Season 1「誕生」 #09
第9話「知らない言葉」
――ぱち。
焚き火の中で、
薪が小さく爆ぜた。
異界の夜。
見知らぬ森。
空には二つの月。
そして――。
木々の向こうから、
三つの灯りが近づいてくる。
*
――パキッ。
「……」
ヴァルター・クロウ少尉の黒い猫耳が動いた。
一つ。
二つ。
三つ。
足音。
「三人……」
左手が、
傍らへ伸びる。
そこには、
泥と血に汚れた一挺の小銃。
G-35《アードラー》
7.62ミリ級帝国制式小銃弾を使用する、
帝国軍制式半自動小銃。
濃褐色の木製銃床。
長い銃身。
黒染めされた機関部。
古い。
重い。
長い。
それでも、
泥に沈もうが雨に打たれようが、
簡単には沈黙しない。
ヴァルターは、
《アードラー》を左手で握り上げた。
「……っ」
右肩に痛み。
もう右腕はない。
負い紐を身体へ巻きつけ、
銃の重さを肩と胴へ逃がす。
左肩へ銃床。
頬を寄せる。
銃口は――。
三つの灯りへ。
だが。
引き金には、
まだ指を掛けない。
*
灯りが止まった。
「……」
ヴァルターも動かない。
炎だけが、
双方の間で揺れている。
やがて。
『……ラ・フェル?』
「……?」
女の声。
『エス……ナーヴァ』
もう一つ。
低い男の声。
「……何を言ってる」
分からない。
単語一つ。
理解できない。
*
三人のうち、
一人が前へ出る。
若い女。
人間に近い耳。
淡い色の外套。
革製の防具。
腰には短剣。
そして――。
右手には、
細い杖。
「……」
ヴァルターの瞳が細くなる。
*
森。
叫び声。
閃光。
土を抉った光。
そして。
焼けるような痛み。
右を見る。
あるはずの腕が、
そこにはなかった。
*
「……」
《アードラー》の銃口が、
ほんの僅かに上がる。
身体が、
先に反応していた。
杖。
魔力。
敵。
それらが、
ヴァルターの中で一本につながっている。
「……」
女も気づいた。
動きを止める。
『……』
杖。
銃。
互いに、
互いの武器を見る。
*
「撃つ気はない」
ヴァルターが言った。
当然、
意味は通じない。
「……そっちが何もしなければな」
左手を、
ゆっくり銃から離す。
《アードラー》が、
負い紐に支えられて下がる。
「……」
すると。
女も、
杖を下ろした。
*
『ラフェル?』
「分からん」
『ラ……フェル』
「だから分からんと言ってる」
女が、
ヴァルターの胸を指差す。
「……?」
もう一度。
『ラフェル?』
「……」
ヴァルターは考える。
自分の胸を、
左手で指差した。
「ヴァルター」
『……ヴァ?』
「ヴァルター」
『ヴァル……タ』
「ター」
『タ』
「ヴァルター」
『ヴァルタ』
「……」
黒い猫耳が、
僅かに横へ倒れる。
「もういい」
*
女が、
少し笑った。
「笑うな」
当然、
通じない。
今度は女が、
自分の胸へ手を置いた。
『フィア』
「……フィア?」
頷く。
『フィア』
「名前か」
ヴァルターも頷いた。
「フィア」
女――フィアの表情が、
僅かに和らぐ。
*
後ろにいた二人も、
少しずつ姿を現した。
一人は老人。
もう一人は、
若い男。
いずれも武装している。
短剣。
弓。
杖。
だが。
ヴァルターが異界門付近で交戦した兵士たちとは、
明らかに装備が違う。
鎧は統一されていない。
紋章もない。
隊列も組んでいない。
「……軍人じゃないのか」
少なくとも。
そう見えた。
*
フィアの目が、
ヴァルターの右肩へ向く。
「……」
表情が変わった。
『……!』
「見るな」
反射的に言った。
厚く巻かれた布。
血。
右腕があるべき場所。
フィアが一歩。
「待て」
さらに一歩。
「止まれ」
ヴァルターの左手が、
《アードラー》へ戻る。
黒い猫耳が伏せる。
「それ以上来るな」
*
声の意味は分からなくとも。
警戒していることは、
伝わったらしい。
フィアは、
そこで止まった。
「……」
ゆっくり。
鞄を開く。
取り出したもの。
清潔そうな布。
