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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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82/189

Season 5「境界の兆候」  #082

第82話「十二秒の異常」


 午前二時十四分。

 帝国北西部山岳観測施設で記録された異常は、わずか十二秒間だった。

 空に亀裂が走ったわけではない。

 異界門が姿を現したわけでもない。

 異界軍が現れたわけでもなければ、周辺の集落から異常を訴える通報が入ったわけでもなかった。

 観測施設の外には、いつもと変わらない夜の山々が広がっている。雲の隙間から月明かりが雪の残る稜線を照らし、谷を抜ける風が観測棟の壁を低く鳴らしていた。

 しかし施設内部では、夜勤の技術員たちが眠気を完全に失っていた。

「記録、もう一度出してくれ」

「前回との比較ですか?」

「いや。第一次異界大戦前の観測資料も全部だ。似た波形がないか調べる」

 主任技術員の指示を受け、複数の端末に過去の記録が呼び出されていく。

 中央画面には、先ほど観測された十二秒間の波形が残っていた。

 最初の二秒は、ごく僅かな魔力変動だった。

 四秒を過ぎたところで空間歪曲値が上昇し始め、七秒付近から波形が二つへ分離する。

 そして十二秒。

 全てが突然、消えた。

 余韻さえ残らない。

 異常が起きる前と同じ値へ戻っている。

「機器故障の可能性は?」

「三系統が同時に反応しています。主観測機だけなら疑えますが……」

「予備系統も?」

「同じです」

 主任は腕を組んだ。

「外部観測所は?」

「問い合わせ中です」

 数十秒後、別の技術員が振り返る。

「北西第三観測所から回答。同時刻に微弱な魔力変動を記録しています」

「距離は?」

「ここから約七十キロ」

 室内が静かになった。

 一つの施設だけなら、誤作動という説明もできた。

 二か所となれば話は変わる。

「第二観測所は?」

「異常なし。ただし地形遮蔽の影響を受ける可能性があります」

「記録は消すな。生データのまま保存しろ」

「了解」

 主任は中央画面を見る。

「警戒分類は?」

「現状では第三種観測異常です」

「そのままでいい。ただし異界関連事象の可能性ありと追記する」

「FENRIRへも?」

「すでに自動共有されている」

 主任は十二秒間の波形を見つめた。

「何なんだ、お前は……」

 画面は答えなかった。

 同じ時刻。

 国境地帯のクロウ夫妻宅では、レイブンとエリシアが軍用通信端末の前に立っていた。

 レイブンの黒い猫耳は完全に起きている。

 眠気は消えていた。

 画面には先ほど届いた追加情報が表示されている。

 観測地点周辺において、原因不明の空間位相差を確認。

「第一次異界大戦の時にもあった?」

 エリシアが尋ねた。

「空間位相差自体は」

 レイブンは記憶を探る。

「でも、俺は技術屋じゃない。父さんかファルコンに聞いたほうがいい」

「今、何時だと思ってるの?」

「父さんなら起きてそう」

「それは否定できない」

 言いながらも、二人はすぐには連絡しなかった。

 緊急出動命令は出ていない。

 観測部門からの通知も、現時点では警戒情報に留まっている。

 異界門が形成されたという報告もない。

 今すぐ軍服へ着替えて家を飛び出す理由はなかった。

 それでも。

「十二秒か」

 レイブンが呟く。

「短いね」

「うん」

「でも前回より長い」

「そうだな」

 レイブンは左肩へ触れた。

 先ほど感じた熱は、もうない。

 第一次異界大戦で負った傷痕も、見たところ変化していない。

「肩?」

「もう何ともない」

「本当に?」

「本当に」

 エリシアは疑うように見た。

「何?」

「あなたの『大丈夫』は信用度が低い」

「そんなことないよ」

「第一次異界大戦中に何回聞いたと思ってるの?」

「……今回は本当に大丈夫」

「明日、診てもらおう」

「はい」

 反論しなかった。

 エリシアもまた、自分の身体に同じ違和感を覚えていたからだ。

 偶然なのか。

 観測された異常と関係があるのか。

 現時点では何も分からない。

「寝る?」

 エリシアが尋ねる。

「寝られると思う?」

「私は無理そう」

「俺も」

 結局、二人は居間へ残った。

 エリシアが湯を沸かす。

 レイブンは軍用端末から観測情報を読み返す。

 十二秒。

 たった十二秒。

 戦場なら、もっと短い時間で人は死ぬ。

