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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 1「誕生」 #09

第9話「知らない言葉(ことば)」


 ――ぱち。


 焚き火の中で、


 薪が小さく爆ぜた。


 異界の夜。


 見知らぬ森。


 空には二つの月。


 そして――。


 木々の向こうから、


 三つの灯りが近づいてくる。


     *


 ――パキッ。


「……」


 ヴァルター・クロウ少尉の黒い猫耳が動いた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 足音。


「三人……」


 左手が、


 傍らへ伸びる。


 そこには、


 泥と血に汚れた一挺の小銃。


 G-35《アードラー》


 7.62ミリ級帝国制式小銃弾を使用する、


 帝国軍制式半自動小銃(マークスマンライフル)。


 濃褐色の木製銃床(ストック)。


 長い銃身(バレル)。


 黒染めされた機関部(レシーバー)。


 古い。


 重い。


 長い。


 それでも、


 泥に沈もうが雨に打たれようが、


 簡単には沈黙しない。


 ヴァルターは、


 《アードラー》を左手で握り上げた。


「……っ」


 右肩に痛み。


 もう右腕はない。


 負い紐(スリング)を身体へ巻きつけ、


 銃の重さを肩と胴へ逃がす。


 左肩へ銃床(ストック)。


 頬を寄せる。


 銃口は――。


 三つの灯りへ。


 だが。


 引き金(トリガー)には、


 まだ指を掛けない。


     *


 灯りが止まった。


「……」


 ヴァルターも動かない。


 炎だけが、


 双方の間で揺れている。


 やがて。


『……ラ・フェル?』


「……?」


 女の声。


『エス……ナーヴァ』


 もう一つ。


 低い男の声。


「……何を言ってる」


 分からない。


 単語一つ。


 理解できない。


     *


 三人のうち、


 一人が前へ出る。


 若い女。


 人間に近い耳。


 淡い色の外套。


 革製の防具。


 腰には短剣。


 そして――。


 右手には、


 細い杖。


「……」


 ヴァルターの瞳が細くなる。


     *


 森。


 叫び声。


 閃光。


 土を抉った光。


 そして。


 焼けるような痛み。


 右を見る。


 あるはずの腕が、


 そこにはなかった。


     *


「……」


 《アードラー》の銃口が、


 ほんの僅かに上がる。


 身体が、


 先に反応していた。


 杖。


 魔力。


 敵。


 それらが、


 ヴァルターの中で一本につながっている。


「……」


 女も気づいた。


 動きを止める。


『……』


 杖。


 銃。


 互いに、


 互いの武器を見る。


     *


「撃つ気はない」


 ヴァルターが言った。


 当然、


 意味は通じない。


「……そっちが何もしなければな」


 左手を、


 ゆっくり銃から離す。


 《アードラー》が、


 負い紐(スリング)に支えられて下がる。


「……」


 すると。


 女も、


 杖を下ろした。


     *


『ラフェル?』


「分からん」


『ラ……フェル』


「だから分からんと言ってる」


 女が、


 ヴァルターの胸を指差す。


「……?」


 もう一度。


『ラフェル?』


「……」


 ヴァルターは考える。


 自分の胸を、


 左手で指差した。


「ヴァルター」


『……ヴァ?』


「ヴァルター」


『ヴァル……タ』


「ター」


『タ』


「ヴァルター」


『ヴァルタ』


「……」


 黒い猫耳が、


 僅かに横へ倒れる。


「もういい」


     *


 女が、


 少し笑った。


「笑うな」


 当然、


 通じない。


 今度は女が、


 自分の胸へ手を置いた。


『フィア』


「……フィア?」


 頷く。


『フィア』


「名前か」


 ヴァルターも頷いた。


「フィア」


 女――フィアの表情が、


 僅かに和らぐ。


     *


 後ろにいた二人も、


 少しずつ姿を現した。


 一人は老人。


 もう一人は、


 若い男。


 いずれも武装している。


 短剣。


 弓。


 杖。


 だが。


 ヴァルターが異界門付近で交戦した兵士たちとは、


 明らかに装備が違う。


 鎧は統一されていない。


 紋章もない。


 隊列も組んでいない。


「……軍人じゃないのか」


 少なくとも。


 そう見えた。


     *


 フィアの目が、


 ヴァルターの右肩へ向く。


「……」


 表情が変わった。


『……!』


「見るな」


 反射的に言った。


 厚く巻かれた布。


 血。


 右腕があるべき場所。


 フィアが一歩。


「待て」


 さらに一歩。


「止まれ」


 ヴァルターの左手が、


 《アードラー》へ戻る。


 黒い猫耳が伏せる。


「それ以上来るな」


     *


 声の意味は分からなくとも。


 警戒していることは、


 伝わったらしい。


 フィアは、


 そこで止まった。


「……」


 ゆっくり。


 鞄を開く。


 取り出したもの。


 清潔そうな布。


 小瓶。


 乾燥させた薬草。


「……?」


 そして。


 フィアは、


 自分の腕へ布を巻く仕草をした。


 次に。


 ヴァルターの右肩を指差す。


「……」


 ヴァルターは、


 ようやく理解した。


「治療する気か」


     *


