探しものはどこへ
外へ出ると、潮の匂いが強くなった。
青い屋根の家から赤褐色の道へ戻ると、町は駅に着いた時よりずっとにぎやかに見えた。
海に近い町というのは、きっとこういう匂いをしているのだと思った。
焼いた魚の匂い。
湿った網の匂い。
古い木箱と、油と、果物の甘さが混ざった匂い。
鼻の奥に少しだけ塩が残るようで、それなのに嫌ではない。むしろ歩いているだけで、どこか遠くまで連れていかれそうな匂いだった。
道の両側には、小さな店がぎゅっと並んでいた。
魚屋の軒先には銀色の魚が並び、陽の光を受けてきらきらしている。果物屋では丸い橙色の果実が山のように積まれ、布屋の前には青や白の布が波みたいにはためいていた。店と店の間には細い路地があり、その奥には洗濯物が干されている。白いシャツ、赤い布、子猫用らしい小さな服。それらが風に揺れるたび、町全体が呼吸しているみたいに見えた。
本当に猫が多い町だった。
魚を抱えて走る子猫。
店先で眠っている太った猫。
帆布を縫っている三毛猫。
船の修理をしている縞模様の猫。
窓辺から顔だけ出している長毛の猫。
樽の上に座って昼寝をしている黒白の猫。
どの猫も二本足で歩き、服を着て、言葉を話し、けれどふとした瞬間に耳を揺らしたり、尻尾をぴんと立てたりする。そのたびに、ここが人間の町ではないことを思い出した。
もっとも、シドには尾がなかった。
私はついその背中を見てしまい、慌てて視線を逸らした。
「気になるかい?」
「えっ」
「尾がないこと」
見られていた。
私は言葉に詰まった。
「すみません」
「謝らなくていいよ。ないものはないからねえ」
シドはそう言って笑った。
その言い方は軽かった。軽すぎて、逆に本当に軽いことなのか分からなかった。
けれど、今は訊かないことにした。
訊かなくてもいいことと、いつか訊かなければならないことは、きっと違う。
今の私はまだ、その違いをうまく掴めていない。
シドは魚屋の前で足を止めた。
店先にいた白猫が、シドを見るなり目を丸くする。
「シド、外に出てるじゃないか」
「うん。出ているねえ」
「また食べずに倒れてたんじゃないだろうね」
「横になっていただけだよ」
私はシドを見た。
倒れていた。
完全に倒れていた。
白猫は私の顔を見て、すぐに察したようだった。
「倒れてたんだね」
「床はやさしくて」
「屁理屈をふわふわ言うんじゃないよ」
白猫は呆れたようにため息をつき、それから私を見た。
「この子は?」
「ひかり。観覧車に乗りたいんだって」
「あの観覧車に?」
「うん。とても乗りたそうな顔をしている」
白猫は私を見て、少しだけ笑った。
「たしかに、してるね」
私はまた頬を押さえた。
「それで、ついでに探し物を手伝ってもらうことにした」
シドがそう言うと、白猫の顔から笑みが少し薄れた。
「あれを、まだ探してるんだね」
「うん。まだ探しているよ」
「うちにはないよ」
「知っている」
「じゃあ何しに来たんだい」
「お腹がすいた時のために、干し魚を買っておこうかと」
「先にそれをしな」
白猫は文句を言いながらも、紙袋に干し魚をいくつか入れてシドに渡した。
「お代は?」
「いらないよ。どうせまた忘れるんだろ」
「忘れないかもしれない」
「忘れるよ」
「否定できないねえ」
シドは困ったように笑い、紙袋を受け取った。
そのやり取りを見ていると、シドがこの町で嫌われているわけではないことが分かった。呆れられて、気にされて、少し怒られている。けれど、その怒り方は、遠くへ追いやるものではなかった。
この町の猫たちは、シドを見ている。
でも、シドの奥にあるものまでは、たぶん触れられずにいる。
魚屋を離れると、シドはすぐに干し魚を一本取り出し、のんびりとかじった。
「さっき食べましたよね」
「これは歩くための分だよ」
「歩くため」
「うん。歩くとお腹が減るからねえ」
「倒れる前に食べるのはいいことだと思います」
「ひかりに褒められた」
「褒めたというより、普通のことを言いました」
「普通のことをちゃんとできるのは、えらいことだよ」
シドは干し魚をかじりながら、真面目な顔でそう言った。
その言い方がおかしくて、私は少し笑ってしまった。
