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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 1「誕生」 #06《三日間編:第Ⅱ夜》

《三日間編》

第6話「返事(へんじ)のない朝――第二日」


 ――カチ。


 ――カチ。


 ――カチ。


 時計だけが、


 いつもと変わらない速さで進んでいた。


 午前五時四十七分。


 夜と朝の境目。


 窓の外では、ヴァルグラント帝国の町がゆっくりと目を覚まし始めている。


 新聞配達の自転車。


 遠くを走る始発列車。


 パン屋の煙突から昇る煙。


 どこにでもある朝だった。


 ただ一つ。


 クロウ家の玄関だけが、


 一度も開かなかったことを除けば。


     *


「……」


 セレナ・クロウは、


 食卓に座っていた。


 眠っていない。


 正確には、


 眠れなかった。


 白い猫耳は力なく横へ伏せられ、長い白い尾も椅子の脚に沿うように垂れている。


 向かい側。


 ヴァルターの席。


 昨夜用意した夕食は、


 すでに片づけていた。


 それでも。


 椅子だけは、


 いつもの場所にある。


「……」


 セレナは時計を見る。


 また数分しか経っていない。


「遅い……」


 昨日から、


 何度口にしたか分からない言葉だった。


     *


 ――とて。


「……?」


 小さな足音。


 ――とて、とて。


 セレナの白い耳が立った。


「レイブン?」


 廊下。


 小さな黒猫が立っていた。


 寝間着。


 ぼさぼさの黒髪。


 右は金。


 左は黒。


 眠そうな異色眼(オッドアイ)。


「起きたの?」


「う……」


「まだ寝ててもいいのよ」


 レイブンは、


 母ではなく玄関を見た。


「……」


 歩き出す。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 昨日より、


 ほんの少しだけ足取りが安定している。


「レイブン?」


 玄関。


 父の軍靴がない。


 いつもなら、


 朝にはそこにあるはずのもの。


「……とー」


 セレナの耳が、


 ぴくりと動いた。


「……」


「とー」


 レイブンが、


 玄関を指差す。


 セレナは立ち上がった。


 しゃがむ。


「お父さん?」


「あぅ」


「……」


 笑わなければ。


 そう思った。


 この子の前では。


「お父さんはね」


 レイブンを抱き上げる。


「まだ、お仕事なの」


「……」


「少し長くなってるだけ」


 黒い耳を撫でる。


「だから」


 一度、


 息を吸った。


「帰ってくるわ」


 言葉にしてから、


 胸の奥が痛んだ。


 それは情報ではない。


 願いだった。


     *


 同じ頃。


 異界門(ゲート)の向こう側。


「……っ」


 ヴァルター・クロウは、


 目を覚ました。


 最初に感じたのは、


 痛みではなかった。


 寒さだった。


「……ここは」


「少尉!」


 誰かが駆け寄ってくる。


「目を覚ましました!」


「……声がでかい」


 掠れた声。


「す、すみません」


「状況……」


「その前に動かないでください」


「状況を言え」


 兵士が黙った。


 ヴァルターは、


 身体を起こそうとする。


「――っ!」


 右肩。


 激痛。


「少尉!」


「触るな……!」


 歯を食いしばる。


 見る。


 包帯。


 その先。


 何もない。


「……」


 昨夜の光景が、


 断片的に蘇った。


 森。


 光。


 爆発。


 血。


 そして。


 地面へ落ちた――。


「……右腕」


 自分の声が、


 妙に遠く聞こえた。


「止血は?」


「応急処置だけです」


「出血量」


「かなり……」


「数字で言え」


「分かりません」


「なら分からないと言え」


「……はい」


 ヴァルターは、


 荒い呼吸を整える。


「他は」


「三名負傷」


「歩けるか」


「二名は」


「残り一人」


「脚をやられています」


「意識は」


「あります」


「死者」


 沈黙。


「……二名です」


 ヴァルターの黒い耳が、


 ゆっくり伏せた。


「名前」


「少尉」


「名前を言え」


 二人の名前が告げられる。


 ヴァルターは、


 目を閉じた。


「……覚えた」


     *


「現在地は」


「不明です」


「門からの距離」


「推定十三キロ」


「推定?」


「昨日の戦闘で進路を変えました」


「無線」


「繋がりません」


「方位磁針」


「正常です。ただ――」


「何だ」


「地図が役に立ちません」


 ヴァルターは、


 左手を差し出す。


「見せろ」


 紙。


 帝国側が作成した、


 ほとんど白紙の異界地図。


 そこに、


 部隊が書き加えた線。


 森。


 川。


 丘。


 だが。


 現在地を示す印がない。


「……迷ったか」


「申し訳ありません」


「謝るな」


 ヴァルターは、


 紙を睨む。


「昨夜の移動方向は」


「南東です」


「門は」


「北西方向のはずです」


「なら戻る」


「しかし――」


「ここにいたら全員死ぬ」


