Season 5「境界の兆候」 #085
第85話「二つの世界」
日本国との最初の国際議会から一夜が明けても、異界門は閉じなかった。
帝国北西部の山岳地帯に開いた門は、昨日まで繰り返されていた十二秒や十五秒という短い揺らぎとは違い、明確な形を保ったまま存在している。
ただし、拡大もしていない。
新たな異界軍が押し寄せてくることもなかった。
門のこちら側には帝国軍が展開し、そのさらに後方には連邦共和国を含む各国から派遣された監視要員が置かれている。門の向こう側にも日本国の自衛隊員がいるが、双方とも前日の合意に従って一定の距離を保ち、武器を相手へ向けることはなかった。
奇妙な光景だった。
第一次異界大戦では、異界門は戦争の入口だった。
開けば敵が来る。
閉じなければ戦争が続く。
レイブン・S・クロウにとって、異界門とはそういうものだった。
だが今回は違う。
門が開いている。
武装した兵士もいる。
戦闘車両さえ存在する。
それでも銃声がしない。
代わりに、門を越えて行き来しているのは外交文書と観測資料だった。
「……変な感じだな」
レイブンが呟いた。
国境地帯の自宅。
朝食を終えた彼は居間の端末で最新報告を確認していた。
「何が?」
食器を片付けながらエリシアが尋ねる。
「門が開いてるのに、誰も撃ってない」
「いいことでしょう?」
「もちろん」
レイブンは頷く。
「ただ、身体がまだ慣れない」
エリシアの手が止まった。
「昨日のこと?」
「それもある」
国際議会の途中。
レイブンとエリシアは、また同じ感覚を覚えた。
痛みではない。
魔力の暴走でもない。
門が安定している間、身体の奥にごく弱い違和感が残っていた。
今は消えている。
「肩は?」
「大丈夫」
「見せて」
「朝から?」
「朝だから」
「理由になってないだろ」
「早く」
「はい」
レイブンは諦めて軍服の上着をずらした。
エリシアが左肩を見る。
古い傷。
第一次異界大戦で負った傷痕は、また僅かに薄くなっていた。
「……やっぱり」
「また?」
「うん」
「エリシアは?」
「私も昨日確認した」
「消えてる?」
「少しずつ」
二人とも黙る。
原因は分からない。
軍病院でも明確な説明は得られていない。
さらに門の異常と同時に、二人が似た感覚を覚えている。
「今日、検査だよな」
「午後から」
「逃げちゃ駄目?」
「駄目」
「即答か」
「あなた、一回許したら本当に逃げるでしょう?」
「逃げないよ」
「NoX」
「……努力します」
エリシアがため息をついた。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「誰だろ」
レイブンが立ち上がる。
扉を開けると。
「おはようございます、兄様」
「ルナ?」
白髪と白い猫耳。
ルナ・クロウ〔夜〕が立っていた。
軍服姿である。
「どうした?」
「迎えに来ました」
「誰を?」
「兄様とエリシア姉様を」
「何で?」
「FENRIR緊急会議です」
レイブンが止まる。
「門?」
「違います」
「じゃあ何?」
ルナは持っていた端末を見せる。
「日本国から正式要請が来ました」
エリシアも玄関へ来る。
「どんな?」
ルナが読み上げる。
「日本国政府は、異界門の安定性及び相互安全確認を目的として、限定的な相互調査団の派遣を提案する――だそうです」
「相互?」
レイブンが聞き返した。
「はい」
「日本側がこっちに来るだけじゃなく?」
「こちらからも」
ルナが兄を見る。
「日本へ行ってほしいそうです」
レイブンの黒い猫耳が立った。
「……俺たちが?」
「FENRIR全員ではありません」
「じゃあ?」
「代表者です」
エリシアが嫌な予感を覚えたようにレイブンを見る。
レイブンも同じ顔をしていた。
「まさか」
ルナは微笑んだ。
「そのまさかです」
旧ヴァルナ河口国際港湾区。
午前九時。
