Season 5「境界の兆候」 #100≪祝100話記念:特別編付録有り≫
第100話「鉄血の伯爵」
午前十時十二分。
ベルガの空から砲声が消えたわけではなかった。
東部ではGUNGNIRと連邦共和国軍が敵主力を押し返しつつあり、時折響く低い発射音と遠い着弾音が、街路に残された窓ガラスを震わせている。それでも一時間前まで市街全体を覆っていた銃声は明らかに減り、住民を乗せたBIFROSTの車両が西へ向かう道路を走り始めていた。
DVERGRが応急復旧した道を、物資を積んだ車両が反対方向へ進んでくる。
人は西へ帰り、補給は東へ向かう。
その二つの流れが同じ道路ですれ違っている光景を見ながら、レイブン・S・クロウ〔無名〕は、ベルガがようやく橋頭堡として機能し始めたことを実感していた。
Operation HOMECOMINGの最初の一歩は成功した。
しかし、ノア・ヴェルナー《Cipher》が解析した敵通信が、その成功を単純な勝利として受け取ることを許してくれなかった。
「《鉄血の伯爵》か」
レイブンは呟いた。
仮設指揮所として使われ始めた旧ベルガ鉄道管理局の一室には、WOLF PACKだけでなくHUGINNの情報担当者と連邦共和国軍の参謀が集まっていた。
壁に掛けられた地図には、ベルガから東へ伸びる複数の道路と河川、その先に広がる敵占領地域が記されている。
そこからさらに東へ進めば、最終的には第二異界門へ至る。
だが、その距離は短くない。
「名前なのか、称号なのかも確定してないんだろ?」
ガイル《Hound》が椅子へ腰を下ろしながら尋ねた。
「今のところは称号として扱った方がいい」
ノアが答える。
「異界語の音を拾っただけなら人名まで復元できなかった。でも、旧抵抗軍側に残っていた資料と照合したら候補が一人出てきた」
端末に一枚の古い記録が表示される。
鮮明な写真ではない。
第一次異界大戦の末期、撤退した異界軍の指揮所から回収された文書をもとに作成された人物画だった。
年老いた男。
片方の目を失っている。
華美な鎧ではなく、使い込まれた軍装をまとい、残された片眼だけが異様なほど鋭く描かれていた。
「ゲルハルト・フォン・バルツァー」
ノアが読み上げる。
「異界側の軍人。階級体系がこちらと一致しないから正確な訳は難しいけど、かなり上位の指揮官だった可能性が高い。呼称が《鉄血の伯爵》」
レイブンは人物画を見た。
「第一次異界大戦にもいた?」
「可能性はある。ただし、本人確認が取れてるわけじゃない」
「だったら決めつけない方がいい」
「同感」
第一次異界大戦で戦った相手と、第二異界門から現れた軍勢が同一勢力なのかさえ、まだ完全には確定していない。
似ているから同じだと判断すれば。
その思い込みを敵に利用される。
「問題は名前じゃない」
HUGINNの情報担当者が地図を指した。
「ベルガで確認された敵の動きです」
敵はGUNGNIRが前線へ入ると密集を避けた。
WOLF PACKが東部へ向かえば別働隊がDVERGRを狙い、STYXが水路を開けば《アビス・クラーケン》が帰還路へ圧力を掛けた。
電子・魔導妨害を受けても、旗や伝令、光信号など複数の通信手段を併用して部隊間の連携を維持している。
それは単なる偶然の積み重ねでは説明しにくかった。
「俺たちの強みを見てる」
レイブンが言った。
「火力じゃない部分を」
ノアが頷く。
「たぶんね」
ガイルが腕を組む。
「銃が強いから銃を真似する、じゃないってことか」
「むしろ逆だ」
レイブンは地図を見る。
「俺たちの銃を正面から真似する必要がない。道路を壊して弾を届かなくすればいいし、通信を全部止められなくても、指揮官に偽情報を信じさせればいい。航空機を落とせなくても、飛ばしたくない天候や場所へ誘えばいい」
近代軍の本当の強さは、一人の兵士が持つ火力だけではない。
通信、情報、輸送、整備、医療、工兵、航空、水上戦力を結びつけ、必要な場所へ必要な力を送り続けられることにある。
敵側にも、それを理解する指揮官が現れようとしていた。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
「面倒な爺さんだな」
ガイルが言った。
「本人だったらな」
レイブンは釘を刺した。
「まだ名前だけだ」
「お前、こういう時は慎重だな」