 返事の代わりに、


 フィアが頷いた。


「……」


 信用できるのか。


 分からない。


 そもそも。


 この女が何者なのかさえ分からない。


 だが。


 右肩を見る。


 血。


 熱。


 痛み。


 包帯を巻いた男の顔が、


 頭に浮かんだ。


     *


『動かないでください』


『動いてない』


『今動きました』


『呼吸だ』


『なら呼吸以外しないでください』


『無茶言うな』


『死ぬよりマシです』


     *


「……オットー」


 ヴァルターが、


 小さく笑った。


「お前なら怒るだろうな」


 自分で巻いた布。


 処置としては、


 到底十分ではない。


「……分かった」


 《アードラー》を、


 地面へ置く。


 左手を上げる。


「頼む」


     *


 フィアが近づく。


 古い布を外す。


「――ッ!」


『……!』


「大丈夫だ」


 歯を食いしばる。


「続けろ」


 意味は伝わらない。


 それでも、


 フィアは作業を続けた。


     *


 薬草。


 小瓶。


 そして。


 杖。


「……!」


 ヴァルターの黒い猫耳が、


 反射的に伏せる。


 フィアの杖先に、


 淡い光。


「……待て」


 魔力。


 あの光。


 右腕を奪った戦場。


 身体が強張る。


     *


 だが。


 爆発は起きなかった。


 光は、


 右肩を柔らかく包み込む。


「……?」


 温かい。


 痛みが、


 ゆっくり薄れていく。


 出血も。


 完全ではない。


 失った腕が戻るわけでもない。


 それでも。


 傷が、


 少しずつ落ち着いていく。


「これは……」


 ヴァルターは、


 初めて見る。


 人を傷つけるためではない、


 この世界の力。


「……魔法」


     *


 同じ光が。


 人を殺すこともある。


 人を救うこともある。


「……」


 ヴァルターは、


 黙って淡い光を見つめた。


「何なんだ」


 この世界は。


     *


 ――ヴァルグラント帝国。


 翌朝。


 クロウ家。


「レイブン?」


 返事がない。


「レイブン」


 セレナ・クロウの白い猫耳が、


 小さく動く。


「……」


 居間。


 誰もいない。


 寝室。


 いない。


 そして。


 ヴァルターの部屋。


「……あ」


     *


 机の下。


 黒い尾。


「見つけた」


「あぅ」


 幼いレイブンが、


 床に座っている。


 手には。


 ヴァルターの軍帽。


「……それ」


「あー」


「お父さんのだよ」


 レイブンは、


 軍帽を頭へ載せた。


 ――すぽっ。


「……」


 大きすぎた。


 帽子が、


 顔をほとんど覆ってしまう。


     *


「ふっ……」


 セレナが、


 思わず笑った。


「あぅ?」


「ごめん、ごめん」


 帽子を少し持ち上げる。


 その下から。


 二つの瞳。


 右は金。


 左は黒。


 黒い猫耳。


 黒い髪。


 黒い尾。


「……」


 セレナの笑みが、


 少しだけ柔らかくなる。


「お父さんに似てるね」


     *


「何がだい?」


 廊下から、


 ヘレーネ・クロウ。


「レイブンです」


「そりゃ息子だからね」


「でも」


 セレナが、


 レイブンの頬へ触れる。


「目は全然違う」


「ああ」


 ヘレーネも、


 金と黒の異色眼(オッドアイ)を見る。


「綺麗な目だ」


「はい」


「ヴァルターも」


 ヘレーネが、


 少し笑った。


「最初は随分驚いてたけどね」


     *


 赤ん坊。


 毛布。


 まだ小さなレイブン。


『……セレナ』


『なに?』


『目』


『目?』


『色が違う』


『見れば分かるでしょう』


『大丈夫なのか』


『先生は問題ないって』


『いや、そうじゃなくて……』


 ヴァルターは、


 赤ん坊の顔を覗き込んだ。


 金。


 黒。


 小さな瞳。


『……』


『どう?』


『……綺麗だな』


『でしょう?』


『俺に似なくてよかった』


『毛色は完全にあなたよ』


『……』


『残念でした』


『何がだ』


     *


「……」


 セレナは、


 軍帽をレイブンから受け取った。


 元の場所へ。


 戻そうとして。


「……」


 止まる。


     *


 食卓。


 一脚の空席。


 その上へ、


 ヴァルターの軍帽を置いた。


「とー?」


「うん」


 セレナは、


 小さく頷いた。


「お父さんの」


     *


 帝国軍西部方面基地。


 射撃場。


 ――タン!


 ――タンッ!


 StG-42《ヴォルフ》。


 カール・ベルナー軍曹――


 《HOUND-2》。


 今日は連射を使わない。


 単発(セミオート)。


 一発。


 照準を戻す。


 もう一発。


「……」


 ――タンッ!


     *


「珍しいですね」


 隣から声。


 リーゼ・アーベント兵長。


 《OWL-3》。


「何が」


「軍曹が弾を撒かない」


「俺を何だと思ってる」


「弾薬消費量の多い人」


「ひどくない?」


「事実です」


     *


 リーゼが、


 隣の射座へ入る。


 G-27《ファルケ》。


 6.8ミリ級高初速弾を使用する、


 精密射撃仕様の選抜射手小銃(マークスマンライフル)。


 長い銃身(バレル)。


 二十発箱型弾倉。


 低倍率光学照準器(スコープ)。


 頬を、


 銃床(ストック)へ添える。


 呼吸。


 ――タンッ!


