Season 5「境界の兆候」 #089
第89話「海の向こうからの救難信号」
《FENRIR統合任務群》――FENRIR Joint Mission Group、FJMGが正式編制されてから十七日目。
十二の実働部隊を抱える巨大な組織へ成長しても、レイブン・S・クロウ〔無名〕の朝は驚くほど変わっていなかった。
午前六時。
自由都市となった旧ヴァルナ河口国際港湾区の共同訓練場では、今日も複数部隊による訓練が始まっていた。
「急ぐな。まず確認しろ」
レイブンは訓練用装備を扱う隊員の横を歩く。
「昨日十五秒だったからって、今日十四秒にしなきゃいけない理由はない。速さを競って雑になるくらいなら二十秒使え」
「了解」
「もう一度」
隊員が動作をやり直す。
以前なら目の前にいたのはWOLF PACKや、せいぜいEINHERJAR、STYXの隊員だった。
今は違う。
HEIMDALL。
RATATOSKR。
BIFROST。
時にはGUNGNIRやDVERGRからも教育要員が参加する。
十二部隊すべてに同じ技能を要求しているわけではない。だが装備管理、負傷時の判断、通信断絶時の行動、部隊間連携といった基礎は、所属に関係なく共有できる。
レイブンはそれを少しずつ統一していた。
「NoX」
背後から呼ばれる。
振り返るとエリシア・L・ヴォルハラム=クロウ〔戦乙女〕が立っていた。
「何?」
「七時四十五分」
「……まだ七時半くらいだろ」
「時計見て」
レイブンが確認する。
七時四十四分。
「本当だ」
「朝食」
「食べたよ」
「何を?」
「携行食」
「それを朝食に数えない」
「軍用なんだから食事だろ」
「帰ったらちゃんと食べる」
「はい」
近くにいた隊員たちが笑う。
「何笑ってる」
「何でもありません、教官」
「聞こえてるぞ」
平和だった。
異界門は安定している。
日本国とのJIRMCAも発効し、JIR-DELIに基づく通信や医療、輸送分野の調整も進んでいる。
日本側との共同訓練計画も準備段階へ入っていた。
戦争ではない。
少なくとも、その朝までは。
午前七時四十七分。
FENRIR統合作戦室から緊急通信が入った。
『NoX』
ノア・ヴェルナー〔暗号〕だった。
「こちらNoX」
『至急、司令部へ戻って』
声が違う。
レイブンの表情から笑みが消えた。
「異界門か?」
『違う』
「じゃあ何?」
短い沈黙。
『日本側から緊急通信』
「内容は?」
『災害派遣要請』
レイブンの足が止まった。
「……災害?」
『かなり大きい』
十分後。
FJTF統合作戦室。
中央画面には、日本国側から送られてきた緊急要請が表示されていた。
レイブン。
エリシア。
ルナ。
エミリア。
ノア。
さらに各実働部隊の代表者が集まり始めている。
「日本側からNoX宛てに直接指定された緊急連絡」
ノアが説明する。
「JIRMCAの相互災害対処条項に基づく正式要請」
レイブンは文面を見る。
簡潔だった。
だからこそ深刻さが伝わる。
日本国沿岸部。
大規模地震。
内陸部でもM7相当の強い地震動。
複数の道路が寸断。
橋梁損傷。
土砂災害。
停電。
通信障害。
そして。
巨大津波。
沿岸部を中心に甚大な浸水被害。
複数地域で孤立集落発生。
陸路による救助活動困難。
負傷者多数。
避難所への物資輸送能力不足。
日本国政府は自衛隊、消防、警察、海上保安関係機関、自治体その他の救援能力を投入しているが、被災範囲が広く、異界抵抗勢力に対して協定に基づく追加救援を要請する。
レイブンは読み終えても、しばらく何も言わなかった。
エリシアが画面を見る。
「津波……」
ルナの顔から血の気が引いていた。
「港は?」
「複数が被災」
ノアが答える。
「使える港湾施設と使えない施設が混在してる。沿岸道路もかなり切れてるらしい」
「河川は?」
「逆流、瓦礫、流路変化が報告されてる」
STYX指揮官の顔になる。
「水路が使える場所を洗い出してください」
「もうHUGINNと日本側が照合中」
「舟艇を出せる?」
「門の通過条件と輸送能力次第」
レイブンが尋ねる。
「死傷者数は?」
ノアは首を振る。
「まだ確定してない」
「行方不明者?」
「集計中」
「被災範囲は?」
「広い」
中央画面へ日本側の地図が表示された。
赤。
橙。
黄色。
被害地域を示す表示が沿岸部へ広がっている。