「こういう時『だけ』みたいに言うな」
「違うのか?」
「……Sageには聞かせるなよ」
部屋の入口から声がした。
「全部聞こえてます」
レイブンの黒い猫耳が僅かに伏せた。
フィーナ《Sage》が医療鞄を持って立っている。
「NoX。腕」
「会議中なんだけど」
「治療を条件に会議参加を許可したのは誰でしたっけ?」
「俺じゃない」
「私です」
「じゃあ権限あるな……」
ガイルが笑いを堪える横で、レイブンは諦めて椅子へ座った。
傷はすでに塞がり始めている。
異常な速度だった。
だが痛みは残っている。
不老不死となった身体は死から遠ざかった一方で、負傷そのものを無かったことにはしてくれない。疲労も蓄積し、意識を失えば指揮はできず、身体が動かなければ仲間を助けることもできない。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
「痛む?」
「動かさなければ」
「つまり痛むんですね」
「はい」
「最初からそう言ってください」
フィーナが処置を始める。
その間もレイブンの視線は地図から離れなかった。
「次の目標は?」
連邦共和国軍参謀が答える。
「まだ決定していない。ベルガの完全確保が先だ」
「病院が残ってる」
「ああ」
市役所の住民は救出できた。
しかし旧市立病院では、動かせない患者と医師たちが地下に残り、敵が上層階を使用しているという証言が得られている。
砲撃で解決できる場所ではない。
「そこはEINHERJARが確認してる」
レイブンが言うと、ガイルが顔を向けた。
「行かなくていいのか?」
「俺が?」
「ああ」
レイブンは少し考えた。
以前なら。
もう立っていたかもしれない。
「Valkyrieが必要だと言ったら行く」
ガイルの眉が上がる。
「成長したな」
「親みたいな顔するな」
「感動してる」
「殴るぞ」
「その腕で?」
「反対がある」
「Sage、患者が暴れようとしてるぞ」
「二人とも静かにしてください」
会議室に短い笑いが広がった。
ベルガを奪還しつつある。
だからこそ。
笑える時間が少しだけ戻っていた。
◇
同じ頃。
旧ベルガ市立病院の向かいにある集合住宅で、エリシア・L・クロウ〔戦乙女〕は窓越しに病院を観察していた。
六階建ての建物は、東側の一部が破壊されている。
それでも中央棟と西棟は残っていた。
窓の一部に布が掛けられ、屋上には敵兵と思われる人影が見える。
問題は、その下だった。
「地下に患者がいるのは確実?」
「市役所から救出した医療職員の証言では、少なくとも二十人以上です」
EINHERJARの隊員が答えた。
「医師と看護要員も?」
「残留しています」
「敵の数は?」
「不明です」
エリシアは病院を見る。
敵がいる。
民間人もいる。
その二つだけで、戦い方は大きく制限される。
彼女は魔力の流れへ意識を向けた。
建物内部に術式反応がある。
複数。
だが妙だった。
攻撃術式としては弱い。
それに、同じ場所へ集中しすぎている。
「……障壁?」
「Valkyrie?」
「敵が何かを守ってる」
「患者を?」
「分からない」
分からないなら。
確認する。
「NoXを呼びますか?」
副官が尋ねた。
エリシアは少し考える。
「まだいい」
「珍しいですね」
「何が?」
「夫婦なので、すぐ呼ぶのかと」
エリシアは横目で副官を見る。
「作戦中に夫婦だから呼ぶって、私を何だと思ってるの?」
「失言でした」
「あとで覚えておいて」
「何をでしょう」
「私も考えておく」
ほんの僅かに空気が緩む。
その直後。
屋上の敵兵が動いた。
エリシアの表情が変わる。
「伏せて」
全員が窓から離れる。
数秒後。
集合住宅の外壁に魔力弾が命中した。
敵はこちらの位置を把握している。
「見つかった?」
「可能性はあります」
エリシアは首を振った。
「違う」
魔力の流れを読む。
こちらを正確に狙ったのなら、術式の向きが僅かに合わない。
「追い出そうとしてる」
「ここから?」
「病院周辺から」
敵は病院を守っている。
だが。
患者を盾にして立て籠もっているだけなら、もっと分かりやすい防御をするはずだった。
「何があるの……?」
エリシアは病院を見つめた。
◇
ベルガ南方。
STYXは避難艇を安全圏へ送り届けたあとも、本流から離れていなかった。
ルナ・S・クロウ〔夜〕は損傷した先頭艇の船尾を確認している。
