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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 1「誕生」 #04【特別付録<白銀の頁 ― SILVER PAGE ―>】

特別付録


〈白銀の頁 ― SILVER PAGE ―〉


Elysia Side


雪は、音を隠す。


屋根を叩くものも。


遠くを走る車両も。


誰かが歩いていく足音も。


降り積もる白の下へ、少しずつ沈んでいく。


エリシア・L・ヴォルハラムは窓辺に立ち、外を眺めていた。


窓ガラスに指先を触れる。


冷たい。


外では雪が降り続いている。


街路樹の枝には白い雪が積もり、石造りの建物も屋根から少しずつ輪郭を失っていた。


エリシアは窓から離れた。


室内は暖かい。


暖炉の火が静かに燃えている。


外套は椅子へ掛けてある。


机の上には読みかけの本と、書きかけの紙。


その隣には、小さな銀色の飾りが置かれていた。


エリシアは椅子へ座る。


本を開く。


数行読む。


ページをめくる。


また数行。


やがて、閉じた。


内容が頭に入ってこない。


理由は分かっていた。


街の様子が、いつもと違う。


昼間。


買い物へ出たときだった。


軍用車両を見た。


一台や二台ではない。


何台もの車両が同じ方向へ走っていった。


荷台には兵士。


後方には通信設備らしき車両。


さらに救急車まで続いていた。


訓練にしては規模が大きい。


けれど戦争が始まったという知らせもない。


連邦共和国との関係が良くないことくらい、エリシアも知っている。


新聞にも載っている。


大人たちも話している。


それでも今日の車列は、国境へ兵力を移動させる光景とは少し違って見えた。


何より――


兵士たちの顔が違った。


これから戦場へ向かう顔ではない。


エリシアには、そう感じられた。


敵を知っている人間の顔ではなかった。


何が待っているのか分からない人間の顔。


「……」


エリシアは立ち上がった。


もう一度、窓へ向かう。


雪。


静かな街。


遠くで鐘が鳴った。


いつもと同じ。


少なくとも、ここから見える景色は。


翌朝。


雪は止んでいた。


雲の切れ間から弱い日差しが落ちている。


エリシアは外套を着て外へ出た。


冷たい空気を吸い込む。


吐息が白くなる。


猫耳が寒さに反応してわずかに伏せられた。


街は動き始めていた。


商店が開く。


パンを運ぶ人。


新聞を抱えて走る少年。


仕事へ向かう大人たち。


いつもの朝。


ただし、新聞売り場には人が集まっていた。


エリシアも足を止める。


大きな見出し。


帝国内陸部で軍が広範囲の立入規制。


詳細は発表されていない。


事故。


演習。


魔導設備の故障。


いくつもの推測が記事の中に並んでいる。


エリシアは新聞を一部買った。


歩きながら読む。


確定した情報はほとんどない。


軍は「安全確保のための一時的措置」と説明。


民間人への被害報告なし。


周辺地域への避難命令もなし。


それだけ。


「だったら、あの救急車は何だったの……」


小さく呟いた。


準備。


何かが起きたからではなく、何かが起きる可能性に備えていた。


そう考えれば説明できる。


新聞を畳む。


前を見る。


街の中央広場。


数人の兵士が歩いていた。


周囲の人々は気にしていない。


帝国では珍しい光景ではない。


子供が兵士へ手を振る。


一人が笑って手を振り返した。


エリシアはその様子を見ていた。


軍人。


彼らは何を知っているのだろう。


何を知らないまま、命令を受けているのだろう。


そして――


知らない場所へ行けと言われたら、人はどうするのだろう。


「エリシア?」


名前を呼ばれた。


振り返る。


知人だった。


「何見てるの?」


「軍人」


「珍しくないでしょ」


「そうだけど」


「共和国とまた揉めてるんじゃない?」


