↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
PR
97/189

Season 5「境界の兆候」  #097

第97話「帰還路を喰らうもの」


 ベルガ南西部を流れる旧農業水路で、水面が内側から持ち上がった。


 濁流を押し退けて現れた巨体は、STYXの先頭艇から見ても一度では全貌を捉えられなかった。黒褐色の外皮に泥と水草をまとい、川幅そのものを狭く感じさせる胴体が水面を割って浮上すると、続いて幾本もの長い肢が水中から伸び、その一本が河岸へ叩きつけられた。


 前夜の雨で緩んでいた土が大きく崩れ、水路へ流れ込んだ。


 ルナ・S・クロウ〔夜(ニュクス)〕は、それを見た瞬間に理解した。


 あれは単にSTYXを襲おうとしているのではない。


 水路そのものを壊そうとしている。


「Marlin、後退しながら船首を流れへ合わせてください。Otterは水中反応を追跡、Sirenは全隊とHUGINNへ共有。後続艇はまだ入れないで」


「了解!」


 セレス・アイレン《Marlin》が艇を下げると、増水した流れが船体を横へ押そうとした。エンジンの振動が甲板からルナの脚へ伝わり、雨で増した水量と狭い水路が、敵と同じくらい危険な存在として艇を揺らしている。


 巨大な影が再び潜った。


 水面から姿が消えたことで、むしろ状況は悪くなった。


「Otter?」


 レオン・シュナイダー《Otter》が水中観測へ意識を集中する。


「下流へ回っています……いや、違う。こちらの後ろへ抜けようとしてる」


「帰り道を塞ぐつもり?」


「可能性があります」


 ルナは即座に周囲を見た。


 ここへ来るまでに何度も確認した水深、流速、河岸の形、退避できそうな場所が頭の中で繋がっていく。彼女にとって水域は平らな地図ではない。水位が変われば使える場所も変わり、流れが変われば昨日の安全地帯が今日の危険地帯になる。


 敵も同じものを利用していた。


 兄たちが陸で待ち伏せされたのと同じように、STYXも自分たちの得意な場所で迎え撃たれている。


「正面から倒すことは考えません」


 ルナが言った。


 隊員たちが彼女を見る。


「私たちの任務は怪物退治じゃない。この水路を、住民を乗せた艇が帰れる状態にすることです」


 巨大生物を撃破できるかどうかより、ベルガから人を出せるかどうか。


 判断の基準はそこにあった。


 水面が膨らんだ。


「来ます!」


 巨大な肢が水中から振り上げられた。


 Marlinが艇を動かした直後、水柱が甲板の高さを超えて噴き上がった。衝撃が船体を揺らし、ルナは手すりを掴んで身体を支えたが、完全には踏ん張れず肩を壁へ打ちつけた。


 痛みが走った。


 不老不死となった身体であっても、痛覚まで失われたわけではない。骨や筋肉が傷つけば動きは鈍り、回復にも時間が必要になる。自分が死ににくいからといって、艇も部下も同じではなかった。黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版


「Nyx!」


「大丈夫です。それより艇は?」


「推進維持できます!」


「なら動きます。ここに留まった方が危険です」


 ルナは肩の痛みを押し込みながら水面を睨んだ。


 その時、Sirenが叫んだ。


「HUGINNから情報です。類似した大型水棲反応について旧抵抗軍側の記録に照合候補あり!」


「名称は?」


「《深淵の這いずる者》――現地呼称では《アビス・クラーケン》!」


 ルナは眉を寄せた。


「記録は?」


「断片的です。大型水域生物であること以外、確定情報が少なすぎます」


「なら名前以外は信用しません。今見えているものを基準にします」


 それで十分だった。


 分からない相手を、分かったつもりで戦う方が危険だった。


     ◇


 ベルガ市立学校の地下では、三十四人の住民がEINHERJARによって地上へ導かれ始めていた。


 地下室の空気は湿っており、長期間まともに換気されていなかったため、扉が開いた瞬間にエリシア・L・クロウ〔戦乙女(ヴァルキリー)〕は鼻を刺すような臭いを感じた。


 子供たちは声を上げなかった。


 泣くことすら敵に見つかる原因になると、大人たちから教えられていたのだろう。


 その事実が、エリシアには銃声より重かった。


「もう大丈夫、と言いたいところだけど」


 エリシアはしゃがみ、一人の少女と視線を合わせた。


「ここから少し移動しなきゃいけない。歩ける?」


 少女はエリシアの銀白色の猫耳をしばらく見たあと、小さく頷いた。


「お母さんも一緒?」


「一緒に行くよ」


「置いていかない?」


「置いていかない」


 エリシアは即答した。


 その後ろではEINHERJARの隊員が負傷者の状態を確認し、歩行できる住民と搬送が必要な住民を分けていた。学校を確保したからといって、救出が終わったわけではない。敵支配地域から安全圏へ戻すまでが任務だった。


