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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 1「誕生」 #05《三日間編:第Ⅰ夜》

《三日間編》

第5話「門(ゲート)の向こうへ――第一日」


 その朝。


 ヴァルター・クロウは、


 いつもより早く目を覚ました。


 まだ夜明け前だった。


 窓の外には青黒い空。


 街灯だけが、眠るヴァルグラント帝国の街路を照らしている。


 ――カチ。


 ――カチ。


 壁時計。


 午前四時十二分。


「……」


 ヴァルターはベッドから起き上がった。


 隣では、


 白い猫耳を枕へ伏せたセレナが眠っている。


 その少し離れた小さな寝床には、


 レイブン。


 黒い猫耳。


 黒い尾。


 毛布から、


 小さな手だけが出ている。


 ヴァルターは、


 しばらく二人を見ていた。


 そして。


 音を立てないよう、


 寝室を出た。


     *


 軍服を着る。


 襟を正す。


 軍靴。


 ベルト。


 装具。


 最後に、


 帝国軍の制帽。


「……」


 鏡の中には、


 いつもの軍人がいた。


 ヴァルター・クロウ少尉。


 それなのに。


 何かが、


 いつもと違った。


 ――コン、コン、コン。


 午前四時二十七分。


 玄関が鳴った。


「……早いな」


 ヴァルターが扉を開ける。


 帝国軍の軍用車。


 そして、


 二人の兵士。


「クロウ少尉」


 一人が敬礼する。


「お迎えに上がりました」


「予定は五時だったはずだ」


「変更です」


「理由は」


 兵士が一瞬、


 言葉を止めた。


「異界門(ゲート)側で状況変化がありました」


 ヴァルターの黒い耳が、


 僅かに立つ。


「詳細は」


「移動中に」


「……分かった」


     *


「あなた」


 背後。


「……」


 ヴァルターが振り返る。


 セレナだった。


 白い髪。


 白い猫耳。


 寝間着。


 その腕には、


 眠そうなレイブン。


「起こしたか」


「軍用車が家の前に止まれば起きるわよ」


「……悪い」


「何があったの?」


 ヴァルターは答えない。


「ヴァルター」


「召集だ」


「こんな時間に?」


「ああ」


「どこへ?」


「……」


 その沈黙だけで、


 セレナの表情が変わった。


「国境?」


「違う」


「じゃあ――」


「異界門(ゲート)だ」


     *


 数日前。


 帝国とアステリア連邦共和国の勢力圏の狭間。


 長年、


 地図上では何の意味も持たなかった荒野に――。


 それは現れた。


 巨大な、


 光の壁。


 否。


 壁ではない。


 向こう側に、


 この世界とは違う景色が見える。


 空。


 森。


 山。


 しかし。


 帝国のどの地図にも、


 連邦のどの地図にも存在しない場所。


 学者たちは、


 それを異界門(ゲート)と呼んだ。


     *


 帝国と連邦は、


 ほぼ同時に存在を確認した。


 当然、


 互いに警戒した。


 相手が作った兵器ではないのか。


 新しい侵攻経路ではないのか。


 未知の技術ではないのか。


 そして。


 何より。


 門の向こうには何があるのか。


 その答えを得るため、


 帝国は先遣部隊を送り込んだ。


 ――そして。


 その部隊との通信が、


 途絶えた。


     *


「行くの?」


 セレナが尋ねる。


「……ああ」


「昨日は行かないって言ってたじゃない」


 ヴァルターの耳が伏せる。


 その通りだった。


 最初に命令が来た時、


 彼は受理しなかった。


『俺の専門外です』


『これは命令だ』


『正式な作戦目的も、地形情報も、敵性存在の有無すら不明でしょう』


『だから調査する』


『何も分からない場所へ人間を放り込むことを、調査とは言いません』


 上官を前にしても、


 ヴァルターは首を縦に振らなかった。


 だが。


 先遣部隊が消えた。


 状況が変わった。


「調査じゃない」


 ヴァルターが言う。


「救出だ」


「……」


「先に入った連中が帰ってこない」


「何人?」


「言えない」


「生きてるの?」


「分からない」


「なら――」


 セレナの白い尾が、


 強く揺れた。


「あなたまで行く必要ないじゃない」


「……」


「あなた、断ったんでしょう?」


「ああ」


「だったら!」


「セレナ」


 低い声。


 怒ってはいなかった。


「帰ってこない奴らの中に、俺が訓練した兵がいる」


「……」


 セレナが黙る。


「新兵の頃から知ってる奴もいる」


「だからって」


「分かってる」


「分かってない!」


 白い耳が、


 完全に伏せられた。


「あなたには今、レイブンがいるのよ」


「……」


「私もいる」


「ああ」


「軍人だけじゃないのよ」


「分かってる」


「だったら――」


 言葉が、


 続かなかった。


     *


「……父さん」


 小さな声。


 二人が、


 同時に止まった。


「……?」


 レイブン自身、


 意味を理解して発したのかは分からない。


 ただ。


 小さな手が、


 ヴァルターへ伸びていた。


「……」


 ヴァルターは、


 しゃがむ。


「レイブン」


 セレナから受け取る。


 小さな身体。


 暖かい。


「父さんは」


 言いかける。


 止める。


 何を言えばいい。


 すぐ戻る?


 大丈夫?


 約束する?


