Season 5「境界の兆候」 #095
第95話「最初の帰還路」
連邦共和国領土奪還作戦《Operation HOMECOMING》が開始されてから三十七分。
夜明け前から大地を覆っていた霧は、東から差し込む朝日に温められながらゆっくりと薄くなっていた。
WOLF PACKは、かつて連邦共和国東部へ続いていた幹線道路から外れ、その南側に広がる森林地帯を進んでいた。正面に見える小高い丘を越えれば、最初の奪還目標である旧農業都市ベルガへ続く街道がある。
開戦前には数万人が暮らしていた地方都市だった。
侵攻初期に避難命令が出されたものの、住民全員が脱出できたかどうかは確認されていない。連邦共和国軍が撤退してから通信は途絶え、RATATOSKRが得た航空偵察情報では、市街地の一部に人為的な熱源が残っていた。
敵なのか。
取り残された住民なのか。
上空からでは判断できなかった。
だからこそ、WOLF PACKが最初に入る。
「NoX、あと八百」
前方を確認していたミレイア・フェルン《Lynx》の声が、通信機から静かに届いた。
「街道まで?」
『丘まで。街道はその先』
「敵は?」
『見えない。ただ、静かすぎる』
レイブン・S・クロウ〔無名〕は足を止めなかった。
「俺も嫌いだな、その静けさ」
ガイル・ベッカー《Hound》が後方から低く笑った。
「お前がそう言う時は大体何かいる」
「俺を不吉な猫みたいに言うな」
「黒猫だろ」
「そこじゃない」
ディートリヒ・ハイゼン《Grizzly》が二人を見ながら小さく息を吐いた。
「敵地に入ってまでいつも通りだな」
「いつも通りじゃなくなった時の方が危ない」
ヨハン・リヒター《Hawk》がそう返すと、短い笑いが隊内に広がった。
フィーナ・アルベル《Sage》だけは笑いながらも、周囲から目を離していなかった。
第一次異界大戦から続く長い付き合いの中で、彼らはこうした時間を何度も経験している。接敵するまでは冗談を言い合い、誰かが昔の失敗を蒸し返し、緊張を必要以上に膨らませない。
しかし、戦場が一度こちらへ牙を向ければ、その空気は瞬時に変わる。
レイブンの黒い猫耳が僅かに動いた。
風の音に混じって、森の奥から何かが聞こえた気がした。
枝が折れた音ではない。
鳥でもない。
金属同士が擦れたような、低く短い音だった。
同時に、〔殺気看破〕がレイブンの意識の端を引いた。
明確な位置までは分からない。
未来が見えたわけでもない。
ただ、丘の向こう側から向けられている敵意が、皮膚の内側を冷たいものが走るような感覚となって伝わってくる。
レイブンは左手を上げた。
それだけで会話が止まった。
ガイルの表情から笑みが消え、ディートリヒが周囲を確認し、ヨハンは射界を探す。フィーナは一歩後ろへ下がりながら、誰かが負傷した場合にすぐ動ける位置を取った。
「Lynx」
『いる』
「見える?」
『まだ』
「でもいる」
一拍置いて、ミレイアが答えた。
『了解』
ノア・ヴェルナー《Cipher》がHUGINNとの共有回線を確認する。
「RATATOSKRの最新情報では、この周辺に大規模部隊は確認されてない」
「大規模じゃないんだろうな」
レイブンは丘を見る。
第二異界門から現れた敵は、こちらの戦い方を学び始めていた。
侵攻初期には数と魔力に任せて押し寄せてきた部隊も、FENRIRや旧抵抗軍との戦闘が続くにつれて変化している。上空から見つかりやすい大規模集団を避け、少人数を森林や廃墟へ潜ませ、偵察部隊を先に引き込んでから攻撃するようになっていた。
こちらが敵を観察しているように。
敵もこちらを観察している。
「回る?」
