夕陽の赤は煌めく
私たちは広場を抜け、町の奥へ向かう道へ入った。
そこは市場の賑やかさから少し離れていて、建物の影もやわらかかった。赤褐色のレンガ道は同じなのに、人通りが少ないだけで、足音がよく聞こえる。左右には小さな家や工房が並び、窓辺には乾いた花や貝殻が飾られていた。
通りの途中には、猫たちが使うらしい小さな井戸があった。
井戸の縁には魚の模様が彫られていて、そこに子猫が二匹乗っている。片方が水を覗き込もうとして、もう片方が尻尾を引っ張って止めていた。私が見ていることに気づくと、二匹は同時にこちらを見て、それからシドを見た。
「シドだ」
「シドが歩いてる」
「ほんとだ」
「すごい」
なぜ歩いているだけでそんな扱いなのだろう。
シドは二匹へ、のんびり手を振った。
「こんにちは。今日は歩いているよ」
「見れば分かるよ」
「倒れないの?」
「今のところ倒れていないねえ」
子猫たちはけらけら笑った。
その笑い声は明るく、遠慮がない。大人たちがシドに向ける気遣いとは違う、もっと単純な親しさだった。
「シド、その子だれ?」
「ひかり。観覧車に乗りたいんだって」
「観覧車、動くの?」
「動いたらいいねえ」
「動かしてよ」
「そうだねえ」
シドはそれだけ言って、また歩き出した。
子猫たちは「動いたら呼んでね」と叫んだ。
シドは振り返らずに手を振る。
私はその背中を追いながら、また観覧車のことを考えた。
観覧車は、町の誰もが知っている。
でも、誰も乗っていない。
動いてほしいと子猫たちは言う。
白猫の魚屋も、布屋の三毛猫も、きっと本当は動いてほしいと思っている。
それなのに、誰もシドへ強く頼まない。
動かせと怒らない。
ただ、遠くから見ている。
止まった大きな輪と、動かない管理人を。
記録屋は、青い扉の小さな建物だった。
扉の上には、羽ペンと魚の絵が描かれた看板が下がっている。窓硝子には細い文字がびっしり書かれていて、近づいても私には読めなかった。店の中へ入ると、紙の匂いがした。
列車で会った山羊の郵便鞄を思い出す。
届けられなかった手紙。
捨てた瞬間に、本当に届かなくなるもの。
この町にも、そういうものがたくさんあるのかもしれない。
店内には棚がぎっしり並び、そこに帳面や札や小箱が詰められていた。奥の机には、眼鏡をかけた細身の猫が座っている。毛並みは薄い灰色で、耳の先だけが黒い。彼は私たちを見ると、ペンを置いた。
「シド」
「こんにちは、ラウル」
「今日はずいぶん活動的だね」
「お腹を満たしたからねえ」
「なるほど。食事は大切だ」
ラウルと呼ばれた猫は、私を見た。
「こちらは?」
「ひかり。観覧車のお客さん候補だよ」
「まだ候補なんだね」
「まだ動かしていないからねえ」
「それで、用件は」
ラウルの声は静かだった。
無駄がない。
けれどフォルテのように冷たいわけではなく、紙に文字を並べるように整っている。
「紅い宝石の記録を見たいんだ」
シドが言うと、ラウルは一瞬だけ目を伏せた。
やはり、この話になると空気が変わる。
ほんの少し。
でも——確実に。
「前にも見せた」
「うん。何度も見た」
「記録は変わらない」
「でも、僕の記憶はよくふわふわするからねえ。もう一度見ると、何か違って見えるかもしれない」
ラウルはしばらくシドを見ていた。
それから、小さく息を吐き、椅子を引いた。
「待っていて」
彼は奥の棚へ向かった。
私は店内を見回す。
壁には町の地図が貼られていた。赤褐色の大通り、広場、港、灯台、観覧車のある小さな遊園地。そして町の奥に、他の建物より大きく描かれた屋敷がある。
「あれは?」
私が地図を指さすと、シドもそちらを見た。
「あれはフォルテの屋敷だねえ」
「大きいですね」
「領主だからね」
「フォルテさんは、この町を守っているんですか?」
「うん。そうだよ。フォルテは、町を守るのがとても上手だ」
怒るのも上手。
町を守るのも上手。
シドの言うフォルテは、私が見た冷たい黒猫と少し違って聞こえた。
「優しい人なんですか?」
「優しいよ」
シドはすぐに言った。
迷いがなかった。
「ただ、優しさの形が、たまに角ばっている」
「角ばっている」
「うん。ぶつかると痛い」
私は思わずフォルテの鋭い目を思い出した。
たしかに、あの優しさがあるのだとしても、触れたら痛そうではある。