 どれも。


 今のヴァルターには、


 軽々しく言えなかった。


「……行ってくる」


 それだけだった。


 レイブンが、


 父の軍服を掴む。


「……」


 離さない。


「レイブン」


 小さな指。


「父さん、仕事に行くから」


 それでも、


 離れない。


「……」


 ヴァルターは困ったように、


 セレナを見る。


「私に聞かないで」


「いや……」


「自分で何とかして」


「……」


 父は息子を見る。


「困ったな」


     *


 一本ずつ。


 ゆっくり。


 小さな指を、


 軍服から離す。


「帰ったら」


 ヴァルターは言った。


「また歩く練習しよう」


 レイブンは、


 父を見ている。


 金色。


 黒色。


 二つの瞳。


「今度は十歩だ」


「……」


「できるか?」


「あぅ」


「よし」


 ヴァルターが笑った。


 ほんの少しだけ。


     *


 立ち上がる。


 セレナへ、


 レイブンを返す。


「セレナ」


「……何」


「頼む」


「何を」


「レイブンを」


「……」


「それと」


 少し間を置く。


「自分も」


 セレナの目が、


 僅かに揺れた。


「そういう言い方」


「?」


「嫌い」


「……悪い」


「帰ってきてから謝って」


「分かった」


「絶対よ」


「……ああ」


     *


 玄関を出る。


 軍用車へ。


「クロウ少尉」


「待たせた」


「いえ」


 扉へ手を掛ける。


「ヴァルター」


 振り返る。


 セレナ。


 その腕には、


 レイブン。


「……いってらっしゃい」


 ヴァルターは、


 一度だけ頷いた。


「行ってくる」


 扉が閉まった。


     *


 ――ブルルルル……。


 軍用車が走り出す。


 窓の外。


 家が、


 少しずつ遠ざかる。


 白い猫。


 その腕の中の、


 小さな黒猫。


 角を曲がる。


 見えなくなった。


「……」


 ヴァルターは、


 前を向いた。


「状況を」


「はい」


 兵士が資料を開く。


「第一先遣部隊との通信途絶から、十一時間二十七分」


「最後の通信は」


「断片的です」


「内容」


「座標報告の途中で、突然途切れています」


「銃声は」


「確認されていません」


「救難信号」


「なし」


「……」


 嫌な条件が、


 揃っている。


「第二隊は?」


「すでに異界門(ゲート)前へ集結中」


「俺はその指揮?」


「いえ」


「?」


「クロウ少尉は――」


 兵士が、


 少し言いづらそうに続ける。


「先遣救出班へ編入されています」


「……現場要員か」


「はい」


 ヴァルターの目が、


 僅かに細くなった。


     *


 数時間後。


 異界門(ゲート)。


「……」


 ヴァルターは、


 初めてそれを直接見た。


 巨大だった。


 空間そのものが、


 縦に裂けている。


 こちら側。


 帝国領の荒野。


 向こう側。


 緑。


 森。


 見たことのない空。


 風まで、


 違う。


「気味悪いな」


 隣の兵士が呟く。


「同感だ」


 ヴァルターは、


 装備を確認する。


 小銃(ライフル)。


 予備弾倉。


 水。


 医療品。


 無線機。


 地図――。


 いや。


 地図と呼ぶには、


 あまりにも空白が多い紙。


「クロウ少尉」


「何だ」


「怖くないんですか」


 若い兵士だった。


「怖い」


「……え?」


「当たり前だろ」


 ヴァルターは、


 門を見る。


「何がいるか分からない」


「……」


「だから確認する」


「はい」


「怖いなら周りを見ろ」


「え?」


「怖くなくなる必要はない」


 小銃(ライフル)の安全装置を確認する。


「怖いまま動け」


「……はい!」


     *