ガイルが尋ねる。
「いや」
レイブンは地形を見る。
大きく迂回すれば時間を失うだけでなく、後続のEINHERJARやDVERGRが使う経路そのものを確保できない。
「ここを通す」
それがWOLF PACKの仕事だった。
レイブンは〔透明〕を働かせながら前へ出た。
姿そのものが消えたわけではない。
霧の中で黒い輪郭は確かに存在している。
しかし足音と装備の擦過音が周囲へ溶け込み、敵の意識が彼を捉えにくくなる。
それでも万能ではない。
数十メートル進んだところで、レイブンは足を止めた。
前方の空気に微かな魔力の揺らぎがある。
「……見つけてるな」
敵側も対策していた。
視覚や聴覚だけに頼らず、周囲の魔力変動そのものを監視している。
レイブンが後退しようとした瞬間、〔殺気看破〕が先ほどより強く反応した。
「伏せろ!」
丘の斜面で魔力光が弾けた。
地面が抉られ、湿った土と草が頭上へ舞い上がる。
レイブンは身体を低くしながら遮蔽物へ移り、ほぼ同時にWOLF PACK全体が戦闘態勢へ切り替わった。
「Hawk、発射位置を探せ!」
『やってる!』
「Cipher、後ろへ敵接触を送って!」
「送信中!」
「Hound、左を見て!」
「了解!」
敵は正面だけではなかった。
森の左右からも動きが始まる。
「包む気か」
ガイルが低く言った。
「こっちが道を開けに来るって読まれてたんだ」
レイブンはISG-42A3《RAVEN》を構えた。
銃に触れた瞬間、〔兵器接続〕が武器の状態を感覚へ返してくる。残弾も機関部の状態も正常だったが、それは銃が勝手に戦ってくれるという意味ではない。
敵の位置を判断するのも。
撃つかどうかを決めるのも。
仲間を帰すのも。
最後まで人間だった。
斜面から敵兵が現れる。
レイブンが射撃し、ガイルとディートリヒがそれを支えた。
だが敵も止まらない。
魔導障壁を前面へ展開しながら接近する兵士の背後から、別の術者が射撃地点を探っている。
「正面は囮だ!」
レイブンが気づいた時、森の右側から強い魔力反応が立ち上がった。
ヨハンの声が飛ぶ。
『右奥、術者!』
「見えてる?」
『一瞬だけ!』
「無理に狙うな!」
直後に光が走り、ヨハンがいた場所の近くで木の幹が裂けた。
『危なっ……!』
「Hawk!」
『生きてる!』
返事を聞いたレイブンは息を吐く。
「なら場所変えろ!」
『言われなくても!』
敵はWOLF PACKを足止めし、その位置を後続へ知らせるつもりだった。
ここで時間を使えば、ベルガへの接近そのものが察知される。
「Cipher、敵の後続は?」
「RATATOSKRから更新。東から複数反応が接近中!」
「どれくらい?」
「ここに居座りたくない程度!」
「分かりやすい!」
レイブンは残弾と仲間の位置を確認した。
次の接触まで余裕があるうちに消費分を補い、即応可能な状態を崩さない。WOLF PACKではそれを戦術装填として共有しているが、レイブンの頭に浮かんでいるのは名称ではなく、次に何秒動けるかという感覚だった。
「Lynx、右から抜けられる?」
『敵がいる。でも薄い』
「Hound」
「行ける」
「Grizzly」
「後ろは任せろ」
レイブンは頷いた。
「正面を倒し切る必要はない。右を開けて抜ける」
ガイルが笑う。
「それでこそWOLF PACKだ」
彼らは敵を全滅させるためにここへ来たのではない。
後続が通れる道を作るために来た。
レイブンとガイルが右へ動き、ミレイアが先行して敵の配置を探る。その動きをディートリヒとヨハンが支え、ノアはHUGINNへ敵の位置を送り続けた。
敵もすぐに対応した。
魔導障壁が右へ移る。