ラウルが一冊の帳面を持って戻ってきた。
表紙は深い緑色で、角が擦り切れている。彼は机にそれを置き、慎重に頁をめくった。
「三年前の秋。紅い宝石の紛失届」
三年前。
私はシドを見た。
シドは柔らかい顔のまま、帳面を覗き込んでいる。
「届出人、シド。特徴、紅色の宝石。大きさは猫の親指ほど。金具なし。紐なし。装飾なし。透明度高し。夕陽のような赤」
「うん。それだねえ」
「拾得記録なし」
ラウルは淡々と言った。
「市場、港、灯台、倉庫、遊園地、白石通り、フォルテ邸外周、いずれも届け出なし」
白石通り。
その言葉に、私は少しだけ引っかかった。
けれどシドは何も言わない。
帳面を見つめたまま、ただ小さく頷いている。
「やっぱり、ないねえ」
「だから言っただろう」
「でも、見せてくれてありがとう」
シドはそう言って笑った。
ラウルは帳面を閉じようとして、ふと手を止めた。
「ただ」
その一言に、私とシドは同時に顔を上げた。
「何かあったんですか?」
私が訊くと、ラウルは眼鏡の位置を直した。
「記録ではない。噂だ」
「噂」
「一月ほど前、赤い光を見た者がいる」
シドの耳が揺れた。
その動きは小さかったけれど、私は見逃さなかった。
「どこで?」
シドの声は変わらず穏やかだった。
けれど、ほんの少しだけ近くなった気がした。
「フォルテ邸の裏門近く」
店内が静かになった。
窓の外から伝わる町の音だけがやけに大きく聞こえる。
けれど、この小さな記録屋の中だけ、音が少し遠ざかったようだった。
「赤い光というだけだ。宝石と決まったわけではない」
ラウルはすぐに付け足した。
「しかも見たのは夜だ。猫の目は暗がりに強いが、それでも見間違いはある」
「誰が見たんですか?」
「夜番の若い猫だ。名前はニノ。フォルテ邸の外周を見回っていたらしい」
「フォルテさんの屋敷の猫ですか?」
「いや、町の夜番だ。領主の屋敷周りも巡回する」
私はシドを見た。
シドは帳面を見ていた。
いや、帳面ではなく、その上の何もない場所を見ているようだった。
「フォルテの屋敷かあ」
シドはゆっくり言った。
「フォルテさんが持っているってことですか?」
私が訊くと、ラウルは首を振った。
「決めつけるには早い」
「でも」
「早い」
ラウルの声は静かだったけれど、きっぱりしていた。
「この町でフォルテを疑うなら、それなりの理由がいる。彼はこの町を守っている。疑いだけで踏み込めば、君たちが傷を負う」
私は何も言えなかった。
フォルテは近寄りがたい。
でも、町の猫たちは彼を恐れているだけではなかった。
道を開けた時の空気。
声を小さくした店主たち。
それはきっと、領主としてのフォルテへの敬意でもあった。
シドはラウルに向かって、ゆっくり頭を下げた。
「ありがとう」
「行くのか」
「まだ分からないねえ」
「君のまだ分からないは、だいたい行くという意味だ」
「そうだったかな」
「そうだ」
ラウルは帳面を閉じた。
「シド」
「うん」
「見つけたら、ちゃんと記録に残しに来てくれ」
「うん」
「それと、ひとりで抱えるな。君は、すぐそうする」
シドはしばらく黙っていた。
それから、困ったように笑った。
「そんなつもりはないんだけどねえ」
「つもりがなくても、そうなる」
ラウルの声は、魚屋や布屋の言葉よりもずっと真っ直ぐだった。
シドは答えなかった。
答えないまま、にこりと笑った。
その笑顔を見て、私は胸の奥がきゅっと縮むような感じがした。
ラウルもそれ以上は言わなかった。
私たちは記録屋を出た。
外の光が眩しかった。
さっきまで薄暗い紙の匂いの中にいたからか、赤褐色の道も、白い壁も、青い空も、少しだけ強く見える。町は変わらず明るい。子猫が走り、魚屋が声を張り、海鳥が鳴いている。
けれど私の中には、フォルテ邸の裏門近くで見えた赤い光、という言葉が残っていた。
「シドさん」
「うん?」
「フォルテさんが持っていると思いますか?」
「どうだろうねえ」
「怒りませんか?」
「誰が?」
「シドさんが」
シドは不思議そうに私を見た。
それから、ゆっくり笑った。
「怒るのは、やっぱり得意じゃないねえ」
「でも、もしフォルテさんが」
「うん」
「大切な宝石を隠しているとしたら」
言ってから、私の方が少し怖くなった。
フォルテはシドを止めようとしていた。
大切なものだから探すなと言った。
