そのあなたの強さは
私は門の向こうを見た。
黒い外套の猫は、もう見えない。屋敷の裏手へ続くらしい細い道の奥には、白い壁と低い植え込みだけが残っている。さっきまで確かにそこを歩いていたはずなのに、赤い光も、小箱も、まるで最初からなかったみたいに消えていた。
でも、見間違いではない。
私は確かに見た。
箱の隙間からこぼれた、あの赤。
夕陽を細く削ったような、強くて、透き通った赤。
シドが探している宝石かどうかは分からない。分からないけれど、分からないままにしておけるほど弱い光ではなかった。
「シドさん」
「うん」
「今の、追いかけますか?」
私が訊くと、シドは門の格子に手を添えたまま、しばらく黙った。
黒い鉄の格子の向こうで、庭の花が潮風に揺れている。フォルテの屋敷は町の中にあるのに、ここだけ少し音が遠かった。市場の声も、港の鐘も、子猫たちの笑い声も、薄い硝子を一枚隔てた向こう側にあるみたいだった。
「追いかけたいところだけどねえ」
「けど?」
「正面の門は閉まっている」
「乗り越えますか?」
言ってから、自分で驚いた。
私はいつから、そんなことを真っ先に考えるようになったのだろう。
シドも少しだけ目を丸くした。
「ひかりは、見た目より大胆だねえ」
「いえ、今のは、その」
「でも、この門はやめておいた方がいい。フォルテの屋敷の門だからね。たぶん、よくない仕掛けがある」
「仕掛け?」
「領主の家というものは、ただ大きいだけじゃないんだよ」
シドはそう言って、門の上の方を指さした。
よく見ると、黒い鉄の格子の先端には、小さな鈴のようなものがいくつも付いていた。飾りかと思っていたけれど、風が吹いても鳴らない。きっと何かの合図になるものなのだろう。
「鳴らしたらどうなるんですか?」
「フォルテがすごく怒る」
「それだけですか?」
「それだけで十分怖いよ」
シドは本気で言っているようだった。
その様子に少しだけ力が抜ける。けれど、さっきの赤い光のことを思い出すと、すぐにまた背中が伸びた。
「でも、正面から訊いても、答えてくれるでしょうか」
「答えてくれないだろうねえ」
「じゃあ」
「でも、いきなり忍び込むのもよくない」
「それは、そうですけど」
「だから、まずは周りを歩こう」
「周り?」
「屋敷の周りにも道はあるよ。表から見ると立派な屋敷だけれど、裏へ回れば使用人の出入り口や荷運びの道もある。屋敷だって、暮らしている場所だからねえ」
シドは門から手を離し、屋敷の塀に沿って歩き始めた。
私は慌ててその隣へ並ぶ。
正面の門から離れると、白い壁が長く続いていた。壁の上には赤茶色の瓦が並び、その向こうに黒い屋根が少しだけ見える。外から見る限り、屋敷は静かだった。静かすぎて、あの中に誰かがいるのか疑いたくなるくらいだった。
少し歩くと、塀の下に細い路地があった。
人一人、いや猫一匹が通れるくらいの幅しかない。赤褐色の大通りと違って、そこには小さな石が敷かれているだけだった。両側の壁は高く、昼間なのに薄暗い。潮風もあまり入ってこないのか、空気が少しこもっていた。
「ここを通るんですか?」
「たぶんね」
「たぶん」
「僕も全部知っているわけではないからねえ」
「シドさん、町の人じゃないんですか?」
「町の猫ではあるけれど、フォルテの屋敷の猫ではないからね」
シドはのんびり言って、路地へ入っていった。
私は少し迷ったあと、後を追う。
路地は細く、ところどころに古い木箱や空の樽が置かれていた。壁には海風で乾いた蔦が絡まり、足元には落ちた葉が溜まっている。表通りの明るさとは違って、ここは町の裏側という感じがした。
でも、嫌な場所ではない。
誰かが急いで通り抜け、誰かが荷物を置き、誰かが雨宿りをしたかもしれない場所。
町の表情が、少しだけ変わって見えた。
「シドさんは、フォルテさんの屋敷に来たことがあるんですか?」
私が訊くと、シドは歩きながら少しだけ首を傾けた。
「あるよ。昔はね」
「昔」
