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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 1「誕生」 #08

第8話「空席(くうせき)のある家」


 朝が来た。


 それだけだった。


     *


 窓の外では、


 いつものように街が目を覚ましている。


 新聞配達の自転車が石畳を走り、


 向かいの家では窓が開き、


 少し離れた工場から始業を知らせる汽笛が鳴った。


 ヴァルグラント帝国に暮らす大勢の人々にとって、


 昨日と変わらない朝。


 けれど。


 クロウ家では――。


 一脚だけ。


 椅子が余っていた。


     *


「……」


 セレナ・クロウは、


 四人分の食器を並べていた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 そして、


 四つ。


「セレナ」


「はい」


「一つ多いよ」


 ヘレーネ・クロウだった。


「……」


 セレナの手が止まる。


 白い猫耳が、


 僅かに伏せた。


「分かってます」


「なら」


「分かってます」


 少しだけ、


 強い声になった。


「……」


 ヘレーネは何も言わない。


「ごめんなさい」


「謝ることじゃない」


 セレナは、


 四つ目の皿を見る。


「帰ってきたら」


 小さく呟いた。


「お腹、空いてると思うから」


「……そうだね」


 ヘレーネは、


 それ以上何も言わなかった。


     *


 ――とて。


 ――とて。


「……?」


 小さな足音。


 レイブン。


 黒い髪。


 黒い猫耳。


 黒い尾。


 そして。


 右が金。


 左が黒。


 幼い異色眼(オッドアイ)が、


 食卓を見る。


「おはよう」


 セレナが笑う。


「あぅ」


「眠れた?」


「あー」


「そう」


 抱き上げようとした。


 だが。


 レイブンは、


 母の横を通り過ぎた。


 ――とて。


 ――とて。


 向かった先は、


 空席。


「……」


 父の椅子。


 レイブンは、


 そこへ両手を置いた。


「とー?」


 セレナの笑顔が、


 一瞬だけ止まった。


「……」


「とー?」


「お父さん?」


「あぅ」


 玄関を指差す。


「……」


 セレナは、


 ゆっくりしゃがんだ。


「まだなの」


「……?」


「お父さんはね」


 黒い耳を撫でる。


「まだ、お仕事が終わってないの」


     *


「いつ?」


 ヘレーネが、


 僅かに顔を上げる。


「……」


 セレナは答えられない。


 レイブンは、


 言葉の意味など分かっていない。


 それでも。


 父の椅子を、


 もう一度見た。


「待とうね」


 セレナが言う。


「一緒に」


     *


 帝国軍西部方面軍。


 異界門(ゲート)前線基地。


「報告」


「ありません」


「魔力反応」


「門そのもの以外は不明」


「通信」


「応答なし」


「向こうへ入った捜索班は」


「司令部命令により待機中です」


「……」


 部屋の空気が、


 重かった。


     *


 机の上。


 救出部隊帰還報告書。


 負傷者数。


 弾薬消費。


 接触した未知勢力。


 そして。


 一行。


 ヴァルター・クロウ少尉――所在不明。


     *


「納得できません」


 声。


 カール・ベルナー軍曹。


 《猟犬(ハウンド)》。


 コールサイン、


 HOUND-2。


「もう一度入れてください」


「許可できん」


 正面の士官が答える。


「少尉は生きていました」


「分かっている」


「だったら!」


「ベルナー軍曹」


「……」


「座れ」


「嫌です」


「これは命令だ」


「……」


 カールの黒い尾が、


 激しく揺れた。


     *


 壁際。


 グスタフ・ラインハルト曹長。


 《熊(ベア)》。


 BEAR-1。


 腕を組み、


 黙っていた。


 隣。


 リーゼ・アーベント兵長。


 《梟(オウル)》。


 OWL-3。


 そして。


 オットー・ハインケル伍長。


 《先生(ドク)》。


 DOC-4。


「曹長」


 士官が、


 グスタフを見る。


「お前からも言え」


「何を」


「ベルナー軍曹を止めろ」


「無理だ」


「曹長」


「俺も同じ意見だからな」


「……」


     *