FENRIR統合作戦室には三人の指揮官と主要参謀が集まっていた。
中央画面には日本国から送られた提案書が表示されている。
エミリア・R・ヴァレンシュタイン〔猟鷹〕が説明を担当していた。
「今回の提案は、国交樹立そのものとは別」
画面が切り替わる。
「第一目的は異界門の安全確認。第二に相互環境調査。第三に、限定的な人的交流」
「人的交流って?」
レイブンが尋ねる。
「お互いの世界を実際に見る」
「本当に行くんだ」
「まだ決定じゃない」
エミリアは続ける。
「帝国政府、連邦共和国政府、参加各国の承認が必要」
「日本側は誰を寄越すの?」
エリシアが尋ねる。
「外交官、研究者、医療関係者。それと護衛として自衛隊員」
「人数は?」
「かなり限定される予定」
ルナが資料を読む。
「こちら側も同じ?」
「そう」
エミリアは三人を見る。
「外交官、技術者、医療関係者、そして安全保障部門」
嫌な予感が確信へ変わった。
レイブンが椅子へ深く座る。
「やっぱり俺たち?」
「候補」
「断れる?」
「政府命令になったら難しい」
「父さんは?」
「技術顧問として候補に入ってる」
「……一家で異世界旅行?」
「観光じゃない」
エリシアが突っ込む。
ルナが小さく手を上げる。
「質問」
「どうぞ」
「STYXの私は必要なんですか?」
エミリアが別の資料を開く。
「日本国は海に囲まれた国らしい」
ルナの青い瞳が僅かに動いた。
「海?」
「大きな島がいくつかあって、その周囲を海が囲んでいる」
「河川は?」
「当然ある」
ルナが身を乗り出す。
「港は?」
「ある」
「舟艇は?」
「Nyx」
レイブンが止める。
「何ですか?」
「楽しそうになってる」
「なってません」
「猫耳動いてるぞ」
ルナが自分の耳を押さえた。
「兄様に言われたくありません」
エリシアが笑う。
「兄妹だね」
「違います」
二人の声が重なった。
エミリアは呆れながら資料を続ける。
「日本側から提供された基礎情報には、地理だけじゃなく人口、政治制度、社会制度、交通、医療、防災、軍事組織についての概要も入ってる」
「軍事組織」
レイブンが反応する。
「自衛隊?」
「そう」
中央画面に文字が表示される。
陸上自衛隊。
海上自衛隊。
航空自衛隊。
「三つ?」
レイブンが尋ねる。
「主な区分としてはね」
「陸、海、空……」
ルナは海上自衛隊の文字を見ている。
「Nyx」
「何ですか」
「顔に出てる」
「出てません」
「出てるよ」
「兄様は陸上自衛隊を見て同じ顔してます」
「俺はしてない」
「してる」
エリシアが二人を見る。
「二人ともしてる」
「……」
兄妹が黙った。
ノアが横から口を挟む。
「俺は通信技術のほうが気になる」
「Cipherまで?」
「異世界だぞ。通信体系が違う可能性が高い」
エミリアも頷く。
「私も装備規格と技術体系を見たい」
「結局みんな興味あるんじゃないか」
レイブンが言った。
「興味と警戒は両立する」
エミリアは淡々と答える。
その通りだった。
日本国は敵対行動を取っていない。
外交官を送り、会議に応じ、門周辺での武力不行使にも合意した。
だが未知の国家であることは変わらない。
そして日本側から見れば、帝国も連邦共和国もFENRIRも同じだった。
未知。
魔法を使う人間。
猫や狐の特徴を持つ亜人。
第一次異界大戦を経験した軍隊。
相手から見れば、こちらこそ異世界なのだ。
「そういえば」
レイブンが呟く。
「何?」
エリシアが見る。
「日本人、俺たちの耳見ても意外と普通だったな」
「見てたよ」
「そう?」
「外交官だから顔に出さなかっただけじゃない?」
ルナが自分の白い猫耳へ触れる。
「向こうには亜人はいないんでしょうか」
「資料では確認されてない」
エミリアが答えた。
「少なくとも日本側が提供した人口分類には、人間種以外の記載はない」
「じゃあ私たち、かなり目立つ?」
「間違いなく」
