Season 1「誕生」 #07《三日間編:第Ⅲ夜》
《三日間編》
第7話「帰還者たち――第三日」
――ぽたり。
葉先から落ちた雫が、
濡れた土へ吸い込まれた。
雨は止んでいる。
だが、
森にはまだ夜の冷たさが残っていた。
見慣れない木々。
聞いたことのない鳥の声。
湿った空気。
そして。
この世界のどこを探しても、
帝国の地図には載っていない空。
*
「……朝か」
ヴァルター・クロウ少尉は、
岩へ背中を預けたまま目を開いた。
「少尉」
すぐ横から声。
「水です」
「……ありがとう」
差し出された水筒。
ヴァルターは、
左手で受け取った。
「……」
一口。
冷たい。
もう一口。
そして――。
無意識に、
右手で水筒を支えようとした。
「……」
何も動かない。
右肩を見る。
厚く巻かれた包帯。
その先には、
何もない。
「……まだ慣れないな」
「昨日なくなったばかりなんですから、慣れられても困ります」
「お前は朝からうるさい」
「生きてる患者はだいたいうるさいものです」
*
男は、
ヴァルターの包帯へ手を伸ばした。
帝国陸軍伍長。
オットー・ハインケル。
戦闘衛生兵。
仲間からのあだ名は、
《先生》。
無線上の呼出符号は――。
《DOC-4》
「交換します」
「二時間前にもやっただろ」
「二時間も経ったんです」
「まだ使える」
「包帯を軍靴か何かと勘違いしてません?」
「……」
「外しますよ」
「待て」
「待ちません」
「痛いんだぞ」
「知ってます」
「患者にもう少し優しく――」
オットーが包帯を外した。
「――ッ……!」
「だから動くなと言ったでしょう」
「言う前に外しただろ……!」
「元気ですね」
「殴るぞ」
「どっちの腕で?」
「……」
沈黙。
「オットー」
「はい」
「覚えてろ」
「それだけ喋れるなら安心しました」
*
オットーの傍ら。
小型の銃が置かれている。
MP-31《ラッテ》
9ミリ級拳銃弾を使用する、
帝国製短機関銃。
短い銃身。
小型の機関部。
折り畳み式銃床。
衛生鞄を背負い、
負傷兵を抱え、
時には担架まで運ぶオットーにとって。
長大な小銃は邪魔になる。
だから、
彼は《ラッテ》を選んでいた。
撃つためというより――。
治療する時間を作るために。
*
「朝から楽しそうだな」
低い声。
ヴァルターが横を見る。
大柄な男。
帝国陸軍曹長。
グスタフ・ラインハルト。
あだ名――。
《熊》。
呼出符号――。
《BEAR-1》
救出部隊で、
ヴァルターより軍歴の長い古参兵。
「楽しく見えるか」
「見えん」
「なら言うな」
「いつものお前に戻ってきた」
「……」
グスタフは、
それ以上言わなかった。
*
彼の膝には、
一挺の巨大な機関銃。
MG-38《アイゼン》
7.92ミリ級弾を吐き出す、
帝国軍の汎用機関銃。
長い銃身。
鋼鉄製の機関部。
折り畳まれた二脚。
弾帯。
普通の兵士なら、
長時間携行するだけで体力を奪われる重量。
グスタフは、
それを膝へ載せて分解していた。
――カチャ。
――カチ。
部品を確認。
泥を拭う。
油。
再び組む。
「《アイゼン》は?」
ヴァルターが尋ねる。
「動く」
「弾」
「三百二十」
「随分減ったな」
グスタフが、
ヴァルターを見る。
「昨日」
低い声。
「右腕をなくした馬鹿を運びながら撃ったからな」
「……悪かった」
「謝るな」
「じゃあ何て言えばいい」
「生きて帰れ」
グスタフは、
《アイゼン》の機関部を閉じた。
――ガチン。
「それでいい」
*
「賛成です」
頭上。
「……?」
ヴァルターの黒い猫耳が動く。
見上げる。
木の枝。
一人の兵士が、
こちらを見下ろしていた。
「いつからそこにいた」
「十分くらい前から」
「報告しろ」
「今しようとしてました」
「嘘をつけ」
枝から飛び降りる。
――トン。
帝国陸軍兵長。
リーゼ・アーベント。
救出班では若手。
あだ名――。
《梟》。
呼出符号――。
《OWL-3》
*
彼女の手には、
通常の帝国小銃より細長い銃。
G-27《ファルケ》
6.8ミリ級高初速弾を使用する、
選抜射手小銃。
長い銃身。
二十発箱型弾倉。
機関部上部には、
低倍率光学照準器。
敵へ弾をばら撒くための銃ではない。
一発。
必要なら、
もう一発。
