Season 4「NoX」 #081
第81話「境界の向こう側」
異界統合特殊任務部隊《FENRIR》が正式に発足してから、しばらくの時間が流れた。
世界は、少しずつ戦争のない暮らしを思い出し始めていた。
第一次異界大戦の最中であれば、帝国と連邦共和国の国境を越える車両の大半は軍用だった。装甲車、兵員輸送車、補給車、負傷者を乗せた救急車両。誰もが検問所で武器を確認し、互いの軍服を警戒しながら通過していた。
今、その道を走る車両の多くは違う。
食料を積んだ貨物車。
木材や鋼材を運ぶ大型輸送車。
戦災地域へ向かう建設会社の車。
帝国で作られた商品を連邦共和国へ運ぶ商人もいれば、連邦側の機械部品を帝国の工場へ届ける運送業者もいる。
かつて敵国同士を隔てていた検問所では、兵士より税関職員の姿が目立つようになった。
それは、ほんの数年前には考えられなかった光景だった。
その国境地帯に建つ一軒の家にも、朝が来る。
「……また増えてる」
窓辺に立っていたレイブン・S・クロウが呟いた。
まだ寝起きだった。
黒髪には寝癖が残り、黒い猫耳の片方が僅かに横を向いている。
後ろからエリシア・L・ヴォルハラム=クロウがやってきた。
「何が?」
「家」
レイブンが窓の向こうを指す。
「ほら。向こう」
「ああ」
エリシアも覗く。
以前は草地しかなかった場所に、新しい建物の骨組みが立っている。
「昨日も工事してたでしょう?」
「昨日は二階までなかった」
「毎日確認してるの?」
「見えるから気になるんだよ」
レイブンとエリシアがこの土地へ住み始めた頃、周囲には本当に何もなかった。
旧街道。
放棄された農地。
戦争中に使われなくなった小さな倉庫。
そして遠くに見える国境施設。
静かな場所だった。
帝国にいるレイブンの家族にも、連邦共和国にいるエリシアの母にも会いに行きやすい。二人がこの場所を選んだ理由は、それだけだった。
しかし和平が成立してから、人の流れが変わった。
街道が交易路になった。
物流倉庫が建った。
修理工場ができた。
宿泊施設ができた。
国境を越えて働く人々のための住宅が建ち始めた。
最近では小さな食料品店まで営業を始めている。
「そのうち、ここも町になるかもね」
エリシアが言った。
「まさか」
「分からないよ」
「俺たち、静かな場所に住みたくてここ選んだんだけど」
「便利になるならいいでしょう?」
「それはそうだけど」
レイブンは外を見る。
工事現場の向こうを、連邦共和国の商標を付けた貨物車が走っていく。
その反対車線には帝国の輸送車。
二台は何事もなくすれ違った。
レイブンはしばらくその光景を見ていた。
「……平和だな」
「うん」
エリシアが隣へ立つ。
「いいこと?」
「もちろん」
即答だった。
「何も起きないなら、それが一番いい」
朝食を済ませた二人は、それぞれ軍服へ着替えた。
今日は旧ヴァルナ河口国際港湾区で、FENRIR発足後初となる本格的な三部隊合同演習が行われる。
レイブンは装備保管室へ入った。
壁際にはSG-44が置かれている。
父ヴォルターから受け取った、長年の相棒。
銃床には今も筆記体で《Crow Raven》と刻まれている。
その隣に置かれているのは、ISG-42A3《RAVEN》。
SG-44の実戦運用から得られた知見を受け継ぎながら、新しい時代の装備体系に合わせて設計された散弾銃だった。
レイブンは一瞬だけSG-44へ手を伸ばしかけた。
止める。
今日はISG-42A3を取った。
「最近そっちが増えたね」
入口からエリシアが見ている。
「慣れないと意味ないから」
「SG-44は?」
「まだ使うよ」
レイブンは振り返る。
「でも、父さんが言ってたから」
「何て?」
