Season 5「境界の兆候」 #099
第99話「川を拓く者」
午前九時七分。
ベルガ南方を流れる本流では、前夜の雨によって増した水量がまだ勢いを失っていなかった。山地から流れ込んだ濁流は茶褐色に染まり、流木や草木を巻き込みながら下流へ向かっている。その中央では《深淵の這いずる者――アビス・クラーケン》が巨体を沈め、STYXの舟艇群と旧農業水路の入口との間をゆっくり往復していた。
怪物は、先ほどまでのように無秩序に舟艇を追ってはいなかった。
その変化こそが、ルナ・S・クロウ〔夜〕には不気味だった。
「また止まりました」
セレス・アイレン《Marlin》が操艇席から水面を見る。
「分かっています」
ルナは痛む肩を押さえながら答えた。
水面下を進む巨体は見えない。しかし流れの変化は隠せなかった。濁流が不自然に盛り上がり、浮遊物が左右へ押し退けられ、その先で再び流れが閉じる。
STYXの舟艇へ突進する様子はない。
それなのに、旧農業水路へ近づこうとすれば必ず進路を変えてくる。
偶然とは思えなかった。
「Otter、どう見ます?」
レオン・シュナイダー《Otter》は水中観測の情報を見ながら答えた。
「こちらを獲物として追っているというより、水路入口から追い払っているように見えます」
「私も同じです」
ルナは旧水路へ視線を向けた。
すでに第一陣の避難艇は通過している。だが、ベルガには学校から救出された住民がまだ残り、市役所と病院にも生存者がいる可能性が高い。
陸路は開き始めた。
それでも、水路を失っていい理由にはならない。
STYXにとって水域は単なる予備の退路ではなく、陸路が塞がれた時にも人間を帰還させるための正式な作戦領域だった。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
「Siren、DVERGRとは?」
「繋がっています」
「代わってください」
フィオナ・リューン《Siren》が回線を切り替えた。
『こちらDVERGR先遣工兵隊』
「STYX、Nyxです。ベルガ南方の旧農業水路について相談があります」
『聞いている。川を変えたいそうだな』
「正確には、流れを少し借りたいです」
一瞬の沈黙のあと、通信の向こうから苦笑が返ってきた。
『少しで済む話か?』
「済ませたいです」
ルナは水路図を開いた。
旧農業水路はベルガ南西部から本流へ合流しているが、そのさらに上流には、かつて農地へ水を送っていた複数の導水路が残されている。長年使われていないものも多く、完全に埋まった区間もあるものの、前夜の雨によって普段なら水のない場所にまで流れが戻っていた。
「本流を止める必要はありません。旧水路入口付近の流れを一時的に変えられればいいんです」
『怪物を流れから押し出すのか?』
「いいえ」
ルナは即座に否定した。
「あの大きさを水圧だけでどうにかしようとは思っていません。あれが守っている場所を、通る必要がない状態にします」
『別の入口を作る?』
「はい」
工兵側の声が少し変わった。
『現地を確認する。十分くれ』
「十分でお願いします」
『工兵に一番言っちゃいけない言葉だぞ、それ』
「兄様から覚えました」
『NoXか。納得した』
ルナは思わず笑った。
「本人には言わないでください」
◇
その頃、ベルガ東部では笑える状況ではなくなっていた。
GUNGNIRと連邦共和国軍先遣隊がWOLF PACKから接触線を引き継いだことで、レイブンたちは一度市街側へ戻ることができた。
だが敵主力は止まらなかった。
前線へ到着したGUNGNIRの火力を確認すると、敵は正面へ密集することを避け、複数の小部隊へ分かれて市街地の北側と南側へ広がり始めていた。
レイブン・S・クロウ〔無名〕は、建物の二階からその動きを見ていた。
「正面突破をやめた」
隣でヨハン・リヒター《Hawk》が答える。