「……かもしれない」


エリシアは答えた。


けれど、何かが引っ掛かる。


共和国。


国境。


軍事的緊張。


それなら理解できる。


相手がいる。


場所がある。


理由がある。


昨日見た兵士たちの表情は、それとは違っていた。


「行こう」


知人に促される。


「うん」


エリシアは歩き出した。


それでも一度だけ振り返った。


兵士たちはもう広場の向こうへ消えようとしていた。


数日後。


噂が増えた。


森の中で巨大な魔導事故が起きた。


連邦共和国の偵察機が墜落した。


帝国軍が新兵器の試験をしている。


巨大な魔獣が発見された。


研究施設が爆発した。


どれも根拠はなかった。


それでも情報がない場所には、噂が入り込む。


エリシアはそのほとんどを信じなかった。


分からないなら、分からないままでいい。


知らないものへ無理に名前を付ければ、かえって見誤る。


そんな考え方を、彼女はすでに持っていた。


ただ一つ。


気になる噂があった。


「空中に穴が開いたらしい」


最初に聞いたとき、冗談だと思った。


「穴?」


「そう。向こう側に別の場所が見えるって」


「誰から聞いたの?」


「知り合いの知り合い」


「それ、一番信用できないやつじゃない」


「でも軍が封鎖してるのは本当だろ?」


「それと空中の穴がどう繋がるのよ」


笑って終わった。


そのはずだった。


だが翌日。


軍の車列が再び街を通過した。


今度は明らかに装備が違った。


警備だけではない。


長期間の活動を想定した物資。


医療設備。


通信機材。


大量の補給品。


エリシアは道路脇からそれを見ていた。


何台目かの輸送車が通過する。


荷台の兵士と目が合った。


若い兵士だった。


ほんの一瞬。


兵士はエリシアを見る。


エリシアも見る。


車両はそのまま走り去った。


知らない人。


名前も知らない。


所属も知らない。


二度と会うこともないかもしれない。


けれど、その兵士の表情だけが残った。


恐怖ではない。


覚悟とも少し違う。


分からないものへ向かわなければならない人間の顔だった。


エリシアは車列が見えなくなるまで、その場に立っていた。


夜。


再び雪が降り始めた。


エリシアは机に向かっていた。


白い紙を一枚置く。


何かを書くつもりだったわけではない。


ただ、考えを整理したかった。


ペンを持つ。


最初に書いた。


――分からないもの。


少し考える。


その下。


――怖いもの?


首を傾げる。


違う。


線を引いて消す。


――危険かもしれないもの。


今度は残した。


さらに書く。


――危険かどうかを知るには?


そこで手が止まった。


見る。


調べる。


近づく。


理解する。


いくつかの言葉を書く。


その最後。


――誰かが行かなければならない。


エリシアはペンを置いた。


窓を見る。


雪が降っている。


今日見た軍用車両を思い出した。


あの兵士たちは、その「誰か」なのだろうか。


命令だから。


軍人だから。


国を守るため。


理由はいくつもある。


けれど、どんな理由があったとしても。


最初に未知へ足を踏み入れる人間がいる。


その事実だけは変わらない。


エリシアは紙へ視線を戻した。


もう一行。


――私なら?


ペン先が止まる。


すぐには答えを書かなかった。


行く。


行かない。


そんな単純な問いではない気がした。


何のために行くのか。


誰のために行くのか。


何を守るのか。


そして、帰れるのか。


エリシアはしばらく考えたあと、その問いの下を空白のまま残した。


答えは書かなかった。


まだ、その答えを持っていない。


紙を折る。


机の引き出しを開ける。


中へ入れようとして、手を止めた。


白い紙。


窓から差し込む月明かりが、その表面を淡く照らしている。


雪の反射を受けて、わずかに銀色に見えた。


エリシアは紙を見つめる。


そこに書かれた最後の問い。


――私なら?


