Season 4「NoX」 #075
第75話「妹の志願」
国境地帯の新居を出発してからしばらくして、レイブンとエリシアを乗せた車は帝国内へ入った。
ほんの少し前までなら、連邦共和国軍人であるエリシアが帝国との国境を越えるだけでも複雑な許可が必要だった。しかし包括和平条約が発効した今、軍籍を持つ者として必要な確認こそ残っているものの、かつてのような張り詰めた空気はない。国境施設では帝国側と連邦側の職員が同じ建物で書類を確認し、その脇を民間の貨物車が次々と通過していた。
レイブンは運転しながら前方を見ていた。
口数が少ない。
助手席のエリシアは、それに気づいていた。
「緊張してる?」
「してない」
「してるね」
「してないって」
「じゃあ、さっきから同じところを何回触ってるの?」
「え?」
指摘されて初めて、レイブンは自分が胸ポケットを何度も確認していたことに気づいた。
そこにはヴォルターから届いた手紙が入っている。
「……癖」
「戦場では見たことない癖だけど」
「今日は戦場じゃないから」
「ルナちゃんと話すだけでしょう?」
「それが問題なんだよ」
「異界軍より?」
「場合によっては」
「兄様も大変だね」
「その呼び方やめて」
「少しは笑った」
「最初からそれが目的?」
「半分くらい」
レイブンは小さく息を吐いた。
笑いはした。
だが胸の奥にある重さは消えなかった。
ルナが軍へ入りたい。
その一文が、昨日からずっと頭から離れない。
自分もかつて軍への道を選んだ。だから軍を志すことそのものを否定する資格がないことは分かっている。
それでも、妹となれば話は違った。
理屈では同じだ。
感情では、まるで違う。
やがて見慣れた街並みが現れた。
クロウ家へ続く道だった。
戦争から帰還した時にも通った道を進み、車を家の前へ停める。
エンジンを切っても、レイブンはすぐには降りなかった。
「レイブン」
「うん」
「怒りに来たんじゃないでしょう?」
「分かってる」
「止めに来た?」
「……それも分からない」
「なら、まず聞こう」
「ルナの話を?」
「そう」
エリシアはレイブンを見る。
「今日はNoXじゃなくて、兄として来たんでしょう?」
「うん」
「なら、お兄さんとして話を聞いてあげて」
「……分かった」
二人が玄関へ向かうと、扉を開けるより先に中から足音が聞こえた。
扉が開く。
「兄様!」
そこに立っていたのはルナだった。
その声も、兄を見た瞬間の笑顔も以前と変わらない。
レイブンは一瞬だけ言葉に詰まった。
「ただいま、ルナ」
「おかえりなさい、兄様。エリシア姉様も」
「ただいま、ルナちゃん」
「来るなら連絡してくれればよかったのに」
「父さんから手紙もらった」
「あっ」
ルナの笑顔が固まった。
分かりやすかった。
「……聞いた?」
「聞いた」
「全部?」
「多分」
「お父様……」
「父さんを責めるなよ」
「だって、まだ兄様には言わないでってお願いしたのに」
「どうして?」
「絶対反対すると思ったから」
「……それについて話しに来た」
「やっぱり」
ルナの表情から、先ほどまでの明るさが少し消えた。
居間へ入ると、母が二人を迎え、ヴォルターも奥から姿を見せた。
「来たか」
「来たよ」
「早かったな」
「父さんがあんな手紙送るからだろ」
「読んだなら話が早い」
「先に電話してくれてもよかったじゃないか」
「電話なら、お前はその場で反対して終わっただろう」
「……否定できない」
「だから手紙にした」
ヴォルターは息子の胸ポケットを一度見た。
「それとRAVENは?」
「試した」
「どうだった」
「ここで話す?」
「後でいい」
「最初からそうして」
