残夏
最初は、ごく些細な変化だった。
少しだけ体が重いような、だるい感覚があった。いつの間にかひどく肩が凝っていて、関節の可動域が狭まっていることに気づいた。
目覚めも悪くなった。なかなか瞼が開かない。全身がズブズブとぬかるみに沈んでいくようで、起き上がるだけでも一苦労だ。
「……社畜が過ぎんのかもな」
掛け布団を蹴るようにして、朝霧灼あさぎりあらたはベッドから起き上がった。
働き過ぎな自覚はある。勤め先は完全にブラック体質な企業だった。しかし心身ともに頑丈にできているので、特に疲弊することなく今までやってきた。何も問題は無かったはずなのに。
洗面台の前で、歯ブラシを口に入れる。肩の凝りがひどくて首まで痛い。少しでも解消したくて、頭を左右に倒していたらピキッと鋭い痛みが走った。イライラする。鏡の向こうの自分を思わず睨んだ。
睨むと多少は凄みが出る。平常時は特徴のない顔で、端的に評するならいわゆるモブ顔だった。そのせいで気弱な青年だと勘違いされることが多い。
けど、灼は普通に粗暴だ。平然と舌打ちはするし、喧嘩は買うし、というか売ることのほうが多い。好きなときに好きな場所で、好きなだけ煙草を吸う。マナーとか知らねぇ。
身支度を整えながら、灼は手慣れた仕草で煙草に火を付けた。寝起きの一服は至福のときだ。今から出勤するのかと思うと、途端に億劫になるのだが。
玄関を出ると、蒸し暑い空気が体にまとわりついてきた。一瞬で汗が噴き出してくる。うるさいくらいに蝉の鳴き声が聞こえる。
今は、夏の盛りだ。共用廊下を歩くと、わたぼこりや落ち葉、虫の死骸など目についた。
「どうなってんだよ、ここの管理会社」
イラッとして、軽く舌打ちをする。
どうやら、管理が粗いらしい。比較的新しいマンションなのに、築年数が経過しているように見えるのは、たぶんそのせいだろう。
灼は先々月、このマンションに引っ越してきた。それまで住んでいたボロアパートが取り壊されることになったのだ。仕方なく、勤め先からほど近いマンションに移った。1LDKで広さはそこそこ。家賃は高くもなく安くもなく。ほぼ立地で選んだ。通勤時間が短縮できるのはありがたい。
勤め先は入れ替わりが激しいので、必然的に灼の立場は上がった。それに伴い自由が利くようになった。給与も上がった。微々たるものだけど。良いことしかない。もちろん責任は増えるけれども、それを負担に思うような脆弱なメンタルをしていない。
……だから、むしろブラック体質が合ってると思うんだよな。
エレベーターで一階まで降りて、エントランスを歩いた。足取りが重い。やっぱり体がだるい。
「年齢……、なわけねぇか」
灼は、今年二十三歳だ。どう考えても若者の部類に入る。
もしかしたら、自分が気づいていないだけで疲労が蓄積してるのかも。高卒で就職したので、ブラックな勤務を続けてそれなりに年月が経っている。高校時代もガテン系の肉体労働に精を出していたから、この若さで体にガタがきたとか……?
エントランスの入口には、大量の蝉がいた。よく見ると全て死骸だった。薄気味悪い。なんとなく、マンション全体が陰気な感じがする。空気が淀んでいるような。
そういえば、このマンションに越してきた先々月あたりからだ。体に不調が出始めたのは……。
引っ越し作業のせいかもしれない。普段の仕事に加え、荷造りやら各種手続きやらで、疲れが溜まったのかも。きっとそうだ。
それ以上、特に深刻に考えることはなく、灼はエントランスを出て歩き出した。
◇
灼が倒れたのは、それから二週間後のことだった。
職場で意識を失い、救急搬送された。気づいたときには病院のベッドで寝ていた。
真っ白な天井が見える。ベッド脇のパイプ椅子には、後輩の青倉あおくらが腰かけていた。スマートフォンを眺めていたが、目を覚ました灼に気づいて立ち上がった。
「あ、起きました?」
こちらをのぞき込んでくる。どうやら、病院まで付き添ってくれたらしい。
「最近、灼さんの顔色がマジで悪くて。やばいって皆で言ってたんですよ」
「……仕事、抜けて大丈夫なのか?」
ギリギリの人数でまわしているから、自分と青倉が抜けると支障が出るはずだ。
「灼さん、真面目っすねーー! 仕事の心配してる場合ですか?」
「社会人って、そんなもんじゃねぇの」
「いや、たぶんブラックな社風に染まり過ぎですよ」
ケラケラと青倉が笑う。笑いながらもスマートフォンを手放さない。やはり仕事のほうが大丈夫ではないらしい。メッセージでやり取りをしていたが、それでは追い付かず、すぐに事務所に戻ることになった。
「もうちょっとサボれると思ったのにな」
青倉は苦笑いしながら、やれやれと肩を竦めた。そして灼のいる病室から出ていった。
しばらくすると、医者が部屋に入ってきた。
「夏の疲れが出たんでしょう」
柔和な笑みを浮かべながら、男性医師が当たり障りのないことを言う。
結局は、数日入院することになった。色々と検査したものの、異常はなかった。退院後は自宅待機となった。
すぐに回復して出社できると思っていたが、日に日に灼の体調は悪化していった。