「こっちの火力を見てからだな」
「早いな」
「敵も死にたくないんだろ」
その言葉に、レイブンは少しだけ黙った。
当然のことだった。
こちらが生きて帰りたいように、向こう側にも同じように生存を求める兵士がいる可能性はある。
だからといって、侵攻を受け入れる理由にはならない。
だが、敵を理解不能な怪物として扱うこともできなかった。
「NoX」
ノア《Cipher》が階段を上がってきた。
「HUGINNから更新。敵の北側部隊がベルガ中心部を迂回し始めてる」
「学校じゃない?」
「違う。西側を狙ってる」
レイブンの表情が変わった。
「DVERGRとBIFROSTか」
「たぶん」
敵も理解した。
WOLF PACKを倒す必要はない。
GUNGNIRと正面から撃ち合う必要もない。
奪還された土地を維持するためには、道路を修復するDVERGRと、物資を運ぶBIFROSTが必要になる。
ならば、そこを切ればいい。
兵站を失えば、どれほど強い戦闘部隊でも長くは残れない。
マスター設定で想定されていた敵側の対抗進化が、戦場の現実として目の前に現れ始めていた。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
「Hound!」
下階からガイル・ベッカー《Hound》が顔を出した。
「呼んだか?」
「仕事だ」
「嫌な予感しかしねえな」
「北へ回る敵がDVERGRを狙ってる」
「ほらな」
ガイルは装備を整えながら上がってきた。
「また俺たちが走るのか?」
「WOLF PACKだからな」
「狼ってこんなに走る生き物だったか?」
「知らない。俺は猫だから」
「自分で言いやがった」
レイブンは少し笑った。
その笑みは長く続かなかった。
左腕を動かした瞬間、前話までの戦闘で負った傷が鈍く痛んだ。
フィーナ《Sage》が見逃すはずがなかった。
「NoX」
「大丈夫」
「まだ何も言ってません」
「言うこと分かるから」
「なら聞いてください」
フィーナはレイブンの腕を確認した。
治癒は進んでいる。
速すぎるほどに。
だが筋肉へ負担を掛け続けたことで、完全には塞がっていない部分が再び熱を持っていた。
「次に開いたら固定します」
「何を?」
「あなたを」
「怖いこと言わないで」
「冗談じゃありません」
ガイルが横で頷く。
「Sageに任せよう」
「お前、最近あっち側だな」
「俺は最初から生存側だ」
その言葉にレイブンは反論できなかった。
「……分かった。無理はしない」
「その言葉、記録しておいて」
ノアが真顔で端末を見る。
「もうした」
「Cipherまで!」
古参同士の軽口が続いたのは、そこまでだった。
〔殺気看破〕が、レイブンの意識を鋭く引いた。
彼は窓から身体を離した。
ほぼ同時に、外壁へ魔力弾が命中する。
部屋へ破片が飛び込んだ。
「接敵!」
ガイルの声が変わる。
WOLF PACKが一斉に動いた。
レイブンは床へ伏せたまま窓とは別方向を見る。
敵は北から来るはずだった。
だが攻撃は東側から飛んできた。
「囮だ!」
ノアも気づいた。
「北側を本命だと思わせた!」
「両方本命かもしれない!」
レイブンは立ち上がる。
敵は一つの目的に全戦力を賭けていない。
北から兵站線へ圧力を掛けながら、東側でもWOLF PACKを拘束する。
こちらがどちらかへ戦力を寄せれば、もう片方が動く。
「Lynx、北側を見られる?」
ミレイア《Lynx》からすぐに返事が来る。
『見てる。でも近づきすぎると捕まる』
「それでいい。数だけ送って」
『了解』
「GrizzlyはDVERGRへ警告。Hawkは東側を監視。Cipher、GUNGNIRとHUGINNを繋いで」
レイブンはISG-42A3《RAVEN》を握る。
〔兵器接続〕が武器状態を感覚へ返してくるが、銃が教えてくれるのは銃のことだけだった。
敵の意図までは分からない。
