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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 1「誕生」 #07《三日間編:第Ⅲ夜》

《三日間編》

第7話「帰還者(きかんしゃ)たち――第三日」

 ――ぽたり。


 葉先から落ちた雫が、


 濡れた土へ吸い込まれた。


 雨は止んでいる。


 だが、


 森にはまだ夜の冷たさが残っていた。


 見慣れない木々。


 聞いたことのない鳥の声。


 湿った空気。


 そして。


 この世界のどこを探しても、


 帝国の地図には載っていない空。


     *


「……朝か」


 ヴァルター・クロウ少尉は、


 岩へ背中を預けたまま目を開いた。


「少尉」


 すぐ横から声。


「水です」


「……ありがとう」


 差し出された水筒。


 ヴァルターは、


 左手で受け取った。


「……」


 一口。


 冷たい。


 もう一口。


 そして――。


 無意識に、


 右手で水筒を支えようとした。


「……」


 何も動かない。


 右肩を見る。


 厚く巻かれた包帯。


 その先には、


 何もない。


「……まだ慣れないな」


「昨日なくなったばかりなんですから、慣れられても困ります」


「お前は朝からうるさい」


「生きてる患者はだいたいうるさいものです」


     *


 男は、


 ヴァルターの包帯へ手を伸ばした。


 帝国陸軍伍長。


 オットー・ハインケル。


 戦闘衛生兵。


 仲間からのあだ名は、


 《先生(ドク)》。


 無線上の呼出符号(コールサイン)は――。


 《DOC-4》


「交換します」


「二時間前にもやっただろ」


「二時間も経ったんです」


「まだ使える」


「包帯を軍靴か何かと勘違いしてません?」


「……」


「外しますよ」


「待て」


「待ちません」


「痛いんだぞ」


「知ってます」


「患者にもう少し優しく――」


 オットーが包帯を外した。


「――ッ……!」


「だから動くなと言ったでしょう」


「言う前に外しただろ……!」


「元気ですね」


「殴るぞ」


「どっちの腕で?」


「……」


 沈黙。


「オットー」


「はい」


「覚えてろ」


「それだけ喋れるなら安心しました」


     *


 オットーの傍ら。


 小型の銃が置かれている。


 MP-31《ラッテ》


 9ミリ級拳銃弾を使用する、


 帝国製短機関銃(サブマシンガン)。


 短い銃身(バレル)。


 小型の機関部(レシーバー)。


 折り畳み式銃床(ストック)。


 衛生鞄を背負い、


 負傷兵を抱え、


 時には担架まで運ぶオットーにとって。


 長大な小銃は邪魔になる。


 だから、


 彼は《ラッテ》を選んでいた。


 撃つためというより――。


 治療する時間を作るために。


     *


「朝から楽しそうだな」


 低い声。


 ヴァルターが横を見る。


 大柄な男。


 帝国陸軍曹長。


 グスタフ・ラインハルト。


 あだ名――。


 《熊(ベア)》。


 呼出符号(コールサイン)――。


 《BEAR-1》


 救出部隊で、


 ヴァルターより軍歴の長い古参兵。


「楽しく見えるか」


「見えん」


「なら言うな」


「いつものお前に戻ってきた」


「……」


 グスタフは、


 それ以上言わなかった。


     *


 彼の膝には、


 一挺の巨大な機関銃。


 MG-38《アイゼン》


 7.92ミリ級弾を吐き出す、


 帝国軍の汎用機関銃《ジェネラル・パーパス・マシンガン》。


 長い銃身(バレル)。


 鋼鉄製の機関部。


 折り畳まれた二脚。


 弾帯。


 普通の兵士なら、


 長時間携行するだけで体力を奪われる重量。


 グスタフは、


 それを膝へ載せて分解していた。


 ――カチャ。


 ――カチ。


 部品を確認。


 泥を拭う。


 油。


 再び組む。


「《アイゼン》は?」


 ヴァルターが尋ねる。


「動く」