笑ったあとで、はっとする。
私は今、知らない町で、知らない猫の探し物を手伝っている。
それなのに、少しだけ楽しいと思っている。
ルチトクでの旅が終わって、次の町へ来て、また何か大変なことが待っているのかもしれない。そう思っていたはずなのに、シドの歩く速度はあまりにもゆっくりで、町の潮風は明るくて、私の足も自然と前へ出ていた。
もちろん、油断していいわけではない。
けれど、旅というのは怖いことだけでできているわけではないのだと、少しずつ分かってきた。
シドはまず、古道具屋へ向かった。
店は大通りから少し入った場所にあった。軒先には欠けた皿、古いランプ、壊れた時計、片方だけの靴、誰のものか分からない額縁などが所狭しと並んでいる。入口の上には、錆びた看板が揺れていた。
店主は片目に丸い硝子をかけた年老いた猫だった。
「おや、シド。今日は歩いてるのかい」
「歩いているよ」
「珍しいねえ。嵐でも来るか」
「この町はあまり雨が降らないからねえ」
「じゃあ、降ったらあんたのせいだね」
店主はそう言って笑った。
シドも「それは困るねえ」と笑った。
私は店の中を見回す。
薄暗い店内には、古いものの匂いがした。木の匂い、埃の匂い、金属の冷たさを含んだ匂い。棚にはさまざまな小物が並んでいて、そのどれもが誰かの手を離れてここへ来たのだと思うと、不思議な気持ちになった。
「いつもの探し物かい」
店主が訊くと、シドは頷いた。
「うん。紅い宝石」
「うちには入ってないよ。入ったら言うって、前にも言ったろ」
「念のためだよ」
「念が長いねえ」
「長く探しているからねえ」
店主はそれ以上からかうのをやめた。
古い引き出しをいくつか開け、赤い石のついた指輪や硝子玉を見せてくれた。けれど、シドはどれを見ても首を横に振った。
「違うねえ」
「見れば分かるんですか?」
私が訊くと、シドは少しだけ微笑んだ。
「分かるよ。あれはね、夕陽なんだ」
「夕陽」
「うん。ここで見る夕陽とは少し違う。もっと燃えていて、でも冷たくなくて、触れるとあたたかそうな赤だよ」
それは宝石の説明というより、誰かの瞳の話をしているみたいだった。
私はそう思ったけれど、口にはしなかった。
古道具屋を出て、次に向かったのは船具屋だった。
そこには太い縄や帆布、金具、錨の模型、木製の浮きが並んでいる。店先では若い縞猫がロープを巻き直していた。シドを見ると、縞猫は手を止めた。
「シドさん、今日は外ですか」
「うん。外は明るいねえ」
「いつも明るいですよ」
「そうだったかな」
「そうですよ」
縞猫は笑いながらも、シドの手元の袋を見て、表情を少し改めた。
「宝石ですか」
「うん」
「うちにはないです。赤い浮きならありますけど」
「宝石じゃなくて、浮きになっていたら驚くねえ」
「でも、沈むよりはいいですよ」
縞猫の何気ない言葉に、シドの耳が少し動いた。
沈む。
その言葉だけが、潮風の中で少し重く聞こえた。
縞猫もそれに気づいたのか、慌ててロープを巻き始めた。
「すみません」
「いいよ。浮くのは大事だ」
シドは穏やかに言った。
けれど、その横顔は少しだけ遠くなっていた。
船具屋の次は、布屋だった。
布屋の軒先には、青、白、赤、黄色の布が何枚も吊るされていた。風を受けるたび、布はふわりと膨らみ、まるで小さな帆のように揺れる。店の奥では、三毛猫の女性が針を動かしていた。
「シド」
彼女はシドを見るなり、少し驚いたように目を上げた。
「今日は顔色がいいじゃない」
「ひかりにご飯を作ってもらったからねえ」
「まあ」
三毛猫は私を見て、ぱっと笑った。
「それはありがとうね。この子、放っておくと本当に食べないのよ」
「この子、なんですね」
「この子よ。大きいけどね」
シドは否定しなかった。
ただ、布の揺れる店先で、少し照れたように耳を伏せていた。
「紅い宝石のこと?」
三毛猫が声を落として訊いた。
「うん」
「ここにはないわ。もし布に縫いつけられていたら、すぐ分かるもの」
「そうだねえ」
「でも、赤い布ならあるわよ。見る?」
「宝石を探しに来たんだけどねえ」
「探し物をしている時は、似た色を見るのも大事でしょう」
三毛猫はそう言って、棚の奥から赤い布を一枚取り出した。