母が苦笑しながら飲み物を置いた。
しかし、誰もすぐには本題へ入らなかった。
ルナはレイブンの正面へ座っている。
エリシアはその隣。
ヴォルターと母は少し離れた場所へ座った。
沈黙を破ったのはレイブンだった。
「ルナ」
「はい」
「軍に入りたいって、本当?」
「うん」
「どうして?」
ルナはすぐには答えなかった。
それは迷っているからではないようだった。
言葉を選んでいる。
「兄様がいるから、だけじゃないよ」
「うん」
「NoXに憧れたからでもない」
「じゃあ?」
「第一次異界大戦の時、私、ずっと待ってたでしょう?」
「……うん」
「兄様が帰ってくるのを」
レイブンは黙る。
「毎日、お母様とニュースを見てた。お父様も平気な顔してたけど、本当はずっと心配してた。戦闘が激しくなったって聞くたびに、兄様がそこにいるんじゃないかって思った」
ルナは膝の上で両手を握った。
「何もできなかった」
「ルナ」
「待つことしかできなかった。でも、兄様が帰ってきた時に言ったでしょう? 帰りたい人を帰せる人になりたいって」
「言った」
「私も、そうなりたい」
レイブンは妹を見つめた。
「それだけ?」
「それだけじゃないよ。軍なら災害の時にも人を助けられる。今は帝国軍も連邦軍も一緒に復興支援してるでしょう? 戦うだけじゃないって分かったから」
「でも戦うこともある」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるよ」
「いや」
レイブンの声が僅かに低くなった。
「多分、分かってない」
ルナの眉が動いた。
「兄様?」
「軍に入るっていうのは、制服を着て誰かを助けるだけじゃない。災害現場へ行くだけでもない。命令されたら戦場へ行く。それが仕事になる」
エリシアが黙ってレイブンを見る。
レイブンは止めなかった。
ここを曖昧にしてはいけないと思った。
「銃で撃たれる」
ルナの表情が僅かに変わる。
「砲撃が落ちてくる。すぐ隣にいた人間が、一瞬後には動かなくなることもある。助けようと思って手を伸ばしても、間に合わないこともある」
母が目を伏せた。
ヴォルターは何も言わない。
「怪我をした仲間を引っ張って逃げる時、その人がさっきまで話してたことを覚えてるんだ。数分前まで普通に冗談を言ってたのに、返事がなくなる。衛生兵に渡して、自分はまた前を向かなきゃいけない」
「……うん」
「敵だって人間みたいに怖がることがある」
第一次異界大戦の終盤。
降伏した若い異界兵の顔を、レイブンは思い出していた。
「俺は敵を撃った。近い距離でも撃った。撃たなかったら仲間が死ぬと思ったから撃った。それでも、後から考えるんだ。あいつにも帰る場所があったのかもしれないって」
ルナは黙って聞いている。
「自分が怪我することもある。痛いよ。当たり前だけど、本当に痛い。撃たれても格好よく立っていられるわけじゃない。怖いし、逃げたいと思う。身体が動かないこともある。それでも誰かを連れて帰らなきゃいけない時は動くしかない」
レイブンは左肩へ触れた。
異常な速度で治りつつある傷。
今でこそ痛みはほとんど消えた。
だが受傷した瞬間の感覚までは消えていない。
「俺は何度も帰れないと思った」
「……兄様でも?」
「俺だからじゃない。兵士だからだ」
レイブンは妹の目を見る。
「NoXなんて呼ばれてるけど、何でもできるわけじゃない。守れなかった人もいる。救えなかった人もいる。怖くて仕方なかった時もある。エリシアがいなかったら帰れなかったことだってある」
ルナがエリシアを見る。
エリシアは静かに頷いた。
「本当だよ。私もレイブンに助けられたし、レイブンも私に助けられた。どちらか一人だったら、ここにはいなかったかもしれない」
