Season 1「誕生」 #05《三日間編:第Ⅰ夜》
《三日間編》
第5話「門の向こうへ――第一日」
その朝。
ヴァルター・クロウは、
いつもより早く目を覚ました。
まだ夜明け前だった。
窓の外には青黒い空。
街灯だけが、眠るヴァルグラント帝国の街路を照らしている。
――カチ。
――カチ。
壁時計。
午前四時十二分。
「……」
ヴァルターはベッドから起き上がった。
隣では、
白い猫耳を枕へ伏せたセレナが眠っている。
その少し離れた小さな寝床には、
レイブン。
黒い猫耳。
黒い尾。
毛布から、
小さな手だけが出ている。
ヴァルターは、
しばらく二人を見ていた。
そして。
音を立てないよう、
寝室を出た。
*
軍服を着る。
襟を正す。
軍靴。
ベルト。
装具。
最後に、
帝国軍の制帽。
「……」
鏡の中には、
いつもの軍人がいた。
ヴァルター・クロウ少尉。
それなのに。
何かが、
いつもと違った。
――コン、コン、コン。
午前四時二十七分。
玄関が鳴った。
「……早いな」
ヴァルターが扉を開ける。
帝国軍の軍用車。
そして、
二人の兵士。
「クロウ少尉」
一人が敬礼する。
「お迎えに上がりました」
「予定は五時だったはずだ」
「変更です」
「理由は」
兵士が一瞬、
言葉を止めた。
「異界門側で状況変化がありました」
ヴァルターの黒い耳が、
僅かに立つ。
「詳細は」
「移動中に」
「……分かった」
*
「あなた」
背後。
「……」
ヴァルターが振り返る。
セレナだった。
白い髪。
白い猫耳。
寝間着。
その腕には、
眠そうなレイブン。
「起こしたか」
「軍用車が家の前に止まれば起きるわよ」
「……悪い」
「何があったの?」
ヴァルターは答えない。
「ヴァルター」
「召集だ」
「こんな時間に?」
「ああ」
「どこへ?」
「……」
その沈黙だけで、
セレナの表情が変わった。
「国境?」
「違う」
「じゃあ――」
「異界門だ」
*
数日前。
帝国とアステリア連邦共和国の勢力圏の狭間。
長年、
地図上では何の意味も持たなかった荒野に――。
それは現れた。
巨大な、
光の壁。
否。
壁ではない。
向こう側に、
この世界とは違う景色が見える。
空。
森。
山。
しかし。
帝国のどの地図にも、
連邦のどの地図にも存在しない場所。
学者たちは、
それを異界門と呼んだ。
*
帝国と連邦は、
ほぼ同時に存在を確認した。
当然、
互いに警戒した。
相手が作った兵器ではないのか。
新しい侵攻経路ではないのか。
未知の技術ではないのか。
そして。
何より。
門の向こうには何があるのか。
その答えを得るため、
帝国は先遣部隊を送り込んだ。
――そして。
その部隊との通信が、
途絶えた。
*
「行くの?」
セレナが尋ねる。
「……ああ」
「昨日は行かないって言ってたじゃない」
ヴァルターの耳が伏せる。
その通りだった。
最初に命令が来た時、
彼は受理しなかった。
『俺の専門外です』
『これは命令だ』
『正式な作戦目的も、地形情報も、敵性存在の有無すら不明でしょう』
『だから調査する』
『何も分からない場所へ人間を放り込むことを、調査とは言いません』
上官を前にしても、
ヴァルターは首を縦に振らなかった。
だが。
先遣部隊が消えた。
状況が変わった。
「調査じゃない」
ヴァルターが言う。
「救出だ」
「……」
「先に入った連中が帰ってこない」
「何人?」
「言えない」
「生きてるの?」
「分からない」
「なら――」
セレナの白い尾が、
強く揺れた。
「あなたまで行く必要ないじゃない」
「……」
「あなた、断ったんでしょう?」
「ああ」
「だったら!」
「セレナ」
低い声。
怒ってはいなかった。
「帰ってこない奴らの中に、俺が訓練した兵がいる」
「……」
セレナが黙る。
「新兵の頃から知ってる奴もいる」
「だからって」
「分かってる」
「分かってない!」
白い耳が、
完全に伏せられた。
「あなたには今、レイブンがいるのよ」
「……」
「私もいる」
「ああ」
「軍人だけじゃないのよ」
「分かってる」
「だったら――」
言葉が、
続かなかった。
*
「……父さん」
小さな声。
二人が、
同時に止まった。
「……?」
レイブン自身、
意味を理解して発したのかは分からない。
ただ。
小さな手が、
ヴァルターへ伸びていた。
「……」
ヴァルターは、
しゃがむ。
「レイブン」
セレナから受け取る。
小さな身体。
暖かい。
「父さんは」
言いかける。
止める。
何を言えばいい。
すぐ戻る?
大丈夫?
約束する?