そこを考えるのは人間の仕事だった。
「俺とHoundは?」
ガイルが尋ねる。
「DVERGRへ行く」
「やっぱり走るのか」
「嫌なら置いてくぞ」
「それはもっと嫌だ」
◇
ベルガ旧市役所。
エリシア・L・クロウ〔戦乙女〕率いるEINHERJARは、学校の避難を連邦共和国軍へ引き継いだあと、市街中心部へ進んでいた。
市役所の外壁は砲撃によって大きく崩れていたが、地下区画は残っている。
問題は。
入口だった。
正面玄関付近には敵兵の痕跡がある。
しかし人影はない。
「撤退した?」
隊員の一人が尋ねる。
「そう見せたい可能性もある」
エリシアは慎重に周囲を見た。
レイブンたちだけではない。
敵はEINHERJARについても学んでいる。
自分たちが戦闘より住民保護を優先することを知られれば、民間人のいる場所そのものが誘導材料にされる可能性があった。
それでも。
行かないという選択肢にはならない。
「住民の声は?」
「確認できません」
「地下入口を探します。ただし、全員で一つの入口へ寄らないで」
エリシアは自分の武器を構えながら、壊れた庁舎へ入った。
足元には書類が散らばり、水を吸って床へ貼り付いている。
壁には避難経路を示す案内板が残っていた。
その下に。
新しい傷がある。
何か硬いもので壁を擦った跡だった。
エリシアはしゃがむ。
「これ……」
一本。
二本。
三本。
一定間隔で続いている。
文字ではない。
矢印だった。
地下を指している。
「誰かが残した」
住民か。
あるいは敵か。
エリシアにはまだ分からない。
だから決めつけなかった。
「二人だけ先行。残りは退路を維持してください」
自分も行こうとすると、副官が腕を伸ばした。
「Valkyrie」
「何?」
「あなたが先頭へ行く必要はありません」
「……最近それ、流行ってる?」
「NoXだけに言っていると思いましたか?」
エリシアは少しだけ目を丸くした。
やがて笑う。
「分かった。任せる」
レイブンだけではない。
自分も。
任せることを覚えなければならない。
EINHERJARの二人が地下へ入る。
エリシアは入口で待った。
数十秒が。
異様に長く感じられた。
そして通信が入る。
『Valkyrie』
「聞こえてる」
『生存者です』
エリシアの表情が変わる。
「何人?」
『かなりいます。正確には確認中ですが、五十人以上』
学校より多い。
「負傷者は?」
『複数。歩けない人もいます』
「了解。IDUNNへ連絡。EINHERJARをこちらへ寄せます」
そこで。
地下から別の声が聞こえた。
老人だった。
「病院へ……」
エリシアが振り返る。
「何です?」
「病院へ行ってくれ」
老人は隊員に支えられながら階段を上がってくる。
「まだいるんだ。医者と患者が……あそこには、まだ……」
エリシアは老人の手を握った。
「場所は分かっています」
「敵が使ってる」
その言葉で。
エリシアの表情から僅かな安堵が消えた。
「病院を?」
「上の階をだ。地下には患者がいる。動かせない者を置いて、医者たちが残った」
敵。
病院。
動けない民間人。
単純な攻撃はできない。
EINHERJARにとって、最も難しい種類の戦場だった。
「分かりました」
エリシアは立ち上がった。
「必ず確認します」
◇
ベルガ南方では、DVERGRの工兵がルナの提案した旧導水路へ到着していた。
戦場で河川工事を完成させる時間などない。
大規模な堤防を造ることもできない。
ならば。
既に存在する地形を使う。
『Nyx、旧導水路を確認した。完全に死んではいない。上流側の堆積物を除けば、一部の流れをこっちへ逃がせる』
「旧水路入口の流速は変えられますか?」
『変わる。ただし予測どおりになる保証はない。前夜の雨で地盤が緩んでる。下手に触れば岸そのものが崩れる』
ルナは水面を見る。
自然は味方ではない。
敵でもない。