遠くにいる相手へ、
正確に届けるための銃だった。
「北西」
リーゼが言う。
「森が切れています」
「距離」
「約二キロ」
「その先」
「高い木から確認しました」
「何がある」
「光です」
「光?」
「白色」
リーゼの猫耳が、
北西へ向く。
「昨日の攻撃に使われたものとは違います」
ヴァルターが、
ゆっくり立ち上がる。
「異界門か」
「可能性はあります」
「断定しないんだな」
「見えていませんから」
「いい答えだ」
*
「少尉」
別の男が近づいてきた。
「歩けます?」
帝国陸軍軍曹。
カール・ベルナー。
あだ名――。
《猟犬》。
呼出符号――。
《HOUND-2》
「歩ける」
「聞き方を変えます」
「何だ」
「俺たちに担がれずに?」
「……歩ける」
「本当に?」
「カール」
「はい」
「うるさい」
「いつもの少尉ですね」
*
カールの手には、
傷だらけの一挺。
StG-42《ヴォルフ》
7.62ミリ級中間弾を使う、
帝国製突撃小銃。
黒染めされたプレス加工の機関部。
木製銃床。
緩く湾曲した三十発箱型弾倉。
傷。
泥。
剥げた塗装。
決して美しい銃ではない。
「相変わらず汚いな」
ヴァルターが言う。
「《ヴォルフ》ですか?」
「ああ」
「愛用品ですよ」
「だから汚いと言ってる」
「撃てればいいんです」
カールが装填把手を引く。
――ガチャッ。
離す。
――ジャキン。
「ほら」
「何が、ほらだ」
「今日も元気」
「銃と会話するな」
「少尉だって《アードラー》に話しかけてるじゃないですか」
「……見てたのか」
「皆見てますよ」
*
ヴァルターは、
自分の足元を見る。
泥の上。
一挺の小銃。
G-35《アードラー》
帝国軍制式半自動小銃。
7.62ミリ級フルサイズ弾。
濃褐色の木製銃床。
長い銃身。
鋼鉄製の機関部。
古い。
重い。
長い。
だが。
泥を被っても、
雨に濡れても、
簡単には沈黙しない。
「……」
左手を伸ばす。
握る。
「少尉」
「何だ」
「俺が持ちますよ」
「いい」
「でも」
「自分の銃くらい自分で持つ」
持ち上げる。
「……っ」
重い。
昨日までなら、
意識することもなかった重さ。
右手で前方を支え。
左手で握る。
その動作が、
もうできない。
左腕一本に、
銃の重量が集中する。
「……」
それでも。
負い紐を利用し、
身体へ固定する。
「行ける」
グスタフが、
何も言わずそれを見る。
「本当に頑固ですね」
リーゼ。
「今さらだろ」
カール。
「患者としては最悪です」
オットー。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いました」
*
救出部隊。
残存兵。
負傷者。
全員が、
移動を開始した。
「OWL-3、前方」
「了解」
「HOUND-2、左」
「了解」
「BEAR-1、後方」
「ああ」
「DOC-4、負傷者」
「了解」
そして。
カールが尋ねる。
「少尉は?」
「中央」
「コールサインでお願いします」
「……」
ヴァルターは、
一瞬だけ黙った。
「CROW-0、中央」
「了解、CROW-0」
*
森。
一キロ。
八百。
七百。
光が、
少しずつ大きくなる。
「OWL-3」
『前方異常なし』
「HOUND-2」
『左、異常なし』
「BEAR-1」
『後ろも静かだ』
「……静かすぎるな」
ヴァルターが呟く。
その瞬間。
『CROW-0』
リーゼの声。
「どうした」
『止まって』
全員。
停止。
『右前方』
「距離」
『約六百』
「数」
『三……いや、五』
リーゼが、
《ファルケ》の銃床へ頬を当てる。
低倍率光学照準器。
息を吐く。
「昨日の連中?」
『装備が似ています』
「先に撃つな」
『了解』
*
人影。
杖。
金属製の防具。
こちらに気づく。
「……」
一人が、
杖を上げた。
光。
「散開!」
――閃光。
地面が爆ぜた。
「接触!」
*
「BEAR-1!」
「任せろ!」
グスタフが、
《アイゼン》を地面へ据える。
二脚展開。
――カチン!
肩へ。
「頭を下げろ!」
引き金。
――ダダダダダダッ!
森が震える。
弾帯が、
鋼鉄の機関部へ吸い込まれる。
空薬莢が、
次々と地面へ落ちる。
――ダダダダッ!
止める。
再び。
――ダダダダダッ!
