Season 5「境界の兆候」 #086
第86話「十五秒」
日本国という未知の国家が現れたからといって、異界統合特殊任務部隊《FENRIR》の日常が、その日を境にすべて変わったわけではなかった。
帝国北西部の異界門では、日本国と各国の共同調査が続いている。外交官は文書を交換し、技術者は門の安定性を測り、医療関係者は異なる世界の人間同士が接触することで生じる危険を調べていた。
帝国と連邦共和国、そして旧抵抗軍参加諸国では、連日のように日本国に関する報告書が作成されている。
自衛隊。
異世界でありながら、自分たちとほとんど同じ言葉を話す人々。
魔法に依存しない技術体系。
海に囲まれた国家。
レイブン自身も、近いうちに日本側へ派遣される相互調査団の候補者となっている。
それでも朝になれば、訓練場へ行く。
なぜなら日本国が敵ではなかったとしても、世界から危険そのものが消えたわけではないからだ。
午前六時。
旧ヴァルナ河口国際港湾区。
FENRIR共同訓練区画には、WOLF PACK、EINHERJAR、STYXから選ばれた隊員たちが集められていた。
その前に立っているのは、レイブン・S・クロウ〔無名〕だった。
「今日は撃たない」
開口一番そう告げられ、何人かが意外そうな顔をした。
レイブンの前には、訓練用として安全処置された複数種の火器が並べられている。
帝国製。
連邦共和国製。
旧抵抗軍諸国の装備。
構造も違えば、設計思想も違う。
「射撃場じゃないからな。今日やるのは、撃つための訓練じゃない」
レイブンは一挺を手に取った。
「戻すための訓練だ」
ルナ・クロウ〔夜〕が訓練生側にいる。
今日はSTYX指揮官ではなく、受講者だった。
「兄様」
「勤務中」
「NoX教官」
「何だ、Nyx」
「戻すというのは?」
「武器を使える状態へ戻す」
レイブンは机上の火器を見る。
「泥が入る。砂を噛む。水を被る。魔力残滓が機関部へ入り込む。異界じゃ何が起きるか分からない。撃てなくなった時に、銃を眺めて固まっていたら意味がない」
第一次異界大戦では、理想的な環境などほとんどなかった。
雨。
泥。
崩壊した建物。
魔法攻撃によって舞い上がる粉塵。
異界由来の魔力残滓。
どれほど優秀な武器でも、機械である以上は状態が悪くなる。
レイブン自身、それを何度も経験していた。
「そこで覚えるのが通常分解と結合。フィールドストリップ」
隊員たちの表情が変わる。
「目標は十五秒」
今度は明確にざわめいた。
「十五秒?」
STYXのカイが呟く。
「分解だけですか?」
「分解して、確認して、戻すところまで」
「十五秒で?」
「最終的には」
レイブンは付け加えた。
「ただし、最初から速さを求めるな」
ざわめきが止まる。
「順番を間違えて壊したら、十五秒どころか任務中ずっと使えなくなる。部品を落としても同じだ。まず構造を理解する。次に正確にできるようにする。その後で、手元を見なくても迷わなくなるまで繰り返す」
レイブンは自分の手を見る。
「速度は、その後についてくる」
ガイル・ベッカー《Hound》が腕を組んだ。
「NoXは何秒なんだ?」
「今日は俺の記録を競う訓練じゃない」
「逃げたな」
「教官権限で腕立て追加するぞ」
「横暴だ!」
小さな笑いが起きる。
レイブンも少しだけ笑った。
「俺も最初からできたわけじゃない」
その声に、昔を思い出す。
まだ志願兵だった頃。
父ヴォルター・クロウが教官だった。
目の前には何度も使った訓練銃。
そして布。
『見えなくてもできるようになれ』
若いレイブンは不満そうに言った。
『何で見えない状態で分解する必要があるんだよ』
『戦場が毎回昼間で、照明があって、両目が使えて、手も震えず、銃も綺麗だと誰が保証した』
『……誰も』
『なら覚えろ』
最初は遅かった。
部品の位置を確認する。