鏡の中の自分は、病人そのものだ。顔色が悪い。目の下にはひどいクマができている。部屋の中を移動するだけでも息が切れる。そもそも動くことが億劫だ。深い呼吸ができない。思考が鈍っているような感じがする。
なんとか気持ちを奮い立たせて、外へ出る。マンションとコンビニを往復するだけで、ひどく疲弊した。あり得ない。これが単なる「夏の疲れ」のはずがない。
浅い呼吸を繰り返しながら、なんとか共用廊下を歩く。前方から来た男女とすれ違った。二人は明らかに異様だった。夏だというのに、女性は厚手のトレーナーを着用している。よく見ると、小さなシミが無数に付着していた。
男性のほうは、襟がだらしなく伸びたTシャツ姿だった。古くなったスニーカーのかかとを踏み、体を左右に大きく振りながら、のそりのそりと歩いている。
軽く会釈をしたが、相手からの反応はなかった。通り過ぎたあとで、隣の住人だと気づいた。
……ずいぶん様子が変わってるな。
引っ越しの際、挨拶をした。三十代前半の夫婦と幼い少女。三人暮らしの家庭だった。
少女は、四歳か五歳くらいだろう。母親の足にまとわりついて、恥ずかしそうにしていた。ちらりと灼を見上げて、目が合うと笑ってくれた。ぷっくりとした丸い頬が可愛い女の子だった。
夫婦のほうはごく普通の勤め人という雰囲気で、きちんとした身なりをしていた。愛想も良かった。
それなのに、ついさっき見た二人は、まるで別人だった。よれよれの服に、髪はボサボサ。視線が定まっていないような、虚ろな感じだった。
それからも、ときどき隣の夫婦をマンション内で目撃したが、少女の姿はなかった。
部屋に篭って、灼はベッドの上で丸くなった。ひたすら、その体勢のまま過ごした。
だるい。しんどい。何もしていないのに疲れている。やることがないから余計にしんどい。
静まり返った部屋の中で、何かが聞こえた。気のせいかと思ったが、やはり聞こえる。か細く、途切れ途切れで、泣き声のようだとも思う。
声は、断続的に続いている。
灼は仕方なくベッドから抜け出し、音の正体を探した。
この部屋にテレビはない。スマートフォンを確認したが、誤操作をしたわけではないようだった。部屋中を見回したが、他に音を発生させるようなものは見当たらない。
……もしかして、隣の部屋か?
灼の部屋は角部屋だ。リビングの壁の向こうに、あの夫婦と少女が暮らす部屋がある。
そっと耳を押し当てた。神経を集中させて気配を探ったけれど、声どころか何の音も聞こえなかった。
しんと静まり返っている。
怖いくらいに。
急に、胸騒ぎがした。嫌な予感がする。
あの夫婦は、明らかに様子がおかしかった。無反応で、虚ろな目をしていた。
改めて思い出すと、ゾッとするくらいに異様だった。
鉛のように重い自分の体。その体を引きずるようにして、灼は部屋を出た。隣の部屋のインターフォンを押す。応答はなかった。力を振り絞って、必死に玄関のドアを叩いた。扉は開かない。応答がない。
管理人に連絡しようと思ったが、スマートフォンを持っていないことに気づいた。部屋に置いたままだ。
「くそっ……!」
イライラして、自分に盛大な舌打ちをした。部屋に戻って、テーブルの上にあるスマートフォンを掴む。そして、登録しておいた番号をタップした。
◇
管理人が部屋に入って行く。
玄関からは、廊下とリビングが見えた。リビングの中央に何かがある。
目を凝らすと、それが人間の体であることが分かった。小さな体だった。ピクリとも動かない。
硬いフローリングの上で、まるで捨て置かれたように横たわっている。
その体に、管理人が手を伸ばした。
管理人が崩れるように膝をつく。灼のほうを振り返って、小さく首を振る。そして顔を覆いながら唸った。
間に合わなかったのだ。
目の前が真っ暗になった。
どうして気づかなかったのか。すぐ隣にいたのに。
「……俺のせいだ」
夫婦の様子が明らかに変わった。そのことに気づいていた。それなのに。
幾人もの大人が部屋に入って行く。玄関に立ち尽くしたまま、灼は横たわる小さな子どもを見ていた。
ふいに、少女と目が合ったときのことを思い出した。恥ずかしそうに上目遣いで灼を見ていた。くりっとした大きな目だった。頬がまん丸で、可愛らしい顔の造りよりも強く印象に残っている。
「ごめんな……」
震える灼の声が、玄関の床にぽたりと落ちた。
少女の瞼は閉じられている。もう二度と開くことはない。
全身の力が抜けて、灼はその場にへたり込んだ。
「ごめん……」
何度も詫びた。何度も。
その声に混じって、蝉の声が耳に届いた。
どこか儚げで、寂しくて、心許ない鳴き声。ヒグラシだ。
マンションの中庭には、途方もなく背の高い巨木が立っている。ヒグラシの鳴き声はそこから聞こえる。幾重にも重なってマンション内に反響している。
しばらくすると、巨木の梢が揺れた。風が吹いている。
その風が、部屋に中に流れ込んでくる。熱気を帯びていない。生ぬるい風だった。
いつの間にか、夏が終わろうとしていた。