レイブンは続ける。
「それでも軍に入りたい?」
「入りたい」
答えは早かった。
レイブンの眉が寄る。
「今の話聞いてた?」
「聞いてた」
「なら――」
「聞いたうえで言ってる」
ルナの声にも力が入った。
「怖いのは分かった。兄様が痛い思いしたことも、仲間が死んだことも、全部私には経験できてない。だから同じ意味では分からない。でも、知らないからって、何も考えてないわけじゃない」
「実際に戦場へ行ったら違う」
「だから訓練するんでしょう?」
「訓練で全部分かるわけじゃない!」
「じゃあ兄様は最初から全部分かってたの!?」
居間の空気が止まった。
レイブンも言葉を失う。
ルナが立ち上がった。
「兄様が軍へ入った時は、今の私より全部分かってたの?」
「それは……」
「戦場で人が死ぬところを見てから志願したの?」
「違う」
「だったら同じじゃない!」
「同じじゃない!」
レイブンも思わず立ち上がった。
「俺はお前に同じ経験をしてほしくないんだよ!」
「私は兄様と同じになりたいなんて言ってない!」
「でも軍に入ったら戦場へ行くかもしれない!」
「それは兄様だってそうだったでしょう!」
「だから言ってるんだ!」
「自分は行ったのに、私は駄目なの!?」
「そういう意味じゃない!」
「そう聞こえるよ!」
二人がこれほど強い声をぶつけ合ったのは初めてだった。
レイブンにとって、ルナは守るべき妹だった。
幼い頃からそうだった。
軍へ入ってからも。
戦争へ行ってからも。
家へ帰る理由の一つであり続けた。
その妹が、自分から危険な場所へ行こうとしている。
理解しろと言われても、簡単に受け入れられるはずがなかった。
「俺は、お前が撃たれるかもしれない場所へ行くのを認めたくないんだよ!」
その言葉を聞いた瞬間、ルナの顔が変わった。
「じゃあ私は、ずっと待ってればいいの?」
「何?」
「兄様が戦場へ行くたびに、お母様と一緒に待ってればいいの? 何もできないまま、兄様が帰ってくるか分からないのに待ってればいいの?」
「ルナ、それとこれは――」
「私だって誰かを守りたい!」
ルナの目に涙が浮かんだ。
「兄様だけが誰かを守っていいわけじゃない!」
レイブンは何も言えなかった。
「……もういい」
ルナは顔を背ける。
「ルナ」
「兄様なんて知らない!」
そのまま居間を飛び出していった。
階段を上がる音。
少しして扉が閉まる。
静寂が残った。
レイブンは立ったままだった。
「……初めて言われた」
エリシアが見る。
「何を?」
「兄様なんて知らないって」
「そこ?」
「結構くるんだよ、これ」
ヴォルターが深く息を吐いた。
「馬鹿者」
「父さん、どっちに言った?」
「お前だ」
「即答……」
「ルナも感情的になった。だがお前は兄である前に、年長者だ」
「分かってる」
「分かっていないから怒鳴り合った」
「……はい」
母が立ち上がろうとした。
だがエリシアが静かに手を上げる。
「私が行ってもいいですか?」
「エリシア?」
「今はレイブンが行ったら、もう一回始まりそう」
「否定できない」
「少し話してくる」
エリシアは階段を上がった。
ルナの部屋の前へ立ち、軽く扉を叩く。
「ルナちゃん」
「……」
「私」
「……エリシア姉様?」
「入ってもいい?」
「兄様はいない?」
「いないよ」
「……いいよ」
扉を開けると、ルナはベッドの端に座っていた。
泣いた跡がある。
エリシアは隣へ座った。
「喧嘩しちゃったね」
「……うん」
「初めて?」
「兄様とあんな喧嘩したの、初めて」
「怖かった?」
「ちょっと」
「レイブン、怒ると声低くなるからね」
「うん」