 遠方の標的。


 命中。


     *


「……相変わらず可愛げないな」


「何がです?」


「射撃」


「射撃に可愛げが必要なんですか?」


「そう言われると困る」


「なら言わないでください」


「はい」


「返事は一回」


「……はい」


     *


 少し。


 沈黙。


「なあ、リーゼ」


「はい」


「少尉」


 カールが、


 標的を見たまま言った。


「生きてると思うか」


「……」


 リーゼは、


 すぐには答えなかった。


「分かりません」


「やっぱりそう言うか」


「見ていませんから」


「……そうだな」


「でも」


 《ファルケ》から、


 弾倉を抜く。


 薬室確認。


「最後に見た時は」


 リーゼの声は、


 いつも通り静かだった。


「生きていました」


「……」


「だから」


 カールを見る。


「続きは本人に聞けばいいです」


     *


 カールが、


 少し笑った。


「帰ってきたら」


「はい」


「遅刻二日の件、訂正してもらう」


「三日じゃないんですか」


「二日!」


「グスタフ曹長は三日だと言ってました」


「あの人まで……」


     *


「三日だ」


 少し離れた整備台。


「ほら」


「グスタフさん!」


 グスタフ・ラインハルト曹長。


 《BEAR-1》。


 MG-38《アイゼン》を分解している。


「俺も見ていた」


「絶対二日です!」


「三日」


「二日!」


「三日」


「子供ですか!」


「お前がな」


     *


 ――くす。


 リーゼが笑った。


「リーゼまで!」


「すみません」


「絶対笑ってない!」


     *


 少し離れた医務室。


「……」


 オットー・ハインケル伍長。


 《DOC-4》。


 机。


 包帯。


 消毒薬。


 医療記録。


 そして。


 ヴァルター・クロウ少尉。


 右上肢欠損。


 大量出血。


 最終確認時、


 意識あり。


「……」


 ペンが止まる。


     *


 死亡確認。


 ――なし。


「……」


 オットーは、


 その欄へ何も書かなかった。


     *


 異界。


 昼。


 治療を終えたヴァルターは、


 フィアたちについて歩いていた。


 G-35《アードラー》は、


 左肩。


 弾倉装着。


 ただし、


 薬室は空。


 すぐに撃てる。


 だが。


 不用意には撃たない。


     *


『ヴァルタ』


「ヴァルター」


『ヴァルタ』


「ヴァルター」


『ヴァルタ』


「……」


 黒い猫耳が、


 横へ倒れる。


「もう好きにしろ」


 フィアが笑う。


「笑うな」


     *


 道。


 見知らぬ文字。


 石造りの標識。


 畑。


 柵。


 家畜。


 そして。


 煙。


「……」


 ヴァルターが、


 足を止めた。


 屋根。


 家。


 何十軒も。


「村……」


     *


 中へ入る。


 視線が集まった。


 人間。


 犬系亜人。


 猫系亜人。


 長い耳を持つ者。


 小柄な者。


 ヴァルターの知らない種族。


「……」


 市場。


 野菜。


 肉。


 果物。


 布。


 子供の声。


 鍛冶場の音。


 洗濯物。


 喧嘩する夫婦。


 笑う老人。


 走り回る子供。


「……」


 ヴァルターの表情が、


 僅かに変わった。


 知らない世界。


 知らない言葉。


 知らない人々。


 なのに。


 そこにある暮らしは――。