 だが世界全体から見れば、瞬きのような時間だった。

 それでも、その十二秒が妙に頭から離れなかった。

「珈琲」

「ありがとう」

 エリシアが向かいへ座る。

「考えてる?」

「うん」

「異界軍?」

「そこまでは」

 レイブンは首を振った。

「今の段階で敵だと決めるのは早い」

「珍しく慎重」

「珍しくって何だよ」

「あなたなら『見に行こう』って言うかと思った」

「俺だって成長するよ」

「本当に?」

「……少しは」

 エリシアが笑った。

 その笑顔を見て、レイブンの肩から僅かに力が抜ける。

「それに」

 レイブンは続けた。

「俺一人で決める話じゃない」

 以前なら違った。

 危険を感じれば、自分で確かめようとした。

 自分が行けばいいと思っていた。

 今はWOLF PACKを率いている。

 FENRIRがある。

 自分の判断一つで、何十人、何百人という人間の動きが変わることがある。

 そして何より、第一次異界大戦を経験したからこそ、分からないものを分からないまま敵と決めつける危険も知っていた。

「朝になったら父さんに連絡する」

「ファルコンにも?」

「うん。それからNyxにも一応確認する」

「ルナちゃん?」

「STYXにも警戒情報は行ってるはずだから」

「もう起きてたりして」

「まさか」

 同じ頃。

 旧ヴァルナ港。

「もう一回お願いします」

 ルナは起きていた。

 STYXの通信室。

 寝間着の上から上着だけ羽織ったフィオナ・リューン《Siren》が、眠そうな目で端末を操作している。

「Nyx……まだ出動命令じゃないよ」

「分かってる」

「じゃあ朝でも……」

「気になる」

「NoXと同じこと言い始めてるよ」

 ルナの白い猫耳が僅かに動いた。

「似てない」

「似てる」

「似てない」

「兄妹だねえ」

「Siren」

「はいはい」

 フィオナが記録を再表示する。

「STYXに届いてるのはFENRIR共通警戒情報と同じ。帝国北西部で十二秒間の魔力変動。空間歪曲あり。門形成なし」

「河川に異常は?」

「今のところないよ」

「水位、流速、魔力濃度は?」

「全部通常値」

「沿岸は?」

「通常」

 ルナは少し安心した。

 だが、完全には納得していない。

「Nyx」

「何?」

「出動になったら起こす」

「起きてる」

「だから寝て」

「……はい」

 ルナは通信室を出る。

 宿舎へ戻る途中、窓から河川を見る。

 月明かりが水面に揺れている。

 静かだった。

 第一次異界大戦を経験した兄とは違い、ルナ自身には異界軍との長い戦闘経験がない。

 兄から話を聞いた。

 エリシアからも聞いた。

 ヴォルターからも。

 訓練でも学んだ。

 だが実際に経験することと、話として知ることは違う。

 もし本当に。

 また門が開いたら。

 ルナは一瞬だけ立ち止まった。

「……大丈夫」

 自分へ言う。

 STYXがある。

 一人ではない。

 カイ。

 セレス。

 レン。

 リリア。

 タルク。

 フィオナ。

 エリス。

 そしてFENRIR。

「帰せる」

 ルナは水面を見た。

「ちゃんと、帰せる」

 翌朝。

 レイブンとエリシアは予定より早く家を出た。

 行き先はFENRIR統合作戦室だった。

 到着すると、すでにエミリアがいる。

「おはよう」

 レイブンが声を掛ける。

「遅い」

「まだ六時半だぞ」

「私は五時からいる」

「それはファルコンが早すぎる」

「ヴォルター技術顧問は四時五十二分から解析してる」

「父さん何してんだよ……」

 エリシアが小さく笑う。

「似てるね」

「誰と?」

「親子」

「似てない」

「Nyxも夜中にSTYXの通信記録を確認してた」

 エミリアが言った。

 レイブンが止まる。

「ルナも?」

「Sirenから記録来てる」

「……似てない」

「三人とも同じ」

 エリシアが笑いを堪える。

「何で笑うんだよ」

「何でもない」

 エミリアが中央表示装置へ観測波形を映す。

「遊んでる場合じゃない」

 レイブンとエリシアの表情が変わった。

 十二秒間の記録。

 その下には前回の微弱反応。

 さらに第一次異界大戦以前の観測資料。

「結論から言う」

 エミリアが言った。

「分からない」

「……結論?」

「分からないことが分かった」

「それ大事?」

「かなり大事」

 エミリアは波形の一部を拡大する。

「第一次異界大戦で観測された門形成前兆と似ている部分はある。でも完全一致じゃない」

「違いは?」

 エリシアが尋ねる。

「一番大きいのはこれ」

 七秒付近。

 波形が二つへ分かれている。

