Season 4「NoX」 #070
第70話「二人で帰る場所」
クロウ家へ帰還してからの日々は、レイブン・S・クロウが想像していたよりも穏やかに過ぎていった。
第一次異界大戦は全戦域で大規模な戦闘を停止しており、抵抗軍と異界軍残存司令部の間では正式な終戦へ向けた協議が続けられていたものの、少なくともレイブンとエリシア・L・ヴォルハラムには前線復帰命令が出ていなかった。
二人に与えられているのは休養と経過観察であり、とりわけ異常な速度で塞がりつつあるレイブンの左肩については軍病院でも検査が続けられていた。
もっとも、当の本人はそのことよりも、家で何をして過ごせばよいのかという問題のほうに困っていた。
戦場なら次に何をするべきかは命令書が教えてくれる。
家では誰も教えてくれない。
朝食を食べて、ルナと話し、エリシアと散歩し、父の武器整備を手伝おうとして「休暇中の負傷者は座っていろ」と追い払われ、母の家事を手伝おうとして同じように追い払われる。
そんな日が続いていたある朝、朝食を終えたレイブンが食器を台所へ運ぼうとすると、母が一枚の紙を差し出した。
「レイブン」
「何?」
「エリシアさんと二人で買い物に行ってきてくれない?」
「買い物?」
「ええ」
紙を受け取る。
食料品。
香辛料。
日用品。
飲み物。
途中までは普通だった。
しかし最後まで目を通したレイブンは眉を寄せた。
「……多くない?」
「そう?」
「二人で持てる?」
「車で行けばいいでしょう」
「それはそうだけど」
向かい側で朝食後の茶を飲んでいたエリシアが紙を覗き込んだ。
「結構あるね」
「だろ?」
「でも二人なら大丈夫じゃない?」
「エリシアまで」
「暇なんでしょう?」
「暇だけど」
「なら決まり」
母が笑う。
レイブンは何となく納得できなかった。
そこで父を見る。
ヴォルターは新聞から顔すら上げない。
「父さん」
「何だ」
「何か知ってる?」
「何をだ」
「今日、何かある?」
「買い物がある」
「そうじゃなくて」
「母親から命令されたなら行け」
「命令なの?」
「この家では俺より強い」
母がヴォルターを見る。
「何か言った?」
「何も」
「今、明らかに」
「レイブン、早く行け」
「逃げたな」
「何のことだ」
そのやり取りを聞いていたルナは、なぜか朝から妙に機嫌がよかった。
「兄様」
「何?」
「ゆっくり行ってきてね」
「ゆっくり?」
「うん」
「何で?」
「事故したら危ないから」
「それはそうだけど」
「急いで帰ってこなくていいよ」
レイブンは妹をじっと見た。
「ルナ」
「何?」
「何か隠してる?」
「何も?」
目が泳いでいた。
「本当に?」
「本当」
「こっち見て」
「兄様、早く行かないとお店混むよ」
「絶対何かある」
エリシアがレイブンの背中を押した。
「行こう」
「気にならない?」
「気になるけど、聞いても教えてくれなさそう」
「……確かに」
二人は着替えて家を出た。
玄関が閉まる。
車のエンジン音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなるまで待ってから、ルナが居間へ飛び込んだ。
「行った!」
「よし」
新聞を読んでいたはずのヴォルターが即座に立ち上がった。
「あなた、随分楽しそうね」
「何のことだ」
「さっきまで新聞で顔を隠していた人が」
「作戦開始だ」
「結婚式を軍事作戦みたいに言わないで」
「時間が限られている」
ルナが両腕を上げる。
「作戦開始!」
「ルナまで真似しなくていいのよ」
その頃、何も知らないレイブンとエリシアは市場にいた。
レイブンは両手に袋を持ちながら、何度目かになる疑問を口にした。
「やっぱりおかしい」
「まだ言ってる」
「だって見てよ」
買い物メモを開く。
「果物が多すぎる」
