Season 1「誕生」 #08
第8話「空席のある家」
朝が来た。
それだけだった。
*
窓の外では、
いつものように街が目を覚ましている。
新聞配達の自転車が石畳を走り、
向かいの家では窓が開き、
少し離れた工場から始業を知らせる汽笛が鳴った。
ヴァルグラント帝国に暮らす大勢の人々にとって、
昨日と変わらない朝。
けれど。
クロウ家では――。
一脚だけ。
椅子が余っていた。
*
「……」
セレナ・クロウは、
四人分の食器を並べていた。
一つ。
二つ。
三つ。
そして、
四つ。
「セレナ」
「はい」
「一つ多いよ」
ヘレーネ・クロウだった。
「……」
セレナの手が止まる。
白い猫耳が、
僅かに伏せた。
「分かってます」
「なら」
「分かってます」
少しだけ、
強い声になった。
「……」
ヘレーネは何も言わない。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
セレナは、
四つ目の皿を見る。
「帰ってきたら」
小さく呟いた。
「お腹、空いてると思うから」
「……そうだね」
ヘレーネは、
それ以上何も言わなかった。
*
――とて。
――とて。
「……?」
小さな足音。
レイブン。
黒い髪。
黒い猫耳。
黒い尾。
そして。
右が金。
左が黒。
幼い異色眼が、
食卓を見る。
「おはよう」
セレナが笑う。
「あぅ」
「眠れた?」
「あー」
「そう」
抱き上げようとした。
だが。
レイブンは、
母の横を通り過ぎた。
――とて。
――とて。
向かった先は、
空席。
「……」
父の椅子。
レイブンは、
そこへ両手を置いた。
「とー?」
セレナの笑顔が、
一瞬だけ止まった。
「……」
「とー?」
「お父さん?」
「あぅ」
玄関を指差す。
「……」
セレナは、
ゆっくりしゃがんだ。
「まだなの」
「……?」
「お父さんはね」
黒い耳を撫でる。
「まだ、お仕事が終わってないの」
*
「いつ?」
ヘレーネが、
僅かに顔を上げる。
「……」
セレナは答えられない。
レイブンは、
言葉の意味など分かっていない。
それでも。
父の椅子を、
もう一度見た。
「待とうね」
セレナが言う。
「一緒に」
*
帝国軍西部方面軍。
異界門前線基地。
「報告」
「ありません」
「魔力反応」
「門そのもの以外は不明」
「通信」
「応答なし」
「向こうへ入った捜索班は」
「司令部命令により待機中です」
「……」
部屋の空気が、
重かった。
*
机の上。
救出部隊帰還報告書。
負傷者数。
弾薬消費。
接触した未知勢力。
そして。
一行。
ヴァルター・クロウ少尉――所在不明。
*
「納得できません」
声。
カール・ベルナー軍曹。
《猟犬》。
コールサイン、
HOUND-2。
「もう一度入れてください」
「許可できん」
正面の士官が答える。
「少尉は生きていました」
「分かっている」
「だったら!」
「ベルナー軍曹」
「……」
「座れ」
「嫌です」
「これは命令だ」
「……」
カールの黒い尾が、
激しく揺れた。
*
壁際。
グスタフ・ラインハルト曹長。
《熊》。
BEAR-1。
腕を組み、
黙っていた。
隣。
リーゼ・アーベント兵長。
《梟》。
OWL-3。
そして。
オットー・ハインケル伍長。
《先生》。
DOC-4。
「曹長」
士官が、
グスタフを見る。
「お前からも言え」
「何を」
「ベルナー軍曹を止めろ」
「無理だ」
「曹長」
「俺も同じ意見だからな」
「……」
*
「門の向こうには未知の武装勢力がいる」
士官が言う。
「前回の作戦で死者も出た」
「知ってます」
カール。
「実際に撃たれたので」
「なら分かるだろう」
「分かってますよ」
「何がだ」
カールの声から、
いつもの軽さが消えた。
「怖いってことくらい」
「……」
「でも」
拳を握る。
「怖いからって、少尉を置いてきていい理由にはならないでしょう」
*
「ベルナー」
グスタフの低い声。
「……」
「少し黙れ」
「グスタフさん」
「黙れと言った」
カールが、
口を閉じる。
グスタフが、
士官を見る。
「確認したい」
「何だ」
「捜索中止なのか」
「違う」
「では」
「一時保留だ」
「理由」
「門の安定性と敵性勢力の情報が足りない」
「再開予定は」
「未定」
「……」
グスタフの目が、
僅かに細くなった。
「未定か」
*
「もう一つ」
リーゼが口を開いた。
「何だ」
「少尉の死亡は確認されていません」
「その通りだ」
「なら」
彼女は淡々と続ける。
「記録上も死亡扱いにはしないでください」
「当然だ」
「確認したかっただけです」
「……」
「見ていないものを」
リーゼの猫耳が伏せる。
「見たことにはしたくありませんから」
