Season 1「誕生」 #06《三日間編:第Ⅱ夜》
《三日間編》
第6話「返事のない朝――第二日」
――カチ。
――カチ。
――カチ。
時計だけが、
いつもと変わらない速さで進んでいた。
午前五時四十七分。
夜と朝の境目。
窓の外では、ヴァルグラント帝国の町がゆっくりと目を覚まし始めている。
新聞配達の自転車。
遠くを走る始発列車。
パン屋の煙突から昇る煙。
どこにでもある朝だった。
ただ一つ。
クロウ家の玄関だけが、
一度も開かなかったことを除けば。
*
「……」
セレナ・クロウは、
食卓に座っていた。
眠っていない。
正確には、
眠れなかった。
白い猫耳は力なく横へ伏せられ、長い白い尾も椅子の脚に沿うように垂れている。
向かい側。
ヴァルターの席。
昨夜用意した夕食は、
すでに片づけていた。
それでも。
椅子だけは、
いつもの場所にある。
「……」
セレナは時計を見る。
また数分しか経っていない。
「遅い……」
昨日から、
何度口にしたか分からない言葉だった。
*
――とて。
「……?」
小さな足音。
――とて、とて。
セレナの白い耳が立った。
「レイブン?」
廊下。
小さな黒猫が立っていた。
寝間着。
ぼさぼさの黒髪。
右は金。
左は黒。
眠そうな異色眼。
「起きたの?」
「う……」
「まだ寝ててもいいのよ」
レイブンは、
母ではなく玄関を見た。
「……」
歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
昨日より、
ほんの少しだけ足取りが安定している。
「レイブン?」
玄関。
父の軍靴がない。
いつもなら、
朝にはそこにあるはずのもの。
「……とー」
セレナの耳が、
ぴくりと動いた。
「……」
「とー」
レイブンが、
玄関を指差す。
セレナは立ち上がった。
しゃがむ。
「お父さん?」
「あぅ」
「……」
笑わなければ。
そう思った。
この子の前では。
「お父さんはね」
レイブンを抱き上げる。
「まだ、お仕事なの」
「……」
「少し長くなってるだけ」
黒い耳を撫でる。
「だから」
一度、
息を吸った。
「帰ってくるわ」
言葉にしてから、
胸の奥が痛んだ。
それは情報ではない。
願いだった。
*
同じ頃。
異界門の向こう側。
「……っ」
ヴァルター・クロウは、
目を覚ました。
最初に感じたのは、
痛みではなかった。
寒さだった。
「……ここは」
「少尉!」
誰かが駆け寄ってくる。
「目を覚ましました!」
「……声がでかい」
掠れた声。
「す、すみません」
「状況……」
「その前に動かないでください」
「状況を言え」
兵士が黙った。
ヴァルターは、
身体を起こそうとする。
「――っ!」
右肩。
激痛。
「少尉!」
「触るな……!」
歯を食いしばる。
見る。
包帯。
その先。
何もない。
「……」
昨夜の光景が、
断片的に蘇った。
森。
光。
爆発。
血。
そして。
地面へ落ちた――。
「……右腕」
自分の声が、
妙に遠く聞こえた。
「止血は?」
「応急処置だけです」
「出血量」
「かなり……」
「数字で言え」
「分かりません」
「なら分からないと言え」
「……はい」
ヴァルターは、
荒い呼吸を整える。
「他は」
「三名負傷」
「歩けるか」
「二名は」
「残り一人」
「脚をやられています」
「意識は」
「あります」
「死者」
沈黙。
「……二名です」
ヴァルターの黒い耳が、
ゆっくり伏せた。
「名前」
「少尉」
「名前を言え」
二人の名前が告げられる。
ヴァルターは、
目を閉じた。
「……覚えた」
*
「現在地は」
「不明です」
「門からの距離」
「推定十三キロ」
「推定?」