「第一次異界大戦では?」

「確認されてない」

「つまり?」

「未知の現象」

 レイブンは画面を見る。

「門が変わった?」

「可能性の一つ」

「別の何か?」

「それも可能性の一つ」

「機器故障?」

「二つの観測所が同時刻に反応してるから可能性は低くなった。でもゼロではない」

 レイブンは腕を組んだ。

「何も分からないな」

「だから調べる」

 扉が開いた。

「その通りだ」

 聞き慣れた声。

 レイブンが振り返る。

「父さん」

 ヴォルター・クロウが入ってくる。

 片腕で資料端末を抱えていた。

「早いね」

「お前に言われたくない」

「四時五十二分から解析してたって」

「誰から聞いた」

「ファルコン」

「余計なことを」

 エミリアは平然としている。

「事実です」

 ヴォルターは机へ資料を置いた。

「今から言うことは推測だ。確定情報と混同するな」

 三人が頷く。

「第一次異界大戦の門は、こちらと向こう側の空間を一時的に接続した」

 ヴォルターが波形を示す。

「形成前には魔力濃度の上昇と空間歪曲が観測された。今回もそこまでは似ている」

「でも分離してる」

 レイブンが言った。

「そうだ」

「何で?」

「分からん」

「父さんでも?」

「俺を何だと思ってる」

「何でも知ってる人」

「父親を便利な辞書にするな」

 エリシアが僅かに笑う。

 ヴォルターは続けた。

「ただし一つだけ気になる」

「何?」

「波形の分離が、単純な乱れに見えん」

 室内が静かになる。

「規則性がある?」

 エミリアが尋ねる。

「可能性がある」

 ヴォルターは二本の波形を重ねる。

「片方がもう片方へ干渉しているようにも見える」

「二つの門?」

 レイブンが聞く。

「そう決めるな」

「はい」

「二つの空間なのか、二種類の魔力なのか、一つの現象が分裂して観測されているだけなのか、それすら分からん」

 ヴォルターは息を吐く。

「だから現地を調べる」

 レイブンの金と黒の瞳が動いた。

「誰が?」

「帝国軍観測部と技術調査班だ」

「FENRIRは?」

「護衛」

 レイブンの表情が変わる。

「出動?」

「まだ予備命令だ」

 ヴォルターは息子を見る。

「嬉しそうな顔をするな」

「してない」

「してる」

「してないって」

「Valkyrie」

 ヴォルターがエリシアを見る。

「してます」

「エリシア?」

「少し」

「妻まで」

 ヴォルターはため息をついた。

「戦いに行くんじゃない。調査班を守るだけだ」

「分かってる」

「敵がいるとも限らん」

「分かってる」

「勝手に先行するな」

「……分かってる」

「今の間は何だ」

「何でもない」

 エミリアが端末へ何か入力する。

「記録しました」

「何を?」

「NoXが先行しないと約束したこと」

「約束まではしてないだろ」

「今しました」

「してない!」

 重かった室内の空気が僅かに緩む。

 それでも。

 レイブンは画面から目を離さなかった。

 午前七時十三分。

 FENRIRへ予備出動命令が発令された。

 WOLF PACK。

 待機。

 EINHERJAR。

 即応人員を準備。

 STYX。

 水路作戦ではないため主力舟艇群は待機。ただし救難・輸送支援要員を即応状態へ。

 全面出動ではない。

 戦争でもない。

 ただの調査任務。

 そのはずだった。

 WOLF PACKの装備区画へ入ると、すでに仲間たちが集まっていた。

「よう、隊長」

 ガイル《Hound》が言う。

「早いな」

「呼ばれたからな」

 ディートリヒ《Grizzly》は装備表を確認している。

 ミレイア《Lynx》は現地地形図を見ていた。

 ヨハン《Hawk》は観測地点周辺の標高情報を確認している。

 ノア〔Cipher〕は通信環境を調べていた。

 フィーナ《Sage》もいる。

「Sage」

 レイブンが呼ぶ。

「大丈夫?」

 フィーナは一瞬だけ黙った。

 調査地点。

 異界関連事象。

 第一次異界大戦を思い出すには十分な言葉だった。

「怖いよ」

 彼女は隠さなかった。

「でも今回は後方支援で行く」

「無理はしなくていい」

「分かってる」

 フィーナはレイブンを見る。

「NoXもね」

「俺?」

「あなたも無理しない」

「分かった」

「本当に?」

「……努力する」

「その返事嫌い」

 ガイルが笑う。

「隊長が一番信用されてねえな」

「うるさい」

 レイブンは装備棚を見る。

 SG-44。

 ISG-42A3《RAVEN》。

 少し迷う。

 手に取ったのはRAVENだった。