*
オットーは、
黙っていた。
「ハインケル伍長」
「はい」
「医療的見解は」
「……」
少し間を置く。
「良くありません」
カールが、
オットーを見る。
「右上肢欠損」
「……」
「大量出血」
「……」
「疲労」
「……」
「戦闘による複数の外傷」
一つずつ。
事実だけ。
「最後に確認した時点では意識清明」
そこで。
オットーの声が、
ほんの少しだけ変わった。
「自力歩行可能でした」
「生存可能時間は」
「分かりません」
「推測でいい」
「推測で人の死亡時刻を決めたくありません」
士官が黙る。
「……失礼」
オットーは、
眼鏡を直した。
「医療的には危険です」
そして。
「ですが」
一呼吸。
「私は死亡を確認していません」
*
会議室の外。
廊下。
壁際には、
四挺の銃が並んでいた。
グスタフの、
MG-38《アイゼン》。
カールの、
StG-42《ヴォルフ》。
リーゼの、
G-27《ファルケ》。
オットーの、
MP-31《ラッテ》。
泥。
傷。
煤。
血。
異界から、
四挺は帰ってきた。
だが。
もう一挺。
G-35《アードラー》だけは、
そこになかった。
*
その《アードラー》は――。
異界の森にいた。
「……っ」
ヴァルターが、
木の幹へ背中を預ける。
呼吸が荒い。
右肩。
包帯は、
また赤くなっていた。
「……まずいな」
左手で触れる。
熱い。
身体も。
熱い。
*
空を見上げる。
二つの月は、
もう消えている。
青白い朝。
「……」
どちらへ行く。
分からない。
門は見えない。
地図も役に立たない。
方位磁針だけは、
まだ生きている。
「北西……」
昨日。
門は、
そちらにあった。
だが。
爆発でどれほど飛ばされた。
どの程度移動した。
意識を失っていた時間は。
分からない。
「……」
ヴァルターは、
左手で《アードラー》を握る。
長い。
重い。
木製銃床は、
泥で汚れている。
機関部を確認。
弾倉。
残弾。
「……少ないな」
自分で呟く。
予備弾倉にも限りがある。
水も。
食料も。
包帯も。
何もかも、
有限だった。
*
――ザッ。
「……!」
黒い猫耳が立つ。
音。
前方。
ヴァルターは、
反射的に《アードラー》を構えようとした。
「……っ」
右手がない。
銃身が落ちる。
「くそ……」
負い紐を腕へ絡ませる。
身体で銃を支える。
左手。
握把。
銃床を左肩へ。
「……」
息を止める。
草。
動く。
――ガサッ!
「!」
銃口を向ける。
現れたのは――。
「……鹿?」
いや。
似ている。
だが。
角が四本ある。
青灰色の毛。
ヴァルターを見ている。
「……」
動物も、
動かない。
兵士も、
動かない。
「俺を食うか?」
当然。
返事はない。
「食わないなら」
ゆっくり、
銃口を下げる。
「行ってくれ」
*
四本角の獣は、
しばらくヴァルターを見ていた。
そして。
森へ消えた。
「……」
ヴァルターは、
息を吐く。
「弾一発」
《アードラー》を見る。
「助かったな」
*
クロウ家。
昼。
セレナは、
洗濯物を干していた。
白いシャツ。
小さな服。
タオル。
そして。
「……」
黒い軍用肌着。
ヴァルターのもの。
手が止まる。
*
『また破れてる』
『訓練だ』
『訓練すると服が破れるの?』
『今回は破れた』
『前回もそう言った』
『偶然だ』
『三回続いたら偶然じゃない』
声が。
妙に鮮明に蘇る。
「……馬鹿」
セレナは、
軍用肌着を干した。
「本当に」
洗濯ばさみ。
ひとつ。
もうひとつ。
「帰ってきたら」
白い尾が、
ゆっくり揺れる。
「全部、自分で縫わせるから」
*
「あー」
「ん?」
足元。
レイブン。
母を見上げている。
「どうしたの?」
小さな手。
伸ばす。
ヴァルターの服へ。
「これ?」
「あぅ」
セレナが、
少し考える。
そして。
洗濯物から、
父の軍用肌着を一度外した。
「お父さんの」
レイブンへ渡す。
「……」
小さな手が、
布を掴む。
鼻を近づける。
「……とー」
「……」
セレナは、
目を逸らした。
*
夕方。
帝国軍基地。
整備区画。
――ガチャ。
カールが、
《ヴォルフ》から弾倉を外す。
薬室確認。
分解。
「……」
いつもなら、
口が動いている男。
今日は、
何も言わない。
「珍しいな」
グスタフ。
「何がです」
「静かだ」
「俺だって静かな時くらいあります」
「初めて見た」
「失礼ですね」
カールが、
泥を拭う。
「……」
少しして。
「グスタフさん」
「何だ」
「俺」
手が止まる。
「戻るべきだったと思います?」
「……」
「門を」
「戻ったら死んでいた」
「でも」
「ヴァルターが生きていたとしても」
グスタフが、