「門の向こうには未知の武装勢力がいる」


 士官が言う。


「前回の作戦で死者も出た」


「知ってます」


 カール。


「実際に撃たれたので」


「なら分かるだろう」


「分かってますよ」


「何がだ」


 カールの声から、


 いつもの軽さが消えた。


「怖いってことくらい」


「……」


「でも」


 拳を握る。


「怖いからって、少尉を置いてきていい理由にはならないでしょう」


     *


「ベルナー」


 グスタフの低い声。


「……」


「少し黙れ」


「グスタフさん」


「黙れと言った」


 カールが、


 口を閉じる。


 グスタフが、


 士官を見る。


「確認したい」


「何だ」


「捜索中止なのか」


「違う」


「では」


「一時保留だ」


「理由」


「門の安定性と敵性勢力の情報が足りない」


「再開予定は」


「未定」


「……」


 グスタフの目が、


 僅かに細くなった。


「未定か」


     *


「もう一つ」


 リーゼが口を開いた。


「何だ」


「少尉の死亡は確認されていません」


「その通りだ」


「なら」


 彼女は淡々と続ける。


「記録上も死亡扱いにはしないでください」


「当然だ」


「確認したかっただけです」


「……」


「見ていないものを」


 リーゼの猫耳が伏せる。


「見たことにはしたくありませんから」


     *


 オットーは、


 黙っていた。


「ハインケル伍長」


「はい」


「医療的見解は」


「……」


 少し間を置く。


「良くありません」


 カールが、


 オットーを見る。


「右上肢欠損」


「……」


「大量出血」


「……」


「疲労」


「……」


「戦闘による複数の外傷」


 一つずつ。


 事実だけ。


「最後に確認した時点では意識清明」


 そこで。


 オットーの声が、


 ほんの少しだけ変わった。


「自力歩行可能でした」


「生存可能時間は」


「分かりません」


「推測でいい」


「推測で人の死亡時刻を決めたくありません」


 士官が黙る。


「……失礼」


 オットーは、


 眼鏡を直した。


「医療的には危険です」


 そして。


「ですが」


 一呼吸。


「私は死亡を確認していません」


     *


 会議室の外。


 廊下。


 壁際には、


 四挺の銃が並んでいた。


 グスタフの、


 MG-38《アイゼン》。


 カールの、


 StG-42《ヴォルフ》。


 リーゼの、


 G-27《ファルケ》。


 オットーの、


 MP-31《ラッテ》。


 泥。


 傷。


 煤。


 血。


 異界から、


 四挺は帰ってきた。


 だが。


 もう一挺。


 G-35《アードラー》だけは、


 そこになかった。


     *


 その《アードラー》は――。


 異界の森にいた。


「……っ」


 ヴァルターが、


 木の幹へ背中を預ける。


 呼吸が荒い。


 右肩。


 包帯は、


 また赤くなっていた。


「……まずいな」


 左手で触れる。


 熱い。


 身体も。


 熱い。


     *


 空を見上げる。


 二つの月は、


 もう消えている。


 青白い朝。


「……」


 どちらへ行く。


 分からない。


 門は見えない。


 地図も役に立たない。


 方位磁針だけは、


 まだ生きている。


「北西……」


 昨日。


 門は、


 そちらにあった。


 だが。


 爆発でどれほど飛ばされた。


 どの程度移動した。


 意識を失っていた時間は。


 分からない。


「……」


 ヴァルターは、


 左手で《アードラー》を握る。


 長い。


 重い。


 木製銃床(ストック)は、


 泥で汚れている。


 機関部(レシーバー)を確認。


 弾倉。


 残弾。


「……少ないな」


 自分で呟く。


 予備弾倉にも限りがある。


 水も。


 食料も。


 包帯も。


 何もかも、


 有限だった。


     *


 ――ザッ。


「……!」


 黒い猫耳が立つ。


 音。


 前方。


 ヴァルターは、


 反射的に《アードラー》を構えようとした。


「……っ」


 右手がない。


 銃身が落ちる。


「くそ……」


 負い紐(スリング)を腕へ絡ませる。


 身体で銃を支える。


 左手。


 握把(グリップ)。


 銃床(ストック)を左肩へ。


「……」


 息を止める。


 草。


 動く。


 ――ガサッ!