浸水はない。
しかし外板の一部が変形し、推進系にも負荷が掛かっていた。
「今日はもう前へ出せませんね」
タルク・フェルナー《Mast》が言った。
「やっぱり?」
「やっぱりです」
「直せます?」
「直します。ただし今すぐではありません」
「そこをなんとか」
「Nyx」
「はい」
「兄妹ですね」
ルナが黙る。
周囲から小さな笑いが漏れた。
「最近そればっかり言われます」
「似てるからです」
「兄様ほど無茶してません」
Mastが変形した外板を見る。
「この艇に聞いてみます?」
「……ごめんなさい」
「私じゃなくて艇に」
ルナは本当に船体へ手を当てた。
「ごめんなさい」
「本当にやるとは思いませんでした」
「言ったのMastでしょう」
笑いながらも。
ルナの視線は下流へ向いていた。
《アビス・クラーケン》は消えた。
倒したわけではない。
追跡もしなかった。
それが正しい判断だったことは分かっている。
それでも。
あの生物の行動には疑問が残る。
「Otter」
「はい」
「最後に潜った位置、記録してありますよね?」
「もちろん」
「HUGINNへ送ってください。怪物の出現地点と、敵部隊の移動時刻を重ねたいです」
「偶然じゃないと思ってます?」
ルナは少し考えて答えた。
「自然に棲んでいる生物なら、私たちの避難経路をあそこまで正確に塞ぐでしょうか」
Otterの表情が変わる。
「誘導されていた?」
「まだ分かりません」
ルナは首を振った。
「だから調べます」
敵が魔獣を兵器として利用しているなら。
水路そのものが安全な退路ではなくなる。
STYXが水域を使うことを。
向こうも学び始めている。
◇
正午前。
ベルガから遠く離れた東方。
連邦共和国の失地を越え、さらに第二異界門へ近い地域に。
古い石造りの城塞があった。
それは現代の要塞ではない。
厚い石壁と塔を持ち、旗が風に揺れる姿だけを見れば、数百年前の戦争へ迷い込んだようにも見える。
だが。
その内部で行われていることは。
決して古くなかった。
広間の中央には巨大な地図が広げられていた。
紙ではない。
布と木板を組み合わせた地図の上に、色の異なる駒が置かれている。
ベルガ。
河川。
連邦共和国軍の防衛線。
FENRIRの推定配置。
空から偵察した者が戻るたびに、駒の位置が修正される。
伝令が入り。
報告を読み上げる。
「敵先鋒、ベルガを維持しております」
広間の奥で。
一人の老人が地図を見ていた。
左眼を覆う黒い眼帯。
白髪。
傷の残る顔。
鎧は装飾より実用を優先し、腰には長年使われてきた剣が下がっている。
「水路は」
老人が尋ねた。
「水上部隊によって再開されました。投入した深淵種は排除されておりませんが、避難経路の遮断には失敗しております」
「工兵は?」
「敵の工兵隊が流路そのものを変更しました」
老人は僅かに眉を上げた。
「川を変えたか」
「はい」
「面白い」
周囲の将校たちは笑わなかった。
老人も笑ってはいない。
ただ。
興味を持った。
「黒い猫は?」
「戦闘中に負傷を確認。しかし短時間で再び指揮へ復帰しております」
「死なぬという噂は?」
「確認できません」
「噂で兵を動かすな」
老人は即座に切った。
「殺せぬと証明されるまでは、殺せる兵として扱え」
「はっ」
別の伝令が進み出る。
「銀白の女指揮官は、ベルガ市内の住民を救出しながら部隊を前進させております」
「白い妹は?」
「河川部隊を指揮しております」
老人の残された右眼が地図を追う。
「三人ではない」
側近が顔を上げる。
「は?」
「お前たちは、まだ人を見ている」
老人は杖ではなく、自らの指でベルガ西方を示した。
「黒猫が強いのではない。黒猫が開けた道へ兵が入り、銀白の女が民をまとめ、白猫の娘が水路を確保する。その後ろから工兵が道路を直し、医療隊が負傷者を受け取り、輸送隊が物資を運び、砲兵と航空が前線を維持する」
彼の指が。
ゆっくりと後方へ移る。
「一人を殺しても、この仕組みは止まらん」
誰も口を挟まなかった。
「第一次の戦で、我々はそれを理解するのが遅すぎた」
老人の声には怒りがなかった。
あるのは。
記憶だった。
「彼らは剣より速く撃つから強いのではない。兵が倒れれば治し、弾が減れば運び、橋が落ちれば架け直し、道が塞がれば別の道を作る。そして失敗すれば、次には同じ失敗をしない」