小瓶。
乾燥させた薬草。
「……?」
そして。
フィアは、
自分の腕へ布を巻く仕草をした。
次に。
ヴァルターの右肩を指差す。
「……」
ヴァルターは、
ようやく理解した。
「治療する気か」
*
返事の代わりに、
フィアが頷いた。
「……」
信用できるのか。
分からない。
そもそも。
この女が何者なのかさえ分からない。
だが。
右肩を見る。
血。
熱。
痛み。
包帯を巻いた男の顔が、
頭に浮かんだ。
*
『動かないでください』
『動いてない』
『今動きました』
『呼吸だ』
『なら呼吸以外しないでください』
『無茶言うな』
『死ぬよりマシです』
*
「……オットー」
ヴァルターが、
小さく笑った。
「お前なら怒るだろうな」
自分で巻いた布。
処置としては、
到底十分ではない。
「……分かった」
《アードラー》を、
地面へ置く。
左手を上げる。
「頼む」
*
フィアが近づく。
古い布を外す。
「――ッ!」
『……!』
「大丈夫だ」
歯を食いしばる。
「続けろ」
意味は伝わらない。
それでも、
フィアは作業を続けた。
*
薬草。
小瓶。
そして。
杖。
「……!」
ヴァルターの黒い猫耳が、
反射的に伏せる。
フィアの杖先に、
淡い光。
「……待て」
魔力。
あの光。
右腕を奪った戦場。
身体が強張る。
*
だが。
爆発は起きなかった。
光は、
右肩を柔らかく包み込む。
「……?」
温かい。
痛みが、
ゆっくり薄れていく。
出血も。
完全ではない。
失った腕が戻るわけでもない。
それでも。
傷が、
少しずつ落ち着いていく。
「これは……」
ヴァルターは、
初めて見る。
人を傷つけるためではない、
この世界の力。
「……魔法」
*
同じ光が。
人を殺すこともある。
人を救うこともある。
「……」
ヴァルターは、
黙って淡い光を見つめた。
「何なんだ」
この世界は。
*
――ヴァルグラント帝国。
翌朝。
クロウ家。
「レイブン?」
返事がない。
「レイブン」
セレナ・クロウの白い猫耳が、
小さく動く。
「……」
居間。
誰もいない。
寝室。
いない。
そして。
ヴァルターの部屋。
「……あ」
*
机の下。
黒い尾。
「見つけた」
「あぅ」
幼いレイブンが、
床に座っている。
手には。
ヴァルターの軍帽。
「……それ」
「あー」
「お父さんのだよ」
レイブンは、
軍帽を頭へ載せた。
――すぽっ。
「……」
大きすぎた。
帽子が、
顔をほとんど覆ってしまう。
*
「ふっ……」
セレナが、
思わず笑った。
「あぅ?」
「ごめん、ごめん」
帽子を少し持ち上げる。
その下から。
二つの瞳。
右は金。
左は黒。
黒い猫耳。
黒い髪。
黒い尾。
「……」
セレナの笑みが、
少しだけ柔らかくなる。
「お父さんに似てるね」
*
「何がだい?」
廊下から、
ヘレーネ・クロウ。
「レイブンです」
「そりゃ息子だからね」
「でも」
セレナが、
レイブンの頬へ触れる。
「目は全然違う」
「ああ」
ヘレーネも、
金と黒の異色眼を見る。
「綺麗な目だ」
「はい」
「ヴァルターも」
ヘレーネが、
少し笑った。
「最初は随分驚いてたけどね」
*
赤ん坊。
毛布。
まだ小さなレイブン。
『……セレナ』
『なに?』
『目』
『目?』
『色が違う』
『見れば分かるでしょう』
『大丈夫なのか』
『先生は問題ないって』
『いや、そうじゃなくて……』
ヴァルターは、
赤ん坊の顔を覗き込んだ。
金。
黒。
小さな瞳。
『……』
『どう?』
『……綺麗だな』
『でしょう?』
『俺に似なくてよかった』
『毛色は完全にあなたよ』
『……』
『残念でした』
『何がだ』
*
「……」
セレナは、
軍帽をレイブンから受け取った。
元の場所へ。
戻そうとして。
「……」
止まる。
*
食卓。
一脚の空席。
その上へ、
ヴァルターの軍帽を置いた。
「とー?」
「うん」
セレナは、
小さく頷いた。
「お父さんの」
*
帝国軍西部方面基地。
射撃場。
――タン!