やがて紙を引き出しへしまった。


静かに閉じる。


その夜。


遠く離れた帝国領内では、一つの門が開いたまま存在していた。


そのこちら側には、家族のもとへ帰ると約束した黒猫の軍人がいた。


その向こう側には、帝国の誰も知らない大地が広がっていた。


そして、さらに遠く。


白銀の髪を持つ一人の少女が、自分自身へ問いを書き残していた。


何のために戦うのか。


誰を守るのか。


その答えを知るには、まだ長い時間が必要だった。


紙は引き出しの中で静かに眠っている。


何も知らない少女が残した、最初の一頁。


白銀の頁だった。

第4話 門の向こうへ


その朝、ヴァルター・クロウの荷物はいつもより大きかった。


玄関脇に置かれた軍用鞄を、レイブンはしゃがみ込んで眺めていた。


厚い布地。頑丈な留め具。側面には小さな帝国軍の識別票が縫い付けられている。


少年はしばらくそれを観察したあと、両手で持ち上げようとした。


動かない。


もう一度。


今度は腰まで使う。


それでも、ほんの少し傾いただけだった。


「何をしている」


背後から声がした。


レイブンが振り返る。


軍服姿のヴァルターが立っていた。


「持とうとした」


「見れば分かる」


「重い」


「だから置いてある」


ヴァルターは片手で鞄を持ち上げた。


レイブンの黒い猫耳が立つ。


「とうさん、強い」


「お前が小さいだけだ」


「大きくなったら持てる?」


「訓練すればな」


その言葉を聞いて、レイブンは少し満足そうに頷いた。


食卓ではセレナが二人分の様子を見ている。


だが、その表情はいつもより静かだった。


ヴァルターの荷物が普段とは違うことに、彼女も気づいている。


「今日は基地だけじゃないの?」


「ああ」


ヴァルターは軍帽を手に取った。


「現地へ出る」


「訓練?」


「警備任務だ」


セレナの白い猫耳がわずかに動いた。


「昨日話していたこと?」


ヴァルターは一拍置いた。


「ああ」


数日前。


帝国の内陸部で、観測機器が異常な空間変動を記録した。


当初は局地的な魔力異常と考えられた。


その後、観測装置の故障が疑われた。


連邦共和国による秘密実験という可能性まで検討された。


だが、どの仮説も観測結果と一致しなかった。


そして昨日。


現象は消失するどころか、一定地点に固定された。


帝国軍は周辺地域を封鎖した。


「危険なの?」


セレナが尋ねた。


「分からない」


ヴァルターは正直に答えた。


「だから警備する」


「帰りは?」


「遅くなる」


ヴァルターは鞄を肩へ掛けた。


「状況次第では基地に泊まる」


レイブンが顔を上げる。


「帰らないの?」


「まだ決まっていない」


「でも、帰ってくる?」


ヴァルターは息子を見る。


少し前に母ヘレーネから届いた手紙の一文が、不意に蘇った。


――ちゃんと帰りなさい。


ヴァルターはレイブンの前へしゃがんだ。


黒い髪を撫でる。


「帰る」


「今日?」


「できるだけな」


レイブンは考え、それから小さな手を差し出した。


「約束」


ヴァルターはその手を見る。


戦場で交わす誓約でもなければ、軍人同士の取り決めでもない。


ただの親子の約束だった。


ヴァルターは息子の小指へ、自分の指を軽く掛けた。


「ああ」


立ち上がる。


「行ってくる」


「いってらっしゃい」


セレナが答える。


「いってらっしゃい!」


レイブンも続いた。


扉が閉じる。


軍靴の足音が廊下を進み、やがて聞こえなくなった。


帝国軍の輸送車両は市街地を抜け、北東方向へ進んでいた。


ヴァルターは車内の座席に腰掛け、窓の外を見ている。


住宅地が減る。


工場地帯を抜ける。


さらに進むと農地が広がり、その先には森林が見え始めた。


やがて一般車両が消えた。


代わって現れたのは軍用車両だった。


輸送車。


通信車。


工兵車両。


救急車。


道路脇には武装した兵士が立っている。


最初の検問。


身分証。


命令書。


車両番号。


確認が終わると障害物が移動する。


数キロ先。


二つ目の検問。


さらに厳重だった。


「共和国が攻めてきたって雰囲気じゃないな」


向かいに座る兵士が言った。


「内陸だぞ」


別の兵士が答える。