 ヴァルターは立ち上がろうとする。


「少尉!」


「……っ!」


 膝が折れる。


 兵士が支えた。


「今の身体では!」


「歩ける」


「無理です!」


「歩けると言ってる」


「右腕を失ったんですよ!」


 空気が、


 止まった。


「……」


 若い兵士は、


 言ってから顔を伏せた。


「申し訳――」


「事実だ」


 ヴァルターが遮る。


 自分の右肩を見る。


「なくなったものは仕方ない」


「……」


「左脚はある」


 右脚を動かす。


「右脚もある」


 左手を握る。


「左腕もある」


 そして。


 兵士を見る。


「なら歩ける」


     *


 午前八時十三分。


 クロウ家。


 ――コンコン。


「!」


 セレナが、


 椅子から立ち上がった。


 玄関へ急ぐ。


「ヴァルター!?」


 扉を開く。


「……」


 そこにいたのは、


 ヴァルターではなかった。


「おはよう」


「……お義母さん」


 ヘレーネ・クロウ。


 黒い猫耳。


 籠。


 いつもの姿。


 だが。


 セレナの顔を見るなり、


 ヘレーネの表情が変わった。


「……寝てないね?」


「寝ました」


「嘘」


「……少し」


「ヴァルターは?」


 セレナは、


 答えなかった。


「セレナ」


「……仕事です」


「昨日から?」


「はい」


「どこへ」


「……」


 沈黙。


 ヘレーネの黒い尾が、


 止まった。


「何かあったんだね」


     *


「異界門(ゲート)……?」


 ヘレーネの声が、


 低くなる。


「はい」


「ヴァルターが?」


「救出任務だって」


「いつ」


「昨日の朝」


「連絡は」


「ありません」


「軍には?」


「まだ……」


「どうして」


「待てって言われていたから」


「誰に」


「ヴァルターに」


「……」


 ヘレーネは、


 しばらく何も言わなかった。


 やがて。


 籠を机へ置く。


「電話を借りるよ」


「お義母さん?」


「軍へ掛ける」


「でも」


「待てと言ったのは昨日のヴァルターだ」


 ヘレーネの瞳が、


 僅かに鋭くなる。


「今日のヴァルターが何を言うかは、本人に聞かなきゃ分からないだろう」


     *


 帝国軍西部方面駐屯地。


『クロウ少尉のご家族ですか』


「母です」


『現在、作戦行動中につき――』


「それは知ってる」


『詳細については――』


「生きてるのかい」


 電話の向こうが、


 静かになった。


『……確認中です』


「怪我は」


『確認中です』


「帰還予定は」


『確認中です』


「部隊との通信は」


『……』


「それも確認中?」


『申し訳ありません』


「謝らなくていい」


 ヘレーネは、


 受話器を強く握った。


「一つだけ答えて」


『はい』


「軍は今」


 一呼吸。


「私の息子がどこにいるか、分かっているの?」


 長い沈黙。


『……正確な位置は、現在確認できておりません』


「……そう」


 それだけ言って。


 ヘレーネは、


 静かに受話器を置いた。


     *


「お義母さん……」


「セレナ」


「はい」


「今日は私もここにいる」


「でも」


「帰れと言っても帰らないよ」


「……」


「それに」


 ヘレーネが、


 レイブンを見る。


 床に座り、


 父の古い子供服を触っている。


「待つ人数は、多い方がいい」


 セレナは、


 何も言えなかった。


     *


 異界。


 救出部隊は、


 森を進んでいた。


 ヴァルターは、


 左手だけで小銃(ライフル)の負い紐を握っている。


 右肩は、


 何度包帯を巻き直しても血が滲む。


「少尉」


「何だ」


「休憩を」


「あと一キロ」


「さっきもそう言いました」


「なら五百メートル」


「減ってるじゃないですか」


「交渉成立だ」


「そういう問題じゃ――」


「止まれ」


 ヴァルターの黒い耳が、


 立った。


 全員が停止する。


「……」


 風。


 葉。


 鳥のような、


 しかし聞いたことのない鳴き声。


 そして。


 ――ザッ。


「前方」


 兵士たちが武器を構える。


「数は」


「……三」


「人?」


「たぶん」


 木々の向こう。


 人影。


 昨日と似た装束。


 金属製の防具。


 布。


 そして。


 杖。


「魔法使い……」


 誰かが呟く。


「その呼び方はまだ早い」


 ヴァルターが答える。


「正体は分からん」


「でも昨日の光は――」


「分からないものに名前を付けるな」


 左手で、


 小銃(ライフル)を支える。


「先に撃つな」


     *


 人影も、


 こちらを見ていた。


 言葉。


 聞き取れない。


「何と言ってる?」


「不明です」


「当然か」


 向こうの一人が、


 杖を上げる。


「少尉!」


「待て」


 光が灯る。


「待て!」


 ヴァルターは、


 左手を上げた。


 武器を下げる仕草。


「撃つな!」


 帝国兵たちが、


 銃口を僅かに下げる。


 向こう側。


 杖を持った人物が、


 何かを叫ぶ。


 光が強くなる。


「……まずい」


 ヴァルターの耳が伏せた。


「散開!」


     *


 閃光。


 ――ドンッ!