レイブンはその地図を見た。
日本国。
まだ行ったことのない世界。
いずれ相互調査団として訪れる予定だった国。
その国から最初に届いた大規模な実働要請が。
戦闘ではなかった。
「NoX」
エリシアが呼ぶ。
レイブンは頷いた。
「受ける」
「即答?」
エミリアが確認する。
「協定上、正式承認は必要だろ」
「当然」
「でもFENRIRとしては受ける意思を返して」
ノアがすぐに通信卓へ向く。
「了解」
「待って」
レイブンが止める。
「文章じゃなくて回線繋げる?」
「日本側?」
「うん」
「できる」
数秒。
通信が接続される。
『こちら日本国側災害対策連絡所』
「異界統合特殊任務部隊《FENRIR》、NoX」
『NoX指揮官』
「派遣要請を受信しました」
レイブンは一度息を吸った。
「FENRIRは救援に向かう意思があります。必要な承認手続きを開始します」
向こう側で僅かな間があった。
『……ありがとうございます』
「今、何が一番足りないですか」
レイブンは尋ねた。
「戦力じゃなくて、救助に必要なものを教えてください」
日本側から返ってきた答えは、武器ではなかった。
『輸送です』
「輸送」
『陸路が寸断されています。孤立地域からの救出、医療搬送、飲料水、食料、医薬品の輸送能力が不足しています』
「航空は?」
『運用しています。しかし被害地域が広すぎます』
「海路」
『津波被害で港湾状況が安定していません』
ルナがレイブンを見る。
レイブンは頷く。
「河川や小規模水路は?」
『地域によります』
「資料をSTYXへ送ってください」
『STYX?』
「FENRIRの水上部隊です」
ルナが一歩前へ出る。
「こちらSTYX指揮官Nyx。水深、流速、障害物、橋梁損傷、津波による漂流物、利用可能な河川・運河・港湾情報をください。日本側の救難部隊と照合します」
『了解しました』
エリシアも加わる。
「EINHERJAR、Valkyrie。負傷者の集中地点と、救助された後に受け入れ可能な医療施設をお願いします」
『送ります』
「IDUNNも動かします」
『助かります』
レイブンが最後に言った。
「こちらで編成を決めます。必要以上の部隊は送りません」
『承知しました』
「もう一つ」
『はい』
「FENRIRが現地に入ったら、日本側の指揮系統を無視して勝手に動くことはしません。現地の調整所を通してください」
日本側の声が僅かに柔らかくなった。
『了解しました。受け入れ体制を準備します』
通信が終わる。
統合作戦室が静かになった。
レイブンは十二部隊の編制図を見た。
十七日前。
彼はこの十二部隊へ言った。
一つができないことを、別の一つが繋ぐ。
それを実際に証明する時が来た。
「FJMGを使う」
空気が変わった。
「全十二部隊?」
エリシアが尋ねる。
「違う」
レイブンは首を振る。
「災害救援に必要な部隊だけ」
中央卓へ地図を出す。
「戦争じゃない。敵はいない」
最初に指したのはBIFROST。
「輸送の主軸。人員、食料、水、医療物資を動かす」
次。
「DVERGR。道路啓開、施設復旧、瓦礫処理、仮設拠点構築。ただし日本側工事責任者と調整して動く」
次。
「IDUNN。野戦医療、患者後送、救難」
エリシアが頷く。
「EINHERJARも救助と避難支援へ」
「頼む」
「了解」
レイブンはルナを見る。
「STYX」
「はい」
「日本側から水域情報が来たら選別。使える場所だけ入る。津波が続く危険がある場所へ無理に艇を出すな」
「了解」
「戻れる水路だけ使え」
「……はい」
その一言だけ、兄から妹へ向けたものだった。
「SKYFALL」
航空群。
「航空救難と物資輸送支援。日本側航空管制に従う」
さらに。
「HUGINN。通信網の接続。日本側との情報共有を最優先」
「RATATOSKRは?」
ミレイアが尋ねる。
「無人偵察と被害状況確認。人間を危険地域へ入れる前に見る」
「HEIMDALL?」
「門とこちら側の拠点警備。救援物資と人員が集中する。交通整理も必要になる」
残る。
GUNGNIR。
TYR。
WOLF PACK。
レイブンは少し考えた。
「GUNGNIRとTYRは原則待機」
重火力も対大型脅威戦闘能力も、今は必要ない。
「武器が必要な任務じゃない」
そして。
「WOLF PACKは先遣調整と孤立地域への進入支援」