「お母様が食べたいんじゃない?」
「肉も多い」
「ヴォルターさんが食べる」
「飲み物も多い」
「ルナちゃんが飲む」
「九歳の胃袋を何だと思ってるの?」
「成長期」
「限度あるだろ」
エリシアが笑う。
「それよりレイブン」
「何?」
「これ」
エリシアが商品棚から小さな菓子を取った。
「ルナちゃんに買っていこう」
「メモにないよ」
「いいでしょう?」
「いいけど」
「私から」
レイブンは少し笑った。
「仲良くなったね」
「うん」
「最初あんなに緊張してたのに」
「誰のせい?」
「俺?」
「婚約者として突然連れてこられた私の立場も考えて」
「でもルナ、エリシアのこと好きみたい」
「私も好き」
「じゃあ問題ない」
「あなたより話を聞いてくれるし」
「待って」
「無茶しないし」
「九歳だからね?」
「素直だし」
「俺だって素直」
エリシアが黙った。
「何で黙るの」
「考えてる」
「即答して」
「努力は認める」
「父さんみたいなこと言わないで」
買い物を終えた二人は、途中で昼食を済ませた。
レイブンは帰宅時間を気にしていたが、母から「急がなくていい」と伝えられていたこともあり、エリシアと街を少し歩いた。
戦争の痕跡はここにも残っている。
補修中の建物。
壁に残る亀裂。
帰還兵を迎える掲示。
戦没者を悼む花。
それでも人々は歩き、店は開き、子供たちは通りを走っている。
レイブンはそんな街をエリシアと並んで歩いた。
「こういうの」
「何?」
「久しぶりだな」
「デート?」
「……これデート?」
「婚約者と二人で街を歩いて、ご飯食べて、買い物してる」
「お使いだと思ってた」
「雰囲気がない」
「ごめん」
「冗談」
エリシアが笑う。
レイブンは少し考えてから、彼女の手を握った。
「じゃあ今からデート」
「急だね」
「嫌?」
「まさか」
そのまま二人はしばらく歩いた。
銃もない。
装具もない。
互いの死角を警戒する必要もない。
ただ手を繋いで歩く。
戦場では得られなかった時間だった。
「エリシア」
「何?」
「戦争が正式に終わったら」
「うん」
「結婚式、どうする?」
エリシアは少し考えた。
「小さくていい」
「俺も」
「お母さんと、あなたの家族と、近しい人だけで」
「うん」
「軍人いっぱい呼ぶ?」
「父さんが呼びそう」
「ありそう」
「ハウンドたちにも知らせたいな」
「それは賛成」
「いつにする?」
「終戦後かな」
「そうだね」
二人は何も知らずにそんな相談を続けた。
家ではすでに、その「小さくていい結婚式」が本人たちの想像を遥かに越える速度で準備されていた。
午後。
買い物を終えた二人がクロウ家へ戻る。
「ただいま」
レイブンが玄関を開けた。
「戻りました」
エリシアも続く。
妙に静かだった。
「……誰もいない?」
「車はあったよ」
「父さん?」
返事がない。
「母さん?」
返事がない。
「ルナ?」
その瞬間、家の奥から足音が聞こえた。
速い。
「兄様!」
「え?」
ルナが走ってきた。
その手には二枚の布が握られている。
「ルナ、何――」
「二人とも動かないで!」
「何で?」
「いいから!」
レイブンがエリシアを見る。
エリシアも分からないという顔をしている。
「兄様から!」
「ちょっと待って」
ルナが背伸びをして、レイブンの目を布で覆った。
「見えない」
「目隠しだから」
「それは分かる」
「次、エリシアさん」
「私も?」
「もちろん」
エリシアまで目隠しされる。
「ルナちゃん、何するの?」
「秘密」
「転ばない?」
「私が連れていく」
「二人同時に?」
「父様!」
奥からヴォルターの声が返る。
「レイブンは俺が連れていく」
「父さんいたの?」
「黙って歩け」
「何なの本当に」
ヴォルターに肩を持たれ、レイブンは歩き始めた。
隣ではルナがエリシアの手を引いているらしい。
「段差」