「!」


 銃口を向ける。


 現れたのは――。


「……鹿?」


 いや。


 似ている。


 だが。


 角が四本ある。


 青灰色の毛。


 ヴァルターを見ている。


「……」


 動物も、


 動かない。


 兵士も、


 動かない。


「俺を食うか?」


 当然。


 返事はない。


「食わないなら」


 ゆっくり、


 銃口を下げる。


「行ってくれ」


     *


 四本角の獣は、


 しばらくヴァルターを見ていた。


 そして。


 森へ消えた。


「……」


 ヴァルターは、


 息を吐く。


「弾一発」


 《アードラー》を見る。


「助かったな」


     *


 クロウ家。


 昼。


 セレナは、


 洗濯物を干していた。


 白いシャツ。


 小さな服。


 タオル。


 そして。


「……」


 黒い軍用肌着。


 ヴァルターのもの。


 手が止まる。


     *


『また破れてる』


『訓練だ』


『訓練すると服が破れるの?』


『今回は破れた』


『前回もそう言った』


『偶然だ』


『三回続いたら偶然じゃない』


 声が。


 妙に鮮明に蘇る。


「……馬鹿」


 セレナは、


 軍用肌着を干した。


「本当に」


 洗濯ばさみ。


 ひとつ。


 もうひとつ。


「帰ってきたら」


 白い尾が、


 ゆっくり揺れる。


「全部、自分で縫わせるから」


     *


「あー」


「ん?」


 足元。


 レイブン。


 母を見上げている。


「どうしたの?」


 小さな手。


 伸ばす。


 ヴァルターの服へ。


「これ?」


「あぅ」


 セレナが、


 少し考える。


 そして。


 洗濯物から、


 父の軍用肌着を一度外した。


「お父さんの」


 レイブンへ渡す。


「……」


 小さな手が、


 布を掴む。


 鼻を近づける。


「……とー」


「……」


 セレナは、


 目を逸らした。


     *


 夕方。


 帝国軍基地。


 整備区画。


 ――ガチャ。


 カールが、


 《ヴォルフ》から弾倉を外す。


 薬室確認。


 分解。


「……」


 いつもなら、


 口が動いている男。


 今日は、


 何も言わない。


「珍しいな」


 グスタフ。


「何がです」


「静かだ」


「俺だって静かな時くらいあります」


「初めて見た」


「失礼ですね」


 カールが、


 泥を拭う。


「……」


 少しして。


「グスタフさん」


「何だ」


「俺」


 手が止まる。


「戻るべきだったと思います?」


「……」


「門を」


「戻ったら死んでいた」


「でも」


「ヴァルターが生きていたとしても」


 グスタフが、


 《アイゼン》の銃身を外す。


「お前まで死んだら」


 金属音。


「奴は喜ばん」


「……」


「むしろ」


 グスタフが鼻で笑う。


「生き返って殴りに来る」


「それは怖いな」


「だろう」


「……」


 カールが、


 ほんの少しだけ笑った。


     *


 別の机。


 リーゼ。


 《ファルケ》。


 布で、


 低倍率光学照準器(スコープ)を拭いている。


「リーゼ」


 オットー。


「はい」


「眠った?」


「三時間」


「足りない」


「先生みたいですね」


「《ドク》ですから」


「……」


「あなたは?」


「二時間」


「人のこと言えないじゃないですか」


「医療従事者は例外です」


「便利な理屈」


     *


 オットーの手には、


 新しい包帯。


「……」


 リーゼが、


 それを見る。


「少尉に使ったもの?」


「同じ種類です」


「……」


「何です?」


「別に」


 リーゼは、


 再び《ファルケ》を見る。


「ただ」


「はい」


「足りてるといいなって」


 オットーは、


 答えなかった。


     *


 異界。


 夕暮れ。


 ヴァルターは、


 小さな川を見つけた。


「……」


 膝をつく。


 水。


 透明。


 だが。


 飲める保証はない。


「参ったな」


 水筒。


 残り僅か。


 川。


 未知。


「……」


 迷う。


 その時。


 対岸。


 何かが動いた。


「!」


 《アードラー》へ手。


 だが。


 今度は構えない。


 見る。


     *


 人影。


 小さい。


 兵士ではない。


 鎧もない。


 杖もない。


 外套。


 頭には、


 耳のようなもの。


「……」


 向こうも、


 ヴァルターを見ている。


 子供――?


