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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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98/189

Season 5「境界の兆候」  #098

第98話「狼たちの橋頭堡」

 午前八時四十六分。

 ベルガ東方から接近する敵増援主力の存在が確認された頃、連邦共和国領内の戦況は、それまでとは明らかに異なる段階へ入り始めていた。

 連邦共和国は第二異界門から始まった侵攻によって、かつての実効支配領域の四分の三近くを失っている。首都防衛線を中心として辛うじて残された西部領域と、東方の異界門周辺との間には、占領された都市や農村、寸断された鉄道と道路が幾重にも横たわっていた。

 その広大な失地の一角へ、Operation HOMECOMINGは最初の楔を打ち込もうとしている。

 ベルガは大都市ではない。

 しかし、ここを奪還できれば意味は大きかった。

 市街地を東西に抜ける幹線道路は後方の連邦共和国支配地域へ繋がり、南側を流れる河川はさらに下流でイーストリッジ海へ達する。道路、水路、そして周辺農村へ伸びる地方道が交わるベルガは、地図上では小さな都市でありながら、東部失地へ向けて兵站を延ばすための足場になり得た。

 逆に言えば。

 敵もそれを理解している。

「敵先頭、十二分以内」

 ノア・ヴェルナー《Cipher》の報告を聞きながら、レイブン・S・クロウ〔無名(ノックス)〕は崩れた建物の壁に背を預けて地図を確認していた。

 WOLF PACKはベルガ東部で敵先遣部隊を引きつけながら、少しずつ市街側へ戻っている。

 前へ進むためではない。

 後続が入る場所を残すためだった。

「規模は?」

「HUGINNとRATATOSKRの情報を統合中。少なくとも、さっきまで俺たちが相手してた連中とは比較にならない」

 ガイル・ベッカー《Hound》が弾薬の残りを確認しながら顔を上げた。

「つまり、俺たち七人でどうにかする相手じゃないってことか」

「最初からそのつもりはないよ」

「昔のお前なら言ってたぞ。『少し見てくる』って」

「少し見てくるだけなら今でも言う」

「そのまま帰ってこないのが問題なんだ」

「帰ってるだろ」

 ガイルはレイブンの左腕を見る。

 前の戦闘で受けた傷はすでに出血を止め、常人なら数日を要するはずの治癒過程を異常な速さで進んでいた。

「その腕で言われても説得力ねえよ」

「……そこは認める」

 フィーナ・アルベル《Sage》が横からレイブンを睨んだ。

「あとでちゃんと診ますからね」

「分かってる」

「その返事、もう信用してません」

「今日の俺、信用なさすぎない?」

 ヨハン《Hawk》が瓦礫越しに東を見る。

「信用の問題は生き残ってから話せ。来るぞ」

 その一言で、WOLF PACKの空気が変わった。

 遠方から低い振動が伝わっている。

 車両のエンジン音とは違う。

 地面そのものが不規則に震え、崩れかけた窓ガラスが小さく鳴っていた。

 敵は歩兵だけではない。

 大型の異界生物を同行させている。

 レイブンは目を細めた。

「第一次異界大戦を思い出すな」

 ディートリヒ《Grizzly》が言う。

「似てるだけだ」

 レイブンはすぐに返した。

「同じ相手だと決めつけない」

「分かってる」

 敵の正体はまだ確定していない。

 第二異界門から現れた軍勢は、第一次異界大戦で戦った勢力との共通点をいくつも持っていた。しかし、魔法体系や部隊運用には違いもあり、何より彼らは異常な速度でFENRIR側の戦術を学習している。