 通信機からレイブンの声が入る。


『Valkyrie、東側の敵増援が動き始めた。RATATOSKR推定で市街地へ入るまで二十分前後』


「こっちは三十四人を確認。うち六人は自力移動が難しい」


『水路は今使えない』


「Nyx?」


『大型の水域脅威と接触してる。まだ帰還路を確保できてない』


 エリシアは一瞬だけ目を閉じた。


 陸路には敵。


 水路には怪物。


 そして自分の目の前には、三十四人の民間人がいる。


「だったら、学校を一時収容点にする」


『そこを守る?』


「守り続けるんじゃない。次の経路が開くまで持たせる」


 エリシアは地上階の配置を頭の中で組み直した。


「EINHERJARで学校周辺を維持する。IDUNNには前進医療班を寄せてもらう。歩ける人から移動準備を始めるけど、出口が確定するまで外へ出しすぎない」


『分かった。俺たちは東側を見に行く』


「レイブン」


『分かってる』


「まだ何も言ってない」


『追いすぎるな、でしょ』


「半分正解」


『残りは?』


「腕」


 通信の向こうで沈黙があった。


『もうだいぶ動く』


「治りが早いことと、治ったことは同じじゃない」


『……了解』


「それから、道を開いたら戻ってきて」


『了解、Valkyrie』


 今度は素直だった。


 エリシアは少しだけ笑い、少女へ手を差し出した。


「行こう」


 小さな手が重なった。


     ◇


 ベルガ東部。


 WOLF PACKは市街地中央へ向かわず、学校へ近づく敵増援の進路を探るために外周道路へ移動していた。


 雨上がりの路面には水溜まりが残り、破壊された建物から落ちた瓦礫がところどころで道路を塞いでいる。車両なら迂回を強いられる場所でも、少人数の歩兵なら抜けられる。


 だから敵も使う。


「NoX、前方」


 ミレイア《Lynx》が低い声で告げた。


 レイブンは建物の陰から先を見る。


 敵兵がいた。


 しかし、その数は予想より少ない。


「これだけ?」


 ガイル《Hound》が訝しげに言う。


「増援の先頭じゃないか?」


 ノア《Cipher》がRATATOSKRから送られた情報を確認した。


「上空からは、この先にもっといるはずなんだけど」


 レイブンの耳が動いた。


 〔殺気看破(アタック・シールド)〕に反応はある。


 だが妙だった。


 見えている敵兵から向けられる敵意は明確なのに、その奥にいるはずの部隊からはほとんど何も感じない。


「……止まれ」


 全員が足を止める。


「どうした?」


 ガイルが尋ねた。


「静かすぎる」


「またそれか」


「今度は殺気が足りない」


 敵意がないのではない。


 隠している。


 あるいは。


 こちらが感知することを前提に、別のものへ注意を向けさせている。


 レイブンは道路から視線を外した。


 建物。


 屋根。


 窓。


 瓦礫。


 そして足元。


 雨で濡れた泥の上に、敵兵のものと思われる足跡が残っていた。


 道路を進んでいない。


 途中で左右へ分かれている。


「散ってる」


 ヨハン《Hawk》も気づいた。


「正面は見せ餌か」


 レイブンは頷いた。


 第一次の侵攻軍なら、数を前面へ押し出してきたかもしれない。


 だが今の敵は違う。


 FENRIRが組織と通信、兵站を繋いで戦うことを理解し始めている。ならばWOLF PACKだけを撃破する必要はない。


 WOLF PACKが守ろうとしているものを攻撃すればいい。


「学校だ」