ガイルが頷く。
「やっぱり行くか」
「行く」
「NoX自身も?」
エリシアが尋ねる。
「俺も行く」
「先頭に突っ込まない」
「分かってる」
「救助現場で単独行動しない」
「分かってるって」
ルナが小さく言う。
「記録しておきます」
「Nyxまで?」
緊張した室内に、ほんの少し笑いが戻った。
そこへ正式承認が届いた。
帝国。
連邦共和国。
共同調整機関。
JIRMCAに基づく日本国への災害派遣を承認。
FJTF司令部。
正式命令。
レイブンは立ち上がった。
「全隊へ通達」
ノアが共通回線を開く。
自由都市全域。
格納庫。
港。
医療棟。
輸送基地。
航空施設。
整備区画。
十二部隊の端末へ、同じ声が届く。
『こちらNoX』
隊員たちが動きを止める。
『日本国から正式な災害派遣要請を受けた』
レイブンは地図を見る。
『沿岸部に巨大津波。内陸部でも大規模地震。道路、橋梁、通信、港湾施設に被害が出ている。孤立地域多数。負傷者数は現在も集計中』
声を落ち着かせる。
『敵はいない』
それを最初にはっきりさせた。
『今回の任務で、俺たちが戦う相手は人間じゃない』
崩れた道路。
瓦礫。
水。
寒さ。
時間。
孤立。
そして恐怖。
『FJMG編制後、初めての異世界遠征任務になる』
港のSTYX隊員たちが顔を上げる。
BIFROSTでは輸送計画担当が動き始める。
IDUNNでは医療資材の確認が始まる。
DVERGRの工兵たちは救助・復旧用装備の準備へ向かう。
SKYFALLでは航空救難要員が気象情報と日本側飛行場の資料を開く。
『任務目的は三つ』
レイブンは続けた。
『助ける。運ぶ。そして帰す』
簡潔だった。
『日本国は俺たちに助けを求めた』
第一次異界大戦の頃には想像できなかった。
異界の国家から救難信号が届く。
それに応えて、こちらから門を越える。
『JIRMCAには相互救難が書かれている』
あの協定の中で、レイブンが最も気に入った一文。
『今日はそれを紙の上だけの約束で終わらせない』
少し間を置く。
『準備開始』
通信が終わった。
自由都市が動き出した。
BIFROSTの輸送車両が倉庫前へ並ぶ。
積み込まれるのは弾薬ではない。
飲料水。
保存食。
毛布。
衛生用品。
医薬品。
簡易照明。
通信機材。
DVERGRは建設・救難資材を選別する。
IDUNNでは患者受け入れ区画の準備が始まり、血液製剤や医薬品の輸送条件が日本側医療機関と照合される。
EINHERJARは救助要員を編成。
STYXではルナが巨大な地図を広げていた。
「日本の河川データ来ました!」
フィオナ《Siren》が端末を持ってくる。
「表示して」
画面へ被災地域が映る。
ルナの表情が引き締まる。
「この河口は駄目」
「津波漂流物?」
「それもある。でも橋が落ちて流路を塞いでる」
セレス《Marlin》が別地点を指す。
「こっちは?」
「上流からなら入れるかも」
レン《Otter》が水深資料を見る。
「偵察が先」
「うん」
ルナは即答する。
「知らない水域だから、最初から大型艇を入れない」
兄に教わった。
行けるから行くのではない。
帰れる道を残す。
「RATATOSKRに上空確認をお願いして。日本側の水難救助部門とも共有」
「了解」
その頃、WOLF PACKも準備を進めていた。
ガイルがレイブンを見る。
「今回はRAVEN持ってくのか?」
レイブンは装備棚のISG-42A3を見る。
少し考える。
「持っていく。でも主役じゃない」
「だろうな」
武器は携行する。
未知の地域へ入る以上、最低限の安全確保は必要だった。
しかし弾薬より優先されるものがある。
救急装備。
通信機。
水。
防寒具。
携行工具。
「T-51は?」
「置いていく」
「だよな」
「対物狙撃銃で瓦礫は助けられない」
ガイルが笑う。
「隊長がまともだ」
「最近それ褒め言葉になってないぞ」
フィーナ《Sage》が医療バッグを持ってくる。
「NoX」
「うん?」
「今回は私も行く」
レイブンは彼女を見る。
第一次異界大戦の記憶。
負傷者。
大量の血。
救えなかった人々。
フィーナが今も抱えているものを、レイブンは知っている。
「大丈夫?」
「分からない」
彼女は正直に答えた。
「怖いと思う」
「なら――」
「でも今回は戦争じゃない」