 指揮官が、


 腕を上げた。


「救出班!」


 兵士たちが並ぶ。


「目的は第一先遣部隊の捜索および救出!」


 ヴァルターは、


 門の向こうを見る。


「交戦は可能な限り回避!」


 風。


「未知の生命体・文明との接触時は――」


 命令が続く。


 だが。


 ヴァルターの頭にあったのは、


 一つだけだった。


 帰る。


 それだけ。


     *


「前進!」


 一人。


 また一人。


 兵士が、


 異界門(ゲート)へ入っていく。


 ヴァルターの番。


「……」


 一歩。


 門の直前。


 ほんの一瞬だけ、


 足が止まった。


 ――帰ったら、また歩く練習しよう。


 自分で言った言葉が、


 耳の奥に残っている。


「十歩……だったな」


 小さく呟く。


 そして。


 ヴァルター・クロウは、


 門を越えた。


     *


 ――音が変わった。


「……!」


 風。


 湿気。


 土。


 植物。


 すべてが違う。


 振り返る。


 そこには、


 確かに門がある。


 向こう側に、


 帝国の荒野。


「全員確認!」


 点呼。


 異常なし。


「進むぞ!」


 部隊が、


 未知の森へ入る。


     *


 一時間。


 二時間。


 三時間。


 第一先遣部隊の痕跡は、


 なかなか見つからなかった。


「止まれ」


 ヴァルターが、


 拳を上げる。


「……?」


 兵士たちが停止。


「何か聞こえる」


「何です?」


「静かに」


 黒い猫耳が、


 前方へ向く。


 ――カン。


「……」


 ――カン。


 金属音。


 遠い。


「前方」


 ヴァルターが、


 小銃(ライフル)を構える。


「何かいる」


     *


 草を掻き分ける。


 そこで。


「……!」


 見つけた。


 帝国軍の装備。


 地面に落ちた、


 制式小銃(ライフル)。


 血。


「先遣隊のものです!」


「負傷者を探せ!」


 部隊が動く。


 その時。


 森の奥。


 ――ザッ。


「!」


 ヴァルターが振り向く。


「接触!」


 何かが、


 木々の向こうを動いた。


「撃つな!」


 ヴァルターが叫ぶ。


「確認してからだ!」


     *


 影。


 人型。


 だが、


 帝国兵ではない。


 連邦兵でもない。


 見たことのない装備。


 そして――。


 杖。


「……杖?」


 誰かが呟いた。


 その先端に。


 光が集まる。


「伏せろ!」


 ヴァルターが叫んだ。


 ――閃光。


     *


 同じ頃。


 ヴァルグラント帝国。


 クロウ家。


 ――ぱち。


 暖炉。


 セレナは、


 椅子に座っていた。


 膝の上には、


 レイブン。


「……」


 時計を見る。


 午前十一時四十八分。


「まだ半日も経ってないわね」


 自分へ言い聞かせる。


 レイブンが、


 母を見上げる。


「大丈夫」


 白い手が、


 黒い髪を撫でる。


「お父さんは仕事」


「……」


「いつもと同じ」


 言葉にする。


「だから」


 もう一度。


「大丈夫」


     *


 昼。


 レイブンへ食事を与える。


 洗濯。


 掃除。


 買い物。


 いつも通り。


 そうしようとした。


 けれど。


 玄関の前を軍用車が通るたび、


 セレナの耳が立った。


 ――違う。


 時計を見る。


 午後三時。


 ――まだ。


 電話が鳴る。


「!」


 受話器を取る。


「はい、クロウです!」


『あ、セレナ?』


「……お義母さん」


『どうしたんだい、その声』


「いえ」


『ヴァルターは?』


「仕事です」


『こんな時間まで?』


「……はい」


 嘘ではない。


 ただ。


 全部も言わなかった。


     *