老人はベルガの駒を取った。
しばらく手の中で眺める。
そして。
それを地図の外へ置いた。
「ベルガは捨てる」
若い将校が思わず顔を上げた。
「伯爵閣下、奪還を試みないのですか?」
「試みた結果が今だ」
「しかし――」
「土地を守るために軍を失えば、次の土地も失う」
老人は静かに言った。
「敵も同じことを知っている。ならば我々も学べばよい」
将校が黙る。
「東の街道は?」
「健在です」
「橋は?」
「三本」
「二本を使え。一本は残せ」
「破壊しないのですか?」
「破壊すれば、彼らの工兵が直す」
老人は地図を見る。
「直させろ」
側近たちの表情が変わった。
「工兵を前へ出させる。輸送を集中させる。医療を寄せさせる。航空を呼ばせる。彼らが自ら一本の道へ力を集めるようにする」
「その後は?」
老人は答えなかった。
代わりに。
別の場所へ駒を置いた。
ベルガより東。
山地と河川が接近し、道路が狭くなる場所。
そこは。
Operation HOMECOMINGが東へ進むなら。
避けにくい地点だった。
「彼らは帰還を重んじる」
老人は言った。
「ならば、帰る道そのものを戦場にする」
そして。
片眼の老将は初めて。
僅かに口元を動かした。
「次は、こちらが待つ」
ゲルハルト・フォン・バルツァー。
《鉄血の伯爵》。
その名を持つ男が、本当に第二異界門の軍勢を率いていることを。
この時。
FENRIRはまだ知らなかった。
だが、彼はすでに理解し始めていた。
NoXを倒すだけでは足りない。
Valkyrieを孤立させるだけでも。
Nyxから川を奪うだけでも足りない。
WOLF PACKが道を開き、EINHERJARが命を連れて帰り、STYXが水路を繋ぎ、その背後を十を超える専門部隊が支えるFENRIRという仕組みそのものを止めなければならない。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
そしてベルガでは。
その男が自分たちを観察しているとも知らず。
レイブンが治療を終えて立ち上がった。
「NoX」
ノアが呼び止める。
「何?」
「敵主力が東へ後退し始めた」
レイブンは窓へ向かった。
遠くに残る砲声が。
確かに減っている。
「追撃は?」
「連邦軍が判断を求めてる」
ガイルが立ち上がる。
「どうする?」
レイブンはすぐには答えなかった。
敵が退いた。
ベルガは取れる。
普通なら。
ここで追えばいい。
だが。
あまりにも綺麗に退き始めている。
〔殺気看破〕は何も教えてくれない。
敵は遠すぎる。
そもそも未来を読む能力ではない。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
だから。
レイブンは。
自分で考えた。
「追わない」
ガイルが彼を見る。
「いいのか?」
「ああ」
レイブンは東を見た。
「ベルガを取っただけで十分だ。住民を出して、道を直して、補給を入れて、負傷者を後ろへ送る。今日の目的はそこまでだった」
「敵を逃がすことになるぞ」
「逃げてくれるなら助かる」
レイブンは少し目を細めた。
「ただし、RATATOSKRには追跡じゃなく観測を頼む。近づきすぎるなって伝えて」
ノアが頷く。
「了解」
「それからHUGINNへ」
「何て?」
レイブンは。
遠く東へ続く道路を見る。
「敵が俺たちを学んでるなら」
一拍置いた。
「俺たちも、敵の学び方を学ぶ」
ベルガの上で。
連邦共和国の旗が風を受けていた。
Operation HOMECOMING最初の橋頭堡は。
確かに取り戻された。
しかし。
その先に待っている戦争は。
これまでと同じ戦い方では。
もう勝てない戦争へ変わり始めていた。
≪特別編付録≫
― FENRIR海軍建艦史 ―
「二隻の巨艦」
超大型装甲航空母艦 FV-01《VALHALLA》/超大型多目的戦艦 FMBB-01《RAGNAROK》
第一章「まだ存在しない艦」
それは、海軍が欲しがった艦から始まった計画ではなかった。
第二異界門の出現によって連邦共和国東方の海が戦場へ変わり、FENRIRの活動範囲が大陸内部から沿岸、河川、外洋へ急速に広がったことで、従来の基地体系では一つの問題を避けられなくなった。
部隊が、帰ってこられない。