 知っている。


     *


 ――とて。


 ――とて。


「……?」


 小さな子供。


 よろよろ歩いている。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 母親が、


 少し離れた場所から手を伸ばしている。


「……」


 ヴァルターの足が止まった。


     *


『ほら』


『こっちだ』


 小さな黒猫。


 金と黒の瞳。


『一歩』


 転ぶ。


『大丈夫だ』


 また立つ。


『次は二歩』


     *


「……レイブン」


 声が、


 勝手に出た。


『……?』


 フィアが振り返る。


「息子だ」


 もちろん。


 通じない。


 自分の胸。


 次に。


 子供くらいの高さへ、


 左手を下げる。


「レイブン」


『……レイ……ヴァ?』


「レイブン」


『レイヴン』


「……」


 ヴァルターが、


 フィアを見る。


「そっちは言えるのか」


『レイヴン』


「俺の名前より上手いじゃないか」


     *


 フィアは、


 意味も分からず笑った。


「……」


 ヴァルターも、


 ほんの少しだけ笑った。


     *


 その夜。


 クロウ家。


「……」


 レイブンは、


 すでに眠っている。


 黒い耳。


 小さな尾。


 閉じられた、


 金と黒の瞳。


 セレナが、


 毛布を掛ける。


「おやすみ」


 額へ。


 小さく口づける。


     *


 居間。


 空席。


 ヴァルターの軍帽。


「……」


 セレナは、


 椅子の前へ座った。


「ヴァルター」


 返事はない。


「今日ね」


 軍帽へ、


 指先で触れる。


「レイブンがあなたの帽子被ったの」


 少し笑う。


「大きすぎて」


「……」


「顔が全部隠れちゃって」


 笑みが、


 ゆっくり消える。


「……見せたかったな」


     *


 遠く。


 異界。


 村の小さな家。


「……」


 窓辺。


 ヴァルターが座っている。


 右肩。


 新しい包帯。


 左側。


 G-35《アードラー》。


 窓の外。


 二つの月。


「……セレナ」


 小さく。


「レイブン」


     *


 同じ頃。


 眠るレイブンが、


 僅かに動いた。


「……とー」


 寝言。


「……」


 セレナの白い耳が、


 ぴくりと動く。


 寝室へ戻る。


 ベッド。


 眠っている息子。


 その横へ、


 母は座った。


「そうね」


 黒い髪を撫でる。


「お父さん」


 窓を見る。


「帰ってきてほしいね」


     *


 ヴァルターは、


 異界の窓辺で。


 知らない村を眺めていた。


 言葉。


 文字。


 文化。


 魔法。


 種族。


 国家。


 何も知らない。


 帰る道も。


 門がどこにあるのかも。


 分からない。


「……」


 左手が、


 《アードラー》の木製銃床(ストック)へ触れる。


 銃だけなら。


 戦うことなら。


 知っている。


 だが。


 銃弾だけで、


 家までの道を探せるわけではない。


「……まずは」


 窓の外。


 知らない言葉を話す人々を見る。


「言葉からだな」


 ヴァルターは、


 静かに息を吐いた。


 帰るために。


 戦うより先に。


 知らなければならないことが、


 この世界には、


 あまりにも多かった。

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