「昨日の戦闘で進路を変えました」
「無線」
「繋がりません」
「方位磁針」
「正常です。ただ――」
「何だ」
「地図が役に立ちません」
ヴァルターは、
左手を差し出す。
「見せろ」
紙。
帝国側が作成した、
ほとんど白紙の異界地図。
そこに、
部隊が書き加えた線。
森。
川。
丘。
だが。
現在地を示す印がない。
「……迷ったか」
「申し訳ありません」
「謝るな」
ヴァルターは、
紙を睨む。
「昨夜の移動方向は」
「南東です」
「門は」
「北西方向のはずです」
「なら戻る」
「しかし――」
「ここにいたら全員死ぬ」
ヴァルターは立ち上がろうとする。
「少尉!」
「……っ!」
膝が折れる。
兵士が支えた。
「今の身体では!」
「歩ける」
「無理です!」
「歩けると言ってる」
「右腕を失ったんですよ!」
空気が、
止まった。
「……」
若い兵士は、
言ってから顔を伏せた。
「申し訳――」
「事実だ」
ヴァルターが遮る。
自分の右肩を見る。
「なくなったものは仕方ない」
「……」
「左脚はある」
右脚を動かす。
「右脚もある」
左手を握る。
「左腕もある」
そして。
兵士を見る。
「なら歩ける」
*
午前八時十三分。
クロウ家。
――コンコン。
「!」
セレナが、
椅子から立ち上がった。
玄関へ急ぐ。
「ヴァルター!?」
扉を開く。
「……」
そこにいたのは、
ヴァルターではなかった。
「おはよう」
「……お義母さん」
ヘレーネ・クロウ。
黒い猫耳。
籠。
いつもの姿。
だが。
セレナの顔を見るなり、
ヘレーネの表情が変わった。
「……寝てないね?」
「寝ました」
「嘘」
「……少し」
「ヴァルターは?」
セレナは、
答えなかった。
「セレナ」
「……仕事です」
「昨日から?」
「はい」
「どこへ」
「……」
沈黙。
ヘレーネの黒い尾が、
止まった。
「何かあったんだね」
*
「異界門……?」
ヘレーネの声が、
低くなる。
「はい」
「ヴァルターが?」
「救出任務だって」
「いつ」
「昨日の朝」
「連絡は」
「ありません」
「軍には?」
「まだ……」
「どうして」
「待てって言われていたから」
「誰に」
「ヴァルターに」
「……」
ヘレーネは、
しばらく何も言わなかった。
やがて。
籠を机へ置く。
「電話を借りるよ」
「お義母さん?」
「軍へ掛ける」
「でも」
「待てと言ったのは昨日のヴァルターだ」
ヘレーネの瞳が、
僅かに鋭くなる。
「今日のヴァルターが何を言うかは、本人に聞かなきゃ分からないだろう」
*
帝国軍西部方面駐屯地。
『クロウ少尉のご家族ですか』
「母です」
『現在、作戦行動中につき――』
「それは知ってる」
『詳細については――』
「生きてるのかい」
電話の向こうが、
静かになった。
『……確認中です』
「怪我は」
『確認中です』
「帰還予定は」
『確認中です』
「部隊との通信は」
『……』
「それも確認中?」
『申し訳ありません』
「謝らなくていい」
ヘレーネは、
受話器を強く握った。
「一つだけ答えて」
『はい』
「軍は今」
一呼吸。
「私の息子がどこにいるか、分かっているの?」
長い沈黙。
『……正確な位置は、現在確認できておりません』
「……そう」
それだけ言って。
ヘレーネは、
静かに受話器を置いた。
*
「お義母さん……」
「セレナ」
「はい」
「今日は私もここにいる」
「でも」
「帰れと言っても帰らないよ」
「……」
「それに」
ヘレーネが、
レイブンを見る。
床に座り、
父の古い子供服を触っている。
「待つ人数は、多い方がいい」
セレナは、
何も言えなかった。
*
異界。
救出部隊は、
森を進んでいた。
ヴァルターは、
左手だけで小銃の負い紐を握っている。
