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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅱ~ FENRIR ― 戦狼となった黒猫 ― Season 4 #067~
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77/189

Season 4「NoX」 #077

第77話「水際の教練」

 志願兵教育が始まってから数日後、ルナ・クロウたち八名は夜明け前の帝国軍教育施設へ集合させられた。

 行き先は知らされていない。

 持参するよう命じられたのは、訓練用装備一式、数日分の着替え、携行食、水筒、雨具、個人用救急用品だけだった。

 実弾は支給されていない。

 何の訓練を行うのかも説明されなかった。

 ルナたちの前に停車しているのは、窓の少ない大型輸送車だった。

「……遠足ではなさそうだね」

 フィオナ・リューンが車両を見上げながら呟いた。

 隣にいたタルク・フェルナーが荷物を背負い直す。

「軍に入ってから遠足があったか?」

「気分の問題」

「なら遠足だと思って乗ればいい」

「タルクって、たまに妙なこと言うよね」

「そうか?」

「自覚ないんだ」

 その少し前では、カイ・ロッテンが輸送車の足回りを見ていた。

「長距離仕様だな」

「分かるの?」

 ルナが尋ねる。

「車両そのものが違う。たぶん近場じゃない」

「行き先、聞いてないよね?」

「全員同じだと思う」

 セレス・アイレンが静かに答えた。

「教官たちは知ってるんでしょうけど」

「教えてくれるかな」

「聞いてみたら?」

 ルナは一瞬だけ考えた。

 少し離れた場所に、教官たちが集まっている。

 レイブン・S・クロウ。

 エリシア・L・ヴォルハラム=クロウ。

 アレクシス・ハルトマン〔猟犬(ハウンド)〕。

 ニコラス〔梟(オウル)〕。

 ダリオ〔破城槌(ラム)〕。

 マティアス〔衛生兵(パッチ)〕。

 そして装備・技術評価を担当するエミリア・R・ヴァレンシュタイン〔猟鷹(ファルコン)〕。

 兄としてなら聞ける。

 だが今ここにいるのは兄ではない。

 教官だ。

「……やめとく」

「どうして?」

「教えてくれるなら最初から言ってると思う」

「正解だ」

 突然背後から声がして、ルナの猫耳がぴくりと動いた。

 振り返る。

 いつの間にかレイブンが立っている。

「きょ――」

「志願兵クロウ」

「はい、教官!」

「私語を禁止した覚えはない。ただし集合時刻まであと二分だ」

「はい!」

「それと行き先について質問しても答えない」

「まだ聞いてません」

「顔に書いてある」

「……そんなに?」

「勤務中だ」

「はい、教官」

 レイブンが去る。

 フィオナがルナへ顔を寄せた。

「お兄さん、教官になると結構怖いね」

「家だと全然違うよ」

「どんな感じ?」

「エリシア姉様に料理の味付けで怒られてる」

「想像できない」

「私も見たい」

 リリア・メイヴまで会話へ入ってくる。

「志願兵諸君」

 遠くからレイブンの声が飛んだ。

 三人が一斉に姿勢を正した。

「聞こえてるぞ」

「はい!」

 輸送車の近くにいたダリオが笑いを堪えている。

「耳いいな、NoX」

「お前も笑ってないで乗れ」

「俺も?」

「教官も同行」

「聞いてないぞ」

「今言った」

「横暴だ」

「命令書に書いてある」

「なら仕方ない」

 やがて八名の志願兵と教官たちを乗せた車両が、教育施設を出発した。

 帝国内を西へ進む。

 市街地を抜け、平原を越え、戦争中に破壊されて補修された道路を通過する。

 車内には窓があった。

 だから完全に場所を隠しているわけではない。

 むしろレイブンたちは、志願兵が周囲をどれほど観察しているかを見ていた。