「古いものを大事にすることと、新しいものを拒むことは違うって」
「ヴォルターさんらしい」
「言い方はもっと怖かったけどね」
エリシアが笑う。
装備を整え、二人は家を出た。
玄関を施錠する。
レイブンはいつものように、一度だけ家を振り返った。
帰る場所を確認する。
それから車へ乗った。
旧ヴァルナ河口国際港湾区もまた、以前とは違う姿になっていた。
かつて帝国と連邦共和国を隔てていた無人港。
そこへ少しずつ人が戻っている。
一部では民間港としての復旧工事が始まり、倉庫には新しい資材が運び込まれている。
その一角に、FENRIRの共同運用区画があった。
STYXの舟艇施設。
EINHERJARの車両区画。
WOLF PACKの訓練・装備施設。
通信所。
医療区画。
技術評価棟。
旧港湾管理事務所を改修した統合作戦室。
そして正面には、新しい標章が掲げられている。
FENRIR Joint Task Force。
FJTF。
「兄様!」
車を降りた途端、聞き慣れた声が飛んできた。
レイブンは振り返る。
白銀の髪。
白い猫耳。
STYXの制服。
ルナ・クロウ〔Nyx〕だった。
「勤務中」
「まだ演習開始前です」
「最近そればっかりだな」
「兄様から学びました」
「そこは学ばなくていい」
ルナはエリシアを見る。
「エリシア姉様、おはようございます」
「おはよう、Nyx」
「EINHERJARの皆さんは?」
「先に来てるよ」
「兄様と一緒に来たんですね」
「夫婦だから」
「勤務中だぞ」
「あなた、便利な時だけそれ言うね」
そこへカイ・ロッテンが歩いてきた。
「Nyx、指揮艇の確認終わった」
「ありがとう。通信は?」
「Sirenが見てる」
「機関は?」
「Mastが最終確認中」
「分かった。Marlinと航路をもう一回確認してくる」
ルナの表情が変わる。
妹ではなく、STYXの指揮官になる。
「じゃあ後で、NoX」
「了解、Nyx」
ルナが走っていく。
レイブンはその背中を見送った。
「まだ慣れない?」
エリシアが尋ねる。
「少し」
「隊長になったこと?」
「それもある」
レイブンは小さく笑った。
「でも、ちゃんと俺がいなくても動いてる」
「それがヴォルターさんに言われたことでしょう?」
――妹を守りたいなら、兄がいつも隣にいなくても帰ってこられる兵士にしろ。
あの日の父の言葉を思い出す。
「……うん」
レイブンは頷いた。
「だから、これでいい」
午前九時。
三部隊の指揮要員が統合作戦室へ集まった。
WOLF PACK。
EINHERJAR。
STYX。
壁面には河川と周辺地域の地図が表示されている。
今回の想定は、河川上流にある集落の孤立。
主要道路は使用不能。
橋梁の一部も通行不能。
さらに周辺には敵対勢力役が存在する。
目的は敵役の撃破ではない。
孤立地域へ到達し、要救助者を確保し、全員を安全地域へ帰還させること。
「STYXが先行します」
ルナが地図を指した。
「偵察艇を上流へ出して水路を確認。問題がなければWOLF PACKを接近可能地点まで輸送します」
レイブンが頷く。
「そこから俺たちが先へ入る。敵役の配置を確認して、後続が通れる経路を確保する」
「EINHERJARは?」
ルナがエリシアを見る。
「WOLF PACKが確保した経路から救出要員を入れる。要救助者を確保したら、状態によって陸路と水路に振り分ける」
「負傷者はSTYXの救難艇へ?」
「重傷想定なら優先してお願い」
「了解」
半年前なら、ルナは兄とエリシアの意見を聞く側だった。
今は違う。
自分の判断を伝える。
必要なら異議を出す。
分からなければ質問する。
そして自分より詳しい人間がいれば、その判断を使う。
レイブンはそれを黙って見ていた。
