Season 5「境界の兆候」 #087
第87話「協定」
異界門が開いてから、四十七日が経過した。
帝国北西部の山岳地帯に突如として姿を現した門は、その間、一度も消えていない。
最初の十二秒。
十五秒へ延びた異常。
岩肌の消失。
そして恒常的な開門。
それらが同じ原因によって起きたものなのか、それとも別々の現象が連続した結果なのかについては、日本国と異界側双方の研究者が共同で調査を続けていたが、明確な結論は出ていなかった。
ただ一つ、最初の頃と大きく変わったことがある。
門の周囲から、銃口が消え始めていた。
もちろん武装した部隊そのものが撤収したわけではない。
帝国軍も日本国の自衛隊も警備を続けている。
しかし互いを直接監視するように向けられていた警戒線は整理され、門の両側には共同検査区画、医療検疫所、物資確認所、通信施設が作られ始めていた。
最初は互いに数十メートル離れて立っていた兵士たちも、今では必要があれば同じ机を囲んで地図を見る。
外交官が行き来する。
研究者が試料を交換する。
医師が検疫記録を照合する。
技術者が互いの測定単位の違いに頭を抱える。
少しずつ。
本当に少しずつではあったが。
門は戦争の入口ではなくなりつつあった。
そして、その四十七日目。
帝国と連邦共和国、第一次異界大戦を共に戦った諸国、そして日本国の代表者たちが、再び国際共同会議場へ集まっていた。
レイブン・S・クロウ〔無名〕も、その一人だった。
「……長い」
目の前に置かれた文書を見ながら、レイブンが小声で呟く。
隣に座っていたエリシア・L・ヴォルハラム=クロウ〔戦乙女〕が横目で見る。
「何が?」
「正式名称」
「聞こえるよ」
「小声だよ」
「猫耳持ちが周りに何人いると思ってるの」
「……確かに」
反対側ではルナ・クロウ〔夜〕が真面目な顔で文書を読んでいた。
だが耳だけが兄夫婦の方向を向いている。
「Nyx」
「何ですか?」
「聞いてただろ」
「勤務中です、NoX」
「便利だな、それ」
エリシアが小さく息を吐いた。
「二人とも静かに」
「はい」
「はい」
兄妹の返事が重なる。
会議場中央には二冊の協定文書が置かれていた。
一冊目。
《日・異界抵抗勢力相互協力協定》
正式名称――
《日本国及び異界抵抗勢力間における相互協力並びに異界災害対処に関する協定》
英名。
Japan–Interworld Resistance Mutual Cooperation Accord.
略称。
JIRMCA。
日本側では、これを条約とは呼ばなかった。
理由は単純だった。
日本国の相手となっている存在が、一つの国家ではないからである。
帝国。
連邦共和国。
交易国家。
周辺諸国。
第一次異界大戦を生き延びるために結成され、その後も異界災害への共同対処枠組みを残していた複数勢力。
それらを日本国の制度上、一つの国家として扱うことはできなかった。
だからまず、国家と複数勢力の共同枠組みとの間で結ばれる協定という形が選ばれた。
名称より重要なのは、その最初に置かれた原則だった。
日本側代表が立ち上がる。
「本協定において、我々が最も重要と考える原則を改めて確認いたします」
会議場が静まった。
「異界門を、一国の利益のために利用しない」
レイブンの表情が変わった。
日本側代表は続ける。
「日本国は異界門を領土拡張、資源の独占、あるいは一方的な軍事的優位を獲得するための手段として利用しない。また、異界抵抗勢力を構成する各国も同様とする」
帝国代表が頷く。
連邦共和国代表も続いた。
「門がどちらか一方の世界に存在するという理由だけで、その所有権を一国が独占しない」
「はい」
日本側代表が答える。
「異界門そのものを、双方に共通する安全保障上、そして人道上の問題として扱います」
第一次異界大戦を経験した者にとって、それは重い言葉だった。
門を独占すれば。
軍隊を送れる。
物資を送れる。
資源を運べる。
敵国の背後へ抜けることさえできるかもしれない。
利用方法を考えれば、いくらでも軍事的価値を見いだせる。
だからこそ。
最初に決めた。
誰か一国のものにはしない。
レイブンは文書へ視線を落とした。
異界門と異界災害に関する情報の共有。
日本国内及び双方が指定する地域での共同警戒。
民間人、避難民、負傷者の保護。
医療。
食料。
輸送。
通信。
異界由来物質や魔導技術の共同研究。
補給規格の相互運用。
共同訓練。
遭難者や孤立部隊の相互救難。
異界門を経由する部隊移動の事前協議。
そして捕虜、民間人、文化財の保護。
その一つ一つを見ながら、レイブンはある項目で指を止めた。
「……相互救難」
エリシアが気づく。
「気に入った?」
「うん」
「あなたらしいね」
「敵を何人倒すかより、こっちのほうが大事だ」
ルナも同じ項目を見ていた。
「遭難・孤立部隊の相互救難」
小さく読む。
「STYXの仕事とも重なります」
「そうだな」
「日本側の部隊が孤立しても?」
レイブンは妹を見る。
「協定が適用される状況なら、助ける」
「逆も?」
「俺たちが帰れなくなったら、日本側が助けに来る」
ルナはしばらく文書を見た。
「……いいですね」
「ああ」
FENRIRが掲げてきたものと、よく似ていた。
道を開く。
守る。
運ぶ。
救う。
帰す。
使う言葉や制度は違っても、根底にある考え方には重なる部分があった。
だが。
もう一冊の文書を開いた瞬間。
レイブンより先にエミリア・R・ヴァレンシュタイン〔猟鷹〕の目つきが変わった。
《日・異界共同防衛装備相互運用協定》
正式名称。
《日本国及び異界抵抗勢力間における防衛装備・兵站・技術相互運用協定》
英名。
Japan–Interworld Resistance Defense Equipment and Logistics Interoperability Agreement.