「だから潜入工作って可能性もあるだろ」


「この規模で?」


「じゃあ何だ」


誰も答えない。


ヴァルターも黙っていた。


車内の通信機に雑音が入る。


ザーッ、と低く鳴り、すぐ消える。


通信兵が周波数を調整した。


再び雑音。


「故障か?」


「複数機で出ています」


通信兵が答える。


ヴァルターの黒い猫耳が動く。


機械音とは別に、低い音が混ざっている。


風に似ている。


だが一定ではない。


どこか遠くで巨大な空洞が鳴っているような、不自然な響きだった。


現地へ到着した瞬間、兵士たちから会話が消えた。


森林の一角が広く伐採されている。


周囲には仮設防護壁。


監視所。


投光器。


通信設備。


発電機。


研究用機材。


救護所。


武装兵。


それらすべての中心に――


巨大な歪みが存在していた。


ヴァルターは車両から降りる。


軍靴が土を踏んだ。


「……何だ、あれ」


誰かが呟いた。


空間そのものに穴が開いている。


そうとしか表現できなかった。


巨大な楕円形。


外縁部では光が不規則に揺れ、ときおり空気そのものが振動している。


だが、その中央は違った。


景色がある。


空。


草原。


遠くの森。


こちら側とは明らかに異なる土地。


「全員、集合!」


指揮官の声で兵士たちが動いた。


「境界から最低五十メートルを維持しろ。研究班の許可なく接近するな」


配置が読み上げられる。


「第一班、北側」


「了解!」


「第二班、研究区画」


「了解!」


「第三班、西側外周。クロウ、お前もだ」


「了解」


ヴァルターは持ち場へ向かった。


歩きながら一度だけ中央を見る。


境界の向こうで草が揺れている。


風が吹いている。


その動きは、こちら側の風とは一致していなかった。


午後。


最初の無人観測機が準備された。


低い車体に複数の車輪。


前部には観測用カメラ。


大気測定装置。


魔力計。


温度計。


試料採取装置。


通信装置。


「前進開始」


小型車両が動き出す。


兵士たちが見守る。


二十メートル。


十メートル。


五メートル。


境界へ接触。


先端が消えた。


「通信?」


「維持!」


さらに進む。


半分。


そして完全に向こう側へ入った。


モニターへ映像が送られてくる。


草原。


岩。


空。


遠方の森林。


研究員たちが次々と数値を読み上げる。


「大気圧、許容範囲」


「酸素濃度確認」


「急性毒性反応なし」


「魔力反応あり。こちら側より高い」


「温度差、軽微」


無人機は境界から数十メートル先まで進んだ。


土壌を採取。


植物片を回収。


予定時間を終える。


「帰還させろ」


機体が方向転換する。


数分後。


門から再び姿を現した。


研究員たちが駆け寄る。


「機体損傷なし」


「試料に直接触れるな!」


「隔離容器!」


帰ってきた。


向こうへ行ける。


そして戻ることができる。


その事実だけでも大きな成果だった。


だが帝国軍は、それで調査を終えなかった。


翌日。


二機目の観測機が投入された。


目的は長距離偵察。


複数の中継器を設置しながら進み、境界から数キロ以内の地形を把握する。


投入から一時間。


異常なし。


二時間。


森林へ到達。


三時間近くが経過したころ。


「待ってください」


研究員が画面へ顔を近づけた。


「停止」


映像が止まる。


木々の間。


不自然な直線。


「拡大」


画像が粗くなる。


石のようなものが積まれている。


自然に形成された地形には見えない。


「構造物か?」


「可能性があります」


無人機をさらに前進させる。


地面にも異変があった。


草が帯状に途切れている。


轍のような跡。


道。


そう考えたほうが自然だった。


さらに先。


木製の柱。


その上部で布のようなものが揺れている。


ヴァルターは画面を見た。


「旗に見えるな」


研究員が答える。


「私もそう見えます」


現場の空気が変わった。


植物や野生動物だけではない。


誰かが作った可能性のあるものが存在する。


「司令部へ転送」


「了解」


無人機は前進を続けた。


その直後だった。


映像に雑音が走る。


