消滅
「くそッ!」
灼は、思いっきり舌打ちした。そして、力の限り叫んだ。
「おい、女! アンタの息子は無事だったぞ!」
近所の住人に救出されて、一命を取り留めたのだ。
「安心しろ! 助かったんだ!」
灼は炎に向かって叫んだ。近づけば近づくほど、全身が焼かれるように熱い。熱風を感じる。焦げた匂いが鼻をつく。
飛んで来る火の粉を避けながら、灼はまた一歩、近づいた。
「後遺症もなくて、元気に育って! 大人になってる!」
夜一が集めた資料の中に、平成元年のものがあった。例の新聞の縮刷版。
防災に関する科学技術の研究を行う法人が紹介されていた。研究員の中に、見覚えのある名前があったのだ。
石生剛。
「アンタの息子は、大学に行って! 立派な研究員になった!」
夜一のスマートフォンの中にある、その記事を拡大した。青年の顔が、しっかりと写っている。
「おい! 見えるか? ここにいるぞ!」
スマートフォンをかざすと、うねうねと蠢く塊のほうが反応した。
黒い塊が、大きくなったり小さくなったりしている。歪な形のまま、収縮を繰り返す。灼は、自分の首元が気になった。寧々も一緒に、訴えてくれているような気がする。
「もう子どもじゃないけど、自分の息子の顔くらい分かるよな?」
蠢くモノが、少しずつ近づいてくる。人型になれそうで、なれない。中途半端な形のまま、それはゆっくりと灼のところにやって来る。
「ずっと探してたんだから、分かるよな……?」
黒い塊が、じいっと灼の手元をのぞき込んでいる。目も口も、輪郭さえも分からないけれど、彼女は見ている。息子の姿を、ちゃんと見ていると思った。
「ちゃんと、見えてるんやな……」
夜一が、かすれた声でつぶやく。どうやら正気を取り戻したようだ。
少しずつ、灼の身体から熱が引いていく。いつの間にか、炎に包まれたアパートは消えていた。
ついさっきまで、火傷しそうなほど熱かったのに。今はもう、湿った空気が全身を包んでいる。
黒い塊は、蠢きながらしばらくその場に留まっていた。名残惜しそうにしながら、最後には消滅するみたいに、灼の目の前からいなくなった。
力が抜けて、灼はその場にへたり込んだ。ここに来てから、どれくらい時間が経ったのだろう。
「はぁ……」
大きくため息を吐きながら、空を見上げた。マンションの最上階の向こう、少しずつ空が白みはじめている。
「……アイツ、消えたのか?」
「さぁ、どうやろう……?」
「気配を感じるか?」
夜一が、ゆっくりと首を振る。
「感じひん」
「そうか」
「……あの幽霊は『思いを遂げた』んやと思う。だから、消滅したんや」
彼女はずっと、一人息子の無事を願っていた。それがこの世に留まる理由だった。願いが叶った今、もう現世にいる必要はない。
「成仏したってことか……」
思いを遂げた幽霊は、例外なくすべてこの世から存在を消すという。
「灼くん、立てる?」
「……あぁ、なんとか」
夜一の手を借りて、灼は立ち上がった。彼の肩に腕を回す。ひとりで歩くのは、ちょっと無理そうだ。
「寄り掛かってええで?」
既視感があり過ぎる。
「なぁ、やっぱ俺。弱くねぇか……?」
一瞬のこととはいえ、夜一は意識を乗っ取られたのに。今はもう普通にしている。それどころか、灼を支えながら歩いている。
「灼くんは強いで」
そう言って、夜一が微笑む。灼は、無意識に首元に触れた。足を引きずるようにして、歩を進める。
しばらくして、振り返った。どこにでもある、至って普通のマンションが見えた。もう不気味さは消えている。白い外壁で、家賃は高くもなく安くもなく。立地は良し。
そのマンションが、自分の肩越しに少しずつ遠ざかっていくのが見えた。