――タンッ!
StG-42《ヴォルフ》。
カール・ベルナー軍曹――
《HOUND-2》。
今日は連射を使わない。
単発。
一発。
照準を戻す。
もう一発。
「……」
――タンッ!
*
「珍しいですね」
隣から声。
リーゼ・アーベント兵長。
《OWL-3》。
「何が」
「軍曹が弾を撒かない」
「俺を何だと思ってる」
「弾薬消費量の多い人」
「ひどくない?」
「事実です」
*
リーゼが、
隣の射座へ入る。
G-27《ファルケ》。
6.8ミリ級高初速弾を使用する、
精密射撃仕様の選抜射手小銃。
長い銃身。
二十発箱型弾倉。
低倍率光学照準器。
頬を、
銃床へ添える。
呼吸。
――タンッ!
遠方の標的。
命中。
*
「……相変わらず可愛げないな」
「何がです?」
「射撃」
「射撃に可愛げが必要なんですか?」
「そう言われると困る」
「なら言わないでください」
「はい」
「返事は一回」
「……はい」
*
少し。
沈黙。
「なあ、リーゼ」
「はい」
「少尉」
カールが、
標的を見たまま言った。
「生きてると思うか」
「……」
リーゼは、
すぐには答えなかった。
「分かりません」
「やっぱりそう言うか」
「見ていませんから」
「……そうだな」
「でも」
《ファルケ》から、
弾倉を抜く。
薬室確認。
「最後に見た時は」
リーゼの声は、
いつも通り静かだった。
「生きていました」
「……」
「だから」
カールを見る。
「続きは本人に聞けばいいです」
*
カールが、
少し笑った。
「帰ってきたら」
「はい」
「遅刻二日の件、訂正してもらう」
「三日じゃないんですか」
「二日!」
「グスタフ曹長は三日だと言ってました」
「あの人まで……」
*
「三日だ」
少し離れた整備台。
「ほら」
「グスタフさん!」
グスタフ・ラインハルト曹長。
《BEAR-1》。
MG-38《アイゼン》を分解している。
「俺も見ていた」
「絶対二日です!」
「三日」
「二日!」
「三日」
「子供ですか!」
「お前がな」
*
――くす。
リーゼが笑った。
「リーゼまで!」
「すみません」
「絶対笑ってない!」
*
少し離れた医務室。
「……」
オットー・ハインケル伍長。
《DOC-4》。
机。
包帯。
消毒薬。
医療記録。
そして。
ヴァルター・クロウ少尉。
右上肢欠損。
大量出血。
最終確認時、
意識あり。
「……」
ペンが止まる。
*
死亡確認。
――なし。
「……」
オットーは、
その欄へ何も書かなかった。
*
異界。
昼。
治療を終えたヴァルターは、
フィアたちについて歩いていた。
G-35《アードラー》は、
左肩。
弾倉装着。
ただし、
薬室は空。
すぐに撃てる。
だが。
不用意には撃たない。
*
『ヴァルタ』
「ヴァルター」
『ヴァルタ』
「ヴァルター」
『ヴァルタ』
「……」
黒い猫耳が、
横へ倒れる。
「もう好きにしろ」
フィアが笑う。
「笑うな」
*
道。
見知らぬ文字。
石造りの標識。
畑。
柵。
家畜。
そして。
煙。
「……」
ヴァルターが、
足を止めた。
屋根。
家。
何十軒も。
「村……」
*
中へ入る。