「弾」


「三百二十」


「随分減ったな」


 グスタフが、


 ヴァルターを見る。


「昨日」


 低い声。


「右腕をなくした馬鹿を運びながら撃ったからな」


「……悪かった」


「謝るな」


「じゃあ何て言えばいい」


「生きて帰れ」


 グスタフは、


 《アイゼン》の機関部を閉じた。


 ――ガチン。


「それでいい」


     *


「賛成です」


 頭上。


「……?」


 ヴァルターの黒い猫耳が動く。


 見上げる。


 木の枝。


 一人の兵士が、


 こちらを見下ろしていた。


「いつからそこにいた」


「十分くらい前から」


「報告しろ」


「今しようとしてました」


「嘘をつけ」


 枝から飛び降りる。


 ――トン。


 帝国陸軍兵長。


 リーゼ・アーベント。


 救出班では若手。


 あだ名――。


 《梟(オウル)》。


 呼出符号(コールサイン)――。


 《OWL-3》


     *


 彼女の手には、


 通常の帝国小銃より細長い銃。


 G-27《ファルケ》


 6.8ミリ級高初速弾を使用する、


 選抜射手小銃《マークスマン・ライフル》。


 長い銃身(バレル)。


 二十発箱型弾倉。


 機関部上部には、


 低倍率光学照準器(スコープ)。


 敵へ弾をばら撒くための銃ではない。


 一発。


 必要なら、


 もう一発。


 遠くにいる相手へ、


 正確に届けるための銃だった。


「北西」


 リーゼが言う。


「森が切れています」


「距離」


「約二キロ」


「その先」


「高い木から確認しました」


「何がある」


「光です」


「光?」


「白色」


 リーゼの猫耳が、


 北西へ向く。


「昨日の攻撃に使われたものとは違います」


 ヴァルターが、


 ゆっくり立ち上がる。


「異界門(ゲート)か」


「可能性はあります」


「断定しないんだな」


「見えていませんから」


「いい答えだ」


     *


「少尉」


 別の男が近づいてきた。


「歩けます?」


 帝国陸軍軍曹。


 カール・ベルナー。


 あだ名――。


 《猟犬(ハウンド)》。


 呼出符号(コールサイン)――。


 《HOUND-2》


「歩ける」


「聞き方を変えます」


「何だ」


「俺たちに担がれずに?」


「……歩ける」


「本当に?」


「カール」


「はい」


「うるさい」


「いつもの少尉ですね」


     *


 カールの手には、


 傷だらけの一挺。


 StG-42《ヴォルフ》


 7.62ミリ級中間弾を使う、


 帝国製突撃小銃(アサルトライフル)。


 黒染めされたプレス加工の機関部(レシーバー)。


 木製銃床(ストック)。


 緩く湾曲した三十発箱型弾倉。


 傷。


 泥。


 剥げた塗装。


 決して美しい銃ではない。


「相変わらず汚いな」


 ヴァルターが言う。


「《ヴォルフ》ですか?」


「ああ」


「愛用品ですよ」


「だから汚いと言ってる」


「撃てればいいんです」


 カールが装填把手(チャージングハンドル)を引く。


 ――ガチャッ。


 離す。


 ――ジャキン。


「ほら」


「何が、ほらだ」


「今日も元気」


「銃と会話するな」


「少尉だって《アードラー》に話しかけてるじゃないですか」


「……見てたのか」


「皆見てますよ」


     *


 ヴァルターは、


 自分の足元を見る。


 泥の上。


 一挺の小銃。


 G-35《アードラー》


 帝国軍制式半自動小銃(セミオートライフル)。


 7.62ミリ級フルサイズ弾。


 濃褐色の木製銃床(ストック)。


 長い銃身(バレル)。


 鋼鉄製の機関部(レシーバー)。


 古い。


 重い。


 長い。


 だが。


 泥を被っても、


 雨に濡れても、


 簡単には沈黙しない。


「……」


 左手を伸ばす。


 握る。


「少尉」


「何だ」


「俺が持ちますよ」


「いい」


「でも」


「自分の銃くらい自分で持つ」


 持ち上げる。


「……っ」


 重い。


