この部屋を出るのさ
私はしばらく固まっていた。
倒れている大きな猫を見つけ、息をしていることを確かめ、それでもまだ何かとんでもない病気や怪我かもしれないと身構えていたのに、その口から出てきたのは、あまりにも呑気な空腹の訴えだった。
「お腹が、すいたんですか?」
私が訊くと、大きな猫は床に頬をつけたまま、申し訳なさそうに目を細めた。
「うん。すいたねえ」
「倒れるまで食べなかったんですか?」
「倒れたというかねえ」
「はい」
「少し横になったら、床が思ったよりも優しかったんだ」
「それは倒れたというんだと思います」
「そうかい?」
「そうです」
私は思わずきっぱりと言った。
大きな猫は、怒るでもなく、困るでもなく、ただゆっくりと瞬きをした。潮風に揺れるカーテンの下で、灰色がかった毛並みがふわりと動く。身体はとても大きいのに、喋り方はやわらかい。まるで昼寝から起こされたばかりの猫が、そのまま人の言葉を話しているみたいだった。
「あの、あなたがシドさんですか?」
「うん。たぶん、そうだねえ」
「たぶん?」
「長いことそう呼ばれているから、きっとそうなんだと思う」
「そこは自信を持ってください」
「そうだね。じゃあ、改めて」
大きな猫は床に寝そべったまま、ほんの少しだけ手を上げた。
「僕はシド。観覧車の管理人をしているんだ。もっとも、最近はあまり管理しているとは言えないけれどねえ」
シドはそう言って、へにゃりと笑った。
その笑い方があまりにも気の抜けたものだったので、私は少しだけ肩の力が抜けた。
「私はひかり、縁紫ひかりです」
「ひかり」
シドは私の名前をゆっくり繰り返した。
「いい名前だねえ。明るそうで」
「ありがとうございます」
「ひかりは、どうして僕の家に?」
「観覧車に乗りたくて。漁師の猫さんに、管理人のシドさんを訪ねるといいって教えてもらったんです」
ただの疑問だったのだろう。
しかし、不許可での侵入であることは間違いなかったので私は少し早口になる。
「ああ、たぶんミケルだね。魚籠を担いでいたかい?」
「はい。耳に布を巻いていました」
「ならミケルだ。あの子は面倒見がいいからねえ」
シドはそこまで言って、また目を閉じかけた。
「寝ないでください」
「寝てないよ」
「目を閉じました」
「省エネだよ」
「今は省エネしないでください」
私は膝をついたまま、どうしたものかと家の中を見回した。
室内は薄暗い。
窓は開いているのに、カーテンが半分閉まっていて、細い光だけが床に落ちている。床には本、布、空の皿、丸まった紙、何かの部品らしい歯車が散らばっていた。机の上には飲みかけだったらしいカップが置かれたままで、底の方に乾いた茶色い跡が残っている。壁際には工具箱があり、その隣には観覧車のものらしい古い図面が筒状に丸められて立てかけられていた。
散らかっている。
けれど、荒れているのとは少し違う気がした。
まるで、途中で全部をやめてしまったみたいな部屋だった。
本を読んでいる途中。
お茶を飲んでいる途中。
何かを直している途中。
片づけようとしている途中。
その途中だけがいくつも積み重なって、部屋のあちこちに置きっぱなしにされている。
そしてシド自身も、その途中の一つみたいに床へ転がっていた。
窓辺には貝殻がいくつも吊るされている。
白いもの、薄桃色のもの、縞模様のもの。小さな紐で繋がれたそれらは、潮風が部屋に入り込むたびに、かちり、かちりと鳴った。飾りというには少し素朴で、けれど捨てられない理由がありそうなものたちだった。
棚の上には、空の瓶が並んでいた。
中身はない。
けれど瓶の底には、夕陽を映したような赤い硝子片がいくつか入っている。光が当たると、それだけが小さくきらめいた。
私はその赤に少しだけ目を留めた。
どうしてだろう。
この家には、持ち主が眠っている間にも、何かを待ち続けているものが多すぎる気がした。
「あの、何か食べた方がいいです」
「そうだねえ」
「台所、借りてもいいですか?」
「もちろん。好きに使っておくれ」