略称。
JIR-DELI。
「こっちはファルコンが好きそう」
レイブンが言う。
「好き嫌いで読む文書じゃない」
「でもさっきから目が違う」
「技術士官だから」
「否定しないんだ」
「NoX、静かに」
「はい」
付属協定の目的は、兵器供与そのものではなかった。
日本国がFJTFへ兵器を大量に渡し、日本製装備へ置き換える。
そういう内容ではない。
反対に、帝国や連邦共和国が日本国へ魔導兵器を無制限に渡すものでもなかった。
共同作戦を行う時。
互いの装備を補給できる。
必要なら整備を支援できる。
負傷者を相手側の医療施設へ後送できる。
航空機や舟艇が相手側施設を利用できる。
通信を繋げられる。
識別を共有できる。
壊れた車両を回収できる。
遭難した部隊を助けられる。
そのための枠組みだった。
「ここ、大事ですね」
ルナが言った。
STYXの舟艇運用に関する項目。
港湾使用。
燃料。
整備。
輸送。
救難。
「日本側の港を使える可能性がある」
レイブンが言う。
「協議と承認があれば、です」
「分かってるよ」
「勝手に行っちゃ駄目ですよ」
「俺、舟艇指揮官じゃないぞ」
「兄様ならやりそうだから」
「何で?」
エリシアが口元を押さえる。
「否定しづらい」
「妻まで?」
その隣。
EINHERJAR関連の航空支援項目を見ていたエリシアの視線が止まる。
航空管制。
識別。
共同航空支援。
患者後送。
「こっちは大きいね」
「航空?」
「うん」
エリシアは文書を見る。
「空の使い方が違えば、同じ空域に味方がいるだけで危険になる。最初に共通の決まりを作れるなら助かる」
レイブンは頷いた。
「地上も同じだな」
装備の形が違う。
通信方式が違う。
補給単位が違う。
燃料が違う。
弾薬が違う。
医療基準が違う。
それを何も決めずに戦場へ持ち込めば、味方同士でありながら互いの足を引っ張る。
第一次異界大戦では、それを何度も経験した。
帝国軍の弾薬を連邦兵が使えない。
連邦の補給箱を帝国車両へそのまま積めない。
通信機同士が繋がらない。
負傷者を引き渡しても医療記録の様式が違う。
その不便から生まれたものの一つが、RCAだった。
RCA――Resistance Common Ammunition。
抵抗軍共有弾薬規格。
第一次異界大戦の混乱の中で、異なる軍隊が同じ戦場で補給を続けるために生まれた共通規格。
そしてJIR-DELIは、そのRCAを日本国へ直接押しつける内容にはしなかった。
エミリアが三層構造を示した。
日本規格。
その下に。
共同補給規格。
さらに。
RCA。
「日本側の制式弾薬をRCAへ変えるわけではない」
エミリアが説明する。
「逆も同じ。帝国、連邦、FJTF側の装備を全部日本規格へ変更するわけでもない」
レイブンが頷く。
「間に共通部分を作る」
「そう」
「必要な時だけ繋ぐ?」
「その理解でいい」
ノア・ヴェルナー〔暗号〕も資料を覗き込む。
「通信も似た考え方だな」
「うん」
「全部同じ通信機にするんじゃなく、接続できるようにする」
「そのほうが現実的」
エミリアが別項目を開く。
個人火器。
SG-44。
ISG-42A3。
後継のISG系統。
対物火器AMR-51A2《REAPER》。
拳銃。
Elysia系火器。
STYX系コンパクト火器。
砲兵。
機甲。
工兵。
舟艇。
艦艇。
航空機。
ガンシップ。
空挺装備。
医療。
無人機。
魔導装備。
単なる銃器協定ではなかった。
戦場で人と物を動かすために必要なもの全体を、少しずつ接続する。
「魔導装備は?」
レイブンが尋ねる。
「最も慎重」
エミリアが答える。
「日本側には、私たちと同じ意味での魔導技術体系がない。だから安全評価なしの使用は禁止」
「逆に日本側の技術も?」
「当然。未知の機材を勝手に魔導系統へ繋ぐなんて許可しない」
「ファルコンなら言うと思った」
「当たり前」
午前十一時。
署名式が始まった。
日本国代表。
帝国代表。