 そのため、過去の経験は武器にはなっても答えにはならなかった。

 レイブンは通信を開いた。

「NoXよりFJTF。敵主力を確認した。WOLF PACKはベルガ東部から後退しながら接触を維持する」

『了解。後続部隊はすでに前進中』

「到着は?」

『連邦共和国軍先遣隊が最も早い。GUNGNIRおよびTYRの先頭要素が続く。DVERGRは確保区域へ入る準備中』

「分かった」

 レイブンは地図を見る。

「俺たちが時間を買う。到着した部隊からベルガへ入れてくれ」

 ガイルが横から言った。

「今度はちゃんと渡すんだな」

「俺、そこまで学習能力ないと思われてる?」

「敵より遅い時がある」

「あとで殴る」

「生きて帰ったらな」

 レイブンは笑った。

「ああ。帰ったらな」

     ◇

 ベルガ市立学校では、EINHERJARによる第二陣の避難準備が進んでいた。

 最初に搬送された重傷者たちは、すでにSTYXとの合流地点へ向かっている。

 残された住民の多くは歩ける。

 だが、それは安全に逃げられるという意味ではない。

 幼い子供もいれば、高齢者もいる。何日も十分な食事を取っていない者がおり、長期間地下で生活していたため体力を落としている者もいた。

 エリシア・L・クロウ〔戦乙女(ヴァルキリー)〕は、全員を一度に移動させなかった。

「十人ずつ動かします。前の組が次の遮蔽物へ入ったことを確認してから次を出して」

 EINHERJARの隊員が住民を誘導する。

 遠くで砲声が聞こえ始めていた。

 少女がエリシアの袖を掴んだ。

「戦争、また来るの?」

 エリシアは一瞬だけ言葉を探した。

 大丈夫だと言えば簡単だった。

 だが、東から敵が迫っている以上、それは嘘になる。

「近くで戦いが始まる」

 少女の指に力が入った。

「でも、あなたたちをその中に置いたままにはしない」

「お姉ちゃんたちは?」

「私たちは最後に行くよ」

「どうして?」

 エリシアは少し笑った。

「それが仕事だから」

 少女は理解できたような、できていないような顔をした。

 それでも手を離した。

 エリシアが立ち上がったところで通信が入る。

『Valkyrie、こちらIDUNN前進医療班。南西経路へ到着しました』

「助かります。重傷者を優先して引き渡します」

『了解。BIFROSTも後方輸送路を延伸中です』

「道路状態は?」

『悪いです。DVERGRが来なければ大型車両の連続通行は難しいとのこと』

 やはり。

 町を取るだけでは足りない。

 道路を直し、負傷者を運び、食料と弾薬を送り、再び敵が来ても維持できる状態にしなければ、奪還とは呼べない。

 エリシアは学校の外を見る。

 WOLF PACKが開いた道へ。

 次の部隊が入り始めている。

「ValkyrieよりEINHERJAR。避難を継続します。ただし、連邦軍が到着したら学校の防衛を引き継いでもらってください」

 副官が振り向いた。

「我々が維持しないのですか?」

「ここだけを守るために全員を固定したら、次の救出へ行けないでしょう」

 エリシアは市街地の方角を見る。

「市役所と病院が残っています」

 学校で三十四人。

 それだけでは終わらない。

     ◇

 河川本流では、《アビス・クラーケン》がSTYXの舟艇群を追っていた。

 水面へ現れるのは巨体の一部だけだったが、それでも十分な圧力があった。

 ルナ・S・クロウ〔夜(ニュクス)〕は先頭艇の甲板で、怪物ではなく水面を見ていた。

 怪物そのものを見続ければ、その動きに意識を奪われる。

 彼女が読むべきなのは水だった。

 どこで流れが膨らみ、どこで沈み、どこへ巨大な質量が移動しているのか。