 夕方。


 レイブンが、


 玄関へ歩いていく。


「レイブン?」


 とて。


 とて。


 父がいつも帰ってくる時間。


 玄関の前。


 座る。


「……」


「お父さんは今日は遅いの」


 セレナが抱き上げる。


「あー」


「まだ」


「とー」


「……」


 セレナの白い耳が、


 僅かに伏せた。


「そうね」


 レイブンを抱きしめる。


「待とうね」


     *


 夜。


 夕食。


 ヴァルターの席だけが、


 空いていた。


 セレナは、


 皿を片づけなかった。


「帰ってきたら食べるものね」


 レイブンが、


 父の椅子を見る。


 ――カチ。


 ――カチ。


 ――カチ。


 午後九時。


 十時。


 十一時。


「……」


 連絡はない。


     *


 そして。


 異界門(ゲート)の向こう。


「衛生兵!」


 怒号。


「こっちだ!」


 炎。


 砕けた木。


 土煙。


「クロウ少尉!」


「動け!」


 ヴァルターが、


 負傷した兵士を引きずる。


「門まで後退する!」


 未知の光が、


 森を走る。


「右!」


「!」


 振り向く。


 閃光。


「――っ!」


 衝撃。


 世界が、


 回転した。


     *


 音が、


 消えた。


「……」


 ヴァルターは、


 地面に倒れていた。


 耳鳴り。


 視界が霞む。


「……何が」


 起き上がろうとする。


 左手を地面につく。


 そして。


 右手も――。


「……?」


 つけない。


 身体を起こす。


「……」


 右を見る。


 肩。


 軍服。


 血。


 その先にあるはずのものが――。


 ない。


「……は?」


 理解が、


 追いつかなかった。


 右腕。


 肩口から先が。


 消えていた。


「クロウ少尉!」


 誰かが叫ぶ。


「少尉!」


「……」


 ヴァルターは、


 自分の右肩を見る。


 血が、


 止まらない。


「止血!」


「急げ!」


「少尉、聞こえますか!」


「……」


 痛みが、


 遅れてきた。


「ぐっ……!」


 歯を食いしばる。


「クロウ少尉!」


「……うるさい」


「え?」


「聞こえてる……!」


 左手で、


 兵士の肩を掴む。


「他の奴は」


「少尉、今は自分を!」


「他の奴は!」


「三名負傷! 一名歩行不能!」


「……」


 息を吐く。


「なら」


 ヴァルターが、


 立とうとする。


「撤退させろ」


「少尉!」


「全員……門へ戻す」


「あなたもです!」


「分かってる……」


 足が、


 震える。


 視界が暗くなる。


 それでも。


 頭の中に。


 小さな声。


 ――あぅ。


 黒い耳。


 金と黒の瞳。


 そして。


 白い猫。


『帰ってきてから謝って』


「……」


 ヴァルターは、


 左手で小銃(ライフル)を拾った。


「まだ……」


 血の気を失った顔で、


 前を見る。


「帰ってない」


     *


 同じ夜。


 クロウ家。


 午前零時。


「……」


 セレナは、


 眠っていなかった。


 レイブンだけが、


 母の胸元で眠っている。


 父の席には。


 冷めた夕食。


 玄関には。


 ヴァルターの室内履き。


 机には。


 ヘレーネの手紙。


 そして。


 時計だけが、


 進み続けていた。


 ――カチ。


 ――カチ。


 ――カチ。


 セレナは、


 窓の外を見る。


「……遅い」


 返事はない。


 白い尾が、


 眠るレイブンを包む。


「遅いわよ……」


 その夜。


 クロウ家の玄関が、


 開くことはなかった。

第一夜「帰らない父」

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