ヴォルターが言う。
「どこ?」
「今」
「遅い!」
「避けただろう」
「心臓に悪いよ」
「戦場であれだけ動けた人間が家の段差を怖がるな」
「見えてたから!」
「ゴーストを使えばいい」
「自分が透明になっても周りは見えないよ!」
エリシアが吹き出した。
「笑わないで」
「ごめん」
居間の前で止まる。
レイブンは空気が違うことに気づいた。
人の気配が多い。
それも家族だけではない。
「……父さん」
「何だ」
「誰かいる?」
「さあな」
「絶対いる」
「ルナ」
「はーい」
妹の楽しそうな声。
「せーので取るよ」
「待って、心の準備」
「いーち」
「ルナ」
「にー」
「聞いてる?」
「さーん!」
目隠しが外された。
光が戻る。
レイブンは一度瞬きをした。
そして動かなくなった。
居間が、居間ではなくなっていた。
家具は端へ寄せられ、花が飾られ、窓辺にも小さな装飾が施されている。
テーブルには料理が並び、壁にはルナが書いたらしい少し歪んだ文字で二人を祝う言葉が掲げられていた。
さらに、その向こうには見慣れた顔が並んでいる。
特殊即応部隊の仲間。
アレクシス・ハルトマン〔猟犬〕。
ニコラス〔梟〕。
ダリオ〔破城槌〕。
マティアス〔衛生兵〕。
戦闘技術士官として共に働いたエミリアもいる。
「……え?」
レイブンはそれしか言えなかった。
隣を見る。
エリシアも同じ顔をしていた。
「何……これ」
ルナが二人の前へ回り込む。
「結婚式!」
「…………今日?」
「今日!」
「聞いてない」
「言ってないもん」
「だから買い物?」
「そう!」
レイブンが父を見る。
「父さん」
「何だ」
「全部知ってた?」
「当然だ」
「母さん」
「ごめんなさいね」
「エリシア」
「私も知らない」
「だよね」
アレクシスが腕を組んで二人を見る。
「戦場ではもう少し察しが良かったと思うが」
「ハウンドまで!」
「呼ばれた」
「いつ?」
「秘密だ」
「みんな敵だ……」
「兄様」
「何?」
「今日は味方」
「やり方が完全に奇襲なんだよ」
笑いが起きた。
その時、家の外で車が止まる音がした。
ヴォルターが時計を見る。
「ちょうどだな」
「まだ誰か来るの?」
「二人だ」
玄関が開く。
母が迎えに行く。
しばらくして聞こえてきた声に、レイブンの表情が変わった。
「まったく、こんな大事な日に本人たちへ黙っているなんて、ヴォルターは昔から変なところだけ凝るんだから」
レイブンはその声を知っていた。
「……まさか」
居間へ一人の老婦人が入ってくる。
「お祖母ちゃん?」
ヘレーネ・クロウは、成長した孫を見て満足そうに笑った。
「久しぶりね、レイブン」
「遠いのに……」
「孫の結婚式でしょう?」
「でも」
「戦争へ行くより近いわ」
「比較がおかしいよ」
「ヴォルターの母親だから仕方ないわね」
「母さん、それはどういう意味だ」
「そのままよ」
今度はヴォルターが黙った。
「父さんが負けた」
レイブンが呟く。
「レイブン」
「はい」
だが、もう一人の姿を見た瞬間、今度はエリシアが息を呑んだ。
「……お母さん?」
エリシアの母が立っていた。
戦争による避難と長い離別を経て、それでも娘を見る表情は変わらなかった。
「エリシア」
「どうして……」
「娘が結婚するのに、来ない母親がいる?」
エリシアは一歩進んだ。
そしてもう一歩。
「お母さん……」
抱きしめられた瞬間、エリシアは戦場で決して見せなかった顔になった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「帰ってきたよ」
「ええ」
「ちゃんと……帰ってきた」
「分かってる」
母親の肩へ顔を埋める。
レイブンは何も言わなかった。
エリシアが父と兄を失ったことを知っている。