指が迷う。
途中で止まる。
結合しても、確認すると間違っている。
ヴォルターは速さより、まず確実性を要求した。
何度も。
何度も。
同じ動きを繰り返した。
目で覚えるのではない。
手で覚える。
指先が触れた感触で、自分がどこを扱っているのか分かるまで。
頭で次の動きを考えるより先に、身体が正しい手順を思い出すまで。
後にレイブンは、それをマッスルメモリーという言葉で理解するようになった。
訓練場へ意識を戻す。
「俺が教官から教わった時は、途中から目元を隠された」
「やっぱりヴォルターさんですか?」
エリシアが聞いた。
「うん」
「想像できる」
「笑うなよ。怖かったんだから」
「今でも怖いでしょう?」
「父親としてはね」
隊員たちからまた笑いが起きた。
「でも」
レイブンの声が戻る。
「役には立った」
第一次異界大戦。
泥の中。
視界が悪い。
武器の状態を確認する余裕もない。
それでも手は動いた。
その経験がある。
「だから十五秒という数字だけ覚えるな。十五秒は目的じゃない」
レイブンは隊員たちを見る。
「目的は、最悪の環境でも自分の装備を理解していることだ」
訓練が始まった。
最初は時間を計らない。
各員が担当装備の基本構造を確認する。
分解。
確認。
結合。
機能確認。
間違えれば最初から。
レイブンは一人ずつ見て回った。
「急ぐな」
「はい」
「今、順番を考えただろ」
「……はい」
「それでいい。最初は考えろ」
次の隊員へ移る。
「部品から手を離すな。戦場じゃ机があるとは限らない」
「了解」
さらに隣。
ルナが難しい顔をしている。
「Nyx」
「分かってます」
「まだ何も言ってない」
「兄様が来る時は大体注意される時です」
「教官」
「……NoX教官」
「今、速くやろうとしただろ」
ルナが黙る。
「十五秒って言われたから」
「だから言っただろ。最初は時間を気にするな」
「でも兄様はできるんでしょう?」
「俺が何年やってると思ってる」
レイブンはルナの手元を見る。
「競うなら昨日の自分と競え」
「昨日はやってません」
「そういう意味じゃない」
近くにいたカイが笑いを堪えている。
「Drake」
「はい」
「笑ってる余裕あるならもう一回」
「……了解」
今度はルナが笑った。
一時間後。
ようやく計測が始まった。
当然、十五秒には届かない。
二十秒。
三十秒。
途中で止まる者。
焦ってやり直す者。
それでもレイブンは怒鳴らなかった。
「速さより正確さ」
何度も同じことを言う。
「速い失敗より、遅い成功のほうがいい」
ディートリヒ《Grizzly》は最初から比較的安定していた。
几帳面な性格がこういう訓練では強い。
ミレイア《Lynx》は手順を覚えるのが早い。
ヨハン《Hawk》は無駄な動きを少しずつ減らしていく。
ノア〔Cipher〕は途中で構造そのものを分析し始めた。
「Cipher」
「何?」
「研究会じゃないぞ」
「いや、ここ設計上――」
「後でファルコンとやって」
「了解」
少し離れた場所では、フィーナ《Sage》が訓練を見ていた。
今日は参加者の疲労と手指の状態を見る役目だった。
「一回止めて」
突然フィーナが言った。
レイブンが振り返る。
「どうした?」
「あの人」
一人の隊員を指す。
「指が震えてる」
本人は気づいていなかった。
「疲労?」
「たぶん」
フィーナが近づき、状態を確認する。
「少し休もう」
「でもまだ――」
「疲れた手で同じ動きを続けると、間違った動きを覚える」
レイブンが頷く。
「Sageの言う通り。休憩」
隊員は悔しそうだったが従った。
フィーナがレイブンを見る。
「NoXも」
「俺?」
「朝から立ちっぱなし」
「教官だから」
「教官は疲れないの?」
「……疲れます」
「水飲んで」
「はい」
ガイルが笑う。