こちらの都合など考えず、条件に従って動く。
コアバイブルで定められた通り、天候と環境は第三の勢力として敵味方双方へ作用していた。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
「完全に流れを変える必要はありません」
『どれくらい欲しい?』
「避難艇が旧水路へ入る数分だけ、怪物が嫌がる流れを作れれば」
『怪物が嫌がるかどうかは知らんぞ』
「私も知りません」
『……正直だな』
「分からないことを分かったことにしたら、部下が死にます」
工兵側が少し黙った。
『了解した。できる範囲でやる』
「お願いします」
ルナは回線を切り替える。
「STYX全艇へ。DVERGRが流れを変えます。変化が出たら旧水路入口から距離を取ってください」
「Nyx、私たちは?」
「怪物を見ます」
Marlinが苦笑する。
「結局、一番近いですね」
「隊長ですから」
「さっきNoXに無理するなって言ってませんでした?」
ルナが黙る。
Sirenが横から笑った。
「兄妹ですね」
「……否定できません」
ルナは肩を回そうとして痛みに顔をしかめた。
「でも、兄様よりは下がります」
「比較対象が悪いです」
「最近みんな兄様に厳しくありません?」
「Nyxもですよ」
そこまでだった。
水面が大きく沈んだ。
《アビス・クラーケン》が動く。
「来ます!」
空気が切り替わった。
「Marlin、前進。入口から離します。Otterは水中位置を継続。Siren、DVERGRへ開始を!」
「了解!」
STYXの先頭艇が本流へ出る。
巨大な影が追う。
その間に。
DVERGRが旧導水路へ手を入れた。
やがて。
本流の一部が、長く使われていなかった水路へ流れ込み始める。
最初は小さな変化だった。
しかし前夜の雨が蓄えた水量が新しい出口を見つけると、流れは自ら土砂を押し流し、徐々に幅を広げていった。
旧農業水路の入口付近で水面が乱れる。
《アビス・クラーケン》が動きを止めた。
「反応あり!」
Otterが叫ぶ。
「嫌がってる?」
「分かりません。でも潜りました!」
怪物は深い本流側へ向きを変えた。
ルナはすぐに命じる。
「今です。避難艇を通してください!」
旧水路へ第二陣が入る。
だが。
その直後だった。
DVERGRから緊急通信が入った。
『Nyx、流れが強すぎる! 導水路側の岸が持たない!』
ルナの表情が変わる。
「止められますか?」
『すぐには無理だ!』
成功した。
しかし。
自然は人間の計画どおりのところで止まってはくれなかった。
導水路の岸が崩れ始める。
濁流が新しい流路へ入り込み、その先には。
ベルガ南西部の低地がある。
「浸水する……」
ルナは地図を見る。
そこには。
避難民の移動経路の一部も含まれていた。
「Siren、Valkyrieへ!」
◇
同時刻。
レイブンとガイルは、DVERGRの作業区域へ向かう途中で北側の敵部隊と接触していた。
敵の数は多くない。
だが目的が戦闘ではないことは明白だった。
彼らはDVERGRの工兵を狙っている。
「通すな!」
ガイルが叫ぶ。
レイブンはISG-42A3《RAVEN》を構え、接近する敵を押し戻した。
銃が肩へ返す衝撃と、傷ついた左腕の痛みが重なる。
〔兵器接続〕は正常な作動を伝えている。
正常ではないのは。
射手の方だった。
「くっ……」
左腕から力が抜けた。
マガジン交換が必要になる。
普段なら問題にならない動作だった。
しかし傷が再び開き、指先の感覚が僅かに鈍っている。
いつもの速度でできない。
レイブンはその事実を受け入れた。
これは非常装填だった。
弾切れだから急いで交換するという意味ではない。
負傷によって、射手自身が通常どおり再装填できない非常状態を指す、帝国軍とNoX独自の分類だった。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