もし、彼が本当に宝石の場所を知っているなら。
もし、知っているどころか持っているならそれは、ただの意地悪では済まない気がした。
シドは歩きながら、干し魚の袋を揺らした。
「フォルテはねえ、意地悪ではないよ」
「でも冷たかったです」
「うん。冷たい時はある」
「宝石を探すなって言っていました」
「うん。言っていた」
「それでも、意地悪じゃないんですか?」
シドは少しだけ考えた。
そして、道の先に見える観覧車を見上げた。
「フォルテは、守ろうとするんだ」
「守る?」
「町も、猫も、約束も、昔からあるものも。たぶん、守れるものなら何でも守ろうとする」
観覧車の大きな輪は、建物の向こうから半分だけ顔を出している。
動かないまま。
待っているように。
「でもねえ、守るっていうのは難しいね」
シドの声は穏やかだった。
「大事にしまっているつもりが、誰にも触れなくなっていることもあるから」
私はその言葉をうまく受け取れなかった。
けれど、フォルテの冷たい目と、シドの空の布が、胸の奥で並んだ。
フォルテは守ろうとしている。
シドは届けようとしている。
その二つが同じ方向を向いていない。
だからぶつかる。
そんな気がした。
私たちは記録屋で聞いた夜番の猫を探すことにした。
ニノという若い猫は、港の見張り台にいるらしい。広場から港へ戻る道を歩くと、さっきより海の音が近くなった。波が岸壁に当たり、船の縄が軋み、帆布が風を受けて低く鳴る。
見張り台は、船着き場の端にある小さな塔のような場所だった。
そこにいたのは、黒と白のぶち模様の若い猫だった。彼は眠そうな目で海を見ていたが、シドを見ると慌てて背筋を伸ばした。
「シドさん」
「こんにちは、ニノ」
「今日は倒れてないんですね」
「今日は倒れていないよ」
「よかったです」
ニノは本当にほっとしたように言った。
この町では、シドが倒れていることはそんなに有名なのだろうか。
私は少し複雑な気持ちになった。
「ニノ、少し訊いてもいいかな」
「はい」
「フォルテの屋敷の裏門で、赤い光を見たって聞いたんだけど」
ニノの耳がぴんと立った。
「誰から聞いたんですか」
「ラウル」
「ああ……」
ニノは気まずそうに視線を逸らした。
「あれ——言ってよかったのかな」
「もう聞いたからねえ」
「そうですね」
ニノは見張り台の柵に手を置き、少し声を落とした。
「あの日、夜番でフォルテ様の屋敷の裏を通ったんです。風が強い夜で、雲が月を隠したり出したりしていて」
「雨は?」
「降ってません。この町、あまり降らないですし」
また雨の降らない日。
私はシドを見た。
シドは何も言わず、ニノの話を聞いている。
「裏門のあたりで、赤い光が見えました。小さいけど、すごく強い赤でした。灯りじゃないです。火でもない。なんていうか、透明なものの奥で光っているみたいな」
「宝石みたいに?」
私が訊くと、ニノは少し困った顔をした。
「そう見えました。でも、すぐに消えたんです」
「誰かいましたか?」
「いました」
「誰ですか?」
ニノは一度シドを見た。
それから、声をさらに小さくした。
「フォルテ様の屋敷の使用人です。黒い外套を着た猫で、何か小箱を持っていました」
「小箱」
「はい。小さい箱です。両手で抱えるくらいの」
私の胸がどきりとした。
シドは、やはり穏やかな顔をしている。
けれど、その耳だけがほんの少し前を向いていた。
「それをどこへ?」
「裏門から中へ。屋敷の奥までは見ていません」
「フォルテさんは?」
「見ていません。でも、あの屋敷でフォルテ様の知らないものが動くとは思えないです」
ニノは言ってから、慌てて首を振った。
「でも、盗んだとか、そういうことを言いたいわけじゃないです。フォルテ様は町のためにずっと働いていますし、僕も疑っているわけじゃ」
「うん。分かっているよ」
シドはやさしく言った。
「話してくれてありがとう」
ニノはまだ不安そうだった。
「シドさん、あまり無茶しないでください」
「無茶は得意じゃないよ」
「でも、たまに無茶に見えます」
「それは困ったねえ」
シドは少し笑った。
私たちは見張り台を離れた。
港の風は少し強くなっていた。波はきらきらしているのに、その輝きがさっきより眩しく感じる。
赤い光。
小箱。
フォルテ邸の裏門。
宝石の形はまだ見えない。
けれど、糸の先のようなものは見え始めている。
