出会いは潮騒と共に
「ここが、新しい町……」
町の名前と駅の名前が直結しているのかは分からないが、駅の名をモルタルと列車は告げていた。
私はまた消えてしまった駅の方角を含めた周囲をくるくると見渡した。
レンガ造りの町並みは、ルチトクとはずいぶん違っていた。
あの町のように、なだらかな坂がいくつも重なり、屋根や窓が段々に並んでいるわけではない。ここはもっと平らで、ずっと奥まで見通せる町だった。
私の足元からは、赤褐色の大通りがまっすぐ伸びている。
乾いたレンガを敷き詰めたようなその道は、左右に並ぶ建物の間を抜け、町の奥の奥まで続いていた。遠くへ行くほど道幅は細く見え、陽の光を受けた赤褐色は、まるで夕焼けを薄く溶かして塗ったみたいに柔らかく輝いている。
建物はどれも背が低く、港町らしい白い窓枠や、風に揺れる布のひさしを持っていた。どこからか潮の匂いが流れてきて、私の頬をそっと撫でる。
それは知らない町が私を迎え入れてくれたような気分になった。
けれど、その穏やかな町並みの中に、ひとつだけ不釣り合いなものがあった。
大通りのずっと先。
建物の屋根を乗り越えるようにして、大きな観覧車の上半分が顔を出していた。
まるで町の奥に隠れていた巨人が、そっとこちらを覗いているみたいだった。
それは列車の窓から見た時と同じように、動いていなかった。
「……よし」
私は前回の失敗を忘れ、再び宿も探さぬまま観覧車へ向かった。
そういえば、今回は次の列車の発車日のアナウンスがなかった。
その理由はわからないが、きっとまた乗れる。
そう確信していた。
やがて、潮の匂いが強くなった。
船着き場が目の前に広がる。
観覧車を目印に歩みを進める。
町で言えば南西端であろうか。
その場所に観覧車はあった。
いや、観覧車だけではなかった。
「わぁ……!」
そこは、小さな遊園地であった。
それは本当に小さなものだ。
子供だけで乗れるようなジェットコースター。
足の着きそうなメリーゴーランド。
なんの動物か分からない、顔出しパネル。
そして大きな、大きな、観覧車。
その場所でも不釣り合いな存在感を演出していた観覧車は、やはり止まったまま。
周囲には誰もいない、無人の遊園地だった。
入口らしき門は開いているのに、きっぷ売り場には誰もいない。風に揺れる小さな旗だけが、ぱたぱたと頼りない音を立てていた。
私は観覧車の柵のそばまで近づいた。
錆びついているわけではない。壊れているようにも見えない。けれど、ゴンドラはひとつも揺れず、軸のあたりから音もしなかった。
どうして動いていないのだろう。
どうしてだろうと思うほど、私はそれに乗ってみたくなった。
海のそばの観覧車。
きっと上まで昇れば、この町も、海も、全て見えるはずだった。
ハルクさんの背中から見た海とは違う。
列車の窓から見た海とも違う。
この町で、この観覧車から見る海は、どんなふうに見えるのだろう。
「嬢ちゃん、それは動かねえよ」
背後から声がして、私は肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには魚の入った籠を担いだ猫が立っていた。日に焼けたような茶色の毛並みに、短い上着。耳の片方には古びた布が巻かれていて、足元には潮で濡れた跡がある。どう見ても漁師だった。
うん、私の決めつけでは、そうだ。
「動かないんですか?」
私は訊いた。
「ああ。ずいぶん前からな。管理人はいるんだが、まあ、あいつが動かす気にならねえ」
猫の漁師は観覧車を見上げ、少しだけ困ったように髭を揺らした。
「乗りたかったのか?」
「はい。すごく」
正直に答えると、漁師は私の顔を見て、少し笑った。
「そんな顔されると、追い返しづらいな」
そんなに乗りたそうな顔をしていただろうか。
私は思わず頬を押さえた。
「管理人のシドって猫を訪ねてみな。もしかしたら、話くらいは聞いてくれるかもしれねえ」
「シドさん、ですか」
「この道を海沿いに少し戻って、青い屋根の家だ。扉の前に魚の形の呼び鈴があるから、すぐ分かる」
「ありがとうございます」
頭を下げると、漁師は籠を担ぎ直した。
「ただし、あんまり期待しすぎるなよ。あいつは今、それどころじゃないかもしれん」
その言い方が妙に引っかかった。
けれど訊き返す前に、漁師は船着き場の方へ歩いていってしまった。
私はもう一度、観覧車を見上げた。
止まったままの大きな輪は、さっきよりも少し近くに感じられた。けれど、乗るにはまだ何かが足りない。
管理人のシド。
その名前を胸の奥で繰り返しながら、私は青い屋根の家を探して歩き出した。
家はすぐに見つかった。
海沿いの道から少し入った場所に、ぽつんと建っていた。白い壁に、少しくすんだ青い屋根。窓辺には乾いた貝殻がいくつか吊るされ、風が吹くたびにかちかちと小さく鳴っている。
扉の前には、漁師が言っていた通り、魚の形をした呼び鈴がぶら下がっていた。
私は扉の前に立ち、軽くノックをした。
「すみません」
返事はない。
もう一度ノックする。
「シドさん、いらっしゃいますか」
やっぱり返事はない。
私は少し迷ってから、魚の形の呼び鈴に手を伸ばした。紐を引くと、思っていた鐘の音ではなく、にゃーん、という気の抜けた声が家の中へ響いた。
私は思わず固まった。
今のは、呼び鈴なのだろうか。
それとも、本物の猫がどこかで返事をしたのだろうか。
耳を澄ませる。
けれど、家の中は静かなままだった。
「シドさん……?」
不安になって、もう一度扉を叩いた。
その時だった。
こつん、と叩いた拍子に、扉がゆっくりと内側へ動いた。
鍵がかかっていない。
それどころか、最初から少し開いていたらしい。
私は手を引っ込めた。
勝手に入るのは、いけないことだ。
分かっている。
分かっているのに、扉の隙間から流れてくる家の中の静けさが、どうにも普通ではない気がした。
「すみません。入りますよ」
わざと少し大きな声で言ってから、私はそっと扉を押した。
室内は薄暗かった。
窓は開いているのに、カーテンが半分閉まっていて、潮風だけが細く入り込んでいる。床には本や布や空の皿が散らばり、机の上には飲みかけのカップが置かれたままだった。
そして、その床の真ん中に、大きな猫が倒れていた。
「えっ……!」
私は息を呑んで駆け寄った。
灰色がかった毛並みの、大きな猫だった。体は私よりずっと大きく、片方の耳が少し欠けている。尾は見えなかった。眠っているだけなのか、倒れているのか、一瞬分からなかった。
「シドさんですか? 大丈夫ですか?」
私は膝をついて声をかけた。
猫は動かない。
私は慌てて顔を覗き込む。
息はしている。
それを確認した瞬間、少しだけ力が抜けた。
けれど安堵の息を漏らすにはまだ早い。
「シドさん、聞こえますか。あの、起きてください」
肩のあたりを揺すろうとした、その時だった。
ぐうううう。
家の静けさを破って、低くて長い音が鳴った。
私は固まった。
音は、目の前の大きな猫のお腹から聞こえていた。
猫は薄く目を開ける。
そして、まるで世界で一番重大なことを告げるみたいに、掠れた声で言った。
「……腹が、減った」
これが、私の知るシドの第一声だった。




