと難しくなるからねえ」
「そういうものですか」
「たぶんね」
シドは残りの揚げ魚を食べ終えると、紙を小さく畳んだ。
その手つきはゆっくりで、何でもない紙さえ丁寧に扱う。さっき、空の布を畳んだ手と少し似ていた。
屋台の猫が、空になった包みを受け取ってくれた。
「シド、今日はもう帰るのかい?」
「どうしようかねえ」
「どうしようかって顔じゃないね。まだ歩く顔だ」
「そんな顔をしているかな」
「してるよ。あと、その子も」
屋台の猫は私を見る。
「私もですか?」
「してるねえ。何か見つけたい顔だ」
また顔に出ているらしい。
私は頬を押さえた。
シドはその様子を見て、ふふ、と小さく笑った。
「ひかりは分かりやすいねえ」
「シドさんも、人のことは言えないと思います」
「僕も?」
「はい。眠そうな時と、お腹がすいている時と、少し寂しそうな時は分かります」
言ってから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれどシドは怒らなかった。
ただ、目を丸くしたあと、ゆっくり笑った。
「それは困ったねえ」
「困るんですか?」
「うん。隠すのが下手だと、フォルテにまた怒られる」
「フォルテさんは、シドさんが隠すのが下手なことも知っていそうです」
「それはもっと困った」
シドはそう言って立ち上がった。
「さて」
「どこへ行くんですか?」
「もう少しだけ、町を歩こうか」
「屋敷へ戻るんじゃないんですか?」
「今すぐ戻っても、門が閉まっているからねえ」
「でも」
「赤いものは逃げないかもしれないし、逃げるかもしれない」
「どっちですか」
「分からない」
シドは空を見上げた。
陽は少しずつ傾いている。
海の方角が、昼間よりも眩しい。白かった光に、少しずつ赤が混ざり始めていた。
「でも、ひかりに見せたいものがある」
「私に?」
「うん。宝石を探すなら、見ておいた方がいい場所」
シドはそう言って、広場の端へ向かった。
私はその隣を歩く。
大通りを少し外れると、町の賑わいはまた変わった。市場の声が遠ざかり、かわりに静かな生活の音が増える。窓を閉める音。椅子を引く音。夕食の支度なのか、どこかの家から湯気が立っている。魚を焼く匂いに、香草の匂いが混ざっていた。
猫の町は、夕方へ向かって少しずつ色を変えている。
昼間は白い窓枠が目立っていた建物も、今は壁の影が長く伸びて、赤褐色の道に斜めの模様を落としていた。日よけの布は畳まれ始め、店先の木箱は中へ運ばれ、子猫たちは母親に呼ばれて家へ戻っていく。
それでも、観覧車だけは変わらない。
建物の向こうに半分だけ見えている大きな輪は、夕方の色を受けても動かなかった。
まるで、町が一日を終えようとしても、そこだけが昨日と同じ場所に取り残されているみたいだった。
「こっちですか?」
「うん」
シドが向かったのは、港と遊園地の間にある細い道だった。
昼間、観覧車へ向かった時には気づかなかったけれど、そこには古い石畳の小道があり、両側に低い柵が続いている。柵の向こうには、背の低い草花が植えられていた。花びらは白や薄黄色で、潮風を受けても折れず、地面に寄り添うように揺れている。
道の先には、小さな広場があった。
広場といっても、市場のような賑やかな場所ではない。丸い石のベンチがいくつか置かれ、真ん中には古い街灯が立っている。その奥に、観覧車の支柱が見えた。
遊園地の裏側だ。
表から見た時は、子供用のジェットコースターやメリーゴーランドの方に目を取られていたけれど、裏へ回ると観覧車の大きさがよく分かった。支柱は太く、白い塗装は少し剥げている。けれど錆びついているわけではなく、丁寧に手入れされていることが分かった。
「ここは」
「観覧車の裏側だよ」
「裏側」
「うん。お客さんはあまり来ないけれど、管理人はよく来る場所」
シドは柵の前で足を止めた。
そこには小さな扉があり、鍵がかかっていた。扉の向こうには、観覧車の軸へ続く機械室らしい建物がある。窓は小さく、中は暗い。
「ここで、観覧車を動かすんですか?」
「そうだよ。機械室で軸を確かめて、油を差して、ブレーキを外して、ゆっくり動かす」
「シドさん、ちゃんと管理人さんなんですね」
「いちおうねえ」
「いちおうじゃなくて、ちゃんと」