「通信障害!」


画面が乱れる。


「中継器確認!」


「一番正常!」


「二番正常!」


「三番も生きています!」


「本体は!」


通信担当者が操作を続ける。


返答はない。


「本体応答なし!」


映像が途切れる直前の一フレームが画面に残った。


森。


石造りらしき構造物。


そして、その奥。


影。


ヴァルターが目を細める。


二本の脚で立っているように見える。


だが距離が遠い。


人間なのか。


亜人なのか。


まったく別の生物なのか。


判別できない。


「機械故障の可能性は?」


指揮官が尋ねる。


「あります」


研究員が答える。


「ただし中継器はすべて正常です。通信途絶直前まで、本体にも異常警告はありませんでした」


警報が鳴った。


別の研究員が振り返る。


「門周辺の魔力値上昇!」


「また変動か?」


「違います」


測定値を確認する。


「向こう側から周期的な反応があります」


「周期的?」


「はい」


数秒。


低下。


再び上昇。


また低下。


自然現象と断定するには、妙に規則的だった。


ヴァルターは門を見る。


向こう側に何かがいる。


その可能性が、急速に現実味を帯びていた。


帝国軍司令部では、その日のうちに対応が協議された。


机の中央には門周辺の地図。


周囲の町。


鉄道。


幹線道路。


軍施設。


そして人口分布。


「無人機を追加投入すべきです」


研究部門の将校が主張する。


「人的損失を出す段階ではありません」


作戦部門の将校が返した。


「一機が原因不明で失われている」


「機械故障を否定できません」


「攻撃を受けた可能性も否定できない」


「証拠がない」


「その証拠をどう集める」


議論が止まる。


司令官は地図を見ていた。


「問題を整理する」


全員が黙る。


「門は帝国領内に存在する」


地図上の一点を指す。


「現時点で閉鎖手段なし。移動手段なし。消滅時期も不明」


別の資料。


「向こう側に人工構造物と思われる物体を確認」


さらに一枚。


「知的生命体の可能性がある影を観測。その直後、無人機一機が消息を絶った」


司令官は顔を上げる。


「こちらから向こうへ行けることは確認された」


誰も動かない。


「ならば、向こうからこちらへ来られる可能性も考えなければならない」


室内が静まり返った。


門のこちら側には帝国領がある。


軍人だけではない。


町がある。


学校がある。


病院がある。


家族が暮らしている。


もし向こう側の存在が敵対的だった場合、何を相手に防衛すればいいのかさえ分からない。


人間規模なのか。


大型生物なのか。


魔導戦力なのか。


軍隊なのか。


そもそも敵対する意思があるのか。


何一つ分からない。


「封鎖線だけでは防衛計画にならん」


司令官が言った。


「何が来るか分からない以上、必要兵力も装備も決められない」


研究部門の将校が尋ねる。


「有人調査を?」


「ああ」


司令官は頷いた。


「ただし侵攻ではない」


資料を閉じる。


「領土確保を目的としない。恒久拠点も設置しない。未知勢力への先制攻撃も認めない」


「目的は?」


「脅威評価だ」


即答だった。


「門周辺の環境確認。人工構造物と活動痕跡の確認。知的生命体の有無。そして、帝国領へ侵入可能な脅威が存在するかどうか」


誰かが尋ねる。


「接触した場合は?」


「こちらから敵対行動を取るな」


「攻撃された場合は」


「自衛を許可する。ただし追撃は禁止」


司令官は全員を見る。


「情報を持ち帰ることが最優先だ」


有人先遣隊の投入が決まった。


その夜。


ヴァルターは現地の通信設備から自宅へ電話を入れた。


数回の呼び出し音。


『はい、クロウです』


「俺だ」


『ヴァルター』


セレナの声が少し柔らかくなる。


『大丈夫?』


「ああ」


『帰れそう?』


ヴァルターは門を見る。


投光器に照らされた境界の向こうでは、見知らぬ夜が広がっている。


「今日は無理だ」


『そう』


「すまない」


『仕事でしょう』


「レイブンは?」


『起きてる。代わる?』


「ああ」


受話器の向こうで物音。


すぐに幼い声が聞こえた。


『とうさん?』


「ああ」