 ニコラス〔梟(オウル)〕は最後尾に座り、何も言わず八人を観察している。

 最初に変化へ気づいたのはセレスだった。

「川が増えた」

 小さな声だった。

 カイが窓を見る。

「本当だ」

「道路も下ってる」

「海に近づいてるのかな」

 レン・シュナイダーは外を見たまま口を開いた。

「潮の匂いがする」

「分かるの?」

「少し」

 ルナも鼻を動かした。

 確かに空気が違う。

 さらに進むと、道路脇に古い標識が現れた。

 文字の一部は砲撃で欠けている。

 それでも読み取れた。

 帝国・連邦国境港湾管理区。

「国境?」

 エリス・ヴァールが呟く。

 エリシアが初めて口を開いた。

「ここから先は、第一次異界大戦以前なら簡単には入れなかった場所よ」

 志願兵たちの視線が集まる。

「帝国側の港なんですか?」

 ルナが尋ねた。

「半分正解」

「半分?」

「着けば分かる」

 それ以上、エリシアは説明しなかった。

 輸送車が最後の丘を越えた。

 その瞬間、車内から海が見えた。

 広大な水面。

 朝の光を反射する海。

 そこへ流れ込む巨大な河川。

 そして、その河口を挟むように広がる港湾施設。

 だが、人影がない。

「……港?」

 フィオナが呟いた。

 巨大なクレーンが並んでいる。

 貨物倉庫。

 コンテナヤード。

 乾ドック。

 船舶修理施設。

 古いフェリーターミナル。

 燃料施設。

 河川側には小型艇用の桟橋も残されている。

 設備だけを見れば、かつて相当な規模の港だったことが分かる。

 しかし動いていない。

 貨物船もない。

 作業員もいない。

 クレーンも止まっている。

 聞こえるのは海鳥の声と、岸壁へ波が当たる音だけだった。

 そして港の中央付近を、一筋の線が横切っていた。

 帝国と連邦共和国の旧国境線。

 港そのものが、二つの国家に跨がっている。

「ここは……」

 ルナが窓へ近づく。

 レイブンが答えた。

「旧ヴァルナ河口国際港湾区」

 全員が教官を見る。

「第一次異界大戦より前、帝国と連邦共和国の交易拠点として建設された港だ」

 車両はゆっくりと無人の港へ入っていく。

「両国関係が悪化してから物流量が減少し、開戦と同時に完全閉鎖。帝国側と連邦側の双方が軍事利用を警戒した結果、大規模な破壊はされなかった」

 エリシアが続ける。

「第一次異界大戦中も主要戦線から外れたことで、施設の多くが残った。でも住民と港湾職員は避難したまま。和平条約が結ばれた今も、本格的な再開発は始まっていない」

 輸送車が停止した。

 後部扉が開く。

 潮風が車内へ入り込んだ。

「降車!」

 レイブンの声で八人が動く。

 岸壁へ降り立った瞬間、ルナは思わず周囲を見渡した。

 広い。

 教育施設の練兵場とはまるで違う。

 足元は平坦な舗装面だが、その先には海があり、反対側には河川がある。

 古い倉庫の間には狭い通路。

 コンテナヤードには複雑な死角。

 係留施設。

 桟橋。

 整備場。

 水路。

 排水施設。

 そして港外には、防波堤と外海。

 ニコラスが志願兵たちの視線を見ていた。

「どう思う?」

 突然の質問だった。

 誰もすぐには答えない。

「景色の感想じゃない。軍人として見ろ」

 カイが最初に答えた。

「死角が多いです」

「続けろ」

「倉庫とコンテナの間。車両から見えない場所が多い。地上だけ見ていたら危険だと思います」

「よし」

 セレスが続く。

「陸路が遮断されても、河川と海から移動できます」

「その逆は?」

「水路を使えなければ港全体が大きな袋小路になります」

「よし」

 レンが水面を見る。

「水中から接近できます」

「味方が?」

「敵もです」

「その通り」

 リリアは高いクレーンを見る。