私が言うと、シドは少し照れたように耳を伏せた。
「そう言ってもらえると、少し背筋が伸びるねえ」
シドはポケットから古い鍵を取り出した。
小さな鈴と一緒に鍵束へついている。魚の形の飾りもついていた。鍵を扉に差し込むと、かちり、と音がして開いた。
「入ってもいいんですか?」
「うん。ひかりはお客さん候補だからねえ」
「候補なんですね」
「まだ動いていないからね」
シドは扉を開け、私を中へ招いた。
機械室は思ったより広かった。
壁には工具が並び、大きな歯車や鎖が奥へ続いている。窓が小さいから薄暗いけれど、埃っぽさはあまりない。油の匂いと、古い鉄の匂いがした。床には木の板が敷かれ、端には布が何枚も畳んで置かれている。
止まっている場所なのに、放り出されているわけではない。
シドが観覧車をまったく見ていないわけではないことが、ここに入るだけで分かった。
「きれいですね」
「そうかな」
「はい。シドさんの家より」
「それは比べる相手がよくないねえ」
シドは困ったように笑った。
私は壁に掛けられた古い図面を見た。
観覧車の輪が細かく描かれている。ゴンドラの数、支柱の角度、軸の位置、歯車の噛み合わせ。難しいことは分からないけれど、この大きな輪がただ空に立っているだけではなく、たくさんの小さな部品で支えられていることだけは分かった。
「昔はね」
シドがぽつりと言った。
「夕方になると、ここが一番忙しかった」
「夕方に?」
「うん。夕陽を見るために乗る猫が多かったからねえ。海に沈む夕陽が、ちょうど一番上のゴンドラからよく見えるんだ」
私は窓の外を見た。
小さな窓からは、海の方角が少しだけ見える。
今も夕陽が近づいている。
もし観覧車が動いていたら、あの輪の上から、どんな赤が見えるのだろう。
「ツムギさんも、夕陽が好きだったんですか?」
私が訊くと、シドは工具棚の前で手を止めた。
ほんの少しだけ。
「好きだったよ」
それから、やわらかく答えた。
「夕方になると、よく歌っていた」
「港で?」
「港でも、ここでも」
「観覧車でも?」
「うん」
シドは窓の外を見た。
「乗る前から歌うんだ。まだ地上にいるのに、もう空にいるみたいな顔でねえ」
私は想像した。
夕方の遊園地では、夕日に晒された観覧車が廻る。
潮風の中で歌うツムギの姿を。
それは見たことのない景色なのに、なぜか少し懐かしいような気がした。
「シドさんは、その時どこにいたんですか?」
「機械室だよ」
「一緒に乗らなかったんですか?」
「動かす猫が必要だったからねえ」
「でも、管理人さんなら、誰かに代わってもらえば」
「そうだねえ」
シドは小さく笑った。
「そうすればよかった」
その言葉は、あまりにも静かだった。
私はそれ以上、何も言えなかった。
シドは鍵束を机の上に置き、機械室の奥にある小さな棚を開けた。
中には古い帳面が入っていた。表紙は革のような素材で、端が丸くなっている。シドはそれを取り出し、机に広げた。
「これは?」
「観覧車の運行記録だよ」
「運行記録」
「いつ動かしたか、何人乗ったか、どこを直したか。そういうものを書いてある」
シドは頁をめくった。
そこには細かい文字が並んでいた。私には読めるところも、読めないところもある。日付らしいもの、数字、短い言葉。シドの字なのだろうか。丸くて、少しのんびりした字だった。
頁をめくるたび、紙がかすかに鳴った。
そして、あるところでシドの手が止まった。
そこだけ、他の頁よりも余白が多かった。
「ここから、あまり動いていない」
シドは言った。
「どうしてですか?」
「動かす理由が、なくなったからねえ」
また、その言い方だった。
理由。
乗せたい誰か。
渡したい相手。
全部が少しずつ繋がっているのに、真ん中だけがまだ見えない。
私は机の上の帳面を見た。
最後の方の頁には、短い文字がいくつか残っている。
その中に、赤い丸が描かれた印があった。
「これは?」
「夕陽がきれいだった日」
「印をつけていたんですか?」
「うん。あとで誰かに教えるためにねえ」
「誰か」
「うん」
シドはそれ以上言わなかった。
けれど、その誰かが誰なのか、私はもう半分分かっていた。
ツムギ。
歌がうまくて、怒る時に相手の目を見る猫。
シドが紅い宝石を渡したい相手。
まだ会っていない彼女の輪郭は、夕陽の色と一緒に少しずつ濃くなっていく。