深い赤だった。
夕陽というより、熟した果実のような赤。シドはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「綺麗だねえ」
「違う?」
「違うねえ。でも、綺麗だ」
三毛猫は布をそっと畳んだ。
「見つかるといいわね」
「うん」
「でも、シド」
「うん?」
「見つかったら、ちゃんと見せに来なさいよ。あんた、すぐひとりで抱え込むんだから」
その言葉に、シドはすぐには返事をしなかった。
布屋の中で、吊るされた布だけが風に揺れている。
「うん」
やがて、シドは静かに言った。
「見せに来られるといいねえ」
三毛猫は眉を寄せた。
けれど何も言わなかった。
私は二匹の間にある沈黙を見ていた。
この町の猫たちは、シドにやさしい。
でも、そのやさしさの中には、どこか言葉にできない迷いのようなものが混じっている。
宝石を探すシドを止めたいのか。
それとも、見つかってほしいのか。
どちらなのか、みんな自分でも分からないように見えた。
布屋を出ると、道は少しだけ海の方へ曲がった。
港が近づいているのか、潮の匂いが濃くなる。空には海鳥が増え、船の帆柱が建物の隙間からいくつも見えた。猫たちの声に混じって、遠くで鐘の音が聞こえる。船が戻ってきた合図なのかもしれない。
シドはその音を聞いて、ふと足を止めた。
「今の音は?」
私が訊くと、シドは港の方を見た。
「船が戻った音だねえ」
「毎日鳴るんですか?」
「うん。朝と昼と夕方。港町だから、船の音で一日が少しずつ進むんだ」
シドは目を細めた。
「昔は、この音が好きだった」
「今は?」
「今も、嫌いじゃないよ」
嫌いじゃない。
好きだった。
その二つの間には、きっと大きな距離がある。
私はそれ以上訊かなかった。
かわりに、港の方へ目を向けた。
船着き場には、色とりどりの小舟が並んでいた。青い船、赤い船、白い船。どれも猫たちの身体に合わせた大きさなのか、どこか丸みがあって可愛らしい。漁師たちは魚籠を下ろし、子猫たちはそれを覗き込んでは怒られている。
その光景は明るかった。
とても明るい。
だからこそ、シドの探している紅い宝石の話だけが、町の明るさから少し浮いて見えた。
私たちは港沿いの倉庫へも向かった。
倉庫の扉は大きく開いていて、中には木箱や樽が積まれている。潮で濡れた床は少し滑りやすく、私は何度か足元を確かめながら歩いた。シドは慣れているのか、のんびりしているのに不思議と滑らない。
「ここにも来たことがあるんですか?」
「何度もあるよ」
「見つからなかったんですよね」
「うん」
「それでも、また探すんですか?」
「うん。探していると、まだ途中でいられるからねえ」
シドは木箱の陰を覗き込みながら言った。
その声は本当に穏やかだった。
でも私は、なぜかその言葉が少し怖かった。
まだ途中でいられる。
それは、何かが始まる前の場所に留まっていたいということだろうか。
それとも、見つけたあとに何をするのか、シド自身も決められずにいるということだろうか。
倉庫の奥には、小さな窓があった。
そこから海が見えた。
海は明るく、波は白く光っている。こんなに明るい景色の中で、シドだけがずっと夕陽のような赤を探している。そのことが、少し不思議だった。
倉庫でも宝石は見つからなかった。
次に行ったのは、灯台へ続く石段だった。
白い灯台は町の端に立っていて、そこへ向かう道には小さな花が咲いていた。花びらは淡い黄色で、潮風を受けても折れず、低く地面に寄り添うように揺れている。
石段の途中で、年老いた猫が座っていた。
彼は網を繕っていたが、シドを見ると手を止めた。
「まだ探しとるのか」
「うん」
「そうか」
年老いた猫はそれだけ言って、また網に目を落とした。
けれど、シドが通り過ぎようとすると、ぽつりと言った。
「ツムギが見たら、叱るぞ」
ツムギ。
初めて聞く名前だった。
シドの足が止まる。
私はシドを見た。
シドは振り返らなかった。
ただ、背中だけがほんの少し静かになった。
「そうだねえ」
シドはいつものように穏やかに言った。
「ツムギは、怒ると怖かったからねえ」
年老いた猫は何も言わなかった。
ただ、網を繕う手を少しだけ止めた。