 昨日までなら、


 意識することもなかった重さ。


 右手で前方を支え。


 左手で握る。


 その動作が、


 もうできない。


 左腕一本に、


 銃の重量が集中する。


「……」


 それでも。


 負い紐(スリング)を利用し、


 身体へ固定する。


「行ける」


 グスタフが、


 何も言わずそれを見る。


「本当に頑固ですね」


 リーゼ。


「今さらだろ」


 カール。


「患者としては最悪です」


 オットー。


「聞こえてるぞ」


「聞こえるように言いました」


     *


 救出部隊。


 残存兵。


 負傷者。


 全員が、


 移動を開始した。


「OWL-3、前方」


「了解」


「HOUND-2、左」


「了解」


「BEAR-1、後方」


「ああ」


「DOC-4、負傷者」


「了解」


 そして。


 カールが尋ねる。


「少尉は?」


「中央」


「コールサインでお願いします」


「……」


 ヴァルターは、


 一瞬だけ黙った。


「CROW-0、中央」


「了解、CROW-0」


     *


 森。


 一キロ。


 八百。


 七百。


 光が、


 少しずつ大きくなる。


「OWL-3」


『前方異常なし』


「HOUND-2」


『左、異常なし』


「BEAR-1」


『後ろも静かだ』


「……静かすぎるな」


 ヴァルターが呟く。


 その瞬間。


『CROW-0』


 リーゼの声。


「どうした」


『止まって』


 全員。


 停止。


『右前方』


「距離」


『約六百』


「数」


『三……いや、五』


 リーゼが、


 《ファルケ》の銃床(ストック)へ頬を当てる。


 低倍率光学照準器(スコープ)。


 息を吐く。


「昨日の連中?」


『装備が似ています』


「先に撃つな」


『了解』


     *


 人影。


 杖。


 金属製の防具。


 こちらに気づく。


「……」


 一人が、


 杖を上げた。


 光。


「散開!」


 ――閃光。


 地面が爆ぜた。


「接触!」


     *


「BEAR-1!」


「任せろ!」


 グスタフが、


 《アイゼン》を地面へ据える。


 二脚展開。


 ――カチン!


 肩へ。


「頭を下げろ!」


 引き金(トリガー)。


 ――ダダダダダダッ!


 森が震える。


 弾帯が、


 鋼鉄の機関部へ吸い込まれる。


 空薬莢が、


 次々と地面へ落ちる。


 ――ダダダダッ!


 止める。


 再び。


 ――ダダダダダッ!


「グスタフ!」


 ヴァルターが叫ぶ。


「撃ちすぎだ!」


「知るか!」


 《アイゼン》が吠える。


「弾は持って帰れる!」


 さらに短い連射。


「仲間は置いて帰れん!」


     *


「HOUND-2!」


「了解!」


 カールが、


 《ヴォルフ》を構える。


 単発。


 ――タン!


 ――タンッ!


 接近する影。


 射撃切替。


 ――カチ。


「近すぎる!」


 ――ダダダッ!


 短い連射。


 反動を肩で受け、


 銃口を戻す。


「少尉!」


「何だ!」


「こいつ、今日も元気ですよ!」


「銃の感想は後にしろ!」


「了解!」


     *


「OWL-3!」


「見えてます」


 リーゼ。


 《ファルケ》。


 頬を銃床へ。


 呼吸。


 照準。


「四百八十」


 風。


「右へ少し」


 ――タンッ!


 一発。


 次。


 ――タンッ!


「一」


 照準移動。


「二」


「相変わらず怖いな、お前!」


 カールが叫ぶ。


「喋る暇があるなら左!」


「はいはい!」


「返事は一回!」


「はい!」


     *


「DOC-4!」


「負傷者を移動させます!」


 オットーが、


 担架へ手を伸ばす。


 その時。


 敵影。


「!」


 《ラッテ》。


 折り畳み式銃床(ストック)を展開。


 ――カチン。


 肩。


 短い銃身。


 ――ダダダッ!