「っ!」


 地面が弾ける。


「撃て!」


 銃声。


 森の中に、


 帝国製小銃(ライフル)の発砲音が響く。


 ヴァルターは、


 左腕だけで銃を構えようとする。


「くそ……!」


 安定しない。


 反動。


 照準。


 何もかもが違う。


「少尉!」


「構うな!」


 別の兵士が、


 ヴァルターの前へ出る。


「後退してください!」


「全員で後退する!」


「でも!」


「一人だけ残すな!」


 また光。


「右!」


 叫んでから。


 ヴァルターは一瞬、


 自分の言葉に止まりそうになる。


 右。


 もう。


 そこには腕がない。


「……っ」


 だが。


 止まれない。


「左へ回れ!」


     *


 銃声。


 閃光。


 怒号。


 そして。


 数分後。


「後退!」


 部隊が走る。


 ヴァルターも、


 走る。


 血が、


 包帯から滴る。


 一歩。


 また一歩。


 視界が、


 少しずつ暗くなる。


「少尉!」


「……まだだ」


「少尉!」


「まだ……歩ける」


     *


 午後。


 クロウ家。


「はい」


 セレナが、


 スプーンを差し出す。


 レイブンが口を開く。


「あー」


「上手」


 いつも通り。


 食事をさせる。


 口元を拭く。


 水を飲ませる。


 それだけのことが、


 今日はひどく難しかった。


「セレナ」


「大丈夫です」


「まだ何も言ってないよ」


「……」


 ヘレーネが、


 向かいへ座る。


「食べな」


「お腹が」


「空いてなくても」


「……」


「倒れたら誰がレイブンを見るんだい」


 セレナは、


 俯いた。


「……はい」


     *


 レイブンが、


 食卓から降ろされる。


 とて。


 とて。


 歩く。


 父の椅子へ。


「……」


 そこへ両手を置く。


「あぅ」


 椅子を見上げる。


「……」


 セレナが、


 その姿を見る。


 昨日。


 この椅子には、


 ヴァルターがいた。


『今日は片手で食う』


『好きにして』


 指を握られ、


 食事ができないと言い張った男。


「……」


 セレナの白い尾が、


 僅かに震えた。


「あの人」


 小さく呟く。


「本当に馬鹿なんだから」


     *


 ヘレーネには、


 聞こえていた。


 けれど。


 何も言わなかった。


     *


 夕方。


 異界。


「見ろ!」


 兵士が叫んだ。


「何だ」


「これ!」


 木の幹。


 帝国軍の布。


 赤い布片が、


 枝へ結ばれている。


「……」


 ヴァルターが近づく。


「先遣隊?」


「おそらく」


「方向は」


 布の結び方。


 枝の折り方。


 帝国軍で教える、


 簡易的な進路標識。


「北西」


 ヴァルターの耳が、


 僅かに立った。


「門と同じ方向です」


「ああ」


「なら!」


「まだ喜ぶな」


 ヴァルターが、


 周囲を見る。


「これを付けた奴が門へ着いた保証はない」


「……はい」


「だが」


 左手で、


 布へ触れる。


「道は合ってる」


     *


 その時。


 ――ザァァァァ……。


「雨……?」


 異界の空から、


 雨が降り始めた。


 強い。


「まずい!」


「何が」


「血痕も標識も消える!」


 ヴァルターが、


 前を見る。


「進むぞ!」


「少尉、夜になります!」


「分かってる!」


「負傷者も限界です!」


「なら――」


 ヴァルターは、


 一度言葉を止めた。


 周囲を見る。


 疲弊した兵士。


 負傷者。


 担架。


 濡れた装備。


 そして。