私はその名前を胸の奥で繰り返した。
ツムギ。
シドが紅い宝石を渡したかった相手。
きっと、そうなのだ。
訊いていいのか迷った。
でも、シドの背中がまだそれを許していない気がした。
だから私は黙って、石段を一緒に下りた。
町歩きはそれからも続いた。
小さな菓子屋では、子猫たちが魚の形をした焼き菓子を買っていた。シドは店先で立ち止まり、「これも美味しいよ」と言って一つ買ってくれた。外はさくりとしていて、中には甘い餡が入っている。港町らしく少し塩が利いていて、食べると口の中に海風みたいな後味が残った。
「シドさん、探し物中なのに寄り道していいんですか?」
「歩いていると、お腹がすくからねえ」
「さっきも言っていました」
「大事なことは何度でも言うものだよ」
シドはそう言って、自分も菓子をかじった。
その姿だけ見れば、本当にただののんびりした猫だった。
けれど、通り過ぎる猫たちがシドを見る目は、どこか少し違う。
やさしくて、困っていて、言いたいことを呑み込んでいる。
私はそれが気になって仕方なかった。
シドの宝石は、ただの落とし物ではない。
この町の誰もが知っていて、けれど誰も深く話したがらないもの。
そして、ツムギという名前。
その名前が出た時、空気が変わった。
まるで、海の底に沈めていたものが、ほんの少しだけ水面へ浮かび上がったみたいだった。
「シドさん」
「うん?」
「ツムギさんって」
言いかけたところで、シドは私を見た。
怒ってはいない。
笑ってもいる。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけ静かだった。
「ツムギはねえ」
「はい」
「歌がうまいんだ」
「歌」
「うん。港で船を待つ時、よく歌っていた。大きな声じゃないんだけど、なぜか遠くまで届く歌でねえ。海鳥まで静かになるんだ」
シドはそれだけ言って、また歩き始めた。
私はそれ以上訊けなかった。
歌がうまい。
それは紹介のようで、紹介ではない。
ツムギが今どこにいるのか、なぜシドが宝石を渡せていないのか、シドは何も言わなかった。
けれど、彼が今でもその歌を覚えていることだけは分かった。
やがて私たちは、大通りの真ん中にある広場へ出た。
そこには噴水があり、魚の形をした石像の口から細い水が流れていた。周囲には市場の屋台が並び、猫たちが果物や魚や布を売っている。子猫たちは噴水の縁を走り回り、年老いた猫たちは日陰で目を細めていた。
広場は町の真ん中らしく、とてもにぎやかだった。
果物を値切る声。
魚の鮮度を自慢する声。
子猫を叱る声。
帆布を広げる音。
水の流れる音。
どれも明るく、忙しく、生活そのものの音だった。
私は少し立ち止まり、その全部を見た。
ここは平らな町だ。
ルチトクのように坂の上と下で景色が変わるわけではない。けれど、平らだからこそ、遠くまで生活が続いているのが分かる。赤褐色の道は町の奥へ伸び、建物の間には潮風が入り込み、その上から観覧車が半分だけ顔を出している。
あの大きな輪は、この町のどこからでも見えているのかもしれない。
止まったまま。
誰かを待つように。
そのにぎやかな広場の空気が、ふいに静かになった。
最初に気づいたのは、屋台の猫たちだった。
声が一つ、二つと小さくなる。
子猫が噴水の縁から降り、魚屋が包丁を置き、布屋が広げていた布を少しだけ下げる。
誰かが来たのだと、すぐに分かった。
猫たちが自然に道を開ける。
それは怖がって逃げるのとは違った。
敬意。
緊張。
そして、少しだけ近寄りがたさ。
そういうものが混ざった道の開き方だった。
私はシドの隣で、広場の向こうを見た。
黒い猫だった。
ただし、ただの黒ではない。
夜を丁寧に梳いて、艶だけを残したような黒だった。
くるくると巻いた毛は潮風を受けても乱れず、むしろその一本一本が気高く波打っているように見える。額から首元へかけて続く柔らかな巻き毛は、黒い波のようでもあり、夜の雲のようでもあった。
アーモンド形の瞳は細く、鋭く、涼やかだった。
瞳の色は深い琥珀に近く、光を受けるとわずかに金色を帯びる。冷たいだけではない。見られた者が自然と背筋を伸ばしてしまうような、静かな威厳がある。