どれも。
今のヴァルターには、
軽々しく言えなかった。
「……行ってくる」
それだけだった。
レイブンが、
父の軍服を掴む。
「……」
離さない。
「レイブン」
小さな指。
「父さん、仕事に行くから」
それでも、
離れない。
「……」
ヴァルターは困ったように、
セレナを見る。
「私に聞かないで」
「いや……」
「自分で何とかして」
「……」
父は息子を見る。
「困ったな」
*
一本ずつ。
ゆっくり。
小さな指を、
軍服から離す。
「帰ったら」
ヴァルターは言った。
「また歩く練習しよう」
レイブンは、
父を見ている。
金色。
黒色。
二つの瞳。
「今度は十歩だ」
「……」
「できるか?」
「あぅ」
「よし」
ヴァルターが笑った。
ほんの少しだけ。
*
立ち上がる。
セレナへ、
レイブンを返す。
「セレナ」
「……何」
「頼む」
「何を」
「レイブンを」
「……」
「それと」
少し間を置く。
「自分も」
セレナの目が、
僅かに揺れた。
「そういう言い方」
「?」
「嫌い」
「……悪い」
「帰ってきてから謝って」
「分かった」
「絶対よ」
「……ああ」
*
玄関を出る。
軍用車へ。
「クロウ少尉」
「待たせた」
「いえ」
扉へ手を掛ける。
「ヴァルター」
振り返る。
セレナ。
その腕には、
レイブン。
「……いってらっしゃい」
ヴァルターは、
一度だけ頷いた。
「行ってくる」
扉が閉まった。
*
――ブルルルル……。
軍用車が走り出す。
窓の外。
家が、
少しずつ遠ざかる。
白い猫。
その腕の中の、
小さな黒猫。
角を曲がる。
見えなくなった。
「……」
ヴァルターは、
前を向いた。
「状況を」
「はい」
兵士が資料を開く。
「第一先遣部隊との通信途絶から、十一時間二十七分」
「最後の通信は」
「断片的です」
「内容」
「座標報告の途中で、突然途切れています」
「銃声は」
「確認されていません」
「救難信号」
「なし」
「……」
嫌な条件が、
揃っている。
「第二隊は?」
「すでに異界門前へ集結中」
「俺はその指揮?」
「いえ」
「?」
「クロウ少尉は――」
兵士が、
少し言いづらそうに続ける。
「先遣救出班へ編入されています」
「……現場要員か」
「はい」
ヴァルターの目が、
僅かに細くなった。
*
数時間後。
異界門。
「……」
ヴァルターは、
初めてそれを直接見た。
巨大だった。
空間そのものが、
縦に裂けている。
こちら側。
帝国領の荒野。
向こう側。
緑。
森。
見たことのない空。
風まで、
違う。
「気味悪いな」
隣の兵士が呟く。
「同感だ」
ヴァルターは、
装備を確認する。
小銃。
予備弾倉。
水。
医療品。
無線機。
地図――。
いや。
地図と呼ぶには、
あまりにも空白が多い紙。
「クロウ少尉」
「何だ」
「怖くないんですか」
若い兵士だった。
「怖い」
「……え?」
「当たり前だろ」
ヴァルターは、
門を見る。
「何がいるか分からない」
「……」
「だから確認する」
「はい」
「怖いなら周りを見ろ」
「え?」
「怖くなくなる必要はない」
小銃の安全装置を確認する。
「怖いまま動け」
「……はい!」
*
指揮官が、
腕を上げた。
「救出班!」
兵士たちが並ぶ。
「目的は第一先遣部隊の捜索および救出!」
ヴァルターは、
門の向こうを見る。
「交戦は可能な限り回避!」
風。
「未知の生命体・文明との接触時は――」
命令が続く。
だが。
ヴァルターの頭にあったのは、
一つだけだった。
帰る。
それだけ。
*
「前進!」
一人。
また一人。
兵士が、
異界門へ入っていく。
ヴァルターの番。
「……」
一歩。
門の直前。
ほんの一瞬だけ、
足が止まった。
――帰ったら、また歩く練習しよう。
自分で言った言葉が、
耳の奥に残っている。
「十歩……だったな」
小さく呟く。
そして。
ヴァルター・クロウは、
門を越えた。
*
――音が変わった。
「……!」
風。
湿気。
土。
植物。
すべてが違う。
振り返る。
そこには、
確かに門がある。
向こう側に、
帝国の荒野。
「全員確認!」
点呼。
異常なし。
「進むぞ!」
部隊が、
未知の森へ入る。
*
一時間。
二時間。
三時間。
第一先遣部隊の痕跡は、
なかなか見つからなかった。
「止まれ」
ヴァルターが、
拳を上げる。
「……?」
兵士たちが停止。
「何か聞こえる」
「何です?」
「静かに」
黒い猫耳が、
前方へ向く。
――カン。
「……」
――カン。
金属音。
遠い。
「前方」
ヴァルターが、
小銃を構える。
「何かいる」
*
草を掻き分ける。
そこで。
「……!」