「戦場ではもっと怖かったよ」
「そうなの?」
「かなり」
「……想像できる」
少しだけルナが笑った。
エリシアは急かさなかった。
「本当に軍へ入りたい?」
「うん」
「レイブンに憧れてるから?」
「それも少しはある」
ルナは正直に答えた。
「兄様は格好いいと思う。でも、NoXになりたいわけじゃない」
「じゃあ、何になりたい?」
「まだ分からない」
ルナは自分の手を見る。
「前線で兄様みたいに戦いたいのかも分からない。銃が得意なのかも分からない。でも、軍には戦う人だけじゃなくて、通信とか情報とか救助とか、いろんな人がいるんでしょう?」
「いるよ」
「だったら、その中で自分にできることを探したい」
エリシアは黙って聞く。
「第一次異界大戦の時、兄様から連絡が来ない日が何日もあった。どこにいるかも分からなかった。生きてるかも分からなかった。お母様は大丈夫って言ってたけど、夜になると泣いてた」
ルナの声が小さくなる。
「私、何もできなかった」
「ルナちゃん」
「だから今度は、待つだけじゃなくて、誰かが帰るために何かできる側へ行きたい」
「怖くない?」
「怖い」
即答だった。
「さっき兄様の話を聞いて、もっと怖くなった」
「それでも?」
「それでも行きたい」
エリシアは少しだけ笑った。
「なら、そのままレイブンに言えばいい」
「また怒られる」
「多分ね」
「エリシア姉様」
「でも、あの人が怒ってる理由も分かるでしょう?」
「……心配してるから」
「ものすごくね」
「私だって分かってる」
「なら、二人とも同じなんだよ」
「同じ?」
「相手を大事に思ってるから喧嘩したの」
しばらくして、二人は一緒に階段を下りた。
レイブンは先ほどと同じ場所に座っていた。
ただし、かなり落ち込んでいる。
ルナを見ると、立ち上がろうとした。
しかし先にルナが口を開いた。
「兄様」
「……うん」
「ごめんなさい」
レイブンが目を見開く。
「怒鳴ってごめんなさい。兄様が心配して言ってくれたのも分かってる」
「ルナ」
「でも、軍へ入りたい気持ちは変わらない」
レイブンはしばらく妹を見ていた。
「……俺もごめん」
「兄様も?」
「怒鳴った」
「うん」
「最初から話を聞くって言って来たのに、結局俺が怖くなって怒った」
「怖い?」
「お前が死ぬかもしれないって考えたら怖いよ」
ルナの目が少し潤む。
「兄様……」
「でも、それだけでお前の人生を俺が決めていいわけじゃない。それも分かってる」
そこでエリシアが口を開いた。
「じゃあ私もルナちゃん側に入る」
「え?」
「エリシア?」
「軍への志願を無条件で賛成するって意味じゃないよ。でも、志願する機会まで奪うのは違うと思う」
レイブンは妻を見る。
「エリシアは戦場知ってるだろ」
「知ってる」
「だったら――」
「だから言ってるの」
エリシアの声は穏やかだった。
「私も家族を失った。父を亡くして、兄も戦いに巻き込まれて亡くした。それでも私は軍へ入った」
「……うん」
「お母さんは怖かったと思う。それでも最後は許してくれた」
エリシアはルナを見る。
「ルナちゃんが何も考えずに『兄様みたいになりたい』だけで言ってるなら、私も止める。でも違うよ」
「話したの?」
「うん」
「何て?」
「自分に何ができるか探したいって。前線戦闘員になるとも決めてない。通信、情報、救助、いろんな役割を知って、その中から自分の道を選びたいって」
レイブンが妹を見る。
「本当に?」
「うん」
「俺みたいになりたいわけじゃない?」
「兄様は兄様だよ」
「NoXにも?」
「ならない」
「即答だな」
「だって私、兄様じゃないもん」
ルナは少しだけ笑った。
「私は私の名前で軍人になりたい」