さらに森の奥から別の敵兵が現れた。
「学習が早いな!」
ガイルが叫ぶ。
「褒めてる場合か!」
レイブンは接近してきた敵を避けながら間合いを外そうとしたが、横から別の兵士が飛び込んできた。
銃身を押さえられる。
距離が消えた。
撃つことだけに固執すれば、かえって仲間の射線を塞ぐ。
レイブンは武器を無理に振り回さず、相手の勢いを外して距離を作ろうとする。しかし敵兵も簡単には離れず、腰の刃を抜いた。
レイブンもナイフへ手を伸ばした。
金属がぶつかる音が森に響く。
派手な技ではない。
狭い距離で互いが生き残ろうとして身体を押し合い、足場を奪い合うだけで、数秒の攻防が異様に長く感じられた。
敵の刃がレイブンの上腕を浅く裂いた。
熱い痛みが走る。
それでも腕は動く。
不老不死であることは、痛みを消してくれない。
傷を負えば身体は鈍るし、深刻な損傷を受ければその場で戦えなくなる。
レイブンは相手との距離を作ると、ガイルの支援を受けて遮蔽物へ戻った。
「腕!」
フィーナが叫ぶ。
「浅い!」
「見せて!」
「後で!」
「その台詞を言う患者が一番嫌い!」
フィーナの怒声に、レイブンは思わず笑いそうになった。
だが、その直後だった。
敵の増援が森の奥に現れた。
数が多い。
「NoX!」
ノアが叫ぶ。
「このままじゃ挟まれる!」
レイブンは一瞬だけ迷った。
ここを突破する。
それが任務だ。
しかし。
突破と固執は違う。
「下がる」
ガイルが彼を見る。
「いいのか?」
「一回な」
レイブンは地形を確認する。
「こいつら、俺たちをここへ留めたいんだ。だったら付き合わない」
WOLF PACKは互いを支えながら、敵の追撃を抑えて後方の森林へ戻った。
負傷者を置かない。
弾薬を使い切らない。
追撃されやすい開けた場所へ走り込まない。
撤退は敗走ではなく、生存可能な場所へ戦闘を移動させるための判断だった。
敵が深追いしてこないことを確認したところで、フィーナがレイブンの腕を掴んだ。
「座って」
「まだ――」
「座って」
「はい」
ガイルが吹き出した。
「NoXよりSageの方が強いな」
「医療班には逆らわない方がいい」
ディートリヒまで頷く。
「覚えてろよ、お前ら」
フィーナが傷を確認する間、ノアは後方との通信を繋いだ。
「Valkyrieから」
「出して」
エリシアの声が聞こえる。
『NoX、状況は?』
「最初の経路は待ち伏せされてた。敵も俺たちがどこを狙うか考えてる」
『負傷者は?』
「一名」
『誰?』
「俺」
通信の向こうが静かになった。
『レイブン』
「浅いって」
『Sage』
フィーナが通信へ顔を寄せる。
「浅いけど、本人が治療を後回しにしようとしました」
『分かった』
「何が分かったんだよ」
『帰ってきたら話そうね』
「怖いんだけど」
ガイルがまた笑う。
だが。
エリシアの声はすぐに指揮官のものへ戻った。
『最初の道が駄目なら、次は?』
「ある」
レイブンは地図を開いた。
最初の経路へ敵が集中している。
それなら。
別の入口を作ればいい。
「南側の河川」
『STYX?』
「ああ」
レイブンは通信先を切り替える。
「Nyx、聞こえる?」
『聞いていました』
「ベルガ南側の河川、今の水位は?」
少し間を置いてルナが答えた。
『昨日の雨で上がっています。ただしSTYXの小型艇なら遡上可能です』
「敵は?」
『河口側には監視があります。でも上流側の支流は薄いです』
「使える?」
『使えます』
レイブンは地図を見る。
最初からWOLF PACKだけで全部を開く必要はない。
「じゃあ、入口を借りたい」
ルナの声が少し弾んだ。