「宝石は、夕陽みたいな色なんですよね」
「うん」
「ツムギさんは、夕陽が好き」
「うん」
「だから、その宝石を?」
訊きかけて、私は言葉を止めた。
シドは私を見る。
怒ってはいない。
ただ、少しだけ困ったように笑っていた。
「ひかりは、だんだん分かってきたねえ」
「合っていますか?」
「どうだろうねえ」
「そこは教えてくれないんですか」
「もう少しだけ、しまっておきたい」
シドはそう言った。
しまっておきたい。
フォルテがしまうことと、シドがしまっておくこと。
同じ言葉なのに、響きが少し違った。
フォルテは鍵のかかる場所へ入れる。
シドは、布で包んで胸の奥に置く。
そんな違いがあるように思えた。
シドは帳面を閉じた。
「ここに連れてきたかったのはね」
「はい」
「ひかりに、観覧車がただの乗り物ではないことを見てほしかったんだ」
誰かを乗せるための場所。
誰かと約束するための場所。
誰かに景色を見せるための場所。
そして今は、止まったまま、何かを待っている場所。
「分かりました」
私は言った。
「まだ全部は分かりません。でも、少しだけ」
「うん。それで十分だよ」
シドは鍵束を手に取り、機械室の扉へ向かった。
「明日、またフォルテの屋敷へ行こう」
「明日?」
「うん。今日はもう夕方だし、ひかりの宿も探さないといけない」
「あ」
私は完全に忘れていた。
前回の失敗を忘れ、また観覧車へ一直線に向かい、さらにシドの探し物を手伝って、フォルテの屋敷へ行って、観覧車の裏側まで来てしまった。
宿のことなど、頭のどこにもなかった。
「忘れていた顔だねえ」
「忘れていました」
「正直でよろしい」
「よろしいんでしょうか」
「宿は大事だよ。床で寝ると、起きられなくなる」
「シドさんが言うと説得力があります」
「経験者だからねえ」
シドはのんびり笑い、機械室の鍵を閉めた。
外へ出ると、夕陽が近づいていた。
観覧車の支柱が赤く染まり始めている。白かった塗装も、今は少し桃色に見えた。ゴンドラは止まったまま、風にすら揺れない。
私はその輪を見上げた。
いつか、あれが動く。
その時、私は何を見るのだろう。
海だろうか。
町だろうか。
それとも、シドがずっと見せたかった夕陽だろうか。
シドは観覧車を見上げ、ふと小さく呟いた。
「今日は、よく赤いねえ」
「夕陽ですか?」
「うん」
彼の目は、空の赤を見ているようで、別の赤を見ているようにも見えた。
私はその横顔を見ながら、紅い宝石のことを考えた。
夕陽を少しだけ固めたみたいな色。
それは今、フォルテの屋敷のどこかにあるかもしれない。
でも、たとえ見つけたとしても、それで全部が分かるわけではない。
宝石はただの答えではない。
たぶん、もっと重たいものへ続く扉だ。
私たちは遊園地を出て、宿を探すために大通りへ戻った。
町はすっかり夕方になっていた。
昼間のにぎやかさは少しずつ片づけられ、店先の明かりがぽつぽつと灯り始めている。布屋の青い布は畳まれ、魚屋の氷は木箱へしまわれ、果物屋の橙色の果実だけが夕陽を受けてさらに濃く見えた。
猫たちは帰る場所へ向かって歩いている。
誰かが誰かを呼び、誰かが「また明日」と手を振る。
その声の一つ一つが、町を夜へ移していく。
シドはその中を、ゆっくり歩いた。
途中で何匹もの猫が声をかけてきた。
「シド、今日はもう帰るのかい」
「まだ帰らないよ。ひかりの宿を探すんだ」
「旅の子かい」
「そう。観覧車のお客さん候補」
「候補ばっかりだねえ」
「まだ動いていないからねえ」
そう言われるたび、私は少しだけ照れてしまった。
観覧車のお客さん候補。
ただ乗りたいだけだったはずなのに、いつの間にか私は、この町の止まった観覧車と、紅い宝石と、シドの探し物の中に足を踏み入れている。
宿は、大通りから一本入ったところにあった。
白い壁と青い扉の小さな建物で、入口には猫の足跡の形をした看板が下がっている。扉を開けると、にゃりん、と鈴のような音が鳴った。
中から出てきたのは、丸眼鏡をかけた茶色の猫だった。
「あら、シド」
「こんにちは」
「今日はずいぶんと外にいるわね」
「うん。ひかりのおかげだねえ」
「この子が?」
「ひかり。今夜、泊まる場所を探しているんだ」
茶色の猫は私を見ると、やさしく笑った。