右肩は、
何度包帯を巻き直しても血が滲む。
「少尉」
「何だ」
「休憩を」
「あと一キロ」
「さっきもそう言いました」
「なら五百メートル」
「減ってるじゃないですか」
「交渉成立だ」
「そういう問題じゃ――」
「止まれ」
ヴァルターの黒い耳が、
立った。
全員が停止する。
「……」
風。
葉。
鳥のような、
しかし聞いたことのない鳴き声。
そして。
――ザッ。
「前方」
兵士たちが武器を構える。
「数は」
「……三」
「人?」
「たぶん」
木々の向こう。
人影。
昨日と似た装束。
金属製の防具。
布。
そして。
杖。
「魔法使い……」
誰かが呟く。
「その呼び方はまだ早い」
ヴァルターが答える。
「正体は分からん」
「でも昨日の光は――」
「分からないものに名前を付けるな」
左手で、
小銃を支える。
「先に撃つな」
*
人影も、
こちらを見ていた。
言葉。
聞き取れない。
「何と言ってる?」
「不明です」
「当然か」
向こうの一人が、
杖を上げる。
「少尉!」
「待て」
光が灯る。
「待て!」
ヴァルターは、
左手を上げた。
武器を下げる仕草。
「撃つな!」
帝国兵たちが、
銃口を僅かに下げる。
向こう側。
杖を持った人物が、
何かを叫ぶ。
光が強くなる。
「……まずい」
ヴァルターの耳が伏せた。
「散開!」
*
閃光。
――ドンッ!
「っ!」
地面が弾ける。
「撃て!」
銃声。
森の中に、
帝国製小銃の発砲音が響く。
ヴァルターは、
左腕だけで銃を構えようとする。
「くそ……!」
安定しない。
反動。
照準。
何もかもが違う。
「少尉!」
「構うな!」
別の兵士が、
ヴァルターの前へ出る。
「後退してください!」
「全員で後退する!」
「でも!」
「一人だけ残すな!」
また光。
「右!」
叫んでから。
ヴァルターは一瞬、
自分の言葉に止まりそうになる。
右。
もう。
そこには腕がない。
「……っ」
だが。
止まれない。
「左へ回れ!」
*
銃声。
閃光。
怒号。
そして。
数分後。
「後退!」
部隊が走る。
ヴァルターも、
走る。
血が、
包帯から滴る。
一歩。
また一歩。
視界が、
少しずつ暗くなる。
「少尉!」
「……まだだ」
「少尉!」
「まだ……歩ける」
*
午後。
クロウ家。
「はい」
セレナが、
スプーンを差し出す。
レイブンが口を開く。
「あー」
「上手」
いつも通り。
食事をさせる。
口元を拭く。
水を飲ませる。
それだけのことが、
今日はひどく難しかった。
「セレナ」
「大丈夫です」
「まだ何も言ってないよ」
「……」
ヘレーネが、
向かいへ座る。
「食べな」
「お腹が」
「空いてなくても」
「……」
「倒れたら誰がレイブンを見るんだい」
セレナは、
俯いた。
「……はい」
*
レイブンが、
食卓から降ろされる。
とて。
とて。
歩く。
父の椅子へ。
「……」
そこへ両手を置く。
「あぅ」
椅子を見上げる。
「……」
セレナが、
その姿を見る。
昨日。
この椅子には、
ヴァルターがいた。
『今日は片手で食う』
『好きにして』
指を握られ、
食事ができないと言い張った男。
「……」
セレナの白い尾が、
僅かに震えた。
「あの人」
小さく呟く。
「本当に馬鹿なんだから」
*
ヘレーネには、
聞こえていた。
けれど。
何も言わなかった。
*
夕方。
異界。
「見ろ!」
兵士が叫んだ。
「何だ」
「これ!」
木の幹。
帝国軍の布。
赤い布片が、
枝へ結ばれている。
「……」
ヴァルターが近づく。
「先遣隊?」
「おそらく」
「方向は」
布の結び方。
枝の折り方。
帝国軍で教える、
簡易的な進路標識。
「北西」
ヴァルターの耳が、