WOLF PACKが内陸深くまで道を開き、EINHERJARが救出した住民を後方へ送り、STYXが河川や沿岸を使って退路を確保しても、その先に十分な医療、整備、補給、航空支援を備えた拠点が存在するとは限らない。
異界門を越えた先であれば、問題はさらに深刻になる。
港がある保証すらなかった。
飛行場が残っている保証もなければ、道路規格が合う保証もなく、燃料や弾薬を現地調達できるとは限らない。
そこで生まれたのが、基地そのものを海へ浮かべるという発想だった。
その最初の姿は、後にFV-01《VALHALLA》と呼ばれる艦とは大きく異なっていた。
巨大な双胴船体に航空運用設備、舟艇格納設備、医療施設、研究区画、司令部機能をまとめた実験的な洋上基地構想であり、アメリカ側の技術者たちでさえ、当初は「艦艇」と呼ぶべきか「移動基地」と呼ぶべきか判断に迷っていた。
ところが、実際にFENRIRが要求を突きつけ始めると、構想は急速に現実へ引き戻された。
「大きければいいという話ではありません」
設計会議でそう言ったのは、エミリア・R・ヴァレンシュタイン《Falcon》だった。
机上には、初期案を描いた巨大な一般配置図が広げられている。
「異界門を越えたあと、誰が整備するんです? どこで補給するんです? 損傷した時に、この双胴構造を修理できる設備が向こう側にあるとでも?」
アメリカ側の技術者が腕を組んだ。
「だからモジュール化する」
「モジュールにしたから壊れなくなるわけじゃありません」
「それを言ったら何も造れないぞ」
「ええ。ですから、造れる艦にしてください」
横で資料を読んでいたレイブン・S・クロウ〔無名〕が顔を上げた。
「Falcon」
「何です?」
「今日、機嫌悪い?」
「設計図に怒っています」
「なら俺じゃないな」
「NoXもあとで話があります」
「俺も?」
エリシア・L・クロウ〔戦乙女〕が小さく笑った。
「余計なことを言うからよ」
レイブンは黙って資料へ視線を戻した。
そんな三人から少し離れた場所では、ルナ・S・クロウ〔夜〕が双胴船体の中央に設けられた舟艇運用区画を食い入るように見ていた。
「ここ、STYXを載せられますよね?」
「Nyxまで始めるなよ」
「重要です」
「否定はしてない」
「救難艇だけじゃなくて、整備設備も必要です。河川艇を海上輸送できれば、現地の河川へ直接展開できますから」
それを聞いた設計主任がメモを取る。
さらにエリシアが医療区画の配置へ注文を加え、レイブンは航空部隊と地上部隊の動線が交差している部分を指摘した。
要求は増えた。
だが、それは贅沢のためではない。
全てが、異界で実際に戦い、撤退し、負傷者を抱え、帰還路を失った経験から出てくる要求だった。
やがて、初期案はほとんど原形を失った。
双胴船体は廃止され、広大な単一船体へ統合された。航空運用を優先して全通式飛行甲板を設け、その下には格納庫だけではなく、車両庫、物資倉庫、医療施設、舟艇支援設備、作戦指揮区画、研究施設、異界環境観測設備まで組み込まれていった。
そうして最終的にまとめられた艦は、全長三百八十六・七メートル、最大幅百五・八メートルという、既存の空母を大きく上回る船体を持つことになった。
しかし、設計陣が最後まで譲らなかったものがある。
この艦は、戦艦ではない。
敵艦隊を撃滅するための巨大砲も持たない。
その代わり、約九十から百二十機の航空要員を運用できる飛行甲板と格納庫を持ち、航空管制、情報処理、医療、研究、補給、舟艇支援を一隻へ統合する。
異界へ送り込む巨大な剣ではなく、送り出した者を連れ戻すための拠点だった。
艦名を決める会議で。
ルナが言った。
「《VALHALLA》はどうでしょう」
レイブンが妹を見る。
「前にも言ってたな」
「はい」
「理由は?」
「集まる場所だからです」
ルナは完成予想図を見つめた。
「戦うために集まって、それぞれの場所へ出ていって、それでも最後には帰ってくる。そのための場所なら、この名前がいいと思います」
エリシアが頷いた。
「私は好きよ」
「俺も」
レイブンも同意した。
その名は正式に採用された。
FV-01。
超大型装甲航空母艦《VALHALLA》。
その艦首に、後に刻まれる言葉も決まった。
「戦場をつなぎ、空を繋ぎ、仲間を帰す。」
それが、FENRIR海軍最初の超大型艦建造計画だった。