「Hound!」
それだけでガイルは理解した。
「任せろ!」
ガイルがレイブンの動けない時間を埋める。
レイブンは無理に速度を上げなかった。
焦って失敗すれば。
さらに時間を失う。
負傷した身体でできる動作へ切り替え、再び戦える状態へ戻す。
「戻った!」
「遅え!」
「負傷者に優しくしろ!」
「帰ったらな!」
レイブンは笑いながら銃を構え直した。
その時。
ルナからの緊急通信が入る。
『NoX、Valkyrie、こちらNyx。水路開通に成功しました。ただし導水路が決壊し始めています。南西低地に浸水予測!』
「避難民は?」
エリシアの声が重なる。
『市役所から五十人以上を確認。これから移動させるところ』
「その経路、低地を通る?」
『一部が重なる』
レイブンは目を閉じた。
敵。
怪物。
河川。
住民。
工兵。
それぞれを別々に考えている余裕はない。
「Valkyrie、市役所の住民は低地へ出さないで」
『了解。高い道路へ切り替える』
「Nyx、水路は?」
『今なら使えます。でも長くは持ちません』
「DVERGRは?」
『流れを抑える作業へ移っています』
ガイルが敵を警戒しながらレイブンを見る。
「NoX、こっちは?」
レイブンは北側の敵を見る。
戦う理由は。
工兵を守るためだった。
その工兵が今。
住民の避難路を守ろうとしている。
「ここを持たせる」
レイブンは答えた。
「DVERGRが仕事を終えるまで」
通信の向こうでエリシアが言う。
『私たちは住民を高所へ移す』
ルナが続く。
『STYXは使える間に水路で重傷者を抜きます』
「了解」
三人は。
同じ場所にはいない。
同じ敵を見てもいない。
それでも。
やっていることは一つだった。
帰る道を。
切らせない。
◇
午前九時二十九分。
ベルガでは三つの戦場が同時に動いていた。
東ではGUNGNIR、TYR、連邦共和国軍が敵主力を受け止め、北西ではWOLF PACKがDVERGRの作業区域へ向かう敵別働隊を阻止していた。
市街中心部ではEINHERJARが市役所地下から発見した住民を高所側へ誘導し、その一部をIDUNNへ引き渡す準備を進めている。
南ではSTYXが《アビス・クラーケン》を本流へ引き離しながら、限られた時間の中で避難艇を旧水路へ通していた。
そのすべてを。
HUGINNが繋いでいた。
誰か一人が戦場を支配しているわけではない。
NoXが道を開く。
Valkyrieが命をまとめて帰還へ繋ぐ。
Nyxが水と環境そのものを帰還路へ変える。
そして彼らだけでは足りない部分を、DVERGR、BIFROST、IDUNN、GUNGNIR、TYR、RATATOSKR、HUGINN、SKYFALL、連邦共和国軍、帝国軍、旧抵抗軍諸国が埋めていく。
一人の英雄では成立しない戦争だった。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
やがて。
DVERGRから報告が入った。
『導水路の拡大、止まった! 低地への流入も減少中!』
ルナが息を吐く。
「避難艇は?」
『最後の一艇、旧水路へ入りました!』
Marlinが答える。
市街地では。
『Valkyrieより全隊。市役所生存者、全員高所側へ移動完了。確認できた範囲で取り残しなし』
北西部では。
「NoX!」
ガイルが叫ぶ。
敵別働隊が後退を始めていた。
DVERGRへの奇襲が失敗したことを理解したのだろう。
「追うか?」
レイブンは敵の背中を見る。
〔殺気看破〕にはまだ敵意が残っている。
追える。
おそらく何人かは捕捉できる。
だが。
自分の腕は傷ついている。
ガイルも弾薬を消費している。
DVERGRは疲弊している。
そして敵の撤退先が安全だという保証もない。
「追わない」
レイブンは銃口を下げた。
「脅威確認だけして、DVERGRと合流する」