《アイゼン》の銃身を外す。
「お前まで死んだら」
金属音。
「奴は喜ばん」
「……」
「むしろ」
グスタフが鼻で笑う。
「生き返って殴りに来る」
「それは怖いな」
「だろう」
「……」
カールが、
ほんの少しだけ笑った。
*
別の机。
リーゼ。
《ファルケ》。
布で、
低倍率光学照準器を拭いている。
「リーゼ」
オットー。
「はい」
「眠った?」
「三時間」
「足りない」
「先生みたいですね」
「《ドク》ですから」
「……」
「あなたは?」
「二時間」
「人のこと言えないじゃないですか」
「医療従事者は例外です」
「便利な理屈」
*
オットーの手には、
新しい包帯。
「……」
リーゼが、
それを見る。
「少尉に使ったもの?」
「同じ種類です」
「……」
「何です?」
「別に」
リーゼは、
再び《ファルケ》を見る。
「ただ」
「はい」
「足りてるといいなって」
オットーは、
答えなかった。
*
異界。
夕暮れ。
ヴァルターは、
小さな川を見つけた。
「……」
膝をつく。
水。
透明。
だが。
飲める保証はない。
「参ったな」
水筒。
残り僅か。
川。
未知。
「……」
迷う。
その時。
対岸。
何かが動いた。
「!」
《アードラー》へ手。
だが。
今度は構えない。
見る。
*
人影。
小さい。
兵士ではない。
鎧もない。
杖もない。
外套。
頭には、
耳のようなもの。
「……」
向こうも、
ヴァルターを見ている。
子供――?
いや。
小柄な種族なのか。
判断できない。
「……」
ヴァルターは、
《アードラー》から手を離した。
両手を見せようとして。
「……」
右腕がないことを思い出す。
左手だけを、
ゆっくり上げた。
「撃つ気はない」
言葉は、
通じないだろう。
それでも言った。
「……」
対岸の人影。
動かない。
*
数秒。
数十秒。
やがて。
その人物は、
何かを地面へ置いた。
「……?」
そして。
森へ走り去った。
「待て!」
当然。
止まらない。
*
ヴァルターは、
しばらく待った。
罠かもしれない。
敵かもしれない。
仲間を呼びに行っただけかもしれない。
「……」
《アードラー》を身体へ掛け、
川を渡る。
置かれていたもの。
「……これは」
小さな、
革袋。
中。
乾燥した果実らしきもの。
そして。
布。
「……」
ヴァルターは、
森を見る。
誰もいない。
「敵……じゃないのか」
分からない。
この世界のすべてが、
自分たちを襲うわけではない。
だが。
すべてが味方とも限らない。
今は。
ただ。
分からない。
*
夜。
クロウ家。
レイブンは、
父の軍用肌着を抱いて眠っていた。
「……」
セレナは、
ベッドの横へ座っている。
ヘレーネが、
扉のところに立つ。
「眠った?」
「やっと」
「そう」
「……」
静寂。
「お義母さん」
「何だい」
「ヴァルターって」
「うん」
「子供の頃も」
少し迷って。
「頑固でした?」
ヘレーネは、
一瞬。
目を丸くした。
そして。
「……ああ」
笑った。
「とんでもなくね」
「やっぱり」
「木に登って降りられなくなっても、助けを呼ばなかった」
「……」
「六時間」
「六時間?」
「私が見つけるまで木の上にいた」
「馬鹿じゃないですか」
「馬鹿だよ」
二人とも。
少しだけ笑った。
*
その笑いは、
長く続かなかった。
でも。
久しぶりに。
クロウ家に、
笑い声があった。
*
同じ頃。
異界。
焚き火。
ヴァルターは、
木へ背中を預けていた。
右肩には、
異界で手に入れた布を巻いている。
左側。
G-35《アードラー》。
「……」
空。
二つの月。
「レイブン」
小さく呟く。
「十歩」
目を閉じる。
「歩けたか?」
返事はない。
「……セレナ」
炎が揺れる。
「怒ってるだろうな」
少し笑う。
「帰ったら」
左手で、
右肩の布を押さえる。
「……謝るか」
*
その時。
――パキッ。
「……!」
目が開く。
猫耳が、
音の方向へ向く。
《アードラー》へ左手。
暗闇。
木々の向こう。
一つ。
二つ。
三つ。
灯り。
近づいてくる。
「……」
ヴァルターは、
ゆっくり立ち上がった。
逃げるか。
隠れるか。
構えるか。
まだ、
分からない。
ただ。
灯りの向こうから――。
声がした。
知らない言葉。
昨日の兵士たちとは、
違う声。
「……」
ヴァルターは、
《アードラー》を握ったまま。
引き金には、
指を置かなかった。
暗い森の中。
帝国軍人と、
異界の住人。
互いの姿が、
少しずつ見えてくる。
そして。
クロウ家では。
小さな黒猫が、
父の服を抱いて眠っていた。
同じ夜。
違う世界。
その距離が、
どれほどあるのか。
まだ。
誰にも分からなかった。