演習が始まった。
最初に港を離れたのはSTYXだった。
河川用特殊舟艇群が次々と桟橋を離れる。
半年間の訓練は、八人を大きく変えていた。
カイが舟艇群の動きを整える。
セレスが航路を管理する。
レンが先行して水域を確認する。
リリアは岸辺と周辺構造物の変化を拾う。
タルクは各艇の状態を把握する。
フィオナが三部隊を通信で繋ぐ。
エリスは救難艇で負傷者受け入れの準備を進める。
そしてルナが、その情報を一つにまとめていた。
『NoX』
通信機から声が聞こえる。
「こちらNoX」
『予定地点まであと二分。降艇準備をお願いします』
「了解」
レイブンは立ち上がる。
「WOLF PACK、仕事だ」
「待ちくたびれたぞ」
ガイル・ベッカー《Hound》が笑う。
「演習で待ちくたびれるなよ」
「艇の上で大人しく座ってるの性に合わねえんだ」
「落ちるよりいい」
「俺を何だと思ってる?」
「昔、川で滑った奴」
「いつの話だ!」
「覚えてるよ」
「忘れろ!」
ミレイア・フェルン《Lynx》が呆れた顔で二人を見る。
「降りる前から騒がないで」
「NoXが昔の話をするからだ」
「俺のせい?」
「隊長の責任」
「便利だな、その言葉」
舟艇が接岸する。
WOLF PACKが動いた。
レイブンを先頭に、ガイル、ディートリヒ・ハイゼン《Grizzly》、ミレイア、ヨハン・リヒター《Hawk》、ノア・ヴェルナー〔暗号〕が続く。
フィーナ・アルベル《Sage》は今回は後方救護と医療連携を担当している。
彼女はまだ、必要以上に前線へ近づかない。
大きな音が苦手な日もある。
眠れない夜もある。
戦場の記憶が突然戻ることもある。
レイブンはそれを弱さだとは考えなかった。
戻れるところまで戻る。
できることをする。
それで十分だった。
そして彼女が持つ知識は、すでにWOLF PACK全体へ広がり始めている。
身体の異常を隠さないこと。
負傷を軽視しないこと。
疲労した状態では判断そのものが鈍ること。
仲間の様子が普段と違えば、声を掛けること。
敵を見るだけではなく、隣にいる人間を見ること。
それもまた、生きて帰るための技術だった。
演習は予定通りには進まなかった。
途中で水路の一部が使用不能という追加条件が出された。
通信も一部遮断される。
敵役の位置も変更された。
さらに要救助者役の一部が、歩行困難という設定へ変わった。
「面倒になってきたな」
ガイルが言う。
「そのための演習だ」
レイブンは地図を見る。
「Cipher、STYXとの通信は?」
「直接回線が不安定。中継経由なら維持できる」
「Valkyrieは?」
『聞こえてる』
エリシアの声が入った。
『EINHERJARは東側経路から接近中』
「こっちは西側を確認する。中央は使えない」
『了解。Nyxは?』
『聞こえてます』
今度はルナ。
『回収地点を変更します。下流側の第二桟橋を使います』
「距離が増えるぞ」
『分かっています。でも現在位置からなら、そちらのほうが全員を回収できます』
「判断理由は?」
『水路が生きています。それと、Mastから第二桟橋の設備が使用可能と報告を受けています』
「了解」
レイブンは笑った。
「任せる」
『了解、NoX』
通信が切れる。
ガイルが横目で見る。
「嬉しそうだな」
「何が?」
「妹」
「勤務中」
「俺には関係ないだろ、その言葉」
「便利だから使ってる」
「認めたな」
WOLF PACKが先行し。
EINHERJARが続き。
STYXが帰還路を組み替える。
三部隊はそれぞれ違う場所にいる。
それでも、一つの部隊として動いていた。
最後の要救助者役がEINHERJARによって確保される。
負傷者役がSTYXへ引き渡される。