ガイルが頷く。
「了解」
勝てるかもしれない戦闘を。
あえて終わらせる。
それもまた。
全員で帰るための判断だった。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
◇
午前九時四十二分。
ベルガ南西部。
STYX最後の避難艇が旧水路を抜けた。
船内には負傷者と高齢者、そして数人の子供が乗っていた。
水位はすでに下がり始めている。
今日このあと。
同じ道を再び使える保証はない。
ルナは本流からその艇を見送った。
「Nyx」
Sirenが小さく呼ぶ。
「はい?」
「怪物が離れます」
《アビス・クラーケン》の反応が。
ゆっくりと下流へ向かっていた。
STYXは追わなかった。
倒していない。
撃破もしていない。
次に会えば。
また戦うことになるかもしれない。
それでも。
今日必要だった勝利は。
すでに得ていた。
「全艇、追跡しません」
ルナは命じた。
「避難艇を護衛して帰ります」
肩が痛む。
船体にも損傷がある。
弾薬も燃料も消費した。
帰還すれば整備と治療が必要になる。
戦闘が終わったからといって。
代償まで消えるわけではなかった。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
ルナはベルガの方角を振り返った。
遠く。
建物の間から。
連邦共和国の旗が見えている。
まだ。
完全な奪還ではない。
病院には生存者が残されている可能性があり、東部では敵主力との戦闘が続いている。
それでも。
学校から人が帰った。
市役所からも人が帰った。
水路を通った艇も。
今度は安全圏へ向かっている。
「兄様」
ルナは誰にも聞こえない声で呟いた。
「道、ちゃんと繋がりましたよ」
その頃。
ベルガ北西部で、レイブンは傷ついた左腕をフィーナに捕まれながら、遠くに見える連邦共和国の旗を眺めていた。
「NoX、聞いてます?」
「聞いてる」
「今度こそ治療です」
「分かったって」
「武器をHoundに渡してください」
「そこまで?」
「そこまでです」
ガイルが手を出す。
「ほら」
「絶対落とすなよ」
「お前の子供か?」
「似たようなもんだ」
「銃を子供扱いするな」
「親父にも同じこと言われたな……」
レイブンがISG-42A3《RAVEN》を渡す。
その時。
ノアから通信が入った。
「NoX」
「今度は何?」
ノアの顔には。
安堵がなかった。
「HUGINNが敵通信の一部を解析した」
レイブンの表情が変わる。
「内容は?」
「断片的だけど……ベルガの名前が出てる」
「それだけなら普通だろ」
「違う」
ノアは端末を見る。
「敵はベルガを失うことを想定してた可能性がある」
ガイルの笑みが消えた。
レイブンも黙る。
「どういう意味?」
「ここの戦闘そのものを使って、俺たちの部隊運用を観察していた可能性がある」
WOLF PACK。
EINHERJAR。
STYX。
GUNGNIR。
DVERGR。
HUGINN。
そして。
FENRIRが、どのように部隊同士を繋いで戦うのか。
敵は。
それを見ていた。
「敵指揮官の情報は?」
「まだない」
ノアは首を振った。
「ただ、一つだけ繰り返し出てくる呼称がある」
レイブンが端末を見る。
異界語から翻訳された呼称が表示される。
意味は。
《鉄血の伯爵》。
レイブンの金色と黒の瞳が細くなる。
ベルガを巡る戦いは。
Operation HOMECOMING最初の勝利へ近づいていた。
しかし、その勝利の向こう側で。
こちらの戦い方を観察し。
学び。
次の戦場へ備えている者がいる。
連邦共和国の失地を取り戻す戦争は。
単に東へ進めば終わる戦争ではなくなろうとしていた。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版