 新しい部隊。

 新しい時代。

 そして、正体の分からない異常。

「NoX」

 ノアが声を掛ける。

「現地観測所との通信確認できた」

「状況は?」

「今は正常」

「追加反応は?」

「なし」

「了解」

 レイブンは装備を整える。

 腰には帝国軍制式自動拳銃。

 必要な通信装備。

 そしてISG-42A3。

 T-51《REAPER》は持ち出さない。

 戦闘任務ではない。

 必要以上の装備を持って行く理由はなかった。

 午前八時。

 旧ヴァルナ港の共同区画。

 EINHERJARの車両が並ぶ。

 エリシアが人員を確認している。

 STYX側ではルナが待っていた。

「兄様」

「勤務中」

「まだ出発前です」

「最近本当に強いな、その返し」

 ルナは少し笑った。

「私たちは残留です」

「うん」

「水路任務じゃないから」

「今回はね」

 ルナは一瞬、視線を落とす。

「……行きたかった?」

 レイブンが尋ねる。

「少し」

「何で?」

「FENRIRだから」

 ルナは兄を見る。

「WOLF PACKとEINHERJARだけ行って、STYXだけ残るのは少し嫌です」

「気持ちは分かる」

「でも命令には従います」

「それでいい」

 レイブンは妹の肩へ手を置いた。

「全員が同じ場所へ行く必要はない」

「はい」

「STYXが必要になったら?」

 ルナの青い瞳がレイブンを見る。

「どんな水路でも行きます」

「その時は頼む」

「必ず」

 エリシアが歩いてくる。

「NoX、そろそろ」

「了解」

 レイブンはルナから離れる。

「行ってくる」

 ルナは一瞬だけ妹の顔になった。

「……兄様」

「何?」

「帰ってきてね」

 レイブンは笑った。

「もちろん」

 そしてルナもすぐに指揮官の顔へ戻った。

「STYXは待機を継続します。必要ならいつでも出られます」

「了解、Nyx」

 午前八時十七分。

 FENRIR所属の車列が旧ヴァルナ港を出発した。

 先頭には帝国軍観測部の車両。

 技術調査班。

 護衛のWOLF PACK。

 後方にはEINHERJARの即応部隊。

 目的地は帝国北西部山岳地帯。

 異界門は確認されていない。

 敵影なし。

 戦闘想定なし。

 ただの調査。

 レイブンは車窓から外を見る。

 国境地帯の建物が遠ざかる。

 民間車両。

 畑。

 復旧された道路。

 人々の暮らし。

 第一次異界大戦後に取り戻したものが、次々と後ろへ流れていく。

「NoX」

 隣に座るガイルが呼ぶ。

「何?」

「考えすぎだ」

「顔に出てる?」

「猫耳に出てる」

 レイブンは自分の耳へ触れる。

「そんな分かりやすい?」

「昔からな」

「知らなかった」

「お前だけだよ」

 ガイルは前を見る。

「十二秒だろ?」

「うん」

「十二秒で世界が終わるわけじゃねえ」

「そうだな」

「現地見て、何もなけりゃ帰る」

「うん」

「何かあったら?」

 レイブンは少し考えた。

「その時考える」

「それでいい」

 車列は北西へ向かう。

 同じ頃。

 目的地からさらに山奥。

 人間の観測機器が最初の異常を捉えた地点から、数キロ離れた谷。

 誰もいない。

 道もない。

 古い岩壁。

 雪解け水が細く流れている。

 鳥が一羽、岩の上に降りた。

 静かな朝だった。

 鳥が首を傾げる。

 空気が揺れた。

 ほんの僅か。

 鳥が飛び立つ。

 何もない空間に、細い線が現れた。

 髪の毛ほどの細さ。

 光ではない。

 影でもない。

 向こう側が見えるわけでもない。

 ただ、その線の周囲だけ、景色が僅かに歪んでいた。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 線が伸びる。

 十センチ。

 二十センチ。

 そして。

 十二秒。

 消えた。

 谷に静けさが戻る。

 誰も見ていなかった。

 観測施設の警報も鳴らなかった。

 だが岩肌には、それまで存在しなかった小さな痕が残っていた。

 黒く焦げたわけではない。

 砕けてもいない。

 ただ。

 岩の表面が、薄く削り取られたように消えている。

 まるでそこにあった物質だけが、別の場所へ持っていかれたかのように。

 数時間後。

 レイブンたちが、その谷へ足を踏み入れることになる。

 そして彼らは初めて知る。

 十二秒の異常は、計器の中だけで起きていたのではない。

 境界はすでに――ほんの僅かに、こちら側へ触れ始めていた。

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