WOLF PACKが最後に離脱する。
『NoX』
ルナの声。
「何だ?」
『全対象、収容完了』
「こっちも全員いる」
『EINHERJAR、撤収開始』
エリシアの声も入る。
『帰ろう』
短い言葉だった。
レイブンは周囲を見る。
WOLF PACKの全員がいる。
誰も欠けていない。
「了解」
帰る。
FENRIRにとって、その言葉以上に重要なものはなかった。
夕方。
最後の舟艇が旧ヴァルナ港へ戻った。
演習は成功と判定された。
もちろん問題も多い。
部隊間で通信手順に僅かな差がある。
EINHERJARは規模が大きいため、狭い地域では編制を細分化する必要がある。
STYXは舟艇ごとの輸送能力をさらに整理する必要がある。
そしてWOLF PACKには、明確な問題があった。
「先行しすぎ」
エリシアが言った。
「誰が?」
レイブンが尋ねる。
会議室にいる全員がレイブンを見た。
「何で俺を見るの?」
「隊長だから」
ガイルが即答した。
「お前も一緒に来ただろ」
「副指揮だからな」
「Lynx?」
「NoXが先に行った」
「Hawk?」
「同意」
「Grizzly?」
「記録上も先行傾向が認められる」
「Cipher?」
「位置情報残ってるけど見る?」
「いらない」
「Sage?」
「後で話があります」
「……逃げてもいい?」
「駄目」
ルナが手を上げた。
「私、兄様の味方です」
「ルナ……」
「だから次からSTYXがもっと早く回収できるようにします」
「俺が直る選択肢は?」
「あります?」
「妹からの信頼が悲しい」
笑い声が会議室へ広がった。
それは、第一次異界大戦の頃にはなかった笑いだった。
誰かが生きていることを確認するための笑いではない。
明日もまた会えると信じられる人間たちの笑いだった。
夜。
レイブンとエリシアは家へ戻った。
「ただいま」
「ただいま」
返事はない。
それでも二人は必ず言う。
レイブンは装備を戻し、エリシアは軍服の上着を脱ぐ。
「今日の夕飯どうする?」
エリシアが尋ねた。
「俺が作る」
「大丈夫?」
「何で毎回心配するんだよ」
「前科があるから」
「食べられなかったことはないだろ」
「食べられると美味しいは同じじゃないよ」
「今日こそ見返す」
「楽しみにしてる」
台所へ向かおうとした時、レイブンが左肩を押さえた。
エリシアが気づく。
「痛む?」
「違う」
レイブンは肩を動かす。
「何か変な感じがしただけ」
「見せて」
「大丈夫だよ」
「見せて」
「はい」
逆らわなかった。
第一次異界大戦で負傷した左肩。
本来なら、もっと明確な傷痕が残っているはずだった。
だが薄い。
以前よりも、さらに。
エリシアが指先で傷の周囲を確認する。
「また消えてる」
「やっぱり?」
「うん」
レイブンも見る。
「病院では原因不明だったな」
「私も同じ」
エリシアは自分の腕を見る。
彼女の古い傷も、少しずつ薄くなっていた。
治癒が早いというだけなら、まだ説明できたかもしれない。
だが古い傷まで変化している。
「もう一度検査する?」
エリシアが尋ねる。
「そうしよう」
「今度は二人一緒に」
「分かった」
レイブンは冗談を言おうとした。
だが、その瞬間。
身体の奥で何かが揺れた。
「……っ」
エリシアも同時に表情を変える。
二人が互いを見る。
「今の……」
「感じた?」
「うん」
痛みではない。
熱でもない。
魔力を使った時とも違う。
身体の奥を、ほんの一瞬だけ何かが通り抜けたような感覚。
数秒で消えた。
「何だったんだ?」
「分からない」
同じ頃。
旧ヴァルナ港のSTYX宿舎。
ルナが洗面台の鏡を見ていた。
「……あれ?」
頬へ触れる。
数日前の訓練でできた小さな擦り傷が消えている。