『兄様がSTYXに道を借りるんですか?』
「勤務中」
『NoXがSTYXに道を借りるんですか?』
「言い直さなくていい」
『貸します』
エリシアも回線へ入る。
『だったらEINHERJARも南へ動かす。WOLF PACKが市街地へ入れたら、私たちは住民の確認と避難経路の確保を始める』
「頼む」
『今度は一人で全部やろうとしなかったね』
「成長しただろ」
『腕を切られてるけどね』
「そこは別問題だろ」
フィーナが包帯を固定しながら呟く。
「別じゃないと思う」
朝日が森へ差し込み始めていた。
最初の突破は失敗した。
敵を完全に排除することもできなかった。
レイブンは負傷し、弾薬も消費した。
それでも。
Operation HOMECOMINGは止まらない。
敵が陸の道を塞ぐなら。
別の道を使う。
午前七時十二分。
STYXの舟艇群が連邦共和国南東部を流れる河川へ入った。
雨で濁った水面を進む先頭艇で、ルナ・S・クロウ〔夜〕は上流を見ていた。
兄が陸で敵の待ち伏せを受けた以上、敵が水路を完全に放置しているとは考えていない。
「Marlin、水深は?」
「維持しています。今のところ航行可能」
「Otter、前方は?」
「人工物あり。漂流物じゃありません」
ルナの目が細くなる。
敵も。
水を見ていた。
STYXが存在することを知っている。
敵はFENRIRの三部隊を学び始めていた。
「止まらないで」
ルナは静かに言った。
「でも急がない。確認してから進みます」
彼女は兄とは違う方法で道を開く。
水の流れを読む。
岸を見る。
雨の影響を見る。
そして。
帰りにも同じ水路が使えるかを考える。
その頃、海上のFV-01《VALHALLA》では、STYXの位置とWOLF PACKの再進出経路が同じ戦況図に重ねられていた。
EINHERJARも南へ移動を開始する。
大規模合同防衛軍の主力は、まだ動かない。
最初の入口が確実に開くまで待つ。
レイブンは治療を終えた腕を動かし、痛みが残っていることを確かめた。
身体は傷を修復し始めている。
しかし。
今すぐ無傷へ戻るわけではない。
不老不死だから無理ができるのではなく。
不老不死でも。
無理をすれば仲間に迷惑をかける。
「NoX」
ガイルが呼ぶ。
「STYXが入った」
「分かった」
「俺たちも?」
レイブンは立ち上がった。
最初に選んだ陸路を見る。
敵が待っている。
ならば。
そこへ正面から付き合う必要はない。
「南へ回る」
ガイルが笑った。
「狼が船に乗るのか」
「泳ぐよりいいだろ」
「猫なのに?」
「お前、今日そればっかりだな」
WOLF PACKは移動を始めた。
彼らが失敗した陸路の先では、敵部隊がまだ待ち構えている。
しかし、その敵が見ているのは。
WOLF PACKが来るはずだった森だった。
その南。
濁った河川を。
STYXが静かに遡っている。
さらに後ろでは。
EINHERJARが人を連れて帰る準備を整えている。
WOLF PACKが道を開く。
EINHERJARが命を連れて帰る。
STYXが帰還するための水路を開く。
それは三つの部隊が別々に戦うという意味ではなかった。
一つの道が閉ざされた時。
別の誰かが。
帰るための道を繋ぐ。
Operation HOMECOMING最初の奪還戦は、計画どおりの突破では始まらなかった。
敵は待ち伏せし。
NoXは負傷し。
WOLF PACKは一度退いた。
だが。
だからこそ。
FENRIRは次の道を選んだ。
連邦共和国が最初の町を取り戻すまで。
あと十二キロ。
その十二キロを繋ぐための戦いが。
ここから本当に始まろうとしていた。