「右へ来ます!」

 Otterの声とほぼ同時に、ルナも水面の変化を捉えた。

「Marlin、左へ。急に切らないでください。流れを使って」

「了解!」

 艇が緩やかに進路を変える。

 数秒後、その直前までいた場所から巨大な肢が水面を突き破った。

 水飛沫が甲板へ降り注ぐ。

「危な……!」

 Sirenが身体を低くする。

 ルナは肩を押さえた。

 先ほど受けた衝撃の痛みはまだ残っている。

 身体の奥では回復が始まっているのが分かる。それでも、腕を上げるたびに鈍い痛みが走った。

「Nyx、戦闘艇二隻が合流!」

「怪物へ集中しすぎないよう伝えてください。避難艇との間へ入れなければ十分です」

「撃破は狙わない?」

「狙いません」

 ルナは旧農業水路を見る。

 その入口へ、STYXの救難艇が入っていく。

「私たちが勝つ必要はないんです。あそこを通る人たちが帰れれば、それで勝ちです」

 《アビス・クラーケン》が再び潜る。

 だが今度は。

 追ってこなかった。

「……止まった?」

 Otterが水中反応を追う。

「本流中央で旋回しています」

 ルナの表情が変わった。

 怪物はSTYXを追うことをやめた。

 その巨体が向きを変える。

 進行方向は。

 旧水路。

「まずい!」

 怪物の目的が舟艇そのものではないとすれば。

 最初から。

 帰還路を潰すために投入されていた可能性がある。

「全艇、旧水路との間へ!」

 ルナの声が通信網を走った。

     ◇

 ベルガ東部で、WOLF PACKは最初の敵主力を視認した。

 異界軍歩兵の後方を、大型生物と魔導兵が進んでいる。

 隊列は第一次異界大戦で見たような密集突撃ではなかった。

 部隊間隔を広げている。

 遮蔽物を使っている。

 そして。

 こちらの射線を意識している。

「……嫌になるくらい上手くなってる」

 ヨハンが呟いた。

「こっちが教えたようなもんだからな」

 ガイルが答える。

 レイブンは黙って敵を見る。

 敵はFENRIRの技術そのものをコピーしているわけではない。

 近代的な通信装置も、同等の火器も持っていない。

 その代わりに旗、光、音、伝令、魔法、地形を組み合わせている。

 電子妨害だけでは切れない。

 魔導妨害だけでも止まらない。

 古い方法と異界の技術を混ぜて、こちらの長所を一つずつ削っている。

「Cipher」

「うん」

「こいつら、通信を一系統に依存してない」

「俺もそう見える」

「HUGINNに送って。妨害だけで止められる相手じゃない」

「了解」

 レイブンの〔殺気看破(アタック・シールド)〕が複数の敵意を拾う。

 多すぎる。

 こうなると、能力そのものが雑音に近づいていく。

 どこから撃たれるかではなく、周囲のあらゆる方向から危険を感じる。

 万能ではない。

 敵の数が増えれば、感知できること自体が負担になる。

「NoX?」

 ガイルが気づいた。

「大丈夫」

「顔が大丈夫じゃない」

「敵が多すぎて、アタック・シールドがうるさい」

「切れるのか?」

「意識から外すことはできる」

 レイブンは呼吸を整えた。

 能力に頼りすぎれば、逆に戦場が見えなくなる。

 目で見る。

 耳で聞く。

 仲間から情報をもらう。

 その上で、最後に感覚を重ねる。

「来るぞ」

 敵前列が動いた。

 WOLF PACKが応戦する。

 RCA規格によって統一された補給体系は長期戦で大きな意味を持つが、弾薬そのものが無限になるわけではない。レイブンはISG-42A3《RAVEN》を撃ちながら、撃てるから撃つのではなく、後退に必要な時間を作るために射撃を使った。