治っていてもおかしくない程度の傷だった。
だから、気に留めるほどではない。
それでもルナは、何となく違和感を覚えた。
「Nyx?」
後ろからセレスが呼ぶ。
「どうしたの?」
「ううん」
ルナは手を離す。
「何でもない」
その夜。
帝国北西部の山岳地帯。
第一次異界大戦では主要戦場にならなかった地域に、一つの観測施設があった。
戦後、帝国軍が新たに設置した施設だった。
目的は、異界門由来の魔力変動を観測すること。
深夜勤務の技術員が、記録端末を確認している。
異常なし。
いつも通りだった。
第一次異界大戦終結後、何度も同じ表示を見てきた。
異常なし。
門形成反応なし。
空間歪曲なし。
技術員が飲み物へ手を伸ばした。
その時。
一つの計器が動いた。
「……ん?」
僅かな変化。
地震ではない。
気圧変化でもない。
技術員は画面を確認する。
数値が戻った。
「誤差か?」
記録を残そうとした瞬間。
二つ目の計器が反応した。
続いて三つ目。
技術員の手が止まる。
「待て……」
魔力変動。
微弱。
空間歪曲値。
僅かに上昇。
異界門形成反応。
なし。
警戒値には届かない。
それでも技術員は、過去の記録を呼び出した。
第一次異界大戦。
最初の異界門が観測された時期。
保存されていた波形と、現在の数値を重ねる。
「……似てる」
完全に同じではない。
むしろ違う部分のほうが多い。
だが、一部だけ。
確かに似ている。
そして数秒後。
反応は消えた。
観測室へ静寂が戻る。
技術員はしばらく画面を見ていた。
やがて記録を保存する。
緊急警報を出すほどではない。
異界門が開いたわけでもない。
何かが出現したわけでもない。
だから報告分類は低い。
原因不明の微弱魔力変動。
再現なし。
継続観測。
翌朝。
その報告は帝国軍観測部へ送られた。
さらに技術顧問部へ回される。
数多く存在する観測報告の一つだった。
ヴォルター・クロウがその資料を見ることになるのは、その日の午後だった。
「……これは」
技術顧問室。
ヴォルターは端末に表示された波形を拡大する。
隣にいた技術士官が尋ねる。
「何か気になりますか?」
「似ている」
「何に?」
「昔の記録だ」
ヴォルターは第一次異界大戦以前の資料を呼び出した。
比較する。
眉間に皺が寄る。
「同じではない」
「では誤作動でしょうか」
「それを決めるのは早い」
ヴォルターは椅子へ深く座る。
「観測を続けろ」
「警戒度を上げますか?」
「まだいい。ただし次に同じ反応が出たら、俺へ直接回せ」
「了解しました」
技術士官が去る。
ヴォルターは一人になった。
画面を見る。
ほんの数秒の異常。
何も起きていない。
そう考えることもできる。
だがヴォルターは、第一次異界大戦が始まった日のことを覚えていた。
あの時も。
最初から世界中の空が裂けたわけではなかった。
小さな異常があった。
説明できない観測値。
原因不明の魔力反応。
誰かが見落とした変化。
そして。
門が開いた。
「……考えすぎなら、それでいい」
ヴォルターは呟いた。
報告書を閉じなかった。
数日が過ぎた。
何も起きない。
国境では交易が続く。
旧ヴァルナ港へ民間貨物船が戻り始める。
FENRIRは訓練を続ける。
STYXは河川救助演習へ参加した。
EINHERJARは戦災地域の復旧支援へ人員を出した。
WOLF PACKは帝国と連邦共和国の合同山岳訓練へ参加した。
レイブンは教官として、新しい志願兵たちの前にも立っていた。
その日、訓練場には帝国兵だけではなく、連邦共和国軍や旧抵抗軍参加国から派遣された兵士もいる。
レイブンはISG-42A3《RAVEN》を手にしていた。
「武器が変わっても、考え方まで変える必要はない」
訓練生たちが聞いている。