「観測位置が多いです。上から港全体を見られる場所があります」

「自分が見えるということは?」

「相手にも見られる可能性があります」

「よし」

 タルクは乾ドックと修理施設を見ていた。

「設備が残っています」

「何に使う?」

「艇の整備ができると思います。電力と工具を復旧できればですが」

「よし」

 フィオナは古い通信塔へ視線を向けた。

「通信設備があります。生きてるかは分かりませんけど、使えれば港だけじゃなく河川と沖合まで繋げられるかもしれません」

「確認する価値はある」

 エリスは岸壁へ目を向けた。

「負傷者を運ぶ場合、陸路だけじゃなく艇でも搬送できます。ただ、岸壁が高い場所は負傷者の移乗が難しいと思います」

「よく見ている」

 最後にルナ。

 レイブンが妹を見る。

「志願兵クロウ」

「はい」

「お前は?」

「……道が多いと思います」

「説明しろ」

「陸路だけじゃありません。川から海へ出られるし、海から別の場所へ行ける。橋が壊れても、水が残っていれば移動できます」

 ルナは河口を見る。

「帰る道として使えると思います」

 レイブンの表情が僅かに変わった。

「よし」

 それだけだった。

 だがエリシアには分かった。

 レイブンが少し嬉しそうだった。

 志願兵たちを集めると、アレクシス〔猟犬(ハウンド)〕が前へ出た。

「今日から数日間、この港湾区を臨時教練区域として使用する。諸君の宿泊場所もここだ」

 フィオナが思わず周囲を見る。

「ここに泊まるの……?」

「何か問題があるか、志願兵リューン」

「ありません!」

「安心しろ。最低限の宿営設備は用意してある」

「最低限……」

「軍でその言葉を聞いた時は期待しないほうがいい」

 マティアスが淡々と言った。

「パッチ、それ教官側が言っていいのか?」

「事実だ」

「確かに」

 ダリオが笑う。

 レイブンは港の先へ歩き始めた。

「ついてこい」

 志願兵たちが続く。

 しばらく進むと、小型艇用の桟橋が見えてきた。

 そこには何隻かの訓練艇が係留されていた。

 高速艇。

 小型輸送艇。

 河川用の浅喫水艇。

 どれも最新鋭ではない。

 むしろ軍や港湾警備部門で使用されていた旧型艇を、教育用に再整備したものだった。

 カイの表情が変わる。

 セレスも足を止めかける。

「船……」

「艇だ」

 エミリアが訂正した。

「今回の教育では大型船舶は扱わない。ここにあるものは沿岸、河川、港湾で運用する小型艇」

 タルクはすでに機関部へ目を向けている。

「触るなよ」

 エミリアが言った。

「まだ何もしてません」

「顔に書いてある」

「クロウ教官と同じこと言う……」

「技術職は分かるの」

 レイブンは桟橋の先へ立った。

 風が制服を揺らす。

「ここへ連れてきた理由を説明する」

 八人が集まる。

「第一次異界大戦で、俺たちは陸上戦を中心に戦った。市街地、森林、平原、山岳、塹壕。だが実際には、それだけじゃない」

 彼は河川を見る。

「橋が落ちた」

 次に港を見る。

「道路が破壊された」

 海を見る。

「包囲された地域へ陸路で入れなくなった」

 再び志願兵を見る。

「そのたびに問題になったのが水だ」

 ルナが静かに聞いている。

「水は障害になる。渡れなければ前へ進めない。流れが速ければ人間は簡単に持っていかれる。海では天候一つで状況が変わる」

 レイブンは少し間を置いた。

「だが同時に、水は道にもなる」

 ルナの耳が僅かに動いた。

「橋がなくても艇なら渡れる。道路が封鎖されても川なら迂回できる。港が使えれば大量の物資を運べる。孤立した部隊を海から回収することもできる」

 レイブンは八人を見る。

「だから今回は、諸君が陸の外でも動けるかを見る」

 カイが艇を見る。

 セレスは河口を見る。

 レンは水面の下へ視線を落とす。

 リリアは港全体を見渡す。

