また、会えました。
山羊が去ったあと、私は外の景色に夢中になった。
きらきらと光る水面も。
寄せては返す波も。
こんなに間近で見るのは初めてだったのだ。
明るいうちの列車旅も良いものだ。
前回はレールのないジェットコースターのような気分を味わったためかもしれない。
昨日までの慌ただしさが影響したのかもしれない。
どちらにせよ、今日の私はこの海のようにきらきらするようなことがあったらいいな。
そう物思いに耽っていた。
「楽しそうだね」
突然、先ほどまで山羊が座っていた向かい側の席から、声がした。
振り返ってみると、そこにいたのはタキシードを着た熊――ハートがそこに座っていた。
「ハートさん!」
私は驚きと喜びの合わさった感情で裏返った声で彼の名を呼んだ。
「やあひかり、また会ったね」
「はい……また、会えました」
そう言ってから、私は少しだけ胸を撫で下ろした。
ハートは、私がこの夢の世界で初めて出会った人だった。
人、というには少し大きすぎて、熊、というにはあまりにも紳士的すぎる。
黒いタキシードに、絹のように艶のあるシルクハット。手には、身体の大きさに比べれば少し短い杖を持っている。
最初に見た時は驚いた。
けれど今は、その低くて柔らかな声を聞くだけで、どこか帰ってきたような気持ちになる。
ハートは、この列車のことも、この夢のことも、私よりずっと知っているように見える。
けれど、何もかもを教えてくれるわけではない。
いつも少しだけ遠くから、私が自分で歩くのを見守っている。
「少し、顔つきが変わったね」
ハートは私を見て、ゆっくりと目を細めた。
「え?」
「前に会った時のきみは、もっと不安そうだった」
私は思わず自分の頬に手を当てた。
そんなに顔に出ているのだろうか。
「……不安じゃないわけじゃありません」
「うん」
「でも、前よりは少しだけ、分かることが増えた気がします」
「それは、いい旅だったのかな」
ハートは静かに尋ねた。
どこへ行ったのか、誰と会ったのか。
彼は何も知らない。
それでも、私の中に何かが残っていることだけは、ちゃんと見えているようだった。
私は窓の外を見た。
海が光っている。
ハルクさんの背中から初めて見た青が、今は列車のすぐ隣を走っている。
「いい旅、だったと思います」
私は言った。
「楽しいだけではなかったけど。悲しいことも、苦しいこともありました。でも、誰かの願いが届くところを見ました」
「願いが?」
「はい。願いが叶っても、全部が終わるわけじゃないんだってことも知りました」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
それでも、もう目を逸らしたくはなかった。
「でも、それでも……届くものはあるんだと思いました」
ハートは静かに頷いた。
「そうか」
たったそれだけだった。
けれど、その一言が、私には褒められたように聞こえた。
「それなら、きみはきっと、前より少しだけ遠くへ行ける」
「遠くへ?」
「場所の話ではないよ」
ハートは杖の先を、こつん、と床に置いた。
「きみが、きみ自身の奥へ進めるようになったという話だ」
遠く。
私はどこへ行くのだろう。
前にもそう思ったことはあった。
もちろんその時の不安に感じていた疑問とは抱えているものが違う。
あの時の私は、行き先が分からないことそのものが怖かった。
次に何が待っているのか。
この列車は私をどこへ連れていくのか。
私は本当に元の世界へ戻れるのか。
そんなことばかりを考えて、きっぷを握りしめる指先までこわばっていた。
けれど今は、少しだけ違う。
怖くないわけではない。
分からないことは、まだたくさんある。
元の世界へ帰る方法も見つかっていないし、この列車がどうして私を乗せているのかも分からない。
それでも、行き先の分からなさだけで足がすくむような感じは、前よりも薄くなっていた。
どこへ行くのか分からない。
でも、そこで誰かに会うのかもしれない。
誰かの願いに触れるのかもしれない。
そして、私にも何かできることがあるのかもしれない。
そう思えるようになっただけで、列車の揺れは前より少しだけやさしく感じられた。
私はもう一度、窓の外を見た。
海が続いている。
青い水面は陽の光を受けて、まるで砕いた硝子を散りばめたみたいに輝いていた。波は寄せて、返して、そのたびに白い縁をほどいてゆく。
その海岸線の先に、ふいに丸いものが見えた。
最初は、空に浮かんだ輪のように見えた。
けれど列車が進むにつれて、それが何なのか分かった。
観覧車だ。
海へ突き出した岬のような場所に、大きな観覧車が立っている。
空を抱え込むように丸く、けれど少し寂しそうに、じっと止まっていた。
私は思わず窓に手をついた。
動いていない。
でも、目が離せなかった。
あそこだ。
なぜか、そう思った。
きっぷの文字が読めたわけでもない。
誰かが教えてくれたわけでもない。
けれど、あの観覧車を見た瞬間、胸の奥で小さな鈴が鳴ったような気がした。
あそこが、次の目的地なのだ。
「見つけたみたいだね」
ハートが静かに言った。
私は窓の外を見たまま頷いた。
「たぶん、あそこです」
「そうしたらまた、お別れだね」
その言葉に、私はようやくハートを振り返った。
分かっていたはずなのに、胸の奥が少しだけ沈む。
ハートはいつもそうだ。
突然現れて、少しだけ言葉をくれて、そしてまたどこかへ行ってしまう。
私の代わりに歩いてはくれない。
でも、歩き出す前に、そっと背中のあたりを温めてくれる。
「また、会えますか?」
私は訊いた。
ハートは、すぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと目を細める。
その表情は笑っているようでもあり、少しだけ困っているようでもあった。
「きみが歩き続けるなら」
ハートは言った。
「きっと、また会えるよ」
「約束ですか?」
「約束、というほど立派なものではないね」
ハートは杖の柄に大きな手を重ねた。
「でも、僕はきみが歩く音を聞いている」
「歩く音?」
「そう。迷っても、転んでも、立ち止まっても、また進もうとする音だ」
列車が少しだけ大きく揺れた。
窓の外の観覧車が、さっきよりも近づいている。
海沿いの町の屋根が見え始め、白い灯台のようなものが、陽の光の中で細く立っていた。
「だから、ひかり」
ハートの声が、列車の音にまぎれず届いた。
「次の町でも、よく見ておいで」
「はい」
「答えだけを急いで探すと、大切なものを見落とすことがある」
私は山羊の言葉を思い出した。
届けられなかったもの。
見つけたあとが一番重い探し物。
それらがまだ形にならないまま、私の中で静かに重なっていく。
「ちゃんと、見てきます」
私がそう答えると、ハートは満足そうに頷いた。
列車は速度を落とし始めていた。
ガタ、ゴト。
ガタ、ゴト。
車輪の音が、少しずつゆっくりになる。
観覧車はもう、窓いっぱいに見えていた。
海を背にして立つその大きな輪は、やはり動いていなかった。
けれど、私にはそれがただ壊れているようには見えなかった。
まるで、誰かを待っているようだった。