「撃つことそのものを目的にするな。何のために武器を持っているのかを忘れるな」
かつて父から教えられた。
戦場で失敗した。
仲間に助けられた。
自分でも誰かを助けた。
その全部が、今の言葉になっている。
「そして任務が終わったら――」
レイブンは一度、訓練生たちを見る。
「帰ってこい」
誰かを守るために軍へ入った者もいる。
家族のため。
国のため。
仲間のため。
理由は違う。
「死ぬ覚悟を持つなとは言わない。でも、それを自慢するな」
レイブンの声は静かだった。
「生きて帰る努力をしろ。隣にいる奴も連れて帰れ」
「はい!」
声が返る。
レイブンは少しだけ笑った。
父も、自分を教えていた頃はこんな気持ちだったのだろうか。
送り出したくない。
それでも送り出さなければならない。
なら、帰れるものを少しでも多く渡す。
知識。
技術。
経験。
そして、帰るという意思。
「NoX」
訓練終了後、声を掛けられた。
エミリア・R・ヴァレンシュタイン〔猟鷹〕だった。
「何?」
「技術顧問部から共有情報」
「父さん?」
「直接じゃない。でもヴォルター技術顧問が閲覧済み」
端末を渡される。
レイブンが読む。
帝国北西部。
微弱魔力変動。
異界門形成反応なし。
原因不明。
継続観測。
「これが?」
「第一次異界大戦初期の観測波形と、一部だけ似てる」
レイブンの表情が変わった。
「門なのか?」
「違う」
エミリアは即答した。
「少なくとも、現在の観測では門じゃない」
「じゃあ誤作動?」
「それも否定できない」
「何とも言えないってことか」
「今はね」
レイブンは画面を見る。
「FENRIRにも回す?」
「そのために持ってきた」
「警戒態勢は?」
「通常のまま。現時点で部隊を動かす理由はない」
「分かった」
レイブンは端末を返す。
「何もなければいいな」
「私もそう思う」
それからさらに数日。
観測施設は沈黙を続けた。
異常なし。
レイブンも次第に気にしなくなった。
世界には、他に考えることがいくらでもあった。
復興。
部隊教育。
装備評価。
FENRIRの運用調整。
家へ帰ればエリシアとの生活がある。
休暇になればルナが遊びに来る。
ヴォルターは技術顧問として新装備に文句を言いながら、それでも楽しそうに仕事をしている。
母は家族が揃うたび、明らかに人数以上の料理を作る。
平穏な日々だった。
レイブンは、その平穏を退屈だとは思わなかった。
むしろ戦場を知っているからこそ、何も起きない一日の価値が分かる。
撃たなくていい。
撃たれなくていい。
仲間の名前を死亡者名簿で探さなくていい。
家へ帰る約束を、本当に守れる。
そんな日が続けばいい。
レイブンは本気でそう思っていた。
その夜。
帝国北西部観測施設。
深夜勤務の技術員が記録を整理していた。
警報器が鳴った。
一度。
短い音だった。
技術員が顔を上げる。
「……また?」
魔力変動値が上昇している。
前回より強い。
技術員はすぐに記録を開始した。
五秒。
七秒。
十秒。
十二秒。
そして消えた。
「十二秒……」
前回より長い。
過去記録を重ねる。
技術員の表情が変わる。
波形が似ている。
だが前回とは違う。
途中で、波形が二つへ分かれている。
「何だ、これ……」
空間歪曲値も僅かに上昇していた。
異界門形成反応は、依然として確認されない。
しかし。
完全な誤差として処理するには、前回との共通点が多すぎる。
技術員は報告分類を一段階引き上げた。
帝国軍観測部。
技術顧問部。
連邦共和国軍監視部門。
そして。
異界統合特殊任務部隊《FENRIR》。
送信。
同じ時刻。
国境地帯の家で眠っていたレイブンが目を開いた。
「……っ」
左肩。
熱い。
痛みではない。