 レイブンが言った。


 ノアの表情が変わる。


「でも敵増援は東から――」


「全部がそうだとは限らない。俺たちを東へ向かせて、別の隊を南から回してる可能性がある」


「HUGINNへ照会する!」


「同時にValkyrieへ警告!」


 ノアが通信を開いた直後。


 〔殺気看破(アタック・シールド)〕が激しく反応した。


 レイブンは考えるより先に身体を沈めた。


 銃撃が壁を叩いた。


「接敵!」


 ガイルの声と同時に、WOLF PACKがそれぞれ遮蔽物へ入る。


 敵は道路正面から来なかった。


 左右の建物から同時に現れた。


「やっぱり読まれてる!」


 ノアが叫ぶ。


「読ませたんだろ!」


 レイブンはISG-42A3《RAVEN》を構えた。


 〔兵器接続(アームズ・リンク)〕が武器の状態を感覚へ返す。弾薬も機関もまだ余裕はあるが、敵の数を考えれば、ここで長く撃ち合うべきではない。


 ディートリヒ《Grizzly》が射線を作り、ガイルが左側から接近する敵を抑える。ヨハンは少し離れた建物から味方へ狙いを定めていた術者を発見し、その存在を全員へ知らせた。


 レイブンは〔透明(ゴースト)〕を働かせながら位置を変えた。


 完全には消えない。


 敵もそれを知っている。


 レイブンが一つの遮蔽物から別の遮蔽物へ移った瞬間、敵兵の一人が銃口ではなく路面へ魔力光を放った。


 泥水が爆ぜる。


 飛沫がレイブンの脚と装備へ付着した。


「……なるほど」


 姿を見失うなら。


 周囲を汚せばいい。


 濡れた泥が動けば、そこに何かがいると分かる。


 《ゴースト》そのものを破るのではなく、環境を使って存在を浮かび上がらせる。


「こいつら、本気で勉強してるな」


「感心してる場合か!」


 ガイルが怒鳴った。


「ちょっとだけ嬉しくない?」


「全然!」


 戦闘前なら笑えたかもしれない。


 今は誰も笑わなかった。


 敵がこちらの戦い方を学んでいるということは、昨日まで安全だった方法が今日も安全とは限らないということだった。黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版


「NoX!」


 ノアが叫ぶ。


「Valkyrieから! 学校南側に敵影!」


 やはり。


 正面の部隊はWOLF PACKを引き留めるためのものだった。


 レイブンは敵を見た。


 ここで撃ち合い続ければ、学校へ向かった別働隊を止められない。


「後退する!」


 ガイルが一瞬だけレイブンを見る。


「学校へ戻るのか?」


「違う。こいつらを連れていく」


「どういう意味だ?」


「追わせる」


 レイブンは地図を見た。


 敵を全滅させる必要はない。


 学校から離れた方向へ自分たちが移れば、敵が追ってくる可能性がある。


 追わなければ、それでも構わない。


 目的は時間を作ることだった。


「Cipher、Valkyrieへ伝えて。南側はEINHERJARで持たせてくれ。俺たちは東側を学校から引き離す」


「了解!」


 WOLF PACKは互いの移動を支えながら、戦闘可能な距離を保ったまま西ではなく北東へ下がり始めた。


 これは敗走ではない。


 敵を撃ちながら、生存可能な場所へ戦闘そのものを移す撤退だった。弾薬と体力を消耗し続ければ、どれほど強い兵士でも最後には止まる。だからこそ地形と時間を使い、戦う場所を選び直す必要がある。黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版