「僕と、フォルテと、ツムギで、何度か来た。屋敷の庭でお茶を飲んだこともある」
「領主さんの屋敷でお茶」
「フォルテは見た目よりお茶にうるさいんだよ」
「似合います」
「似合うよねえ。お茶の香りをかいで、これは湯の温度が高すぎる、とか言うんだ」
シドは思い出したように少し笑った。
「それで、ツムギによく怒られていた」
「フォルテさんも怒られるんですね」
「怒られていたよ。今のフォルテからは想像しづらいけれどねえ」
シドの声はやわらかかった。
けれど、ツムギの名前が出るたびに、空気の奥に小さな影が落ちる。
本人は穏やかに話している。
昔の話として、懐かしそうに話している。
それでも、その懐かしさは、私が簡単に触っていいものではないように思えた。
「ツムギさんは、どんな猫なんですか?」
訊いてから、少しだけ息を止めた。
けれどシドは怒らなかった。
路地の薄暗がりの中で、壁に絡まった蔦を見上げながら、ゆっくり瞬きをする。
「よく笑う猫だよ」
「よく笑う」
「うん。笑う時、目が少し細くなるんだ。声はそんなに大きくないんだけど、笑っているのはすぐ分かる。あと、僕がぼんやりしていると、すぐ叱る」
「シドさん、よく叱られていそうです」
「よく叱られていたねえ」
シドは否定しなかった。
「でも、叱る時もやさしい猫だったよ」
「やさしい」
「うん。怒っているように見えて、ちゃんと相手がどこに立っているか見ている。だから、叱られると逃げられないんだ」
私はそのツムギを想像した。
港で歌い、怒る時には相手の目を見て、笑うと目が細くなる猫。
まだ会ってもいないのに、その姿が少しずつ私の中に形を持ち始めていた。
「その宝石は、ツムギさんに渡すものなんですね」
「うん」
シドは短く答えた。
「ずっと、渡したかった」
それ以上は言わなかった。
だから私も、今どこにいるのかとは訊かなかった。
もし訊いてしまったら、今はまだ閉じている扉を、無理やり開けることになる気がした。
路地の突き当たりで、シドは足を止めた。
そこには小さな木戸があった。
屋敷の裏手へ続く扉らしい。塀と同じ白い壁に埋もれるように作られていて、注意して見なければ見落としてしまいそうだった。扉の下には車輪の跡があり、荷車が出入りしているのだと分かる。
「裏口ですね」
「そうだねえ」
「開きますか?」
「普通は開かないだろうねえ」
シドはそう言いながら、扉へ近づいた。
木戸の横には小さな覗き窓があった。中は暗くてよく見えない。シドは耳を少し動かし、扉に手を当てた。
すると、扉の向こうから足音が聞こえた。
私は思わず身を引いた。
シドもゆっくりと後ろへ下がる。
木戸が内側から開いた。
出てきたのは、小柄な灰色の猫だった。肩から布袋を下げ、手には空の籠を持っている。彼は外へ出ようとして、私たちを見つけると、びくりと肩を跳ねさせた。
「シ、シドさん」
「こんにちは」
シドはいつもの調子で挨拶した。
「驚かせてごめんねえ」
「い、いえ」
灰色の猫は落ち着かなさそうに耳を伏せた。
その視線はシドと私の間を行き来し、それから屋敷の中へちらりと向いた。
「えっと、今日は、何か」
「少し訊きたいことがあって」
「ぼくに、ですか」
「うん」
シドはやわらかく微笑んだ。
「さっき、黒い外套の猫が、小箱を持って裏へ入っていったのを見たんだ」
灰色の猫の耳が、ぴんと立った。
その反応で、彼が何かを知っていることはすぐに分かった。
「ぼくは、何も」
「怒っているわけじゃないよ」
シドは静かに言った。
「ただ、探し物かもしれないんだ」
「探し物……」
「紅い宝石」
灰色の猫は、持っていた籠をぎゅっと握った。
小さな爪が籠の縁に引っかかる。
私は息を潜めた。
路地の向こうでは、表通りの音が遠く聞こえている。けれど、この木戸の前だけ、時間が止まったみたいだった。
「知っているんですね」
私が思わず言うと、灰色の猫ははっとこちらを見た。
少し強く言いすぎたかもしれない。
私は慌てて声をやわらげた。