 タルクは整備設備。

 フィオナは通信塔。

 エリスは救難用設備。

 そしてルナは、その全てを順番に見た。

 エリシアがレイブンの隣へ立った。

「ここでは教官の指示を待っているだけでは進めない訓練も行います。自分が何を得意としているか、逆に何が苦手なのかも見てもらう」

「失敗してもいい」

 レイブンが続ける。

 志願兵たちの何人かが意外そうな顔をした。

「ただし、失敗した理由を分からないまま次へ進むな。同じ失敗を何度も繰り返すな。そして自分一人で解決できないなら、仲間へ頼れ」

 ダリオが腕を組む。

「聞いたか? 特に一人で何でもやろうとする奴」

「ラム、自分のこと?」

「俺は教官だぞ、NoX」

「昔から一人で突っ込むだろ」

「今その話する?」

「実例として」

「悪い実例にするな」

 志願兵たちが笑った。

 レイブンも少し笑う。

「まあ、こういうことだ」

「どういうことですか、教官?」

 ルナが思わず聞いた。

「教官でも失敗する」

「なるほど」

「志願兵クロウ」

「はい?」

「今、少し楽しんだな」

「……いいえ」

「顔に書いてある」

「親子だな」

 後方でアレクシスが呟いた。

 午前の教練は、まず港湾区そのものを知るところから始まった。

 八人は二人一組となり、指定された範囲を歩いて地形と設備を確認する。

 地図だけを見るのではない。

 実際に歩く。

 階段を上る。

 倉庫へ入る。

 桟橋を見る。

 岸壁の高さを確認する。

 古い建物の中に残る避難経路を見る。

 水路へ続く道を探す。

 教官たちは答えを先に教えなかった。

 その中で、少しずつ個性が表れ始めた。

 カイは移動経路を見つけるのが速かった。

 目標地点まで最短で行くことよりも、全員が通れる道かどうかを先に確認する。

「こっちのほうが早い」

 ルナが狭い通路を指した時も、カイは一度奥を見た。

「タルクが装備背負って通れるか?」

「……無理かも」

「なら全員が使える道じゃない」

「そっか」

 セレスは地図をほとんど迷わず読んだ。

 数回歩いただけで港の構造を頭へ入れ始め、建物で海が見えない場所でも自分たちがどちらを向いているのかを把握している。

「セレス、何で分かるの?」

「さっきから風向きがほとんど変わってないから」

「風?」

「あとクレーンの配置。地図と合わせれば大体分かる」

「……すごい」

「そう?」

 本人には特別なことという自覚がない。

 レンは水際へ行くたびに流れを見ていた。

 浮いている漂流物がどちらへ動くか。

 岸壁のどこに水が巻き込むか。

 何も言わず観察している。

 リリアは人を見ていた。

「フィオナ、疲れてる?」

「何で?」

「歩幅が少し狭くなった」

「そんなところ見てるの?」

「見えるから」

 タルクは壊れた設備を見るたびに足が止まりそうになった。

「これ直せそうだな」

「今は調査」

「分かってる」

「タルク」

「触ってない」

「手が伸びてる」

「……癖だ」

 フィオナは古い通信設備を見つけるたびに状態を確認し、エリスは移動経路を見る時も負傷者を運ぶ場合を想定していた。

 そしてルナは、全員の意見を聞いていた。

 自分が最初に答えることは少ない。

 だが誰かの意見を聞いた後、それらを繋ぎ合わせようとする。

 レイブンは少し離れた場所からそれを見ていた。

「見てるね」

 エリシアが隣へ来る。

「教官だから」

「今日はそれでいいことにしてあげる」

「本当に教官として見てるって」

「どう?」

「まだ分からない」

 レイブンは妹たちを見る。

「でも、面白い班だと思う」

「私も」

「カイは全員が通れる道を先に考える。セレスは位置を失わない。レンは誰も見てないところを見てる。リリアは人を見る。タルクは壊れたものが気になる。フィオナは繋ぐものを探す。エリスは負傷者を想定してる」