身につけている上着もまた黒に近い深い色で、襟元には小さな銀の留め具が光っていた。毛並みも、服も、歩き方も、何もかもが整っている。足取りには無駄がなく、石畳の方が彼に合わせて敷かれているみたいだった。
綺麗な猫。
私は思わずそう思った。
可愛い、ではない。
綺麗で、気高くて、少し近寄りがたい。
まるでこの町の潮風でさえ、彼の前では少し姿勢を正すようだった。
その黒猫は、まっすぐシドの前で足を止めた。
「シド」
低く、よく通る声だった。
怒鳴っているわけではないのに、広場のざわめきの中でその声だけがはっきり届く。
「フォルテ」
シドは、いつものように穏やかな声で名を呼んだ。
「今日もきれいに巻いているねえ」
黒猫――フォルテの目が、わずかに細くなった。
「そういう話をしているのではない」
「じゃあ、どういう話かな」
「分かっているだろう」
「分かっているような、分かっていないような」
「まだ探しているのか」
その言葉で、広場の空気がまた少し固くなった。
私はシドを見た。
シドは変わらず、やわらかく立っていた。
魚屋でも、布屋でも、灯台への石段でも、シドはずっとそうだった。
誰に何を言われても、怒らない。
急がない。
けれど、宝石を探すことだけはやめない。
「うん。探しているよ」
「やめろ」
短い言葉だった。
けれど、そこには刃物のような冷たさがあった。
シドは困ったように笑った。
「フォルテは、いつもそれを言うねえ」
「お前がやめないからだ」
「大切なものだからね」
「大切なものだからこそ、探すなと言っている」
私は二匹の間に立ち尽くした。
シドの声は柔らかい。
フォルテの声は冷たい。
でも、冷たいだけではない気がした。突き放すための冷たさというより、何かがこぼれないように固く閉じているような冷たさだった。
「その子は?」
フォルテの鋭い目が、私へ向いた。
思わず背筋が伸びる。
「ひかりだよ。観覧車に乗りたいんだって」
「よそ者を巻き込むな」
「巻き込んだというより、手伝ってくれることになったんだ」
「同じことだ」
フォルテは私を見たまま言った。
「君も、これ以上関わらない方がいい」
「でも」
「これはこの町の問題だ」
言い方は静かだった。
けれど、そこには明らかな線が引かれていた。
ここから先へ入るな、という線だった。
前の私なら、その線の前で立ち止まっていたかもしれない。
知らない町で、知らない領主らしい猫にそう言われたら、怖くなって頷いていたかもしれない。
でも今は、シドが持っていた空の布を思い出していた。
紅い宝石の跡だけが残った布。
届けられなかったもの。
まだ途中かもしれないもの。
「私は、シドさんと約束しました」
私は言った。
フォルテの目が、ほんの少し鋭くなる。
「約束?」
「宝石を探すのを手伝う代わりに、観覧車を動かしてもらうんです」
「そんなものに乗るために、首を突っ込むのか」
「そんなものじゃありません」
自分でも少し驚くほど、すぐに言葉が出た。
観覧車はまだ動いていない。
ただの大きな輪に見えるかもしれない。
でも、私にはもう、ただ止まっているだけには見えなかった。
あれは誰かを待っている。
たぶん、シドも。
「私は、あの観覧車に乗りたいです」
フォルテはしばらく私を見ていた。
その目は冷たいのに、どこか疲れているようにも見えた。
「……好きにしろ」
やがて彼はそう言った。
「ただし、後悔しても知らない」
フォルテはそれだけ告げると、広場の奥へ歩き出した。
猫たちはまた自然に道を開ける。黒い巻き毛が陽を受けて艶めき、彼の背中は最後までまっすぐだった。
シドはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
「怒られちゃったねえ」
「いつも、あんな感じなんですか?」
「うん。フォルテは昔から、怒るのが上手なんだ」
「上手、なんですか」
「下手ではないかな」
シドはそう言って、干し魚の紙袋を少し揺らした。
けれど、その横顔から笑みは薄れていた。
私はフォルテが去っていった方を見る。
あの黒猫は、シドを止めようとしていた。
冷たく、強く、近寄りがたく。
それでも、なぜだろう。
