濡れた幽霊
チラシに記載されている連絡先を控えてから、灼は夜一と共にシェアハウスに向かった。
物件に到着して、改めて外観を眺める。綺麗だし、おしゃれだ。この中に、いわくつきの部屋があるなんて誰も考えないだろう。
玄関を開けると、しんと静まり返っていた。平日の午前。住人たちは皆、出勤した後のようだった。
部屋に入った途端、夜一の顔色が悪くなったのが分かった。気配を感じたのだろう。また、不可思議な現象に遭遇するのかと気が重くなる。八家から聞いた「溺れる」というワードが頭をよぎった。
慎重に部屋の中に足を踏み入れたが、水が噴出するどころか、水滴のひとつも見当たらない。
良かった、と胸を撫でおろしたとき。
ふいに首元に違和感を覚えた。馴染みのある感覚だ。寧々がなにか、伝えようとしている。
「……どうした?」
灼の口調で、夜一も勘付いたらしい。
「寧々ちゃん?」
真っ青な顔をしながら、灼のそばに寄ってくる。
「え……」
ビクッと夜一の体が硬直した。しばらくして、小刻みに震えだす。
「部屋の中に、おるんやって」
幽霊が、いる。
「……マジかよ」
灼は、周囲をぐるりと見回した。リビング、寝室、トイレ。洗面所と浴室も確認したが、見当たらない。玄関にもいなかった。寝室のクローゼット、カーテンの後ろ、バルコニー。部屋中を探したが、どこにもいなかった。
そういえば、まだキッチンを確認していない。
このシェアハウスは、キッチンに垂れ壁を採用している。煙が室内に広がらないよう、防煙壁として設けているのだ。デザインも凝っており、丸みのあるアーチ型はナチュラルで柔らかい印象を与えている。
垂れ壁があるため、キッチンとリビングは空間が区切られたようになっていた。
そのキッチンを特に期待せず、灼は覗いたのだが……。
「……うわっ」
思わず、灼は後ずさった。
区切られたような空間の中、まるで隠れるようにして立っていた。女の幽霊だった。
青白い顔の女が、たしかにそこに存在していた。
「灼くん、どうしたん?」
灼の声を聞いた夜一が、慌てて駆け寄ってくる。
「お、おるん……?」
夜一の問いに、灼は静かにうなずいた。
「どんな顔か、分かる……?」
「あぁ」
これといって特徴のない顔だ。
それぞれのパーツが小さく、印象に残らない。地味といえば地味で、けれど粗もない。間違いなく、さっき駅で見たチラシの顔と同じだった。
「じゃあ、やっぱり。このひとが……」
「間違いねぇな」
このシェアハウスの最初の住人。行方不明だと思われていた人物。
谷上結花だ。
チラシに記載されていた連絡先に、連絡したほうが良いのだろうか。でも、なんと言えば良い?
お宅のお嬢さんはすでに死亡しています。幽霊になって、シェアハウスのキッチンにいます。
そんなことを伝えたって、いたずらだと判断されるに決まっている。無駄に家族を傷つけるだけだ。
灼は、改めて女を見た。
そうして、違和感に気づいた。
「濡れてる……」
白いワンピースを着用しているのだが、その裾から水が滴っていた。髪もぐっしょりだった。
視えない夜一のために詳細を伝えると、納得したようにうなずいた。
「やっぱり、水に関係してるんやな……。もしかして部屋の中で、溺れて亡くなったんやろうか」
「そうだとしたら、発見されてるはずだろ? 行方不明扱いにされる理由がない」
「理由ならあるよ。たとえば、事故物件にしたくなかったとか。価値が下がるやん? それで管理会社か、この物件の持ち主が遺体を隠したとか……」
「まぁ、価値を下げたくない気持ちは分かるけどな。でも、死体遺棄になるんだぞ。犯罪をおかしてまですることか?」
夜一と議論していたら、再び灼の首元に違和感があった。無意識に首に手をやる。
「寧々ちゃん……?」
夜一も反応した。
「なんて言ってるんだ?」
灼が問うと、夜一は「それがなぁ」と言いながら、首をかしげた。
「手を見て欲しいんやって」
「……手?」
「ある方向を指さしてるって、寧々ちゃんが言うねん」
なにかを伝えようとしているらしい。
灼は、ぼんやりと立っている幽霊を見た。その、指先。
たしかに、右手で指さしていた。ほとんど真下を示している。そこにあるのは、床下収納だった。