その言葉に、レイブンは黙った。
やがてヴォルターが口を開く。
「レイブン」
「何?」
「お前も昔、似たようなことを言った」
「俺が?」
「私の息子ではなく、自分として軍へ入りたいとな」
「……覚えてない」
「私は覚えている」
レイブンは頭を掻いた。
「家族全員で俺を追い詰めてない?」
「兄様が頑固だから」
「ルナ」
「何?」
「さっきまで喧嘩してたのに戻るの早くない?」
「謝ったから終わり」
「そういうもの?」
「兄妹だから」
「……ずるいな」
レイブンは長く息を吐いた。
「分かった」
ルナの表情が変わる。
「兄様?」
「志願すること自体には反対しない」
「本当!?」
「ただし」
「やっぱりある」
「当たり前だ」
レイブンは兄ではなく、一人の軍人として妹を見る。
「軍についてもっと知ること。良いところだけじゃなく、悪いところも。訓練が厳しいからとか、そういう話だけじゃない。命令に従う責任、人を守れない場合があること、自分が傷つく可能性、自分の判断が誰かの生死に関わること。その全部を知ったうえで決めろ」
「うん」
「それでも入りたいなら、俺は止めない」
「……ありがとう、兄様」
「それと」
「まだあるの?」
「絶対に俺と同じ兵科を選ぶ必要はない」
「分かってる」
「特殊部隊なんて特に――」
「選ばないって」
「まだ分からないだろ」
「兄様」
「何?」
「心配しすぎ」
「兄だから仕方ない」
ルナが笑った。
エリシアも笑う。
ヴォルターだけは静かに息子を見ていた。
かつて自分が経験したことを、今度はレイブンが経験している。
子供が自分の知らない場所へ歩き始める。
危険を知っているからこそ止めたい。
しかし危険を知っているからこそ、何も教えずに止めるだけではいけない。
その矛盾を、クロウ家では親から子へ受け継いでいるらしかった。
夕方。
レイブンとエリシアはクロウ家を後にした。
車が国境へ向かう。
最初の十分ほど、レイブンは黙っていた。
エリシアは何も言わない。
十五分ほど経ったところで、ついにレイブンが口を開いた。
「……やっぱり心配だ」
「始まった」
「何が?」
「兄様の心配時間」
「真面目に聞いて」
「聞いてるよ」
「まず訓練で怪我するかもしれないだろ」
「するかもしれないね」
「射撃訓練だってある」
「軍だからね」
「野外訓練も」
「あるね」
「寒冷地訓練とか砂漠とか行かされたら?」
「可能性はある」
「食事ちゃんと取れるかな」
「そこ?」
「大事だろ」
「ルナちゃん、あなたより生活能力高そうだけど」
「それは否定できない。でも睡眠不足とか」
「軍医がいる」
「配属先に嫌な上官いたら?」
「相談制度がある」
「危険な任務に配属されたら?」
「まだ入隊もしてないよ」
「もし特殊部隊志願したら?」
「さっき選ばないって言ってたでしょう?」
「今はだよ。途中で考え変わるかもしれない」
「レイブン」
「何?」
「心配しすぎ」
「だって妹だよ?」
「知ってる」
「俺が知ってる軍って、普通に人が死ぬ場所なんだよ」
「私も知ってる」
「だから余計に嫌なんだ」
その一言だけは、冗談ではなかった。
エリシアは窓の外を見てから、静かに答えた。
「私も心配だよ」
「エリシアも?」
「当たり前でしょう。もう私の妹でもあるんだから」
レイブンが僅かに目を見開く。
「……そっか」
「結婚したんだから」
「そうだった」
「忘れないで」
「忘れてない」
少しだけ沈黙が続いた。
「でもね」
エリシアは続けた。
「心配することと、信じることは両立すると思う」
「両立?」
「怪我してほしくない。戦場へ行ってほしくない。怖い思いもしてほしくない。それでも、本人が自分で選んだなら、帰ってこられるように支えることはできる」