連邦共和国代表。
各参加国の代表。
一人ずつ署名する。
カメラに似た日本側の記録装置も並んでいた。
こちら側の魔導記録装置もある。
二つの世界の記録方式が、同じ瞬間を残している。
最後の署名が終わった。
日本側代表が立ち上がる。
「これをもって、《日・異界抵抗勢力相互協力協定》及び付属する《日・異界共同防衛装備相互運用協定》を締結します」
拍手が起きた。
大きくはない。
歓声もない。
だが、長く続いた。
レイブンも拍手した。
エリシアも。
ルナも。
第一次異界大戦では考えられなかった光景だった。
異界門の向こうから来た国家と。
戦争ではなく。
協力するための文書へ署名している。
式典終了後。
FENRIRの三人は別室へ呼ばれた。
そこには日本側の外交官と自衛隊関係者が待っていた。
「NoX指揮官」
日本側外交官が言う。
「はい」
「協定締結に伴い、FJTFとの共同訓練についても正式に協議を始めたいと考えています」
レイブンの猫耳が動いた。
「共同訓練」
「はい。ただし最初から大規模なものではありません」
「どんな内容を?」
「救難、通信、医療後送、輸送、共同警戒など、比較的事故の危険が低く、相互理解に適した分野から始めることを想定しています」
レイブンは少し考えた。
「賛成です」
エリシアも頷く。
「EINHERJARとしても、救難と医療連携は早めに確認したいです」
ルナが続く。
「STYXは港湾運用と水上救難からなら参加できます」
日本側の自衛隊関係者が頷いた。
「こちらも海上及び陸上の救難部門との調整が可能です」
レイブンは相手を見る。
まだ知らないことばかりだった。
自衛隊の階級。
訓練方法。
装備。
指揮系統。
文化。
何を当然と思い、何を危険だと判断するのか。
だが一つだけ、確認しておきたいことがあった。
「質問していいですか」
「どうぞ」
「もし共同訓練中に事故が起きて、FENRIRの隊員がそちら側で孤立したら」
「救助します」
返答は早かった。
レイブンが少し目を見開く。
日本側の担当者は続ける。
「逆の場合には、皆様へ救助をお願いすることになります」
「もちろん」
レイブンも即答した。
それだけだった。
だが彼には、それで十分だった。
「なら」
レイブンは手を差し出した。
「よろしくお願いします」
相手も手を出す。
「こちらこそ」
握手。
第一次異界大戦で、レイブンが異界から来た者へ初めて向けたものは銃だった。
今度は手だった。
午後。
旧ヴァルナ港へ戻ると、レイブンはそのままFENRIR統合作戦室へ向かった。
机の上には、すでにエミリアが持ち帰ったJIR-DELI関連資料が山積みになっている。
「多いな……」
「これでも概要版」
「嘘だろ」
「本協定だけなら短い。技術付属書が多い」
「読み終わる?」
「読んで」
「教官業務もあるんだけど」
「指揮官業務もある」
「日本派遣の準備も」
「ある」
「家にも帰りたい」
「それもどうぞ」
レイブンが頭を抱える。
「FENRIR作った時より忙しくなってない?」
エリシアが隣から答える。
「大きくしたのは私たちだから仕方ないね」
「最初はWOLF PACKだけだったのに」
「私のEINHERJARも入れたでしょう」
「私のSTYXも」
ルナが言う。
「三人とも共犯だな」
「共犯って言わないでください」
ノアが資料を持って入ってくる。
「NoX」
「今度は何?」
「日本側との通信相互接続試験」
「いつ?」
「明後日」
「早くない?」
「協定締結前から技術協議は始まってたから」
さらにエミリア。
「その翌日は補給識別規格の確認」
エリシア。
「来週は医療後送の合同机上演習」
ルナ。
「その後に水上救難協議があります」
レイブンは全員を見る。
「俺の十五秒訓練は?」
「明日です」
エミリアが答えた。
「残ってるの?」
「NoX自身が予定を変えないって言った」
「……言ったな」
「言った」
「覚えてる」
「なら問題なし」
レイブンは椅子へ座った。