 いや。


 小柄な種族なのか。


 判断できない。


「……」


 ヴァルターは、


 《アードラー》から手を離した。


 両手を見せようとして。


「……」


 右腕がないことを思い出す。


 左手だけを、


 ゆっくり上げた。


「撃つ気はない」


 言葉は、


 通じないだろう。


 それでも言った。


「……」


 対岸の人影。


 動かない。


     *


 数秒。


 数十秒。


 やがて。


 その人物は、


 何かを地面へ置いた。


「……?」


 そして。


 森へ走り去った。


「待て!」


 当然。


 止まらない。


     *


 ヴァルターは、


 しばらく待った。


 罠かもしれない。


 敵かもしれない。


 仲間を呼びに行っただけかもしれない。


「……」


 《アードラー》を身体へ掛け、


 川を渡る。


 置かれていたもの。


「……これは」


 小さな、


 革袋。


 中。


 乾燥した果実らしきもの。


 そして。


 布。


「……」


 ヴァルターは、


 森を見る。


 誰もいない。


「敵……じゃないのか」


 分からない。


 この世界のすべてが、


 自分たちを襲うわけではない。


 だが。


 すべてが味方とも限らない。


 今は。


 ただ。


 分からない。


     *


 夜。


 クロウ家。


 レイブンは、


 父の軍用肌着を抱いて眠っていた。


「……」


 セレナは、


 ベッドの横へ座っている。


 ヘレーネが、


 扉のところに立つ。


「眠った?」


「やっと」


「そう」


「……」


 静寂。


「お義母さん」


「何だい」


「ヴァルターって」


「うん」


「子供の頃も」


 少し迷って。


「頑固でした?」


 ヘレーネは、


 一瞬。


 目を丸くした。


 そして。


「……ああ」


 笑った。


「とんでもなくね」


「やっぱり」


「木に登って降りられなくなっても、助けを呼ばなかった」


「……」


「六時間」


「六時間?」


「私が見つけるまで木の上にいた」


「馬鹿じゃないですか」


「馬鹿だよ」


 二人とも。


 少しだけ笑った。


     *


 その笑いは、


 長く続かなかった。


 でも。


 久しぶりに。


 クロウ家に、


 笑い声があった。


     *


 同じ頃。


 異界。


 焚き火。


 ヴァルターは、


 木へ背中を預けていた。


 右肩には、


 異界で手に入れた布を巻いている。


 左側。


 G-35《アードラー》。


「……」


 空。


 二つの月。


「レイブン」


 小さく呟く。


「十歩」


 目を閉じる。


「歩けたか?」


 返事はない。


「……セレナ」


 炎が揺れる。


「怒ってるだろうな」


 少し笑う。


「帰ったら」


 左手で、


 右肩の布を押さえる。


「……謝るか」


     *


 その時。


 ――パキッ。


「……!」


 目が開く。


 猫耳が、


 音の方向へ向く。


 《アードラー》へ左手。


 暗闇。


 木々の向こう。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 灯り。


 近づいてくる。


「……」


 ヴァルターは、


 ゆっくり立ち上がった。


 逃げるか。


 隠れるか。


 構えるか。


 まだ、


 分からない。


 ただ。


 灯りの向こうから――。


 声がした。


 知らない言葉。


 昨日の兵士たちとは、


 違う声。


「……」


 ヴァルターは、


 《アードラー》を握ったまま。


 引き金には、


 指を置かなかった。


 暗い森の中。


 帝国軍人と、


 異界の住人。


 互いの姿が、


 少しずつ見えてくる。


 そして。


 クロウ家では。


 小さな黒猫が、


 父の服を抱いて眠っていた。


 同じ夜。


 違う世界。


 その距離が、


 どれほどあるのか。


 まだ。


 誰にも分からなかった。

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