「やっぱり隊長が一番怒られてるな」
「Houndも休憩」
「何で俺まで!」
午前十時。
次の段階へ進んだ。
視線を使わない訓練。
ただし、いきなり速度は求めない。
安全処置された訓練用装備だけを使う。
「怖くなったら止めろ」
レイブンが言う。
「見えない状態で分からなくなったら、勘で続けるな。一度止まって確認しろ」
目元を覆われた隊員たちが、慎重に手を動かす。
最初は遅い。
当然だった。
指先だけが頼りになる。
しかし繰り返すうちに、少しずつ変わる。
迷いが減る。
動きが繋がる。
手が構造を覚え始める。
レイブンはその様子を見ていた。
「兄様」
休憩中のルナが近づく。
「教官」
「今は休憩だから兄様」
「便利だな、それ」
「兄様が始めたんです」
「それで?」
ルナはレイブンのISG-42A3《RAVEN》を見る。
「この訓練が、兄様の装填にも繋がってるんですか?」
レイブンは少し考えた。
「繋がってる」
「やっぱり」
「でも、装填だけ覚えたわけじゃない」
レイブンは自分の右手を見る。
「銃を見なくても、自分の手が今どこにあるか分かる。操作部がどこにあるか、感覚で把握できる。そういう基礎が先にある」
「だから手元を見ない?」
「必要な時は見るよ」
「でも戦ってる時は?」
「見られないこともある」
レイブンはルナを見る。
「だから、見えなくても動けるようにしておく」
SG-44を使っていた頃から身体へ叩き込まれた動き。
視線を前方から外せない状況。
手元を確認する余裕がない瞬間。
排莢口から直接一発を送り込む、非常装填の一つであるポート・ローディング。
外から見れば神速に見える。
だが魔法でも、才能だけでもない。
武器を何千回と触り、目を閉じても構造が浮かぶほど繰り返した結果だった。
「速いからできるんじゃない」
レイブンが言った。
「できることを何度も繰り返したから、結果として速くなった」
ルナは自分の手を見る。
「十五秒も?」
「同じ」
「じゃあ私もできるようになりますか?」
「続ければ」
「兄様より速く?」
レイブンが眉を上げる。
「そこまで言う?」
「競うなら昨日の自分と、でしたっけ」
「そう」
「昨日の自分に勝ち続けたら、いつか兄様にも勝てます」
「……言うようになったな」
「NoX教官の教育成果です」
ルナは笑って訓練位置へ戻っていった。
レイブンはその背中を見送りながら、少しだけ笑う。
「嬉しそう」
いつの間にかエリシアが隣にいた。
「そう?」
「うん」
「成長してるから」
「妹が?」
「部隊長としても、兵士としても」
「お兄ちゃんとしては?」
レイブンは少し考える。
「……まだ心配」
「でしょうね」
午後。
訓練内容はさらに変わった。
今度は単純な反復ではない。
移動。
通信。
負傷者役への対応。
装備不調。
視界不良を想定した状況。
それぞれを組み合わせる。
レイブンが呼ぶハードマニュアル。
決められた答えだけを覚えるのではなく、疲れ、焦り、情報不足、装備不調といった条件が重なった状態でも、基本動作を崩さないための訓練だった。
「戦場は一個ずつ問題を出してくれない」
レイブンは訓練開始前にそう説明した。
「通信が切れた日に限って負傷者が出る。足場が悪い時に限って装備が不調になる。疲れている時に判断を求められる」
隊員たちを見る。
「だから余裕がある時だけできることは、まだ身体に入ってない」
WOLF PACKだけではない。
EINHERJARも。
STYXも。
陸上で戦う者。
人を救う者。
舟艇を動かす者。
通信を繋ぐ者。
全員に共通する基礎がある。
自分の装備を知る。
仲間の状態を見る。
分からない時に勝手な判断をしない。
そして必ず帰還する。
午後三時を過ぎる頃には、隊員たちの顔にも疲労が見え始めていた。
レイブンは時計を見る。
「終了」
何人かが安堵の息を吐いた。