「まだ何があるか分かりませんけど」
「何かはあると思う」
「思う、なんですね」
「台所というのは、だいたい何かがある場所だからね」
とても信用できない理屈だった。
けれど、このまま話していてもシドは床から動かなさそうだったので、私は立ち上がり、家の奥へ向かった。
台所は狭かったけれど、思ったより整っていた。棚には瓶がいくつか並び、乾いたパンが布に包まれている。小さな籠には少ししなびた野菜が入っていて、吊り棚には干し魚が二匹だけ残っていた。壁には木べらや小鍋が掛けられ、流し台の横には洗われた皿が数枚伏せられている。
食べ物がないわけではない。
ただ、それを食べる形にする気力が、シドから抜け落ちているだけなのだ。
私はパンを薄く切り、干し魚をほぐし、野菜を少しだけ挟んだ。台所の端に置かれていた小さな瓶を開けると、酸味のある匂いがしたので、ほんの少しだけパンに塗る。料理と呼ぶには簡単すぎるけれど、少なくとも床に倒れている猫を起こすには十分だと思った。
作っている間、家の中はずっと静かだった。
静かすぎて、包丁がまな板に当たる小さな音や、瓶の蓋を開ける音まで大きく聞こえる。シドが本当に起きているのか少し不安になって、私は何度か台所から顔を出した。
そのたび、シドは床に寝そべったままこちらを見ていた。
眠っているわけではない。
ただ、起きているのに動かない。
その姿が、妙に胸の奥へ残った。
「シドさん、食べられますか?」
皿を持って戻ると、シドは床に倒れたまま、片目だけを開けた。
「持ってきてくれると、うれしいなあ」
「起きてください」
「お腹がすいているんだよ」
「だから起きてください」
「ひかりはしっかりしているねえ」
「シドさんがしっかりしていないんです」
「それは否定できないにゃあ」
シドはまるで大仕事に取りかかるみたいに、ゆっくりと身体を起こした。
大きな身体だった。
私よりずっと大きい。灰色がかった毛並みはところどころ跳ねていて、片方の耳は少し欠けている。尾はなかった。厳密に言えばうさぎのようなふんわりとした何かが生えている。
けれど、じろじろ見るのは失礼だと思い、私はすぐに皿へ視線を戻した。
シドは椅子に腰を下ろすと、私が差し出したパンを両手で受け取った。
「いただきます」
その声は、驚くほど丁寧だった。
けれど食べ始めると、あっという間だった。
一つ目が消え、二つ目を作ることになり、三つ目を食べ終えたところで、シドはようやく満足そうに息を吐いた。
「助かったよ。ひかりは命の恩人だねえ」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないよ。お腹がすくと、世界は遠のく」
「世界が、遠のく?」
「うん。目の前にあるものまで、手を伸ばすのが難しくなる」
シドは空の皿を見下ろしながら言った。
声はやわらかい。
でも、その言い方だけが少し不思議だった。
ただの空腹の話をしているようで、それだけではないような気がした。けれど、まだ初対面の私が踏み込んでいい場所ではない気もした。
食べ終えたシドは、椅子の背にもたれ、窓の方へ顔を向けた。
窓の外には、建物の屋根越しに観覧車の上半分が見えている。青い空の中に大きな輪が浮かび、けれどその輪はぴたりと止まったままだった。
近くで見ても、遠くで見ても、やはり不思議な存在感がある。
町の中のどこにいても、あの観覧車だけは見えてしまうのではないかと思うほどだった。
「あの、シドさん」
「うん?」
「観覧車の管理人さんなんですよね」
「そうだよ。いちおう、そういうことになっている」
「いちおう?」
「観覧車を動かしていない管理人だからねえ。胸を張って名乗るには、少し申し訳ない」
「どうして、動かしていないんですか?」
訊いてから、少しだけ早かったかもしれないと思った。
シドは怒らなかった。
ただ、窓の向こうの大きな輪を見つめたまま、ゆっくり瞬きをした。
「動かせないわけじゃないんだ」
「じゃあ、動くんですか?」