ところが。
その設計が最終承認へ近づいた頃。
一人の技術将校が、会議室の隅で別の図面を広げた。
「一つ、問題があります」
エミリアが振り返った。
「今度は何です?」
「VALHALLAが前線基地になるなら、敵もそう認識します」
「当然でしょうね」
「なら、航空攻撃だけを考えるとは限りません」
机へ新しい図面が置かれた。
そこに描かれていたのは。
飛行甲板を持つ空母ではなかった。
低く長大な船体の前後へ、巨大な連装砲塔を四基配置し、その中央部に複数の艦橋構造物を重ねた、異様なまでに重厚な艦だった。
レイブンが図面を見る。
「……何これ」
「護衛艦です」
エミリアが眉を寄せた。
「どこがですか」
「VALHALLAを護衛します」
「大きさを聞いているんです」
技術将校は答えにくそうに資料を確認した。
「全長、約三百八十六・七メートルを予定しています」
部屋が静かになった。
ルナがVALHALLAの図面を見る。
続いて、新しい艦を見る。
「同じくらいじゃないですか」
「はい」
「護衛って言いましたよね?」
「はい」
「兄様」
「俺を見るな」
エリシアが額を押さえる。
「嫌な予感しかしないわ」
エミリアだけは笑わなかった。
彼女は新しい図面を引き寄せ、前後に配置された巨大砲塔を見る。
「主砲口径は?」
「五十五口径百五十五センチ連装電磁魔力方式加速砲を四基、計八門」
今度こそ。
レイブンまで黙った。
「……百五十五ミリじゃなく?」
「センチです」
「聞き間違いじゃなかった」
エミリアが低い声で尋ねる。
「これを誰が承認したんです?」
「まだ誰も」
「よかった」
「ただし概念研究は通っています」
「よくありません」
ルナが図面を覗き込む。
「でも、どうしてこんなものを?」
技術将校は、今度は真剣な表情になった。
「異界には、航空戦力だけで対処できる敵しか存在しないという保証がないからです」
誰も反論しなかった。
第一次異界大戦で。
彼らは常識の外側にいる敵を見てきた。
そしてこれから。
第二次、さらにその先の戦争を経験することになる三人にとって。
海の向こうに何がいるのかを、既存世界の常識だけで決めることはできなかった。
「艦隊防空、対空、対異界生物、沿岸支援、長距離火力支援を一隻へ統合します。航空機を積む余地も残しますが、主目的は制空ではありません。VALHALLAが部隊を送り出す艦なら、こちらはその周囲に敵を近づけない艦です」
レイブンが完成予想図を見た。
「名前は?」
技術将校が答える。
「まだありません」
エリシアが隣のVALHALLAを見る。
「片方がヴァルハラなら……」
ルナが先に気づいた。
「まさか」
レイブンも察した。
「やめといた方がいい気がする」
エミリアが即答した。
「私も同感です」
それでも。
数週間後。
新造艦計画書の艦名欄には、正式名称が記された。
FMBB-01《RAGNAROK》。
後にFENRIR海軍史上最大級の砲戦能力を持つことになる、超大型多目的戦艦だった。
《VALHALLA》が、空と海と異界を繋いで仲間を帰還させるための艦なら。
《RAGNAROK》は。
その帰還を妨げるものを、艦隊へ近づけないための艦になる。
そして、二隻の計画が正式承認された日から。
旧ヴァルナ沿岸の巨大造船施設では、かつて誰も建造したことのない二つの船体を収めるため、建造ドックそのものを造り直す工事が始まった。
まだ海には。
二隻とも存在していない。
鋼材さえ切り出されていない。
それでも。
後に世界中の海軍関係者を驚かせる二隻の歴史は。
この日。
確かに始まっていた。
第二章「竜骨」
起工式の日。
レイブンは、巨大な乾ドックを見下ろしながら言った。
「……これ、本当に二隻造るの?」
隣に立つエミリアは、疲れた顔で答えた。
「今さらですか」
「図面で見るのと実物の穴を見るのは違うだろ」
ドックの底では、VALHALLA最初の船体ブロックが吊り上げられようとしていた。
その隣では。
もう一つの建造区画が準備されている。
RAGNAROK用だった。
エリシアが二人の間からドックを覗く。
「完成まで何年?」
「順調にいけば、VALHALLAが先です。RAGNAROKは主砲と電磁魔力統合系が難航していますから、少し遅れるでしょう」
「少し?」
「希望的観測で少しです」
「現実的には?」