僅かに立った。
「門と同じ方向です」
「ああ」
「なら!」
「まだ喜ぶな」
ヴァルターが、
周囲を見る。
「これを付けた奴が門へ着いた保証はない」
「……はい」
「だが」
左手で、
布へ触れる。
「道は合ってる」
*
その時。
――ザァァァァ……。
「雨……?」
異界の空から、
雨が降り始めた。
強い。
「まずい!」
「何が」
「血痕も標識も消える!」
ヴァルターが、
前を見る。
「進むぞ!」
「少尉、夜になります!」
「分かってる!」
「負傷者も限界です!」
「なら――」
ヴァルターは、
一度言葉を止めた。
周囲を見る。
疲弊した兵士。
負傷者。
担架。
濡れた装備。
そして。
自分自身。
右腕を失い、
立っていることさえ、
かなり苦しい。
「……野営地点を探せ」
兵士が驚いた。
「少尉?」
「三十分だけ進む」
「はい」
「安全な場所を見つけたら止まる」
「了解!」
「交代で休め」
「少尉もです」
「……」
「少尉」
「分かった」
*
夜。
クロウ家。
ヘレーネが夕食を作った。
三人分。
いや。
正確には――。
四人分。
「お義母さん」
「何だい」
「それ」
食卓。
ヴァルターの席にも、
皿がある。
「癖だよ」
ヘレーネは、
それだけ言った。
「……片づけます?」
「いや」
セレナが答えた。
「置いておきましょう」
*
食事が終わる。
風呂。
レイブンを着替えさせる。
寝かしつける。
「……」
だが。
今日は、
なかなか眠らない。
「どうしたの?」
「あぅ……」
「眠くない?」
黒い耳が、
玄関の方を向く。
「……」
「お父さん?」
「とー」
「……」
セレナは、
レイブンを抱き上げた。
「そうね」
玄関を見る。
「まだね」
白い尾で、
息子を包む。
「まだ帰ってこないね」
*
異界。
雨。
小さな岩陰。
救出部隊は、
身体を寄せ合うように休んでいた。
「少尉」
「……」
「クロウ少尉」
「起きてる」
「眠ってください」
「見張りが」
「交代しました」
「……」
「少尉」
「何だ」
「痛みますか」
ヴァルターは、
自分の右肩を見る。
「……痛くないと言ったら嘘になる」
「……」
「でも」
左手を、
胸元へ入れる。
そこにあったのは、
小さな紙片。
「それは?」
「何でもない」
家を出る前。
レイブンが遊んでいた紙。
世界地図の端を、
セレナが不要な部分だけ切り取ったもの。
レイブンが、
意味もなく線を書いた紙。
いつの間にか、
軍服のポケットへ入っていた。
「……」
ヴァルターは、
濡れないよう折り畳む。
胸元へ戻した。
「少尉」
「何だ」
「帰れますよね」
ヴァルターは、
すぐには答えなかった。
雨音。
暗い森。
知らない空。
右腕のない身体。
遠すぎる異界門。
「……帰る」
静かに言った。
「帰れる、じゃない」
黒い猫耳が、
闇の向こうへ向く。
「帰るんだ」
*
ヴァルグラント帝国。
午後十一時五十八分。
クロウ家。
レイブンは、
ようやく眠った。
セレナは、
眠っていない。
ヘレーネも、
眠っていない。
三人がいる家。
けれど。
一つだけ、
足りない。
――カチ。
――カチ。
秒針が進む。
午後十一時五十九分。
セレナが、
玄関を見る。
何も聞こえない。
ヘレーネも、
何も言わない。
そして。
――カチ。
日付が変わった。
父が家を出てから、
二度目の朝へ。
それでも。
クロウ家にはまだ、
ヴァルター・クロウが生きているのか。
負傷しているのか。
どこを歩いているのか。
何一つ、
届いていなかった。
ただ。
母と。
祖母と。
小さな黒猫は。
玄関の向こうから聞こえるはずの、
いつもの声を――。
待ち続けていた。
第二夜「返事のない朝」