「忙しい……」
だが口元は僅かに笑っていた。
戦争が始まった忙しさではない。
誰かを殺す準備だけで増えた仕事でもない。
違う軍隊が、一緒に人を助けるための準備。
違う世界の装備を、必要な時に繋ぐための準備。
帰れなくなった誰かを、互いに迎えに行くための準備。
その忙しさなら。
悪くない。
夕方。
クロウ夫妻宅。
レイブンは協定文書の写しを持ち帰っていた。
夕食後。
エリシアと二人で改めてページをめくる。
「ここ」
レイブンが指を置く。
「また?」
「相互救難」
「本当に気に入ったんだね」
「うん」
レイブンは少し笑った。
「NoXっぽい?」
「すごく」
「俺、そんなに帰ることばっかり言ってる?」
「言ってる」
「そうかな」
「訓練でも言ってる。WOLF PACKでも言ってる。FENRIR作った時も言ってる。ルナちゃんにも言ってる。私にも言う」
「……かなり言ってるな」
「でしょう?」
レイブンは文書を見た。
「でも、今度は俺たちだけじゃない」
「うん」
「門の向こうにも、同じ約束をした相手がいる」
エリシアが隣へ座る。
「日本の人たちも帰りたい場所があるからね」
「そうだな」
窓の向こうには、国境の町の明かり。
さらに遥か北西。
一つの異界門が開いている。
その向こうには、日本国という国がある。
昨日まで別々だった二つの世界は、一枚の紙で同じ世界になったわけではない。
文化の違いは残る。
技術の違いもある。
軍事的な警戒も消えてはいない。
相互理解には、何年かかるか分からない。
それでも。
異界門を一国の利益のために使わない。
傷ついた民間人を助ける。
孤立した部隊を見捨てない。
情報を隠して相手だけを危険へ送らない。
違う規格の装備であっても、必要な時には互いを支えられるよう準備する。
そして、門を越えて部隊を動かす時には、勝手に決めない。
それらは壮大な理想ではなかった。
むしろ、第一次異界大戦で実際に人が死んだからこそ生まれた、現実的な約束だった。
レイブンは協定文書を閉じる。
「明日も訓練か」
「十五秒?」
「十五秒」
「日本側との共同訓練でもやる?」
「いきなりやらないよ」
「少し安心した」
「まず互いのやり方を知らないと」
エリシアが微笑む。
「成長したね」
「最近みんなそれ言うな」
「だって昔のあなたなら?」
レイブンは少し考える。
「……とりあえずやってみる?」
「でしょう?」
「否定できない」
二人が笑った。
その夜。
旧ヴァルナ港のFENRIR統合作戦室では、新しい文書が正式に保管された。
JIRMCA。
JIR-DELI。
ただの略称にすぎない。
紙そのものに、誰かを守る力があるわけでもない。
協定があっても、誤解は起きる。
事故も起きる。
国家同士の利害が完全に一致することもない。
だからこそ、その約束を実際に機能させる人間が必要だった。
翌朝。
午前六時。
FENRIR共同訓練区画。
「始めるぞ」
レイブンの声が響いた。
目の前にはWOLF PACK。
EINHERJAR。
STYX。
昨日、二つの世界が協定を結んだ。
今日、彼らが行うことは変わらない。
自分の装備を知る。
仲間を見る。
異常を見逃さない。
誰かが倒れれば助ける。
そして全員で帰る。
「速さだけを見るな」
レイブンは隊員たちへ告げた。
「正確にやれ。できるようになってから速くなれ」
十五秒。
昨日と同じ訓練が始まる。
だが、その意味は少しだけ広がっていた。
今までFENRIRが帰すべき仲間は、この世界の者たちだった。
これからは。
門の向こうで日の丸を付けている誰かが、帰れなくなる日もあるかもしれない。
その時。
どちらの世界の人間であるかを問う前に。
手を伸ばす。
日本国と異界抵抗勢力が結んだ二つの協定は、そのための道を初めて制度として繋いだ。
FENRIR――道を開き、守り、繋ぎ、全員で帰る者たちにとって。
それは何より彼ららしい、二つの世界の最初の約束だった。