「シドさん」
「うん」
「フォルテさんの屋敷へ行きますか?」
訊くと、シドはゆっくり歩きながら、しばらく考えた。
「行くしかないのかもしれないねえ」
「怖くないんですか?」
「怖いよ」
シドはあっさり言った。
あまりにもあっさり言ったので、私は少し驚いた。
「怖いんですか?」
「うん。フォルテは怒ると怖いからねえ」
「そういう怖さですか?」
「それもある」
「それ以外も?」
「それ以外も」
シドは干し魚の袋を上着のポケットにしまった。
その仕草が、いつもより少しだけ丁寧だった。
「もし本当にフォルテが持っているなら、フォルテにはフォルテの理由があるんだと思う」
「理由があれば、取っていいんですか?」
「よくないねえ」
「じゃあ」
「でも、理由があるから怒れない、ということもある」
私は黙った。
難しい。
ルチトクでも、ハルクとキースはお互いを想っていた。想っていたのに、すれ違っていた。キースはハルクを止めたかった。ハルクは月へ行きたかった。そのどちらにも痛みがあった。
ここでも、同じなのだろうか。
シドは宝石を探している。
フォルテはそれを止めようとしている。
どちらかが完全に悪いと決められたら、どれほど簡単だろう。
でもたぶん、この旅はそういうふうにはできていない。
「ひかり」
シドが私を呼んだ。
「はい」
「巻き込んでしまっているねえ」
「自分で手伝うって言いました」
「そうだけどね」
「それに、私は観覧車に乗りたいです」
私がそう言うと、シドは少しだけ笑った。
「ひかりは、観覧車が好きなんだねえ」
「まだ乗ったことはありません」
「乗ったことがないのに好きなのかい?」
「乗りたいって思うから、たぶん好きなんだと思います」
「それはいいねえ」
シドは空を見上げた。
観覧車の輪が、建物の向こうに見える。
「僕も、昔は好きだったよ」
「今は?」
シドはすぐには答えなかった。
ただ、遠くの大きな輪を見ていた。
「今も、嫌いじゃないよ」
また、その言い方だった。
好きだった。
嫌いじゃない。
その間にあるものを、私はまだ知らない。
けれど、いつか知ることになる気がした。
私たちは町の奥へ向かった。
フォルテの屋敷がある方へ。
赤褐色の大通りは、そこへ近づくにつれて少しだけ整っていった。店の賑わいは遠ざかり、代わりに白い壁の家が増える。窓辺の花も、吊るされた貝殻も、どこかきちんと並べられている。道の両脇には低い柵が続き、その向こうに小さな庭が見えた。
庭には、海風に強い低い花が咲いていた。
やがて、道の先に大きな門が見えてきた。
黒い鉄の門。
その向こうに、白い壁と黒い屋根を持つ屋敷が立っている。
屋敷は高すぎるわけではない。
けれど、平らな町の中では十分に大きく、静かに目立っていた。港町の明るい色の中で、そこだけが少し影を濃くしているように見える。
「あれが、フォルテさんの屋敷」
「うん」
シドは門の前で足を止めた。
黒い鉄の格子越しに、屋敷の窓が見える。カーテンは閉じられていて、中の様子は分からない。
門の横には、呼び鈴があった。
魚の形ではない。
銀の小さな鈴だ。
シドはそれを見て、少しだけ困ったように笑った。
「ここまで来ちゃったねえ」
「鳴らしますか?」
「鳴らしたら、正面から来たことになるね」
「正面からじゃない方がいいんですか?」
「フォルテは正面が好きだよ」
「じゃあ、正面でいいのでは」
「そうだねえ。怒られるなら、正面から怒られた方がいいかもしれない」
シドはそう言って、銀の鈴へ手を伸ばした。
その時だった。
門の内側、屋敷の裏へ続くらしい細い道を、黒い外套の猫が横切った。
両手には、小さな箱を抱えている。
私は息を呑んだ。
ニノが言っていた小箱。
黒い外套。
シドもそれに気づいたのか、伸ばしかけた手を止めた。
外套の猫は私たちには気づかず、屋敷の裏手へ消えていく。
ほんの一瞬だった。
けれど、その小箱の隙間から、赤い光がちらりと漏れた。
夕陽を細く削ったような、強い赤。
「今の」
私の声は小さくなった。
シドは門の向こうを見たまま、ゆっくり瞬きをした。
「見えたねえ」
「宝石、でしょうか」
「分からない」
シドは静かに言った。
「でも、確かめないとねえ」
その声は、やはり穏やかだった。
けれど、今までより少しだけ、前を向いていた。