「ルナちゃんは?」

 レイブンは少し考えた。

「……みんなを見てる」

「それだけ?」

「今はそれでいい」

 午後。

 八人は再び桟橋へ集められた。

 目の前には一隻の旧式訓練艇が浮かんでいる。

「次は何をするんですか?」

 カイが尋ねた。

 レイブンは艇を見る。

「乗る」

 フィオナが嬉しそうにする。

「操縦も?」

「まだ」

「残念」

「まず落ちずに乗れ」

「そこからですか?」

「そこからだ」

 レイブンは水面を見る。

「陸と違って、足元そのものが動く。自分が立っている場所が揺れるという感覚に慣れろ」

「船酔いする者は?」

 マティアスが尋ねた。

 八人の表情が微妙に変わった。

「今のうちに申告しても恥ではない」

「……まだ分かりません」

 エリスが答えた。

「なら分かるまで乗る」

「パッチ教官、それ結構怖いです」

「体質を把握するのも訓練だ」

 順番に乗り込む。

 最初は全員慎重だった。

 桟橋では安定していた身体が、艇へ移った瞬間に僅かに揺れる。

「うわっ」

 フィオナが思わず声を出す。

 隣にいたカイが腕を支えた。

「大丈夫か?」

「大丈夫。ちょっと思ったより動いた」

「水に浮いてるからな」

 タルクが乗ると艇が少し大きく沈む。

「……今、みんな俺見たか?」

「見てない」

「見たよね?」

「体格がいいから仕方ないよ」

 セレスが笑う。

「重量配分も大事なんだな」

「もう整備のこと考えてる?」

「癖だ」

 最後にルナが乗った。

 足元が揺れる。

 一瞬だけ身体が傾く。

 すぐに立て直した。

 レイブンは岸壁から見ていた。

 手を出さない。

 兄なら反射的に支えたかもしれない。

 だが今は教官だった。

 ルナは自分で立った。

 その姿を見て、レイブンはほんの少しだけ息を吐く。

「心配?」

 エリシアが小声で聞く。

「当然」

「でも手を出さなかった」

「教官だから」

「偉い」

「子供扱いしないで」

「誰かさんが妹を子供扱いするから」

「それとこれとは違う」

 やがて艇の係留索が外された。

 教官の一人が操船を担当し、旧式訓練艇はゆっくりと桟橋から離れる。

 ルナたちの表情が変わった。

 港が動いているように見える。

 実際には、自分たちが動いている。

 倉庫が遠ざかる。

 岸壁が低くなる。

 水面が近い。

 風が強くなる。

 河口へ近づくにつれて波も変わった。

 セレスは進路を見ている。

 レンは水面を見ている。

 カイは操舵席を見ている。

 リリアは周囲の船舶航路を確認している。

 フィオナは艇内通信装置に興味を示し、タルクは機関音を聞いている。

 エリスは全員の顔色を見ていた。

 そしてルナは、後方へ遠ざかる港を見た。

 道だった。

 水が。

 自分がこれまで境界だと思っていたものが、今は道として後方へ伸びている。

「ルナ?」

 セレスが呼ぶ。

「何見てるの?」

「港」

「どうして?」

「……本当に帰れるんだなって」

「何が?」

「道がなくても」

 ルナは水面を見る。

「水があれば、別の道を作れる」

 その言葉を、近くにいたレイブンが聞いていた。

 何も言わなかった。

 ただ覚えておいた。

 数年後。

 その考えは、一つの部隊理念へ変わる。

 河川があれば進む。

 海があれば越える。

 陸路が断たれれば水路を使う。

 孤立した仲間がいるなら、水そのものを帰還路へ変える。

 STYX《河川特別舟艇隊》。

 後にルナ・クロウ〔Nyx〕が率いることになる特殊部隊の原型は、まだ影も形もない。

 だが、その中核となる八人は今、初めて同じ艇へ乗っていた。

 カイ・ロッテン。

 セレス・アイレン。

 レン・シュナイダー。

 リリア・メイヴ。

 タルク・フェルナー。

 フィオナ・リューン。

 エリス・ヴァール。

 そしてルナ・クロウ。

 艇が河口を旋回する。

 その先には外海が広がっていた。

 レイブンは八人の志願兵を見た。

「ここから先へは、今日は行かない」

 ルナが振り返る。

「今日は?」

「そうだ」

 レイブンは海を見る。

「今日の目的は、水を怖がらなくなることでも、艇を操れるようになることでもない」

 志願兵たちが教官を見る。

「水を見た時に、『行けない』と決めつけないことだ」

 レイブンは河口の向こうを示した。

「陸には陸の道がある。空には空の道がある。そして水にも道がある」

 ルナの青い瞳が海を映した。

「道があるなら、使えるようになれ」

「はい、教官!」

 八人の声が海風の中で重なった。

 その時はまだ、誰も知らない。

 彼らがいつの日か、この無人港へ再び戻ってくることを。

 訓練生としてではなく、一つの部隊として。

 放置されていた桟橋には専用艇が並び、止まっていた整備施設には明かりが戻り、通信塔には各国軍を繋ぐアンテナが立つ。

 港の一角には、三叉槍と翼を組み合わせた徽章が掲げられる。

 その下に刻まれる名は――STYX。

 かつて帝国と連邦共和国を隔てた水辺は、やがて国境を越えて仲間を救いに行く者たちの母港となる。

 そして、その中央で指揮を執ることになる白銀の猫亜人の少女は、いつか一つの言葉を残す。

 ――川は道だ。

 ――私たちは、その道を拓く。

 だが今のルナは、まだ何者でもない志願兵だった。

「兄……」

 言いかける。

 ルナはすぐ口を閉じた。

 レイブンが見る。

「何だ、志願兵クロウ」

「……何でもありません、教官」

「そうか」

 レイブンは僅かに笑った。

「戻ったら艇の清掃だ」

「え?」

「使った装備は自分たちで整備する」

「全員ですか?」

「全員」

「教官たちは?」

「監督」

「ずるいです」

「志願兵クロウ」

「はい」

「今、何と言った?」

「何でもありません!」

「よろしい」

 隣でエリシアが笑っている。

「レイブン」

「何?」

「ヴォルターさんに似てきたね」

「……聞こえなかったことにする」

「逃げた」

「これは戦術的撤退」

「教官がそんなこと言っていいの?」

「場合による」

 艇が港へ向きを変える。

 夕方の光が水面へ長く伸びていた。

 帝国側の岸。

 連邦共和国側の岸。

 二つを隔てていたはずの水面には、線など見えなかった。

 ただ一つの川が流れ、その先に一つの海が広がっている。

 その水の上を、八人を乗せた小さな艇が進んでいた。

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