傷が開いたわけでもない。
それでも、第一次異界大戦で負傷した場所を中心に、身体の奥へ何かが走った。
レイブンは身体を起こした。
「レイブン……?」
隣でエリシアも目を開く。
「ごめん。起こした?」
「違う」
エリシアも身体を起こす。
「今、何か感じなかった?」
レイブンが妻を見る。
「感じた」
「私も」
二人とも黙った。
偶然。
そう考えるには、同じ瞬間だった。
その時。
居間から軍用通信端末の着信音が聞こえた。
二人の表情が変わる。
レイブンが先にベッドを出た。
エリシアも続く。
居間へ入る。
端末を見る。
FENRIR優先通知。
帝国北西部観測施設。
原因不明の魔力変動を再観測。
前回より反応強度増大。
継続時間十二秒。
微弱な空間歪曲を併発。
異界門形成反応――確認されず。
「異界……?」
エリシアが呟く。
「まだ分からない」
レイブンは画面から目を離さない。
「出動命令は?」
「ない。警戒情報だけ」
「WOLF PACKは?」
「待機命令もない」
「EINHERJARにも同じ情報が来てるはず」
「STYXにも行ってると思う」
レイブンは窓を見る。
暗い国境地帯。
それでも以前とは違う。
街灯が増えた。
家が増えた。
人がいる。
眠っている人々がいる。
明日の仕事を考えている人。
学校へ行く子供。
家族。
商人。
兵士ではない人々。
第一次異界大戦が終わったから戻ってきた暮らしが、そこにある。
「何も起きないといいな」
レイブンが言った。
「うん」
エリシアが隣へ立つ。
「でも、もし起きたら?」
レイブンは少し考えた。
昔なら、自分が行くと答えただろう。
NoXとして。
一人でも先へ行く。
それが自分の役目だと思っていた。
今は違う。
「FENRIRで行く」
エリシアが頷く。
「うん」
「WOLF PACKが先に道を見る」
「EINHERJARが人を守る」
「STYXが帰り道を繋ぐ」
二人は窓の向こうを見る。
「今度は、最初から一緒だ」
「そうだね」
第一次異界大戦の時とは違う。
帝国と連邦共和国は、もう敵ではない。
現場で偶然手を組むのではない。
共通の通信手段がある。
補給規格も少しずつ揃っている。
互いの戦い方も知っている。
そして三つの部隊がある。
WOLF PACK。
EINHERJAR。
STYX。
何かが起きた時のために作ったFENRIRが、今はまだ静かに眠っている。
その時。
通信端末が再び鳴った。
「追加?」
エリシアが画面を見る。
レイブンが開く。
新しい報告は、一行だけだった。
観測地点周辺において、原因不明の空間位相差を確認。
二人の表情から、僅かに残っていた眠気が消えた。
「空間位相差……」
「門じゃないんだよな?」
「報告では」
レイブンは画面を見つめる。
第一次異界大戦の記憶が蘇る。
空に開いた巨大な門。
そこから現れた異界軍。
父の負傷。
失われた人々。
抵抗軍。
エリシアとの出会い。
そして、自分たちがようやく取り戻した今。
「レイブン」
「大丈夫」
エリシアを見る。
「まだ何も起きてない」
それは、自分自身へ言い聞かせる言葉でもあった。
まだ門はない。
敵もいない。
銃声も聞こえない。
警報も鳴っていない。
世界は平和だった。
ただ。
遠い山岳地帯の暗闇で。
誰にも見えないほど小さく。
空間そのものが、一度だけ揺らいでいた。
第一次異界大戦が終わり、人々がようやく平穏という日常を取り戻し始めた世界で、まだ誰もその名を口にしていなかった。
第二次異界大戦。
戦争はまだ始まっていない。
異界門さえ、姿を現してはいない。
それでも、かつて世界を戦火へ引きずり込んだ境界の向こう側から、次なる異変の影だけが、誰にも気づかれぬまま静かに近づき始めていた。