 数発。


 それだけ。


「カール!」


「何だ!」


「十秒!」


「何するんです!」


「治療!」


 《ラッテ》を身体へ吊るす。


 すぐに、


 手は包帯へ戻った。


     *


「門へ!」


 ヴァルターが叫ぶ。


「負傷者を先に通せ!」


「了解!」


 五百。


 四百。


 三百。


 光の向こうに。


 帝国側の荒野が見える。


「帰れる!」


「まだだ!」


 ヴァルターが怒鳴る。


「門を越えるまで帰還じゃない!」


     *


 二百。


 敵の光。


 銃声。


 百。


「負傷者!」


 一人。


 門へ。


 二人。


 三人。


「DOC-4!」


「通過します!」


 オットーが門へ消える。


「OWL-3!」


「了解!」


 リーゼも。


「HOUND-2!」


「少尉が先です!」


「命令だ!」


「嫌ですよ!」


「カール!」


「俺、新兵の頃から少尉に命令されすぎたんです!」


「今さら反抗期か!」


「三日遅刻した分です!」


「二日じゃなかったのか!」


「覚えてるじゃないですか!」


     *


「BEAR-1!」


「俺も残る」


「馬鹿が二人になった……!」


「三人だ」


「俺を数えるな!」


     *


 その時。


 リーゼの声が、


 無線に飛び込んだ。


『CROW-0! 後方!』


「!」


 振り向く。


 森の奥。


 巨大な光。


「……まずい」


「少尉?」


「伏せろ!」


 ――――閃光。


 爆発。


     *


 音が、


 消えた。


 白。


 土。


 煙。


「……」


 ヴァルターは、


 地面に倒れていた。


「少尉!」


「CROW-0!」


「ヴァルター!」


 カール。


 グスタフ。


「……聞こえてる」


 左手を、


 地面につく。


「門は」


「目の前です!」


「負傷者」


「全員通過!」


「……よし」


 立つ。


 膝が崩れる。


「少尉!」


「触るな」


「でも!」


「自分で――」


 もう一度。


 立とうとする。


     *


 光。


「!」


 ヴァルターの猫耳が動いた。


「グスタフ!」


「何だ!」


「下がれ!」


 左手で、


 グスタフを突き飛ばす。


 ――ドンッ!