フィーナが続ける。
「助けるために行くんでしょう?」
「うん」
「だったら行きたい」
レイブンは少し黙る。
「途中で無理だと思ったら?」
「言う」
「絶対?」
「絶対」
「一人にならない」
「分かってる」
レイブンは頷いた。
「一緒に行こう」
フィーナも頷いた。
午後零時三十八分。
異界門前。
これまで外交官や調査員が通っていた門の前に、初めてFJMGの大規模救援部隊が集結した。
日本側誘導員。
自衛隊員。
帝国側管制官。
FENRIR要員。
互いの通信をHUGINNが接続している。
先頭にはBIFROSTの輸送部隊。
続いてDVERGR。
IDUNN。
EINHERJAR。
WOLF PACK。
STYXの舟艇については、門通過後に日本側の輸送手段を組み合わせて指定水域へ展開する。
SKYFALLも段階的に進出する。
全十二部隊を一度に送り込むのではない。
必要な能力を。
必要な場所へ。
必要な数だけ。
レイブンは門の前に立った。
向こう側には日本国。
初めて見る世界。
相互調査団として穏やかに訪れるはずだった場所へ。
最初は災害救援で入ることになった。
エリシアが隣へ立つ。
「緊張してる?」
「かなり」
「私も」
ルナも来る。
「兄様」
「勤務中」
「分かってます、NoX」
「何?」
「日本側からSTYX展開許可が出ました」
「分かった」
レイブンは妹を見る。
「無理するな」
「NoXも」
「俺は――」
「それ以上言ったら、Valkyrieに任せます」
エリシアが微笑む。
「任された」
「二対一はずるい」
門の向こうから、日本側担当者が近づいてくる。
「FENRIRの皆さん」
「はい」
「受け入れ準備が整いました」
レイブンは振り返った。
FJMGの隊員たち。
十二のうち、今回必要とされた部隊。
兵士。
医療従事者。
工兵。
通信員。
輸送要員。
救難要員。
誰もが装備を持っている。
だが、その装備の多くは人を殺すためのものではなかった。
「行こう」
レイブンが言った。
「救助開始」
先頭の誘導員が門を越える。
続いてBIFROST。
DVERGR。
IDUNN。
そしてFENRIR。
レイブンも一歩を踏み出した。
視界が僅かに歪む。
身体の奥を、あの奇妙な感覚が走った。
左肩が一瞬だけ熱を持つ。
「……っ」
「レイブン?」
エリシアも胸元を押さえていた。
「また?」
「うん」
二人は顔を見合わせる。
だが数秒で消えた。
「記録しよう」
「あとでね」
今は止まれない。
一歩。
そして。
レイブン・S・クロウは初めて日本国の地面を踏んだ。
空は同じように青かった。
風も吹いている。
遠くには見慣れない建物。
道路。
電柱。
標識。
そして何台もの自衛隊車両。
だが、その向こう。
空には複数の航空機が飛び。
道路には緊急車両が連なり。
遠くから警報音が聞こえていた。
災害の国へ来た。
日本側担当者がレイブンたちへ地図を渡す。
「NoX指揮官」
「はい」
「沿岸部で新たに孤立地域が確認されました」
レイブンの表情が変わる。
「人数は?」
「推定百二十名以上。高齢者と子供を含みます」
「陸路は?」
「橋梁損傷で接近困難です」
「水路?」
「津波漂流物が多く、通常艇はまだ入れません」
ルナが地図を見る。
「別ルートを探します」
エリシアも近づく。
「負傷者は?」
「不明です」
レイブンは地図を見る。
知らない国。
知らない町。
知らない人々。
それでも。
帰りたい人間がいる。
それだけで十分だった。
「FJMG、任務開始」
レイブンは通信機を取る。
「RATATOSKR、上空から経路確認。HUGINN、日本側通信網との共有を維持。DVERGRは陸路の復旧可能性を確認。Nyx、水から入れる道を探して」
『了解』
『了解』
『STYX了解』
「Valkyrie」
「EINHERJAR、救助準備完了」
「Sage」
「医療準備できてる」
レイブンは遠くの被災地域を見る。
第一次異界大戦では。
彼は門の向こうから来た者を止めるために戦った。
今度は。
門の向こうにいる者を助けるために来た。
「行くぞ」
銃声はなかった。
代わりに。
救難車両のエンジンが動き始めた。
《FENRIR統合任務群》――FJMG。
その最初の異世界遠征は、戦争ではなく。
百二十人を家へ帰すための任務から始まった。