 敵が追ってきた。


「乗った!」


 ガイルが叫ぶ。


「喜ぶな!」


「作戦どおりだろ!」


「撃たれてる時に言われると腹立つ!」


 レイブンの上腕に痛みが戻る。


 前話で受けた傷が、急な動きで再び負担を訴えていた。


 再生している。


 それでも身体は、無限に働く機械ではない。


 呼吸も乱れる。


 疲労も溜まる。


 判断を誤れば捕まる。


 不老不死は勝利を保証してくれなかった。黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版


     ◇


 学校南側では、エリシアが住民を地下へ戻さなかった。


 敵が接近しているからといって、閉鎖空間へ再び押し込めれば、逃げ道を失う可能性がある。


「東棟から西棟へ移動させて。歩ける人は子供を手伝って。負傷者は中央廊下から動かさないで」


 EINHERJARが校舎を利用して住民を移動させる。


 敵の魔力反応が近づくにつれ、エリシアには術式が組み上がる流れが感じられた。


 レイブンとは違う。


 彼女は敵意そのものを読むのではなく、戦場を流れる魔力と障壁の変化、味方と負傷者の位置を重ねて見る。


「来る」


 エリシアが言った直後。


 南側の窓の外で魔力光が走った。


 壁が震えた。


 子供たちが身を縮める。


「大丈夫。ここにいるから」


 エリシアはそう言って立ち上がった。


 自分が怖くないわけではない。


 だが今は、恐怖を見せる相手を選ぶ時間だった。


「EINHERJAR、南側を維持。追撃はしない。住民から離れすぎないで」


 敵を倒すために線を伸ばせば。


 守るべき人間との距離が開く。


 それでは意味がない。


 WOLF PACKが道を開くなら。


 EINHERJARは命を連れて帰る。


 その役割は、戦況が苦しくなった時ほど変えてはならなかった。黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版


     ◇


 旧農業水路では、ルナが別の答えへ辿り着いていた。


「戦いません」


 Marlinが一瞬振り返る。


「え?」


「少なくとも、ここでは」


 《アビス・クラーケン》は狭い水路を利用している。


 巨体を自由に動かせるほど広くはないが、それはこちらも同じだった。STYXの舟艇は回避する余地を失い、河岸が崩れれば帰還路そのものが消える。


 ならば。


 戦う場所を変える。


「本流まで誘導します」


 Otterが水中反応を確認する。


「追ってきますか?」


「私たちを狙っているなら来ます。水路を狙っているだけなら、ここに残る」


「残った場合は?」


「別の道を探します」


 ルナは迷わなかった。


「怪物を倒すことより、住民を帰すことが先です」


 艇が後退を始める。


 巨大生物が追う。


 狭い水路から本流へ近づくにつれ、舟艇が動ける幅が広がった。


 しかし同時に。


 水位が少しずつ下がり始めている。


 太陽が上がったことで、旧農業水路を使える時間が減っていた。


「Nyx、本流まであと四分!」


「後続艇へ。水路へ入る準備を始めてください。ただし私たちが脅威を本流へ引き出してからです」


「了解!」


 巨大な肢が再び水面を叩く。


 艇が激しく揺れた。


 今度は船尾側から異音がした。


「損傷!」


「航行は?」


「維持できます。ただし長時間は無理です!」


 ルナは歯を食いしばった。


 敵を引き出す。


 舟艇を壊さない。


 帰還路を維持する。


 そのすべてを同時に成立させる余裕は、もうほとんど残っていなかった。


「本流まで持たせてください」


 Marlinが答える。


「持たせます」


 ルナは通信機を取った。


「NoX、Valkyrie、こちらNyx」


 銃声と爆発音が混ざった二つの回線から、ほぼ同時に返事があった。


『聞こえてる』

『こちらValkyrie』


「水路の大型脅威を本流へ誘導します。成功すれば旧水路を避難経路として再開できます。ただし、水位が下がり始めています」


 レイブンが息を整えながら尋ねた。


『どれくらい使える?』


「正確には分かりません。長くはありません」


 エリシアが続ける。


『学校に三十四人。市役所と病院にもまだいる可能性がある』


「だったら全員を一度に運ぶのは無理です」


『分かってる』


「最優先は自力移動できない人です。STYXが最初に受け取ります」


 エリシアはすぐに理解した。


『歩ける人は陸路が開くまでEINHERJARで維持する』


「お願いします」


 レイブンの声が続いた。


『俺たちが陸側を開け直す』


「腕は?」


『今それ聞く?』


「今だから聞いてます」


 銃声の向こうでガイルの声がした。


『Nyx! こいつ全然大丈夫じゃないぞ!』


「Hound!」


『あとで覚えてろって言われても生きて帰ればいいからな!』


 ルナは思わず笑った。


「Valkyrie、兄様をお願いします」


『任せて』


『勝手に話をまとめるな!』


 その声が聞こえたことで。


 ルナは少しだけ安心した。


「こちらも帰ります」


 通信を切る。


 そして前を見る。


 水路が開け始めた。


 本流だった。


「Marlin、出ます!」


「了解!」


 STYXの先頭艇が本流へ飛び出す。


 直後。


 後方の水面が大きく盛り上がった。


 《アビス・クラーケン》が追ってきた。


 狭い水路から解放された巨体が初めて大きく姿を現し、複数の肢が水面を叩く。その身体はSTYXの舟艇を容易に呑み込めそうなほど巨大だったが、広い本流へ出たことで、こちらにもようやく動ける空間が生まれた。