エミリアは答えなかった。
ルナが笑う。
「その顔で分かりました」
やがて式典が始まり。
最初の鋼材が。
ゆっくりとドックへ降りていく。
その瞬間から。
二隻は図面ではなくなった。
VALHALLAでは、広大な全通飛行甲板の下へ格納庫、整備区画、航空管制、医療、補給、研究、舟艇支援設備が層を成して組み込まれていく。
RAGNAROKでは、航空母艦とはまるで異なる骨格が組み上げられた。巨大砲塔の反動を船体全体へ逃がすため、砲塔直下から船底近くまで構造材が連続し、その周囲を弾薬区画、防空指揮設備、機関区画、損害制御設備が取り囲んでいった。
二隻は似た大きさを持ちながら。
内部思想は正反対だった。
そして建造が進むほど。
問題も増えた。
VALHALLAでは航空運用と艦内物流の動線が衝突し、設計変更が入った。
RAGNAROKでは主砲塔の重量と電力要求が船体設計を圧迫し、試作加速機構の一部は地上試験で破損した。
そのたびに。
設計図が引き直された。
完成予定日は後ろへ動いた。
予算担当者の顔色は悪くなった。
それでも。
建造は止まらなかった。
やがて巨大な船体が海へ姿を現し始める。
最初に進水したのは。
FV-01《VALHALLA》だった。
船体が初めて海水へ触れた日。
ルナは岸壁で黙ってその姿を見ていた。
「Nyx?」
レイブンが声を掛ける。
「思ったより大きいです」
「お前も?」
「図面と違いますね」
「だよな」
全長三百八十六・七メートルの船体が、静かに海へ浮かんでいる。
まだ航空機はない。
甲板上の装備も揃っていない。
艦内には工事区画が残り、試験すべき機器は山ほどある。
それでも。
船だった。
数か月遅れて。
RAGNAROKも海へ出た。
四基の巨大な連装砲塔を載せる前の船体だけでも、通常艦艇とは比較にならない威圧感があった。
やがて主砲塔が搭載され。
二隻は艤装岸壁へ並んだ。
片方には、広大な飛行甲板。
もう片方には、前後へ向けられた四基八門の巨砲。
FENRIR海軍が。
本当の意味で艦隊を持ち始めた瞬間だった。
第三章「海へ」
最初に海へ出たVALHALLAは。
出港から三時間で問題を起こした。
「右舷第二昇降機、停止!」
「航空管制系統に遅延!」
「第二格納庫の搬送設備が応答しません!」
艦橋に報告が飛び交う。
公開試験どころではない。
まだ造船所試験の段階だった。
レイブンは艦橋後方からその様子を見ていた。
「沈まないよな?」
エミリアが振り向く。
「縁起でもないことを言わないでください」
「いや、確認しただけ」
「NoX」
「はい」
「黙って見ていてください」
しかし。
艦は止まらなかった。
問題が出るたびに記録し、修正し、再試験する。
航空機を載せる前には甲板上で無人車両を走らせ、動線を確認した。続いて回転翼機が着艦し、固定翼機の運用試験へ移り、最終段階では異界環境へ対応する改修を受けた航空機が次々と飛行甲板から発艦していった。
空母としての能力だけではない。
STYXの舟艇が艦から展開し、再び回収される。
IDUNNが艦内医療区画で大規模傷病者受け入れ訓練を行い、BIFROSTとDVERGRが車両や物資を積み替える。
その結果。
VALHALLAは一つの評価を得た。
この艦は。
単独では何も完成させない。
だが。
FENRIRの各部隊を遠方へ送り、支え、再び受け入れる能力においては、他に代わる艦がなかった。
RAGNAROKの試験は。
さらに荒々しかった。
初めて主砲試験を行った日。
艦橋にいたレイブンは、射撃そのものを見ることを禁じられていた。
「なんで?」
「危ないからです」
「艦橋の中だぞ?」
「あなたは絶対に窓際へ行くでしょう」
「行かないよ」
エリシアが横から言った。
「行くわね」
「信用ないなあ」
ルナまで頷いた。
「行きますね」
「妹まで?」
主砲試験が始まる。
射撃海域は事前に広く封鎖され。
周辺艦艇は十分な距離を取った。
そして。
艦首側の巨大な砲塔がゆっくりと旋回した。
砲身が海上の遠方へ向けられる。
電磁系統と魔力加速系統が同期し。
艦内の照明が一瞬だけ揺れた。
「撃ちます」
エミリアが言う。
次の瞬間。
RAGNAROKの船体全体を、巨大な衝撃が通り抜けた。
レイブンは思わず手すりを掴んだ。
「……何だ今の」
「一門です」
「一門?」
「一門です」