「まあ、旅の子ね。部屋は空いているわよ」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
宿の中は、木と潮の匂いがした。床は磨かれていて、壁には小さな絵が飾られている。絵には、港町と観覧車が描かれていた。観覧車は絵の中では動いているように見える。ゴンドラには猫たちが乗り、海の向こうには赤い夕陽が沈んでいた。
私はその絵を見つめた。
動いている観覧車。
まだ私は見たことのない景色。
「昔の絵だよ」
シドが隣で言った。
「昔は、動いていたんですね」
「うん。よく動いていた」
「シドさんも乗ったことがあるんですか?」
「あるよ」
「ツムギさんとも?」
訊いてから、また踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれどシドは、少しだけ笑った。
「乗る約束はした」
その答えは、乗ったとは違った。
私は絵を見る。
夕陽の中で回る観覧車。
そのゴンドラのどこかに、シドとツムギが乗るはずだったのだろうか。
だから今、観覧車は止まっているのだろうか。
宿の茶色い猫が部屋へ案内してくれた。
二階の小さな部屋だった。
窓からは大通りの一部と、遠くの観覧車の上半分が見える。ベッドは一つ。机と椅子と、貝殻の飾り。窓を開けると、潮風がふわりと入ってきた。
「いい部屋ですね」
「よかったねえ」
シドは部屋の入口でそう言った。
「シドさんは帰るんですか?」
「うん。僕の家は散らかっているけれど、いちおう家だからねえ」
「ご飯、食べてくださいね」
「ひかりはしっかりしているねえ」
「本当に食べてください」
「分かったよ。干し魚がある」
「干し魚だけじゃなくて」
「難しいことを言う」
「難しくありません」
シドは楽しそうに笑った。
けれど、廊下へ出ようとしたところで、少しだけ足を止めた。
「ひかり」
「はい」
「今日はありがとう」
「まだ宝石は見つかっていません」
「それでも、ありがとう」
シドはそう言った。
その声は、昼間のやわらかさと同じなのに、少しだけ真面目だった。
「久しぶりに、たくさん歩いた」
「よかったです」
「久しぶりに、たくさん話した」
「それも、よかったです」
「うん」
シドは頷いた。
「だから、今日は少し眠れそうだ」
私は何も言えなかった。
眠ること。
食べること。
歩くこと。
話すこと。
そんな当たり前のことが、シドにとっては久しぶりのことなのだ。
シドは「おやすみ」と言って、廊下の向こうへ歩いていった。
私は部屋の中に残り、窓辺へ行った。
夕方の町が見える。見下ろせば赤褐色の道と遠くの港。
そして、大きな観覧車。
脳を駆け巡ることは多い。
フォルテの屋敷には、紅い宝石があるかもしれない。
シドはそれをツムギに届けたい。
フォルテはそれを探すなと言う。
町の猫たちは、シドを気にかけながら、それでも宝石の話から少しだけ目を逸らす。
私はベッドに腰を下ろした。
まだ、何も終わっていない。
むしろ、何かが始まったばかりなのだと思う。
私は窓の外の観覧車を見た。
夕陽が近づき、その輪のふちを赤く染めている。
紅い宝石は、夕陽を少しだけ固めたみたいな色をしていると、シドは言っていた。
その宝石を見つけた時、何が起こるのだろう。
分からない。
分からないけれど、もう戻れないところまで来ている気がした。
私はそっと星型ポーチに触れた。
ルチトクでの旅を終えた時、私は少しだけ前へ進めたと思った。
でも、この町で必要なのは、また別の進み方なのかもしれない。
月へ飛ぶのではなく。
誰かを急かすのでもなく。
止まった観覧車が動き出すまで、そのそばで待つような進み方。
そして、見つけたものをどうするのか、一緒に見届けること。
窓の外で、鐘が鳴った。
夕方を告げる鐘だった。
その音は港町の上をゆっくり渡り、観覧車の輪をくぐり、海の方へ消えていった。
私はその音を聞きながら、明日、もう一度フォルテの屋敷へ行くことになるのだろうと思った。
正面からか。
裏からか。
それとも、まったく別の道からか。
まだ分からない。
けれど、紅い宝石はきっと、あの白い壁の向こうにある。
そしてそれは、シドだけの探し物ではなくなっていた。
本当の自分の探し物は、後回しにして。