ルナの耳が伏せた。
「……行くのやめようかな」
「さっきまで港に興味津々だっただろ」
「それとこれは別です」
午前十時二十分。
会議の途中で新しい通信が入った。
帝国政府から。
連邦共和国政府から。
そして国際議会事務局から。
相互調査団派遣。
原則承認。
ただし段階的に実施する。
最初に門そのものの共同調査。
次に日本側代表団の限定入境。
安全性が確認された後、こちら側の代表団が日本国へ入る。
それまでは民間人の往来を認めない。
交易も開始しない。
武器・魔導装備・生物試料の持ち込みにも厳格な制限を設ける。
「妥当だな」
レイブンが言った。
「思ったより慎重」
エリシアが答える。
「慎重なくらいでいい」
第一次異界大戦では、その慎重さを持つ時間すらなかった。
門が開き。
戦いが始まり。
考えるより先に人が死んだ。
今回は違う。
時間がある。
話せる。
ならば使うべきだった。
午後。
レイブンとエリシアは予定通り軍病院へ向かった。
門の問題が起きても、検査は逃れられなかった。
「異常なしです」
軍医が言った。
レイブンは診察台の上で瞬きをする。
「本当に?」
「現時点では」
軍医は画像を表示する。
「骨格、筋肉、魔力循環、臓器機能。どれも正常範囲です」
「じゃあ傷が消えてるのは?」
「そこが分かりません」
別の画面。
以前撮影したレイブンの左肩。
そして現在。
傷痕が明らかに薄い。
「通常の治癒として説明するには速すぎます」
「悪いこと?」
「現状では断定できません」
エリシアも同様だった。
古い微細損傷。
傷痕。
過去の負傷部位。
少しずつ修復されている。
「身体が若返ってるとか?」
レイブンが冗談半分で尋ねた。
軍医は笑わなかった。
「現時点で、そこまでの結論を出す資料はありません」
「……真面目に返された」
「あなたが変なこと言うから」
エリシアが言う。
軍医は二人を見る。
「ただ、一つお願いがあります」
「何ですか?」
「今後、異界門付近で同じ感覚を覚えた場合、正確な時刻を記録してください」
レイブンの表情が変わる。
「門との関係を疑ってる?」
「疑う材料がある以上、調べます」
「分かりました」
「それと」
軍医はレイブンを見る。
「無理をしない」
「それ、Sageにも言われました」
「なら二回目です」
「父にも言われると思います」
「三回になりますね」
「妻にも言われてます」
「四回です」
エリシアが笑った。
「それでも聞かないんですよ」
「聞いてるよ」
「聞くだけでしょう?」
「……」
軍医が深く頷く。
「奥様の監視を推奨します」
「軍医まで敵になった」
病院を出た頃には、夕方になっていた。
レイブンとエリシアは帰宅する。
道沿いにはいつもの景色がある。
店。
住宅。
工事現場。
交易車両。
子供たち。
異界門が開いても、世界の全てが止まったわけではない。
人々は暮らしている。
それがレイブンには嬉しかった。
家へ着く。
「ただいま」
「ただいま」
二人で言う。
装備を外す。
軍服の上着を脱ぐ。
レイブンは居間の椅子へ座った。
「疲れた」
「今日は戦ってないよ」
「病院が一番疲れた」
「子供?」
「検査長いんだよ」
エリシアが台所へ向かう。
「夕飯作るね」
「手伝う」
「今日は私が作る」
「昨日の俺の料理そんなに駄目だった?」
「……食べられたよ」
「間があったぞ」
その時。
通信端末が鳴った。
二人が止まる。
最近、この音に良い印象がない。
「今度は何?」
レイブンが端末を見る。
FENRIR優先通信ではない。
帝国政府。
正式通知。
「……来た」
「何?」
エリシアが近づく。
レイブンが読み上げる。
「異界相互調査団派遣に伴い、FJTFより代表者を選出する」
「誰?」
「書いてある」
レイブンは少し黙った。
「レイブン・S・クロウ」
「やっぱり」
「エリシア・L・ヴォルハラム=クロウ」