「旧水路、空きました!」


 Sirenが叫ぶ。


「後続艇を入れて!」


「でもNyxは?」


「私たちはこいつを引き受けます」


「一艇で?」


「一艇じゃありません」


 ルナは本流下流を見る。


 そこには。


 待機していたSTYXの艇群がいた。


 水域は、もう単なる逃げ道ではない。


 彼女たちにとって正式な作戦領域だった。黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版


「STYX全艇へ。住民回収艇は旧水路へ入り、戦闘可能艇は本流で先頭艇を支援してください。目的は撃破ではなく、避難経路から脅威を遠ざけることです」


 返答が次々と届く。


 ルナは肩の痛みを感じながら、それでも笑った。


「帰る道を、返してもらいます」


     ◇


 午前八時四十一分。


 ベルガ市立学校から、最初の住民搬送が始まった。


 EINHERJARが六名の重傷者と自力移動の難しい住民を学校から連れ出し、WOLF PACKが確保し直した南西側の経路を使ってSTYXとの合流地点へ向かう。


 東側ではWOLF PACKが敵部隊を学校から引き離しながら後退し、エリシアは住民の移動に合わせて防衛線を縮めていた。


 水上ではSTYXが《アビス・クラーケン》を本流へ引き出し、空いた旧農業水路へ救難艇が入り始める。


 誰か一人が戦況を変えたわけではない。


 レイブンが敵を引き離したからエリシアが住民を動かせた。


 エリシアが住民をまとめたからルナは優先順位を決められた。


 ルナが水路を開けたから、陸路だけに頼らない撤収が成立し始めた。


 三つの部隊が、それぞれ異なる場所で同じ一つの目的へ向かっていた。黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版


 やがて最初の舟艇へ、一人の少女が乗せられた。


 学校地下でエリシアと話した少女だった。


「お姉ちゃんも来る?」


 少女が尋ねる。


 エリシアは岸から艇を支えながら答えた。


「あとから行くよ」


「本当?」


「約束する」


 少女は少し迷ったあと頷いた。


 艇が岸を離れる。


 しかしルナは、その姿を見ても任務終了とは考えなかった。


 舟艇へ乗せた瞬間は、まだ帰還ではない。


 敵の脅威圏を抜け。


 安全な場所へ着き。


 次の誰かへ引き渡すまで。


 帰還は続いている。黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版


 その時だった。


 HUGINNから全軍回線へ緊急報告が流れた。


『ベルガ東方、敵増援主力を確認。推定規模、これまでの先遣部隊を大幅に上回ります』


 レイブンが息を整えながら地図を開く。


「到達まで?」


『十五分以内』


 エリシアが学校に残る住民を見る。


 ルナは本流で暴れる巨大生物を見る。


 まだ全員を運び出せていない。


 まだ市役所も病院も確認していない。


 それでも。


 大規模合同防衛軍の主力は、すでに後方から前進を始めている。


 レイブンは通信機を握った。


「NoXよりFJTF。ベルガ南西部に民間人生存者を確認し、避難経路を確保中。敵主力が接近している」


 少し息を吸う。


「WOLF PACKだけでは、もう持たせられない」


 昔の彼なら。


 その言葉を敗北のように感じたかもしれない。


 今は違った。


「後続を入れてください」


 通信の向こうから応答が返る。


『了解。大規模合同防衛軍、前進を継続する』


 レイブンは東を見る。


 地平線の向こうで、敵主力が近づいている。


 その背後には、まだ奪われた連邦共和国の大地が広がっている。


 そして自分たちの後ろからは、帝国軍、連邦共和国軍、旧抵抗軍、FJMGの部隊が同じ道を進んできていた。


 WOLF PACKが開いた小さな入口へ。


 今度は軍そのものが入ってくる。


 Operation HOMECOMINGは、ベルガという一つの町を巡る特殊部隊の戦いから、連邦共和国領土を本当に取り戻すための最初の大規模会戦へ移ろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。