絡みつく手
兵庫県神戸市に、南京町という中華街がある。
日本三大チャイナタウンのひとつに数えられ、中国風の意匠を特徴とする建物が軒を連ねている。本格的な点心や中国茶、スイーツなどを売る店舗が並び、休日ともなれば大勢の観光客で賑わう。異国情緒たっぷりのエリアだ。
南京町の中央通りは十字路になっており、広場には象徴的な「あずまや」という建築物がある。なんとも煌びやかな建物だった。
東には「長安門」、西には「西安門」、南には「海栄門」という立派な門があり、北側は元町商店街と繋がる構造になっている。
その北側から、灼は南京町に足を踏み入れた。
平日の夕方。さすがに観光客はまばらだった。
スマートフォンの地図を頼りに、広場から周囲をぐるりと見回す。
「御影探偵事務所って、どこだ……?」
地図を拡大したが、よく分からない。どこを見ても、中華街特有の赤色が目立つ風景が連なっている。
灼がこの場所を訪れるきっかけになったのは、二週間ほど前のことだった。
✤
自宅療養中の灼のもとに、青倉がやって来た。
開口一番、彼は「だいぶ、やつれましたね」と驚いた様子で言った。自覚はある。生気のない顔をしているから、鏡を見るのも嫌だった。
鏡を見たくない理由は、他にもあるのだが。
「メンタル強めの灼さんでも、そうなるんですねぇ」
青倉が、しげしげと灼を見る。
ちょっと楽しそうなのが忌々しい。深刻な態度をとられるよりは、マシなのだけれども。
「俺の親戚が、神戸に住んでるんですけどね。関西のほうでは有名らしいんです」
ソファに座った青倉は、さっそく話し始めた。
「有名って?」
「幽霊が視えるらしいです」
「胡散臭せぇ」
灼は肩を竦めた。
「でも、灼さんも視えるんですよね?」
じいっと、青倉が灼を見る。
煙草に火をつけながら、灼は頷いた。
「あぁ」
「だったら、お祓いしてもらわないと」
「……お前さ、俺の話を聞いて『胡散臭せぇ』とか思わないのか?」
自分だったら、絶対にそう思う。
「昔、遠縁の親戚にそれ系の問題が発生して。今は解決してますけど。だから、俺は信じるタイプですね」
「それ系って?」
「幽霊ですよ。祓ってもらったみたいです。親戚が言うには、祓い師としての腕は確かだとか……。ちなみに、灼さん」
「なんだよ」
「どんな幽霊が視えてるんです?」
青倉が、興味津々といった感じで聞いてくる。
灼は、ふうーーっと大きく煙を吐き出してから答えた。
「……子ども」
「男の子ですか?」
「いや」
女の子だ。
助けられなかった子ども。
名前は、葉多寧々。
熱中症だった。締め切ったマンションの一室。エアコンは作動していなかった。
日常的に暴力を受けていた痕跡があったらしい。ひどい栄養失調だったとも聞いている。
両親は現在も行方不明だ。警察が捜索しているものの、未だ見つかってはいない。
「どんな感じですか?」
「……どんなって」
「ほら、いかにも『恨んでます』って感じで灼さんを睨んでるとか、ただそこに存在してるだけとか。幽霊の登場の仕方にも、いろいろあるじゃないですか」
灼は、ちらりと青倉を見た。
「……後ろにいる」
「え、俺の!?」
慌てて青倉が背後を振り返る。
「馬鹿、お前じゃない」
「あ、そっか。灼さんですよね」
はは、と眉尻を下げて青倉が笑う。
「ずっと後ろにいる感じですか? 至近距離?」
「……密着してる。しがみついてる」
「おんぶしてるってことですか?」
青倉が、じろじろと不躾な視線を送ってくる。俺の背後を確認しているのだろう。視えている様子はないけれど。
「背中というより、首だな」
「くび?」
「俺の首に、女の子がしがみついてる」
「え、こわっ!」
さすがに恐怖を感じたらしい。青倉が身震いしている。
灼が、鏡を見たくない理由はこれだ。
気づいたのは少し前だった。
朝、顔を洗おうとして鏡の前に立ったら自分の首に女の子の腕が絡みついていた。生きている人間のものではない。青白く変色している。
その手が、灼の首にまるでしがみつくように巻き付いているのだ。
ほんのわずか、爪が皮膚に食い込んでいる。決して離すまいという執念を感じた。
絞め殺したいのだと、瞬時に理解した。
灼は、なんとか悲鳴をあげずに済んだ。咄嗟に鏡から視線を外したが、それでも残像が瞼に焼き付いて離れない。
……あの子だ。
少女の顔には、見覚えがあった。
死んでしまった子。
長い髪が目元を覆っているせいで、表情までは分からなかったが間違いない。
灼が、助けられなかった女の子だ。
恨んでいるのだろう。絞め殺したいと思うほどに。
「もう少し、俺が早く気づいていれば……」
激しい後悔の念が、今も胸の中に渦巻く。
「……灼さんが悪いわけじゃないですよ」
言葉を選びながら、青倉が言う。
「今の灼さんは、普通の状態じゃないですから」
「普通じゃない、か?」
「自分だって分かってるでしょ。それとも、分からないくらいに今の灼さんはヤバい状態なんですか?」
青倉が真面目な顔になる。
「自覚はしてる」
相変わらず、灼は原因不明の体調不良に悩まされている。
「よかった」
そう言って、青倉が笑う。
「だったら、普通の状態に戻るために行動しましょう」
「行動?」
「南京町に行ってください」
「……幽霊が視えるとか言い張ってる奴に会うのか?」
「たぶん、本当に視えるんだと思いますよ。親戚もかなり世話になったらしいんで」
青倉がスマートフォンを操作する。
しばらくすると、灼のスマートフォンが震えた。『御影探偵事務所』とかいう、怪しげな事務所の所在地が届いている。
「マジで胡散臭いな」
思わずつぶやいていた。
「何言ってるんですか。灼さんだって、幽霊が視えるって言い張ってるじゃないですか。同じようなもんですよ」
けらけらと青倉が笑う。
残念ながら、灼は言い返すことができなかった。