「……父さんもそうだったのかな」
「あなたが志願した時?」
「うん」
「多分ね」
「今なら少し分かる」
レイブンは前方を見たまま苦笑した。
「父さん、よく俺の志願許したな」
「相当心配したんじゃない?」
「帰ったら聞いてみようかな」
「聞いたら?」
「『今さら分かったか』って言われそう」
「絶対言うね」
「嫌だな」
「親子だから」
「今日何回目?」
「数えてない」
「俺は数えてる」
「何回?」
「教えない」
「朝と逆だね」
「覚えてた?」
「もちろん」
二人は笑った。
だが数分後。
「でも配属先はやっぱり気になるな」
「まだ言う?」
「通信なら比較的――いや、通信拠点も狙われるな。衛生なら前線へ出る可能性があるし、情報部門でも現地派遣はある。技術職なら……でも試験事故が」
「レイブン」
「何?」
「もう一回ルナちゃんのところへ戻る?」
「それは駄目」
「どうして?」
「また怒られる」
「分かってるんだ」
「兄様なんて知らない、は二回言われたくない」
「そんなに効いたの?」
「かなり」
「NoXの弱点発見」
「エリシア」
「何?」
「軍事機密にして」
「了解、NoX」
国境が近づいてくる。
夕暮れの街道には、帝国と連邦共和国を行き交う車両の灯りが続いていた。
その向こうに、二人の家がある。
そしてクロウ家では今頃、一人の少女が帝国軍の志願案内をもう一度開いている。
ルナ・クロウ。
まだ兵士ではない。
兵科も決まっていない。
コールサインなど持っているはずもない。
兄とは違う。
父とも違う。
エリシアとも違う。
自分自身が何者になるのかさえ、まだ知らない。
けれど一つだけ、彼女の中にはすでに明確なものがあった。
帰りたい者を、帰す。
兄が戦場から持ち帰ったその言葉を、兄と同じ方法ではなく、自分自身の方法で形にしたい。
やがて彼女は軍へ入り、自分の適性と向き合うことになる。
銃を握ることだけが戦争ではないと知る。
前線で敵を倒す者だけが、仲間を守るわけではないと知る。
情報を集める者がいる。
通信を繋ぐ者がいる。
戦場全体を見渡し、見えない場所から兵士たちの生還を支える者がいる。
そして長い時間の果てに、彼女自身の名とは別の呼び名が戦場へ広がっていく。
〔夜〕。
Nyx。
だが、それはまだ先の話だった。
「エリシア」
「今度は何?」
「もしルナに彼氏できたらどうしよう」
「……軍の話じゃなくなってるよ」
「軍に入ったら出会い増えるだろ?」
「知らないよ」
「変な男だったら?」
「本人が決めること」
「でも――」
「レイブン」
「何?」
「あなた、将来ものすごく面倒なお兄さんになりそう」
「もうなってる?」
「かなり」
「……ルナには言わないで」
「考えておく」
「そこは約束してよ」
エリシアの笑い声が車内に響いた。
レイブンは困ったように笑いながら、それでもどこか安心した顔で車を走らせる。
妹はまだ家にいる。
まだ戦場にはいない。
まだ何も始まっていない。
だから今は、それでいい。
兄としてできることは、道を塞ぐことではない。
その道に何があるのかを教え、それでも進むと言うのなら、帰ってくる場所を残しておくことだった。
かつてヴォルターが、自分にそうしたように。
そしてレイブンはこの日、初めてほんの少しだけ理解した。
父が自分を戦場へ送り出すたび、どれほど心配していたのかを。
戦う側よりも、待つ側のほうが苦しい時があることを。
NoXは多くの兵士を帰してきた。
だがこれからは、帰ってくる者を待つことも覚えなければならない。
その最初の相手が、自分の妹になるかもしれなかった。