レイブンは艦首を見る。
「八門あるよな?」
「あります」
「全部撃つの?」
「だから試験するんです」
「俺、VALHALLAに戻っていい?」
「駄目です」
最初の試射結果は。
成功とは言えなかった。
加速系統は正常に作動したが、船体各部で想定以上の振動が確認され、複数の電子装備に一時的な不具合が発生した。
砲は撃てた。
だが。
撃てることと、戦えることは同じではない。
その事実によって。
RAGNAROKは再び造船所へ戻された。
補強。
電力系統の分離。
魔力干渉対策。
砲塔周辺構造の再調整。
数か月後。
再試験が行われた。
今度は。
艦は耐えた。
さらに対空防御、ミサイル迎撃、魔導障壁、艦載機運用、長距離航海、損傷時航行試験が続いた。
VALHALLAも同じだった。
完成したから就役するのではない。
壊し。
直し。
再び動かす。
その繰り返しによって。
二隻はようやく。
戦場へ出せる艦へ近づいていった。
最終章「二つの01」
公開試験の日。
二隻は初めて並んで航行した。
左舷側を進むFV-01《VALHALLA》では、全通飛行甲板から航空機が次々と発艦し、その上空へ警戒隊が展開していく。
右舷側にはFMBB-01《RAGNAROK》が位置し、巨大な砲塔を前後へ向けたまま、VALHALLAを中心とする艦隊防空圏の外縁を受け持っていた。
周囲には護衛艦艇が展開している。
主役は二隻だけではない。
その周囲にいる艦艇、航空機、補給艦、舟艇、そして陸上基地を含めて初めて、一つの艦隊になる。
それはWOLF PACK、EINHERJAR、STYXを中心に始まったFENRIRの思想と同じだった。
一隻で全てを解決しない。
互いに足りないものを補う。
そして。
帰る。
公開試験を終えた二隻は、長期間の評価を経て正式就役を迎えた。
就役式の日。
VALHALLAの巨大な飛行甲板にFENRIRの旗が上がる。
少し離れた海上では。
RAGNAROKが礼砲の代わりに艦隊旗を掲げていた。
レイブンは二隻を見比べた。
「こうして見ると、本当に造ったんだな」
エリシアが隣へ立つ。
「何を今さら言ってるの」
「だって、最初は図面だっただろ」
「あなたの銃だって最初は図面よ」
「それとこれ、規模が違いすぎない?」
ルナが二人の横へ来た。
「兄様」
「勤務中」
「今日は式典です」
「……そうだった」
「それに」
ルナはVALHALLAを見る。
「帰ってくる場所が増えました」
レイブンは妹の横顔を見る。
その言葉だけで。
この艦を造った意味は十分だった。
やがて式典の最後に。
二隻の正式就役が宣言される。
異界統合特殊任務部隊《FENRIR》海軍、超大型装甲航空母艦FV-01《VALHALLA》。
そして。
超大型多目的戦艦FMBB-01《RAGNAROK》。
片方は。
空を繋ぎ、人を送り、傷ついた者を受け入れ、仲間を帰すために。
もう片方は。
その空と海へ迫る脅威から、艦隊そのものを守るために。
二つの艦番号には。
同じ数字が刻まれていた。
01。
それは完成を意味する番号ではなかった。
FENRIR海軍にとって。
ここが最初だった。
VALHALLAの艦上では航空機が発艦準備へ入り、RAGNAROKでは巨大砲塔の下で乗員たちが通常配置へ戻っていく。
その光景を見ながら。
レイブンは静かに笑った。
「世界の終わり、か」
エリシアが首を傾げる。
「何?」
「RAGNAROKの名前」
「ああ」
「でも、違うな」
レイブンの視線の先で。
二隻の巨艦が同じ海を進み始める。
「終わりじゃない」
ルナが続けた。
「新しい世界の始まり、ですね」
レイブンは頷いた。
やがて二隻は針路を外洋へ向けた。
その先には、まだ誰も知らない海があり。
異界門の向こうには、さらに知らない世界がある。
後に第一次から第四次まで続く異界大戦と、クロウ兄妹が経験する異界先攻防戦の長い歴史の中で、FENRIRは何度も帰還する場所を必要とすることになる。三人の不老不死者にとってさえ、傷も疲労も戦術的敗北も消えることはなく、巨大な艦艇が存在するだけで戦争に勝てるわけでもなかった。 黒猫年代記_全話適用_統合コアバイブル_最新版
だからこそ。
二隻の使命は。
勝利そのものではない。
出ていった者たちを。
もう一度。
帰ってこられる場所へ繋ぐことだった。