「グスタフ!」
ヴァルターが叫ぶ。
「撃ちすぎだ!」
「知るか!」
《アイゼン》が吠える。
「弾は持って帰れる!」
さらに短い連射。
「仲間は置いて帰れん!」
*
「HOUND-2!」
「了解!」
カールが、
《ヴォルフ》を構える。
単発。
――タン!
――タンッ!
接近する影。
射撃切替。
――カチ。
「近すぎる!」
――ダダダッ!
短い連射。
反動を肩で受け、
銃口を戻す。
「少尉!」
「何だ!」
「こいつ、今日も元気ですよ!」
「銃の感想は後にしろ!」
「了解!」
*
「OWL-3!」
「見えてます」
リーゼ。
《ファルケ》。
頬を銃床へ。
呼吸。
照準。
「四百八十」
風。
「右へ少し」
――タンッ!
一発。
次。
――タンッ!
「一」
照準移動。
「二」
「相変わらず怖いな、お前!」
カールが叫ぶ。
「喋る暇があるなら左!」
「はいはい!」
「返事は一回!」
「はい!」
*
「DOC-4!」
「負傷者を移動させます!」
オットーが、
担架へ手を伸ばす。
その時。
敵影。
「!」
《ラッテ》。
折り畳み式銃床を展開。
――カチン。
肩。
短い銃身。
――ダダダッ!
数発。
それだけ。
「カール!」
「何だ!」
「十秒!」
「何するんです!」
「治療!」
《ラッテ》を身体へ吊るす。
すぐに、
手は包帯へ戻った。
*
「門へ!」
ヴァルターが叫ぶ。
「負傷者を先に通せ!」
「了解!」
五百。
四百。
三百。
光の向こうに。
帝国側の荒野が見える。
「帰れる!」
「まだだ!」
ヴァルターが怒鳴る。
「門を越えるまで帰還じゃない!」
*
二百。
敵の光。
銃声。
百。
「負傷者!」
一人。
門へ。
二人。
三人。
「DOC-4!」
「通過します!」
オットーが門へ消える。
「OWL-3!」
「了解!」
リーゼも。
「HOUND-2!」
「少尉が先です!」
「命令だ!」
「嫌ですよ!」
「カール!」
「俺、新兵の頃から少尉に命令されすぎたんです!」
「今さら反抗期か!」
「三日遅刻した分です!」
「二日じゃなかったのか!」
「覚えてるじゃないですか!」
*
「BEAR-1!」
「俺も残る」
「馬鹿が二人になった……!」
「三人だ」
「俺を数えるな!」
*
その時。
リーゼの声が、
無線に飛び込んだ。
『CROW-0! 後方!』
「!」
振り向く。
森の奥。
巨大な光。
「……まずい」
「少尉?」
「伏せろ!」
――――閃光。
爆発。
*
音が、
消えた。
白。
土。
煙。
「……」
ヴァルターは、
地面に倒れていた。
「少尉!」
「CROW-0!」
「ヴァルター!」
カール。
グスタフ。
「……聞こえてる」
左手を、
地面につく。
「門は」
「目の前です!」
「負傷者」
「全員通過!」
「……よし」
立つ。
膝が崩れる。
「少尉!」
「触るな」
「でも!」
「自分で――」
もう一度。
立とうとする。
*
光。
「!」
ヴァルターの猫耳が動いた。
「グスタフ!」
「何だ!」
「下がれ!」
左手で、
グスタフを突き飛ばす。
――ドンッ!