視線が集まった。
人間。
犬系亜人。
猫系亜人。
長い耳を持つ者。
小柄な者。
ヴァルターの知らない種族。
「……」
市場。
野菜。
肉。
果物。
布。
子供の声。
鍛冶場の音。
洗濯物。
喧嘩する夫婦。
笑う老人。
走り回る子供。
「……」
ヴァルターの表情が、
僅かに変わった。
知らない世界。
知らない言葉。
知らない人々。
なのに。
そこにある暮らしは――。
知っている。
*
――とて。
――とて。
「……?」
小さな子供。
よろよろ歩いている。
一歩。
二歩。
三歩。
母親が、
少し離れた場所から手を伸ばしている。
「……」
ヴァルターの足が止まった。
*
『ほら』
『こっちだ』
小さな黒猫。
金と黒の瞳。
『一歩』
転ぶ。
『大丈夫だ』
また立つ。
『次は二歩』
*
「……レイブン」
声が、
勝手に出た。
『……?』
フィアが振り返る。
「息子だ」
もちろん。
通じない。
自分の胸。
次に。
子供くらいの高さへ、
左手を下げる。
「レイブン」
『……レイ……ヴァ?』
「レイブン」
『レイヴン』
「……」
ヴァルターが、
フィアを見る。
「そっちは言えるのか」
『レイヴン』
「俺の名前より上手いじゃないか」
*
フィアは、
意味も分からず笑った。
「……」
ヴァルターも、
ほんの少しだけ笑った。
*
その夜。
クロウ家。
「……」
レイブンは、
すでに眠っている。
黒い耳。
小さな尾。
閉じられた、
金と黒の瞳。
セレナが、
毛布を掛ける。
「おやすみ」
額へ。
小さく口づける。
*
居間。
空席。
ヴァルターの軍帽。
「……」
セレナは、
椅子の前へ座った。
「ヴァルター」
返事はない。
「今日ね」
軍帽へ、
指先で触れる。
「レイブンがあなたの帽子被ったの」
少し笑う。
「大きすぎて」
「……」
「顔が全部隠れちゃって」
笑みが、
ゆっくり消える。
「……見せたかったな」
*
遠く。
異界。
村の小さな家。
「……」
窓辺。
ヴァルターが座っている。
右肩。
新しい包帯。
左側。
G-35《アードラー》。
窓の外。
二つの月。
「……セレナ」
小さく。
「レイブン」
*
同じ頃。
眠るレイブンが、
僅かに動いた。
「……とー」
寝言。
「……」
セレナの白い耳が、
ぴくりと動く。
寝室へ戻る。
ベッド。
眠っている息子。
その横へ、
母は座った。
「そうね」
黒い髪を撫でる。
「お父さん」
窓を見る。
「帰ってきてほしいね」
*
ヴァルターは、
異界の窓辺で。
知らない村を眺めていた。
言葉。
文字。
文化。
魔法。
種族。
国家。
何も知らない。
帰る道も。
門がどこにあるのかも。
分からない。
「……」
左手が、
《アードラー》の木製銃床へ触れる。
銃だけなら。
戦うことなら。
知っている。
だが。
銃弾だけで、
家までの道を探せるわけではない。
「……まずは」
窓の外。
知らない言葉を話す人々を見る。
「言葉からだな」
ヴァルターは、
静かに息を吐いた。
帰るために。
戦うより先に。
知らなければならないことが、
この世界には、
あまりにも多かった。