「明日もやる」
今度は露骨に嫌そうな顔が並んだ。
「嫌そうだな」
ガイルが答える。
「隊長、今日だけで十分身体に入ったと思うぞ」
「じゃあ明日確認できるな」
「墓穴掘った」
「自分でな」
笑いが起きる。
レイブンは隊員たちを見渡した。
「今日は遅かった奴もいる。途中で止まった奴もいる。十五秒に届かなかった奴のほうが多い」
誰も目を逸らさない。
「それでいい」
レイブンは続ける。
「十五秒という数字のために、壊すな。焦るな。雑になるな」
自分が父から叩き込まれたこと。
戦場で意味を知ったこと。
「確実にできるようになって、それから速くなれ」
レイブンは一度言葉を切った。
「目元を隠されても。泥まみれでも。魔力残滓が入り込んでも。寒くて指が動きにくくても、自分の装備を投げ出さずに済むくらいまで身体へ覚え込ませろ」
第一次異界大戦で。
それが自分を助けた。
そして仲間を助ける余裕を作った。
「ただし、装備を直すことに夢中になって死ぬな。無理なら捨てろ。仲間を呼べ。別の手段を使え」
レイブンは隊員たちを見る。
「銃より、お前たちのほうが高い」
一瞬、静かになる。
「壊れた銃は交換できる」
父ヴォルターが、かつて自分へ言ったことと同じだった。
「人間は交換できない」
訓練終了。
隊員たちは装備を片付け始める。
その途中。
エミリアがレイブンへ近づいた。
「NoX」
「何?」
「日本側から追加資料」
「自衛隊?」
「それもある」
エミリアは端末を渡す。
「相互調査団の受け入れ準備が一段階進んだ」
レイブンの表情が変わる。
「いつ?」
「まだ確定じゃない。でも門の安定性が維持されれば、近いうちに日本側調査団が正式入境する」
「こっちが日本へ行くのは?」
「その後」
レイブンは訓練場を見る。
WOLF PACK。
EINHERJAR。
STYX。
異なる役割を持つ者たちが、一緒に装備を片付けている。
「訓練予定は変えない」
エミリアが見る。
「日本へ行くことになっても?」
「だからこそ」
「どういう意味?」
レイブンは少し考えた。
「日本国が友好的でも、門そのものが安全とは限らない」
十二秒。
十五秒。
消えた岩。
突然安定した異界門。
自分とエリシアの身体に起きている異常。
何一つ説明されていない。
「それに、日本が敵じゃないからって、次に門から来るものまで同じとは限らない」
エミリアは黙って聞いている。
「FENRIRは日本と戦うためにあるんじゃない」
「うん」
「でも、何かが起きた時に動ける部隊でいる必要はある」
「だから訓練を続ける?」
「そう」
レイブンは訓練場を見る。
「平和だから訓練しないんじゃない。平和なうちに訓練する」
その夜。
クロウ夫妻の家。
「手、痛い」
レイブンが呟いた。
エリシアが夕食の皿を置く。
「教官が?」
「ずっと見本やってたから」
「マッスルメモリーは?」
「筋肉にも疲労はあるんだよ」
「Sageに聞かれたら怒られるね」
「言わないで」
「報告しようかな」
「妻が怖い」
「今さら?」
二人は笑った。
窓の外。
国境の町は今日も明かりを増やしている。
日本国が現れた。
異界門が開いた。
二つの世界が接触した。
それでも。
明日の朝になれば、レイブンはまた訓練場へ立つ。
十五秒。
それは誰かへ見せつけるための記録ではない。
まして、速さそのものを誇るための数字でもなかった。
暗闇でも。
泥の中でも。
恐怖で頭が真っ白になっても。
手だけは、自分が何をすべきか覚えている。
そのための十五秒だった。
そしてレイブンが本当に隊員たちへ叩き込みたかったものは、さらにその先にある。
武器を戻す。
仲間を戻す。
自分も戻る。
どれほど世界が変わっても、その最後の一つだけは変えない。
それが、NoXがFENRIRへ教え続ける戦い方だった。




