彼女の意識
「そ、そんな……」
隣にいる夜一の声が、震えている。
濡れていた幽霊。彼女が指さしていた場所。それは、この井戸だった。おそらく、自分の居場所を誰かに伝えたかったのだろう。自分はここにいる、そう訴えていたのだ。
あの不可思議な現象の数々は、「気づいて欲しい」という彼女の願いに違いなかった。
「……ということは不慮の事故か、殺人か」
灼のつぶやきに、夜一も同意した。
「残念やけど、そのどちらかやろうな……」
自殺であれば、遺書を残す可能性が高い。しかし、行方不明扱いされていることから、遺書はなかったと推察できる。
わざわざ、こんな井戸を死に場所に選ぶ理由も考えられない。その一方で、遺体を隠すには、うってつけの場所だ。その点から考えれば、殺人の可能性が高いのではないか……。
いずれにしても、無念だったろう。そんな風に考えていたとき。
ふいに、目の前に女が現れた。
じっと灼を見つめている。少しずつ、距離が近くなる。
息苦しい、と思った。同時に体が冷えていくのが分かる。全身が濡れているような、奇妙な錯覚に陥った。水中にいるような感覚だ。あがいても、苦しくなるばかりだった。
……自分は、溺れているのだろうか。
かすかに、夜一の声がする。「灼くん」と呼ばれている気がする。いや、勘違いかもしれない。耳を澄ましても、夜一の声はもう聞こえない。
✤
気が付くと、ベッドの上にいた。いつもの部屋の、見慣れた天井だった。このシェアハウスに住んで、どれくらい経っただろう。
ここに住み始めた頃、毎日が夢のようだった。やっと自由になれたと思った。新築のおしゃれな外観が気に入って、自分は入居を決めた。実家を出るのが夢だった。
子供の頃から、両親の過干渉に悩んでいた。息苦しくて、煩わしくて。ずっと不自由な日々を送っていた。
就職してしばらく経った頃、ほとんど家出に近い形でこのシェアハウスに入居した。それからは毎日が充実していた。夜更かしをしたり、お酒を飲んで深夜に帰宅したり。楽しかった。やっと自分の人生が始まったと思った。
けれど、少しずつ体調が悪化していった。
病院で検査したときには、もう手遅れだった。若い分、進行が早いのだと説明された。そのとき、頭に浮かんだのは両親のことだった。
あれだけ逃げたいと思っていたのに。家を出て、後悔なんてしていなかったのに。最後に考えるのは、両親のことだけだった。
自分は、両親が高齢になってやっとできた子どもだった。
たぶん、愛されすぎたのだ。自分だって、決して愛していなかったわけじゃない。ただ、重すぎて受け止めることができなかった。
……どうすれば、悲しませずに済むだろう。
最近、そのことばかり考える。
仕事のことはひと段落がついた。退職の意思を伝え、引継ぎはほぼ終わっている。このシェアハウスは退去するつもりだ。片づけも済んで、隅々まで綺麗にしているところだった。
ある考えが浮かんだのは、掃除をしている最中のこと。思いがけず、床下収納のカゴが外れたときだった。床下で、古い井戸を見つけたのだ。
ここだ、と思った。ここなら誰にも発見されずに済む。
どこかで生きている、と思えたら。そのほうがきっと、両親は救われる。
両親の愛し方は、尋常ではなかった。常軌を逸しているとさえ思った。それなのに。
自分だって、両親のことはいえない。
普通なら、こんな死に方は選ばない。
……私、やっぱり。お父さんとお母さんの子どもだったね。
今になって、そんな当たり前のことが嬉しかった。ワンピースを着用したのは、白い服がそれしかなかったから。確実に逝けるように、頭から井戸に落下した。すべてが、自分の計画通り。そう思っていた。