*
「……!」
カールが顔を上げる。
土煙。
「少尉?」
返事がない。
「少尉!」
「……」
「CROW-0!」
煙。
「ヴァルター!」
グスタフの声。
返事はない。
「どこだ!」
敵影。
さらに増える。
「グスタフ!」
「……」
「どうする!」
「……撤退だ」
「何言ってるんです!」
「撤退!」
「少尉が!」
「これ以上残れば全員死ぬ!」
「でも!」
グスタフが、
カールの襟を掴む。
「ヴァルターが何のために残ったと思ってる!」
「……!」
「行くぞ!」
*
カールは、
最後まで煙の向こうを見ていた。
「……少尉」
返事はない。
「くそ……!」
二人は、
異界門を越えた。
*
帝国側。
「帰還者!」
「担架!」
「衛生班!」
「人数確認!」
怒号。
負傷兵。
オットー。
リーゼ。
カール。
そして、
グスタフ。
「点呼!」
一人。
返事。
二人。
返事。
「グスタフ・ラインハルト曹長!」
「いる!」
「カール・ベルナー軍曹!」
「……いる」
「リーゼ・アーベント兵長!」
「はい」
「オットー・ハインケル伍長!」
「はい!」
そして。
「ヴァルター・クロウ少尉!」
沈黙。
「クロウ少尉!」
返事はない。
「CROW-0!」
カールが、
門を見る。
「……」
何も。
返ってこない。
*
グスタフの《アイゼン》。
カールの《ヴォルフ》。
リーゼの《ファルケ》。
オットーの《ラッテ》。
四挺。
すべて戻ってきた。
だが。
《アードラー》を持った黒猫だけが、
そこにいない。
*
午後。
クロウ家。
――コンコン。
セレナの白い猫耳が、
立った。
ヘレーネも、
顔を上げる。
レイブンが、
玄関を見る。
「……」
セレナが立つ。
「私が出る」
ヘレーネが言った。
「いえ」
セレナは首を振る。
「私が」
*
扉を開けた。
「……」
帝国軍士官。
その後ろ。
泥だらけの四人。
大柄なグスタフ。
俯くカール。
無言のリーゼ。
血のついた衛生鞄を抱えたオットー。
「……」
セレナは、
一人ずつ見た。
何度見ても。
そこに。
夫はいない。
「……夫は?」
誰も、
答えない。
「ヴァルターは」
カールの猫耳が、
伏せた。
「奥様……」
「どこですか」
「少尉は」
声が震える。
「俺たちを……」
拳を握る。
「俺たちを先に帰しました」
*
オットーが、
目を閉じる。
セレナは、
彼の衛生鞄を見る。
血。
「……怪我をしたんですね」
「……」
「夫は」
オットーを見る。
「怪我をしたんでしょう?」
「はい」
「どこを」
「……右腕です」
セレナの表情が、
止まった。
「右……?」
「戦闘中」
オットーは、
逃げずに答えた。
「右腕を失いました」
「……」
「ですが」
すぐ続ける。
「意識はありました」
「本当に?」
「はい」
「最後に見た時」
「生きていた?」
「……はい」
オットーは、
強く頷いた。
「生きていました」
*
――とて。
小さな足音。
「……?」
四人が、
同時に見る。
小さな黒猫。
レイブン。
金色と黒色の瞳。
「とー?」
玄関を見る。
「……」
「とー?」
カールが、
膝をついた。
「坊主……」
レイブンが、
カールを見る。
「お父さんはな……」
続かない。
「……」
グスタフが、
カールの肩へ手を置いた。
*
セレナが、
レイブンを抱き上げる。
「お父さんはね」
黒い髪を撫でる。
「まだ」
一度。
息を吸う。
「帰ってこられないんだって」
「とー……」
「だから」
金と黒の瞳を見る。
「待とう」
「……」
「もう少しだけ」
*
その夜。
クロウ家。
ヴァルターの椅子。
誰も座らない。
軍服を掛ける場所。
空いたまま。
室内履き。
そのまま。
食器。
四人分。
セレナは、
ヴァルターの分を片づけなかった。
*
そして。
門の向こう側。
夜。
二つの月。
静かな森。
「……」
土の中。
――ぴく。
黒い猫耳が動いた。
「……」
左手。
地面を掴む。
「……セレナ」
掠れた声。
「……レイブン」
ヴァルター・クロウは、
目を開けた。
右腕。
ない。
仲間。
いない。
門。
見えない。
そして。
少し離れた場所。
泥の中に。
G-35《アードラー》が転がっている。
「……」
左手を伸ばす。
届かない。
もう少し。
「……っ」
指先。
木製銃床へ触れる。
掴む。
引き寄せる。
「……重いな」
誰も答えない。
左手だけで、
《アードラー》を握る。
立ち上がる。
ふらつく。
膝が折れそうになる。
それでも。
頭の中には。
小さな黒猫。
『帰ったら、また歩く練習しよう』
自分が言った。
『今度は十歩だ』
「……」
ヴァルターが、
一歩。
歩く。
「一」
もう一歩。
「二」
右腕を失った身体。
重い小銃。
知らない森。
二つの月。
「三……」
それでも。
前へ。
「四……」
息を吐く。
「五……」
息子が歩いた距離を越える。
「六……」
足が震える。
「七……」
止まらない。
「八……」
家の玄関を思い出す。
「九……」
セレナ。
レイブン。
そして。
「……十」
立ち止まった。
誰も褒めてくれない。
誰も見ていない。
それでも。
ヴァルターは、
ほんの少しだけ笑った。
「……次は」
《アードラー》を左肩へ掛け直す。
「俺の番だな」
そして。
右腕を失った黒猫は。
帝国の地図には存在しない世界を――。
たった一人で、
歩き始めた。
第三夜「帰還者たち」