シドのことをどうでもいいと思っているようには、見えなかった。
私はそれが気になったまま、広場の人混みへ視線を戻した。
フォルテが去ったあとも、広場には少しだけ固い空気が残っていた。果物を売っていた猫は、いったん止めていた声をまた張り上げ、噴水の縁にいた子猫たちも恐る恐る走り出す。けれど、さっきまでとまったく同じ賑やかさには戻らない。水面に小石を投げ入れたあと、波紋だけがしばらく残るみたいに、フォルテの言葉はこの場所に薄く広がっていた。
——やめろ。
——大切なものだからこそ、探すな。
その言葉は変だった。
大切なものなら、探すべきではないのだろうか。なくしたものなら、見つけるべきではないのだろうか。
けれど、フォルテはそうは言わなかった。
大切なものだからこそ、探すなと言った。
それはまるで、見つけてはいけない理由を知っているみたいだった。
「フォルテさんは、この町で偉い猫なんですか?」
私が訊くと、シドは干し魚の紙袋を片手に、少しだけ首を傾げた。
「偉い、という言い方が合っているのかは分からないけれどねえ。この町のことをよく見ている猫だよ」
「領主さん、みたいな?」
「そうだね。みんなはだいたい、そう呼ぶ」
「シドさんとは、昔からの知り合いなんですか?」
「うん。昔からの知り合いだよ。僕と、フォルテと、それからツムギは、よく一緒にいた」
また、その名前が出た。
ツムギ。
シドが紅い宝石を渡したかった相手。
歌がうまくて、怒ると怖かったという猫。
私はその名前を口に出しそうになって、やめた。
訊きたいことはたくさんある。
けれど、何でも訊けばいいわけではない。ルチトクで、私はそれを少しだけ覚えた気がしていた。
相手が話せるところまで、隣を歩く。
飛べるまでそばにいる。
もしかすると、それは猫にも同じなのかもしれない。
「フォルテさん、怒っていましたね」
「うん。フォルテは怒っていたねえ」
「シドさんは、怒らないんですか?」
「僕?」
シドは自分のことを訊かれるとは思っていなかったようで、丸い目を少しだけ開いた。
「僕は、あまり怒るのが得意じゃないんだ」
「得意とかあるんですか?」
「あるよ。フォルテは上手だし、ツムギも上手だった」
「ツムギさんも」
「うん。ツムギはねえ、怒る時にちゃんと相手の目を見るんだ。そうすると、逃げられない」
シドはそう言って、少し懐かしそうに笑った。
「僕は逃げるのが上手だったけど、よく捕まったよ」
その言い方は明るかった。
でも、明るい思い出の形をしているからこそ、まだ会っていないツムギの輪郭がくっきり浮かんでしまう。
私はシドの横顔を見た。
やわらかい灰色の毛が、潮風で少しだけ揺れている。片方の耳の欠けたところが陽を受けて白く光り、尾のない背中は、通りを歩く他の猫たちと比べると少しだけ物足りなく見えた。
でもシド自身は、それを気にしているようには見せない。
歩き方も、喋り方も、どこまでものんびりしている。
そののんびりした姿の奥に、どうしてあんなに長く探し続けるものがあるのか、私はまだうまく掴めなかった。
「次はどこへ行くんですか?」
「そうだねえ」
シドは大通りの先を見た。
広場からは四本の道が伸びていた。一つはさっき通ってきた魚屋や布屋の並ぶ道。一つは港へ向かう道。一つは白い灯台へ続く石段の方。そしてもう一つは、町の奥へ向かってゆるやかに伸びる、少し静かな道だった。
ルチトクのような坂ではない。
この町はどこまでも平らだ。
けれど、平らな道にも明るさの違いはある。市場へ続く道は声で満ちていて、港へ続く道は潮の匂いで濃い。灯台へ続く道は白く乾いていて、町の奥へ続く道だけが、どこか静かだった。
「古い記録屋に行ってみようか」
「記録屋?」
「なくし物や、拾い物や、誰かが届けたものを書き留めておく店だよ。この町では、魚も手紙も貝殻も、何でもよく流れ着くからねえ」
「宝石も、誰かが拾っているかもしれないってことですか?」
「その可能性は、海に落ちた魚が自分で帰ってくるくらいにはあるかな」
「それは高いんですか、低いんですか」
「魚によるねえ」
答えになっていない。
けれど、シドは本当にそう思っているような顔で言うので、こちらもそれ以上つっこめなかった。




