心理的瑕疵
「うわ、めっちゃ煙草の匂いするーー!」
薄情者の帰還だ。
「そんなに吸うたら、体に悪いで?」
そう言って、夜一が窓を開ける。
心地よい秋の風が、すうっと部屋の中にすべり込んでくる。夜一の長い髪が、さらさらと風に揺れた。
「収穫はあったんだろうな?」
怒気を孕んだ声で夜一に問う。
「うん。あったで」
夜一に怯む様子はない。飄々としている。
「これ見て」
灼は、夜一からスマートフォンを受け取った。
「何だよ」
「不動産屋さん」
画面に視線を落とす。そこには、古びた一軒の平屋。看板には「八家不動産」とある。
「それで?」
「ここのな、八家さんとは古い付き合いで。父親同士が仲良かってん」
「そうかよ」
「昔から、この辺りの不動産を取り扱ってるんやけど。八家さんが言うには、以前あのマンションの土地には心理的瑕疵物件があったらしい」
……心理的瑕疵物件?
「不動産の取引をするとき、借主や買主に心理的な抵抗が生じる恐れがあること。それを心理的瑕疵物件って言うねん」
「事故物件とか言うやつか?」
「それも心理的瑕疵の一種やで。あとは近くに墓地があったり、暴力団の事務所とか」
「へぇ」
それは知らなかった。どうやら、暴力団の事務所が近隣にある場合、重要事項(心理的瑕疵)としての説明が必要らしい。
「それでな、ほら」
灼が持つスマートフォンを、ササッと夜一がスクロールする。
「誰だよ、コイツ」
画面には、夜一と謎のジジイが写っていた。
「だから、八家さん」
「いちいち見せんなよ」
夜一を睨むと、驚いたように目をパチパチさせた。
「えぇ、灼くんのためにわざわざ撮ったのに~~!」
「はぁ?」
意味不明だ。そして語尾を伸ばすな。
「だって、灼くん。めっちゃ行きたそうにしとったやん? だから、どんな不動産屋さんに行って、どんなひとに話を聞いたんか、記録してきたんやで」
全くありがたくない。
「古ぼけたジジイの写真を見て、俺が喜ぶとでも思ったのか? あぁ?」
夜一の長い髪を鷲掴みにしてやりたいが、寧々の存在を思い出して堪える。
「せっかく撮ったのに~~!」
夜一は、満面の笑みで写真におさまっている。スクロールするとピースしたり、やたらカメラ目線だったりした。笑顔の夜一を見ていたら苛立ちが限界を超えたので、とりあえず彼のスマートフォンはベッドに投げ捨てる。
「それで? 結局、あのマンションの土地には何があったんだよ」
「火事や」
夜一の声が、若干低くなる。
「……死人が出たんだな」
「うん」
夜一が静かにうなずく。
「マンションが建つ前。あの土地は長い間、空き地やったらしい。火事があって、更地にしたんやろうな。もともとは、木造モルタル2階建てのアパートがあったんやて」
俺が投げ捨てたスマートフォンを拾って、夜一が操作する。
画面をのぞき込むと、新聞記事らしいものが表示された。
「何だ、これ?」
「新聞の縮刷版やで」
これを確認するために、夜一は図書館に行っていたらしい。
記事は、昭和四十年のものだった。
「……ずいぶん古いな」
灼は目を凝らした。
『アパート火災 一人死亡 身元不明』
見出しにはそう書かれている。
記事を要約すると、火災が起きたのは未明。放火の疑いがあるという。
身元不明とされていた人物の素性は、翌日には特定されたようだった。新聞に氏名が記されている。
『死亡したのはアパートの部屋に住む、石生淑子さん、三十二歳』
灼は、まじまじとそれを眺めた。
「女だったのか……」
何の確証もなったが、勝手に男性だと思い込んでいた。
「火元から一番近い部屋に住んでたみたいや。それで、逃げ遅れたんやろうな……」
哀しげな表情で、夜一がベッドに腰を下ろす。
灼は、新聞記事の隅々にまで目を通した。
『母子家庭で、三歳になる息子と二人暮らし』
『息子(剛ちゃん)は助け出される』
『意識あり、軽傷で救出』
どうやら、亡くなった女性の息子は無事だったらしい。
良かった、と言いかけたが、灼はその言葉を飲み込んだ。何も良いことはない。放火で母親を失ったのだ。わずか三歳で。
夜一は座ったまま、何も言葉を発さない。
重苦しい沈黙が部屋に流れる。
次の煙草に、火を付けようとしたときだった。ふいに、自分の首元に違和感を覚えた。
息苦しい気がする。
……なんか首が、締まってないか?
変な感じだ。首を搔きむしりたくなる。何かが首に巻き付いて、離れない……。
そう思った瞬間、青白い手が脳裏をかすめた。
「……寧々」
乾いた声が、灼の口から漏れた。
夜一が顔を上げる。
「え、なに?」
「……首が」
「寧々ちゃん? どうしかたん?」
夜一が立ち上がって、俺の首元をのぞき込む。そして、柔らかい声で話しかける。
「……うん、うん。そうなんや。え? そんなん気にしんでいいよ」
夜一が、くしゃりと笑う。
どんな会話をしているのか、灼には分からない。
「おい! 何だ? 何を気にするなって!?」
「寧々ちゃんな、灼くんに伝えたいことがあったみたい。でも、灼くん声は聞こえへんやろ? だから気づいて欲しくて、つい首をギュッとしてもてんて」
にこにこしながら、夜一が物騒なことを言う。
いや、物騒なのは寧々のほうか。
「灼くんが苦しそうにしてたから、寧々ちゃんが気にしとってん。だから、『そんなん気にしんでいいよ』って、おれが言ってあげてん」
自慢げな夜一にむかつく。シンプルに苛立たしい。
「俺の意見を聞かずに、勝手に言ってんじゃねぇよ。あぁ?」
イライラするので、つい凄んでしまった。
「いいか? 俺に話しかけたくなったら、夜一に言え。もし、夜一がいないときは……」
……どうしたものか。
「どうするん?」
「夜一が帰ってくるまで待て。……そう伝えろ」
あごをしゃくりながら、夜一に命令する。
ぽかん、とした顔の夜一が「わざわざ言わんでも、聞こえてるで?」とのたまう。
「なにがだよ」
「灼くんは、寧々ちゃんの声が聞こえへんみたいやけど。寧々ちゃんは灼くんの声、ちゃんと聞こえてるで」
「はぁ!?」
驚きのあまり、素っ頓狂な声が出る。