 自分自身。


 右腕を失い、


 立っていることさえ、


 かなり苦しい。


「……野営地点を探せ」


 兵士が驚いた。


「少尉?」


「三十分だけ進む」


「はい」


「安全な場所を見つけたら止まる」


「了解!」


「交代で休め」


「少尉もです」


「……」


「少尉」


「分かった」


     *


 夜。


 クロウ家。


 ヘレーネが夕食を作った。


 三人分。


 いや。


 正確には――。


 四人分。


「お義母さん」


「何だい」


「それ」


 食卓。


 ヴァルターの席にも、


 皿がある。


「癖だよ」


 ヘレーネは、


 それだけ言った。


「……片づけます?」


「いや」


 セレナが答えた。


「置いておきましょう」


     *


 食事が終わる。


 風呂。


 レイブンを着替えさせる。


 寝かしつける。


「……」


 だが。


 今日は、


 なかなか眠らない。


「どうしたの?」


「あぅ……」


「眠くない?」


 黒い耳が、


 玄関の方を向く。


「……」


「お父さん?」


「とー」


「……」


 セレナは、


 レイブンを抱き上げた。


「そうね」


 玄関を見る。


「まだね」


 白い尾で、


 息子を包む。


「まだ帰ってこないね」


     *


 異界。


 雨。


 小さな岩陰。


 救出部隊は、


 身体を寄せ合うように休んでいた。


「少尉」


「……」


「クロウ少尉」


「起きてる」


「眠ってください」


「見張りが」


「交代しました」


「……」


「少尉」


「何だ」


「痛みますか」


 ヴァルターは、


 自分の右肩を見る。


「……痛くないと言ったら嘘になる」


「……」


「でも」


 左手を、


 胸元へ入れる。


 そこにあったのは、


 小さな紙片。


「それは?」


「何でもない」


 家を出る前。


 レイブンが遊んでいた紙。


 世界地図の端を、


 セレナが不要な部分だけ切り取ったもの。


 レイブンが、


 意味もなく線を書いた紙。


 いつの間にか、


 軍服のポケットへ入っていた。


「……」


 ヴァルターは、


 濡れないよう折り畳む。


 胸元へ戻した。


「少尉」


「何だ」


「帰れますよね」


 ヴァルターは、


 すぐには答えなかった。


 雨音。


 暗い森。


 知らない空。


 右腕のない身体。


 遠すぎる異界門(ゲート)。


「……帰る」


 静かに言った。


「帰れる、じゃない」


 黒い猫耳が、


 闇の向こうへ向く。


「帰るんだ」


     *


 ヴァルグラント帝国。


 午後十一時五十八分。


 クロウ家。


 レイブンは、


 ようやく眠った。


 セレナは、


 眠っていない。


 ヘレーネも、


 眠っていない。


 三人がいる家。


 けれど。


 一つだけ、


 足りない。


 ――カチ。


 ――カチ。


 秒針が進む。


 午後十一時五十九分。


 セレナが、


 玄関を見る。


 何も聞こえない。


 ヘレーネも、


 何も言わない。


 そして。


 ――カチ。


 日付が変わった。


 父が家を出てから、


 二度目の朝へ。


 それでも。


 クロウ家にはまだ、


 ヴァルター・クロウが生きているのか。


 負傷しているのか。


 どこを歩いているのか。


 何一つ、


 届いていなかった。


 ただ。


 母と。


 祖母と。


 小さな黒猫は。


 玄関の向こうから聞こえるはずの、


 いつもの声を――。


 待ち続けていた。

第二夜「返事のない朝」

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