     *


「……!」


 カールが顔を上げる。


 土煙。


「少尉?」


 返事がない。


「少尉!」


「……」


「CROW-0!」


 煙。


「ヴァルター!」


 グスタフの声。


 返事はない。


「どこだ!」


 敵影。


 さらに増える。


「グスタフ!」


「……」


「どうする!」


「……撤退だ」


「何言ってるんです!」


「撤退!」


「少尉が!」


「これ以上残れば全員死ぬ!」


「でも!」


 グスタフが、


 カールの襟を掴む。


「ヴァルターが何のために残ったと思ってる!」


「……!」


「行くぞ!」


     *


 カールは、


 最後まで煙の向こうを見ていた。


「……少尉」


 返事はない。


「くそ……!」


 二人は、


 異界門(ゲート)を越えた。


     *


 帝国側。


「帰還者!」


「担架!」


「衛生班!」


「人数確認!」


 怒号。


 負傷兵。


 オットー。


 リーゼ。


 カール。


 そして、


 グスタフ。


「点呼!」


 一人。


 返事。


 二人。


 返事。


「グスタフ・ラインハルト曹長!」


「いる!」


「カール・ベルナー軍曹!」


「……いる」


「リーゼ・アーベント兵長!」


「はい」


「オットー・ハインケル伍長!」


「はい!」


 そして。


「ヴァルター・クロウ少尉!」


 沈黙。


「クロウ少尉!」


 返事はない。


「CROW-0!」


 カールが、


 門を見る。


「……」


 何も。


 返ってこない。


     *


 グスタフの《アイゼン》。


 カールの《ヴォルフ》。


 リーゼの《ファルケ》。


 オットーの《ラッテ》。


 四挺。


 すべて戻ってきた。


 だが。


 《アードラー》を持った黒猫だけが、


 そこにいない。


     *


 午後。


 クロウ家。


 ――コンコン。


 セレナの白い猫耳が、


 立った。


 ヘレーネも、


 顔を上げる。


 レイブンが、


 玄関を見る。


「……」


 セレナが立つ。


「私が出る」


 ヘレーネが言った。


「いえ」


 セレナは首を振る。


「私が」


     *


 扉を開けた。


「……」


 帝国軍士官。


 その後ろ。


 泥だらけの四人。


 大柄なグスタフ。


 俯くカール。


 無言のリーゼ。


 血のついた衛生鞄を抱えたオットー。


「……」


 セレナは、


 一人ずつ見た。


 何度見ても。


 そこに。


 夫はいない。


「……夫は?」


 誰も、


 答えない。


「ヴァルターは」


 カールの猫耳が、


 伏せた。


「奥様……」


「どこですか」


「少尉は」


 声が震える。


「俺たちを……」


 拳を握る。


「俺たちを先に帰しました」


     *


 オットーが、


 目を閉じる。


 セレナは、


 彼の衛生鞄を見る。


 血。


「……怪我をしたんですね」


「……」


「夫は」


 オットーを見る。


「怪我をしたんでしょう?」


「はい」


「どこを」


「……右腕です」


 セレナの表情が、


 止まった。


「右……?」


「戦闘中」


 オットーは、


 逃げずに答えた。


「右腕を失いました」


「……」


「ですが」


 すぐ続ける。


「意識はありました」


「本当に?」


「はい」


「最後に見た時」


「生きていた?」


「……はい」


 オットーは、


 強く頷いた。


「生きていました」


     *


 ――とて。


 小さな足音。


「……?」


 四人が、


 同時に見る。


 小さな黒猫。


 レイブン。


 金色と黒色の瞳。


「とー?」


 玄関を見る。


「……」


「とー?」


 カールが、


 膝をついた。


「坊主……」


 レイブンが、


 カールを見る。


「お父さんはな……」


 続かない。


「……」


 グスタフが、


 カールの肩へ手を置いた。


     *


 セレナが、


 レイブンを抱き上げる。


「お父さんはね」


 黒い髪を撫でる。


「まだ」


 一度。


 息を吸う。


「帰ってこられないんだって」


「とー……」


「だから」


 金と黒の瞳を見る。


「待とう」


「……」


「もう少しだけ」


     *


 その夜。


 クロウ家。


 ヴァルターの椅子。


 誰も座らない。


 軍服を掛ける場所。


 空いたまま。


 室内履き。


 そのまま。


 食器。


 四人分。


 セレナは、


 ヴァルターの分を片づけなかった。


     *


 そして。


 門の向こう側。


 夜。


 二つの月。


 静かな森。


「……」


 土の中。


 ――ぴく。


 黒い猫耳が動いた。


「……」


 左手。


 地面を掴む。


「……セレナ」


 掠れた声。


「……レイブン」


 ヴァルター・クロウは、


 目を開けた。


 右腕。


 ない。


 仲間。


 いない。


 門。


 見えない。


 そして。


 少し離れた場所。


 泥の中に。


 G-35《アードラー》が転がっている。


「……」


 左手を伸ばす。


 届かない。


 もう少し。


「……っ」


 指先。


 木製銃床(ストック)へ触れる。


 掴む。


 引き寄せる。


「……重いな」


 誰も答えない。


 左手だけで、


 《アードラー》を握る。


 立ち上がる。


 ふらつく。


 膝が折れそうになる。


 それでも。


 頭の中には。


 小さな黒猫。


『帰ったら、また歩く練習しよう』


 自分が言った。


『今度は十歩だ』


「……」


 ヴァルターが、


 一歩。


 歩く。


「一」


 もう一歩。


「二」


 右腕を失った身体。


 重い小銃。


 知らない森。


 二つの月。


「三……」


 それでも。


 前へ。


「四……」


 息を吐く。


「五……」


 息子が歩いた距離を越える。


「六……」


 足が震える。


「七……」


 止まらない。


「八……」


 家の玄関を思い出す。


「九……」


 セレナ。


 レイブン。


 そして。


「……十」


 立ち止まった。


 誰も褒めてくれない。


 誰も見ていない。


 それでも。


 ヴァルターは、


 ほんの少しだけ笑った。


「……次は」


 《アードラー》を左肩へ掛け直す。


「俺の番だな」


 そして。


 右腕を失った黒猫は。


 帝国の地図には存在しない世界を――。


 たった一人で、


 歩き始めた。

第三夜「帰還者たち」

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