 消費した分を補う余裕が生まれた時には、薬室の即応状態を維持したまま次の接触へ備える戦術装填《タクティカル・リロード》へ移る。

 しかし今は、その余裕が短い。

「Grizzly、下がれる?」

「Hawkが移動してからだ」

「Hawk!」

『あと十秒!』

「十秒持たせる!」

 WOLF PACKは交互に位置を変えながら後退する。

 敵も追う。

 魔法攻撃が建物へ命中し、古い壁が道路へ崩れた。

 レイブンは反射的に横へ動こうとして、左腕に強い痛みを感じた。

「っ……!」

「NoX!」

 ガイルが腕を掴む。

「動ける」

「分かってる。だから一人で動くな!」

 レイブンは言い返さなかった。

 今の自分が無理をすれば、誰かがその分を補うことになる。

 指揮官が仲間の負担を増やしてどうする。

「……悪い」

「謝るのは帰ってからでいい!」

「お前それ好きだな!」

「お前に一番効くからな!」

 その時。

 彼らの後方から。

 聞き慣れない砲声が響いた。

 WOLF PACK全員が一瞬だけ振り返る。

 敵前方から少し離れた道路へ着弾し、土煙が上がった。

 直接敵を狙った射撃ではない。

 敵の進路を制限するための支援だった。

 ノアの通信へ報告が入る。

『こちらGUNGNIR先遣。WOLF PACKを確認した。支援を開始する』

 続いて別の回線。

『TYR先頭部隊、ベルガ西端へ到着。大型敵性目標への対応準備に入る』

 ガイルが笑った。

「遅えぞ」

 レイブンも笑った。

「十分早い」

 そして通信機を取る。

「NoXよりGUNGNIR。東部接触線を引き渡す。WOLF PACKは市街側へ戻る」

『了解。こちらで受ける』

 それだけだった。

 レイブンは前線を手放した。

 以前なら、自分が最後まで残ることに意味を求めたかもしれない。

 今は違う。

 GUNGNIRにはGUNGNIRの仕事がある。

 TYRにはTYRの仕事がある。

 WOLF PACKは次の道を開く。

「全員、ベルガへ戻る」

 ガイルが言った。

「珍しく素直だな」

「妻と妹とSageとお前に同じこと言われたからな」

「多いな」

「俺もそう思う」

 WOLF PACKが後退する。

 その横を。

 連邦共和国軍の先遣部隊が前へ進んでいった。

 一人の連邦兵が、すれ違いざまにベルガの街並みを見た。

 足が止まる。

「どうした?」

 仲間が尋ねる。

 兵士は答えなかった。

 道路の向こうにある。

 半壊した時計塔を見ていた。

「……俺の町だ」

 その声は。

 レイブンにも聞こえた。

 兵士はしばらく時計塔を見つめたあと、銃を握り直した。

「まだ残ってた」

 レイブンは何も言わなかった。

 その兵士にとって。

 これは地図上の奪還作戦ではない。

 故郷へ戻る戦いだった。

     ◇

 午前九時三分。

 ベルガ西側へDVERGRの先遣工兵隊が到着した。

 彼らは戦闘部隊より先に道路の損傷を確認し、崩れた瓦礫と放棄車両の間から、BIFROSTの輸送車列を通せる幅を作り始めた。

 後方ではIDUNNが臨時救護所を設け、学校から搬送された住民の受け入れを開始する。

 SKYFALLの航空部隊はベルガ上空へ直接深く入り込まず、敵対空能力の位置を探りながら外縁で偵察と支援を続けていた。

 HUGINNは各部隊の情報を統合し、RATATOSKRは敵主力の迂回経路を探る。

 VALHALLAは遠くイーストリッジ海上にありながら、航空、通信、医療、輸送の後方中枢として作戦を支えていた。

 そして。

 ベルガの一角で。

 連邦共和国の旗が上がった。

 誰かが勝手に掲げたものだった。

 公式な奪還宣言ではない。

 市街地の半分以上ではまだ戦闘が続いている。

 敵も退いていない。

 それでも、帰ってきた連邦兵の一人が、破壊された行政庁舎の残骸から見つけた旗を窓へ掛けた。

 風が吹く。

 濡れた布がゆっくりと開く。

 それを見た住民の一人が泣いた。

 レイブンは少し離れた場所からその光景を見ていた。

「NoX」

 エリシアが隣へ来た。

「学校の住民は?」

「第一陣はIDUNNへ引き渡した。残りも移動中」

「市役所は?」

「これから」

「病院も?」

「もちろん」

 レイブンは笑った。

「休む気ないな」

「誰かさんほどじゃない」

「またそれ?」

 エリシアは彼の左腕を見る。

「Sageのところへ戻って」

「あとで」

「レイブン」

「……はい」

 エリシアが満足そうに頷いた。

 その時。

 二人の通信機へ同時にルナの声が入った。

『NoX、Valkyrie、こちらNyx』

「聞こえてる」

『《アビス・クラーケン》が旧水路へ戻ろうとしています。避難艇の第一陣は通しましたが、このままだと第二陣が使えません』

 レイブンとエリシアが顔を見合わせる。

「支援は必要?」

『必要です』

 ルナは即答した。

 昔なら。

 一人で何とかしようとしたかもしれない。

 それは兄だけではない。

 三人とも。

 長い戦争の中で。

 少しずつ学んできた。

『ただし、怪物を倒してほしいわけではありません』

「じゃあ?」

『川を変えます』

 レイブンの眉が上がる。

「……川?」

『DVERGRを借りたいです』

 エリシアが笑った。

「なるほど」

「俺まだ分かってないんだけど」

『兄様はあとで説明します』

「勤務中」

『NoXはあとで説明します』

「だから言い直さなくていいって!」

 エリシアが笑う。

 その笑い声の向こうで。

 ベルガ東部ではGUNGNIRと連邦共和国軍が敵主力を迎え撃ち。

 南側ではSTYXが水路を守り。

 西側ではDVERGRとBIFROSTが兵站路を作り。

 学校ではEINHERJARが最後の住民を連れ出していた。

 WOLF PACKが最初に開いた一本の細い道は、もはや彼らだけのものではない。

 部隊が通り。

 物資が通り。

 負傷者が帰り。

 住民が帰る。

 やがてその道は。

 軍が前へ進める幅へ変わっていく。

 Operation HOMECOMINGが目指していたのは、敵の旗を降ろすことだけではなかった。

 奪われた土地を、再び人が暮らし、守り、帰ってこられる場所へ戻すことだった。

 ベルガはまだ完全には奪還されていない。

 東では敵主力との戦闘が始まったばかりであり、南の水路には巨大な脅威が残っている。

 それでも。

 連邦共和国が失地へ戻るための最初の橋頭堡は。

 確かに形になり始めていた。

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