「私もね」
「ルナ・クロウ」
二人とも黙った。
続き。
技術顧問。
「ヴォルター・クロウ」
エリシアが吹き出した。
「本当に一家で行くことになった」
「笑い事じゃない」
「お義母さん以外ほとんどクロウ家じゃない」
「家族旅行みたいに言うなよ」
さらに読む。
エミリア・R・ヴァレンシュタイン。
ノア・ヴェルナー。
医療・技術・外交要員数名。
「かなり本格的だな」
「まだ先でしょう?」
「共同調査が終わってから」
レイブンは画面を見つめる。
その向こうにある国。
日本国。
海に囲まれた島国。
自衛隊。
未知の技術。
自分たちと同じ言葉を話す人々。
そして、原因不明の異界門。
「エリシア」
「何?」
「怖い?」
少し考えてから彼女は答えた。
「少し」
「俺も」
「珍しいね。素直」
「未知の世界だぞ」
「第一次異界大戦の時もそうだったでしょう?」
「だから怖いんだよ」
エリシアの表情が柔らかくなる。
レイブンは続けた。
「でも今回は違う」
「うん」
「向こうから最初に来たのは外交官だった」
「うん」
「だから俺たちも、銃だけ持って行くわけにはいかない」
「何を持って行く?」
レイブンは少し考える。
「言葉かな」
エリシアが笑う。
「昨日と同じだね」
「それで済むなら、それが一番いい」
夜。
日本国側。
異界門の向こうに設置された臨時施設でも、同じように準備が進められていた。
外交担当者。
研究者。
医療関係者。
そして自衛隊。
机の上には、異世界側から提供された基礎資料が置かれている。
帝国。
連邦共和国。
第一次異界大戦。
魔法。
亜人。
FENRIR。
資料の一枚には、三人の写真があった。
黒髪と黒い猫耳。
金色と黒の左右異なる瞳を持つ男。
Raven S. Crow / NoX
その隣。
Elysia L. Wolhalam-Crow / Valkyrie
さらに。
白髪と白い猫耳の若い女性。
Luna Crow / Nyx
一人の自衛隊員が資料を見る。
「……この三人がFJTFの指揮官?」
「そうらしい」
「家族?」
「夫婦と兄妹だそうだ」
「すごい家だな」
別の隊員が苦笑する。
「向こうも、こっち見て同じこと思ってるだろ」
「何を?」
「異世界から外交官の後ろについて戦闘車両まで出した国だぞ」
「ああ……」
二人は顔を見合わせた。
「確かに」
その会話を知らないまま。
レイブンは国境地帯の家で眠りにつこうとしていた。
だが、なかなか眠れない。
「レイブン」
「起きてる」
「分かってる」
「何?」
「日本のこと考えてる?」
「うん」
暗い寝室。
「どんなところなんだろうな」
「行けば分かるよ」
「そうだな」
少し沈黙する。
「海があるらしい」
「Nyxが喜びそう」
「絶対舟艇見たがる」
「あなたは?」
「自衛隊の装備」
「やっぱり」
「いや、軍人なら気になるだろ」
「私は街を見たい」
「街?」
「普通の人がどう暮らしてるのか」
レイブンは天井を見る。
その答えが、妙にエリシアらしいと思った。
「俺も見たいな」
「何を?」
「向こうの家」
「家?」
「日本の兵士も、任務が終わったら帰る場所があるんだろ」
「あると思う」
「なら」
レイブンは目を閉じる。
「少し分かり合えるかもしれない」
エリシアの手が、暗闇の中でレイブンの手へ触れた。
「きっとね」
二人の世界の間には、まだ一つの門しかない。
互いの歴史も知らない。
常識も違う。
軍事制度も。
文化も。
技術も。
魔法の有無さえ違う。
それでも。
門の両側で、人々は同じように未知を恐れ、同じように家族を思い、同じように明日の準備をしていた。
異界門は、第一次異界大戦では世界を分断する戦争の入口だった。
今度の門が何をもたらすのかは、まだ誰にも分からない。
ただ少なくとも。
その門を越える次の一歩を、どちらの世界も銃撃ではなく対話によって選ぼうとしていた。