『今日、帰らない?』


「帰れない」


『明日は?』


ヴァルターは答えようとして、言葉を止めた。


明朝。


有人先遣隊。


自分の名前も護衛要員として候補に入っている。


「……まだ分からない」


『お仕事?』


「ああ」


『まもる仕事?』


ヴァルターは門を見る。


その向こう側に何が存在するのか。


誰も知らない。


だから行く。


こちら側にいる人間を守るために。


「そうだ」


『じゃあ、がんばって』


「ああ」


『帰ってきたら、話して』


ヴァルターの目がわずかに細くなる。


「分かった」


『約束』


朝と同じ言葉だった。


「約束だ」


『おやすみ、とうさん』


「おやすみ」


通信が切れる。


ヴァルターはしばらく受話器を握っていた。


やがて静かに戻した。


翌朝。


先遣隊が門の前へ集合した。


研究要員。


魔導技術者。


衛生兵。


通信兵。


護衛兵。


ヴァルターも装備を身につけ、その列に立っている。


指揮官が全員を見渡した。


「任務を確認する」


簡易地図が開かれる。


無人機が取得した情報だけで作られた、不完全な地図だった。


「これは侵攻作戦ではない」


誰も動かない。


「領土を取るためでもない。敵を探して戦うためでもない」


地図上の門を指す。


「第一目的。門周辺で有人活動が可能か確認する」


次の地点。


「第二目的。人工構造物および活動痕跡の確認。ただし消失した無人機の最終地点まで無理に進出する必要はない」


さらに続ける。


「第三目的。向こう側から帝国領へ侵入可能な脅威が存在するか判断する」


ヴァルターは黙って聞いている。


「未知生命体、あるいは知的生命体と接触した場合、こちらから攻撃するな。追跡もするな。交戦は自衛に限定する」


指揮官が地図を畳んだ。


「最優先事項は情報の持ち帰りだ」


少し間を置く。


「全員、生きて戻れ」


ヴァルターは胸元へ手を当てた。


内ポケット。


そこには母ヘレーネから届いた手紙が入っている。


――ただ帰りなさい。


セレナの声も思い出す。


――帰れそう?


そしてレイブン。


――約束。


「先遣隊、装備最終確認」


ヴァルターは武器を確認する。


弾倉。


安全装置。


通信機。


水。


医療用品。


防護装備。


どれも帝国軍人として見慣れている。


違うのは、これから向かう場所だけだった。


国境ではない。


連邦共和国でもない。


帝国の地図に存在しない場所。


「前進準備」


門の向こうで草が揺れている。


一人目が進む。


境界を越えた。


二人目。


三人目。


ヴァルターの番が近づく。


数歩。


あと一歩。


そこで彼は、初めて門のすぐ近くから向こう側を見た。


空がある。


雲がある。


草原がある。


遠くには森林。


風に運ばれて、知らない植物の匂いが届く。


黒い猫耳が動いた。


遠くで何かが鳴いている。


生き物の声だった。


ヴァルターは一度だけ背後を振り返った。


防護壁。


軍用車両。


帝国軍旗。


さらにその向こうに、自分の国が続いている。


街がある。


家がある。


セレナがいる。


レイブンがいる。


守る。


幼い息子へ、自分で教えた言葉だった。


だが守るためには、壁のこちら側で銃を構えているだけでは足りない。


何が存在するのか。


何ができるのか。


こちらへ来られるのか。


知らなければ、備えることすらできない。


だから行く。


征服するためではない。


英雄になるためでもない。


未知を見たいからでもない。


帰る場所を守るために、向こう側を確かめる。


「クロウ」


前方から呼ばれた。


ヴァルターは振り返る。


「行くぞ」


「ああ」


武器を保持する。


前を向く。


一歩。


境界を越えた。


空気が変わった。


温度。


湿度。


匂い。


足元の感触。


そして音。


ヴァルター・クロウは、初めて異界の大地へ軍靴を下ろした。


背後にはまだ門が見えている。


帰り道は、そこにある。


ヴァルターは一度だけそれを確認した。


そして先遣隊とともに、未知の大地へ歩き始めた。

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