見つけた。
帝国軍の装備。
地面に落ちた、
制式小銃。
血。
「先遣隊のものです!」
「負傷者を探せ!」
部隊が動く。
その時。
森の奥。
――ザッ。
「!」
ヴァルターが振り向く。
「接触!」
何かが、
木々の向こうを動いた。
「撃つな!」
ヴァルターが叫ぶ。
「確認してからだ!」
*
影。
人型。
だが、
帝国兵ではない。
連邦兵でもない。
見たことのない装備。
そして――。
杖。
「……杖?」
誰かが呟いた。
その先端に。
光が集まる。
「伏せろ!」
ヴァルターが叫んだ。
――閃光。
*
同じ頃。
ヴァルグラント帝国。
クロウ家。
――ぱち。
暖炉。
セレナは、
椅子に座っていた。
膝の上には、
レイブン。
「……」
時計を見る。
午前十一時四十八分。
「まだ半日も経ってないわね」
自分へ言い聞かせる。
レイブンが、
母を見上げる。
「大丈夫」
白い手が、
黒い髪を撫でる。
「お父さんは仕事」
「……」
「いつもと同じ」
言葉にする。
「だから」
もう一度。
「大丈夫」
*
昼。
レイブンへ食事を与える。
洗濯。
掃除。
買い物。
いつも通り。
そうしようとした。
けれど。
玄関の前を軍用車が通るたび、
セレナの耳が立った。
――違う。
時計を見る。
午後三時。
――まだ。
電話が鳴る。
「!」
受話器を取る。
「はい、クロウです!」
『あ、セレナ?』
「……お義母さん」
『どうしたんだい、その声』
「いえ」
『ヴァルターは?』
「仕事です」
『こんな時間まで?』
「……はい」
嘘ではない。
ただ。
全部も言わなかった。
*
夕方。
レイブンが、
玄関へ歩いていく。
「レイブン?」
とて。
とて。
父がいつも帰ってくる時間。
玄関の前。
座る。
「……」
「お父さんは今日は遅いの」
セレナが抱き上げる。
「あー」
「まだ」
「とー」
「……」
セレナの白い耳が、
僅かに伏せた。
「そうね」
レイブンを抱きしめる。
「待とうね」
*
夜。
夕食。
ヴァルターの席だけが、
空いていた。
セレナは、
皿を片づけなかった。
「帰ってきたら食べるものね」
レイブンが、
父の椅子を見る。
――カチ。
――カチ。
――カチ。
午後九時。
十時。
十一時。
「……」
連絡はない。
*
そして。
異界門の向こう。
「衛生兵!」
怒号。
「こっちだ!」
炎。
砕けた木。
土煙。
「クロウ少尉!」
「動け!」
ヴァルターが、
負傷した兵士を引きずる。
「門まで後退する!」
未知の光が、
森を走る。
「右!」
「!」
振り向く。
閃光。
「――っ!」
衝撃。
世界が、
回転した。
*
音が、
消えた。
「……」
ヴァルターは、
地面に倒れていた。
耳鳴り。
視界が霞む。
「……何が」
起き上がろうとする。
左手を地面につく。
そして。
右手も――。
「……?」
つけない。
身体を起こす。
「……」
右を見る。
肩。
軍服。
血。
その先にあるはずのものが――。
ない。
「……は?」
理解が、
追いつかなかった。
右腕。
肩口から先が。
消えていた。
「クロウ少尉!」
誰かが叫ぶ。
「少尉!」
「……」
ヴァルターは、
自分の右肩を見る。
血が、
止まらない。
「止血!」
「急げ!」
「少尉、聞こえますか!」
「……」
痛みが、
遅れてきた。
「ぐっ……!」
歯を食いしばる。
「クロウ少尉!」
「……うるさい」
「え?」
「聞こえてる……!」
左手で、
兵士の肩を掴む。
「他の奴は」
「少尉、今は自分を!」
「他の奴は!」
「三名負傷! 一名歩行不能!」
「……」
息を吐く。
「なら」
ヴァルターが、
立とうとする。
「撤退させろ」
「少尉!」
「全員……門へ戻す」
「あなたもです!」
「分かってる……」
足が、
震える。
視界が暗くなる。
それでも。
頭の中に。
小さな声。
――あぅ。
黒い耳。
金と黒の瞳。
そして。
白い猫。
『帰ってきてから謝って』
「……」
ヴァルターは、
左手で小銃を拾った。
「まだ……」
血の気を失った顔で、
前を見る。
「帰ってない」
*
同じ夜。
クロウ家。
午前零時。
「……」
セレナは、
眠っていなかった。
レイブンだけが、
母の胸元で眠っている。
父の席には。
冷めた夕食。
玄関には。
ヴァルターの室内履き。
机には。
ヘレーネの手紙。
そして。
時計だけが、
進み続けていた。
――カチ。
――カチ。
――カチ。
セレナは、
窓の外を見る。
「……遅い」
返事はない。
白い尾が、
眠るレイブンを包む。
「遅いわよ……」
その夜。
クロウ家の玄関が、
開くことはなかった。
第一夜「帰らない父」