「うん。油を差して、歯車を確かめて、鎖の具合を見て、少し時間をかければ動くよ。あれは古いけれど、まだちゃんとしている」
「じゃあ」
「でも、今は動かす理由がなくてねえ」
「理由……」
「観覧車って、不思議なものだよ。機械だから、手順を踏めば動く。ぐるりと回すだけなら、そこまで難しくない。でも、乗せたい誰かがいないと、どうにも重たい」
シドはそう言って、少しだけ笑った。
その笑みは、さっきまでのふわふわしたものとは違った。
薄く、遠く、目の前の私ではない誰かへ向けられているようだった。
私は窓の外を見た。
動かない観覧車。
空の中に置き忘れられた大きな輪。
それはただ壊れているのではなく、誰かが来るまで息をひそめているようにも見えた。
「私——あの観覧車に乗りたいんです」
「うん。そういう顔をしている」
「また顔に出ていますか?」
「出ているとも。海を初めて見た子猫みたいな顔だ」
「猫ではないです」
「そうだったねえ」
シドはくすりと笑った。
その笑い方はやはり穏やかで、こちらの焦りまでふわっとほどいてしまうようなものだった。
「乗りたいなら、乗せてあげたいところだけれど」
「けれど?」
「もしよかったら、ひとつ手伝ってくれないかな」
「手伝う、ですか?」
「うん。探し物をしているんだ」
シドは椅子からゆっくり立ち上がった。
空腹が満たされたからか、さっきより足取りはしっかりしている。けれど、急ぐ様子はない。大きな猫が潮風の中をゆっくり歩く姿は、なんだか古い絵本の挿絵みたいだった。
シドは棚の引き出しを開け、小さな布を取り出した。
古びてはいるけれど、大切に扱われてきたことが分かる布だった。角は少し擦り切れているのに、きちんと畳まれていて、余計なしわがない。
シドはそれを机の上へ広げた。
布の真ん中には、何か丸いものを包んでいたような跡だけが残っている。
「ここに、紅い宝石があった」
「宝石……」
「夕陽を少しだけ固めたみたいな色をしていてね。綺麗なんだ。とても」
シドの声は変わらず穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥に、そっと蓋をした箱のようなものがある気がした。
「大切なものなんですね」
「うん。大切なものだよ」
「誰かに渡すもの、ですか?」
私が訊くと、シドは少しだけ目を細めた。
眠たそうな目ではなかった。
遠いものを見ている目だった。
「そう。ずっと、渡したかったものなんだ」
ずっと。
その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
列車で出会った山羊の言葉が、ふいに蘇る。
届けられなかったものは、捨てた瞬間に、本当に届かなくなる。
シドの宝石も、もしかしたらそういうものなのかもしれない。
まだ届いていないだけのもの。
届く時を、ずっと待っているもの。
「分かりました。探します」
私は頷いた。
シドは少し驚いたように耳を揺らした。
「早いねえ」
「観覧車に乗りたいので」
「正直だ」
「それに、大切なものなら、見つけたいです」
そう言うと、シドは布をそっと畳んだ。
何も包んでいない布なのに、その手つきはひどくやさしかった。まるで、そこにまだ宝石があるみたいに。
「ありがとう。じゃあ、まずは町を歩こうか」
「はい」
「訊きたいことが顔に出ているね」
「えっ」
「思い当たりはありますか、って顔をしている」
「していましたか」
「しているとも」
「ありますか?」
「ないこともないし、あるとも言い切れない」
「それは、ないのでは?」
「そうとも言うねえ」
私は思わず少し笑った。
シドは壁に掛けてあった古い上着を羽織り、棚の上に置いてあった小さな袋を手に取った。そこに畳んだ布をそっと入れる。
家を出る前に、シドは一度だけ部屋を見回した。
長く視線を留めたのは、窓辺の貝殻だった。
かちり、かちり。
貝殻は潮風に揺れている。
シドはそれに何かを言うわけでもなく、ただ一度だけ目を細めてから、扉を開けた。