「あの、責めたいわけじゃなくて。シドさんが、ずっと探しているものなんです」
「ひかり」
シドが私の名前を呼んだ。
咎める声ではなかった。
ただ、少し待とう、と言われている気がした。
私は唇を閉じた。
灰色の猫はしばらく俯いていた。
やがて、小さな声で言った。
「ぼくは、見ただけです」
「何を?」
シドが訊く。
「赤い石のようなものを。小箱に入っていました。奥の保管室へ運ぶように言われて」
「誰に?」
「フォルテ様の側近の、ネロさんに」
「フォルテは?」
「フォルテ様は……」
灰色の猫は言い淀んだ。
その沈黙だけで、答えは半分出ているようなものだった。
「知っているんだね」
シドは静かに言った。
灰色の猫は小さく頷いた。
「たぶん。いえ、きっと」
私の手に力が入る。
やっぱり。
フォルテは、宝石のことを知っている。
それどころか、屋敷の中に保管している。
あの広場で、探すなと言った声を思い出した。
大切なものだからこそ、探すな。
その意味が、少しだけ形を持ち始めていた。
「どうして」
私は声を抑えきれなかった。
「どうしてフォルテさんが、シドさんの宝石を」
「ひかり」
シドがまた私を呼んだ。
今度はさっきより少しだけ静かだった。
私は言葉を止める。
灰色の猫は怯えたように耳を伏せていた。
この猫を責めても仕方がない。
彼はただ、命じられたことをしただけなのかもしれない。
「ありがとう」
シドは灰色の猫へ言った。
「話してくれて」
「ぼく、フォルテ様を裏切るつもりじゃ」
「うん。分かっているよ」
「フォルテ様は、悪い方ではありません」
「それも分かっている」
シドはそう言って笑った。
灰色の猫は、泣きそうな顔でシドを見た。
「シドさんも、悪い方ではありません」
「うん。できれば、そうありたいねえ」
シドの声は本当にやさしかった。
でも、そのやさしさが、今は少し苦しく聞こえた。
灰色の猫は何度か頭を下げると、空の籠を抱えて路地の奥へ走っていった。
木戸は開いたままだった。
屋敷の裏手へ続く細い通路が、そこから見えている。
私はシドを見た。
「どうしますか」
「どうしようかねえ」
「行かないんですか?」
「行くんだろうねえ」
「なら」
「でも、これは泥棒になるのかな」
「元々シドさんの宝石なら、取り返すだけです」
「そう言ってくれるのはありがたいけれど、屋敷に勝手に入るのはよくない」
「それは、そうです」
言いながら、私も自分の言葉が少し頼りないことに気づいていた。
よくない。
それは分かっている。
でも、フォルテが正面から返してくれるとは思えない。
訊いても、探すなと言われるだけだろう。
それなら、どうすればいいのだろう。
正しいやり方だけで進めるほど、この夢の世界は簡単ではないのかもしれない。
けれど、間違ったやり方をしていい理由にもならない。
私は迷った。
ルチトクでのことを思い出す。
ハルクの願いを、キースは止めようとした。キースにはキースの理由があった。ハルクにはハルクの願いがあった。私はどちらかだけを間違いだとは言えなかった。
ここでも、同じなのかもしれない。
「シドさん」
「うん?」
「フォルテさんに、もう一度訊くのは駄目ですか」
「正面から?」
「はい」
「たぶん、駄目だろうねえ」
「でも、勝手に入るよりは」
「うん。ひかりは正しいね」
シドは木戸を見たまま言った。
「正しいことは、できるうちにしておいた方がいい」
「じゃあ」
「正面へ戻ろうか」
シドはそう言って、開いた木戸には入らず、路地を引き返した。
私は少しだけほっとした。
同時に、少しだけ焦った。
あの赤い光は、今この屋敷のどこかにある。
それを見つけられるかもしれない入口は、目の前に開いていた。
なのに、私たちは一度そこから離れる。
それが正しいのか、遠回りなのか、まだ分からなかった。
でも、シドは急がない。
急いでいるはずなのに、急がない。
その歩き方が、この猫の強さなのかもしれないと思った。