だからこそ、残された母のもとへ帰ることが彼女にとってどれほど大きな意味を持つのかも分かっていた。
やがてエリシアが涙を拭い、レイブンを振り返る。
「レイブン」
「うん」
「紹介する」
レイブンは姿勢を正した。
「お母さん。この人がレイブン・S・クロウ」
「あなたが」
「初めまして」
戦場で将官と話す時より緊張した。
「娘がお世話になりました」
「いえ、俺のほうが何度も助けてもらって」
「無茶ばかりするそうね」
レイブンの表情が止まった。
「……誰から?」
「エリシア」
「いつ話したの?」
「手紙」
「そんなこと書いてたの?」
「たくさん」
「逃げ場がない」
エリシアの母が笑った。
「でも」
その表情が優しくなる。
「娘を連れて帰ってきてくれて、ありがとう」
レイブンは首を横へ振った。
「二人で帰ってきました」
エリシアが彼を見る。
「俺だけじゃありません。エリシアが俺を守って、俺もエリシアを守って、それで二人で帰ってきました」
「そう」
「だからこれからも、どちらか一人じゃなくて、二人で帰れるようにします」
母親はしばらくレイブンを見たあと、静かに頷いた。
「なら、娘をよろしくお願いします」
「はい」
「私からも」
エリシアが言った。
「この人をよろしくお願いします」
今度はクロウ家の母が笑う。
「もちろん」
「俺、本人なんだけど」
「知ってるわよ」
「話が俺抜きで進んでない?」
「兄様」
ルナが袖を引く。
「何?」
「早く着替えて」
「着替え?」
「結婚式するんだよ?」
「本当に今から?」
「今から!」
そこから二人にはほとんど考える時間が与えられなかった。
正式な軍礼装ほど堅苦しくはないものの、レイブンには帝国軍人としての正装が用意され、戦場で傷ついた制服ではなく、帰還兵として新しく整えられたものへ袖を通した。
胸元には最低限の略章だけを残す。
武器は持たない。
SG-44も。
T-51《REAPER》も。
帝国軍制式自動拳銃もない。
今日必要なのは兵士としての装備ではなかった。
鏡の前で襟を直していると、ヴォルターが入ってきた。
「曲がっている」
「どこ?」
「襟」
父が直す。
「父さん」
「何だ」
「何で今日?」
「嫌か」
「逆。嬉しいけど」
「なら問題ない」
「終戦してからでも」
「いつ正式な協定がまとまるか分からん」
「それはそうだけど」
「それに」
ヴォルターの手が止まる。
「戦争に人生の予定まで決めさせる必要はない」
レイブンは父を見る。
「生きて帰った。結婚すると決めた。家族も集まれる。それなら今日でいい」
「……うん」
「怖いか」
「少し」
「魔王級より?」
「比較にならないくらい」
「情けない」
「父さんは母さんと結婚する時緊張しなかったの?」
ヴォルターが黙った。
「したんだ」
「黙れ」
「したんだな」
「襟を締めるぞ」
「苦しい苦しい!」
別室ではエリシアの準備が進んでいた。
ルナと二人の母親、そしてヘレーネが付き添っている。
戦場でValkyrieと呼ばれた女性が、今は鏡の前で何度も自分の姿を確認していた。
「変じゃない?」
「綺麗!」
ルナが即答する。
「本当?」
「本当!」
ヘレーネも頷く。
「レイブンにはもったいないくらい」
「お祖母ちゃん、それ本人の前で言わないでくださいね」
「あら、どうして?」
「絶対落ち込むから」
「なら言いましょう」
「言うんだ……」
やがて準備が整った。
式は大きな聖堂でも軍施設でもなかった。
クロウ家の居間と庭を使った、家族と戦友だけの式だった。
それでもレイブンには、どんな大広間より広く感じられた。
先にレイブンが立つ。
アレクシスたちがいる。
父。
母。
祖母。
妹。
そしてエリシアの母。
皆がいる。
やがてエリシアが現れた。
レイブンは何も言えなかった。
戦場では何度も彼女を見てきた。
泥まみれの顔。
血に濡れた軍服。
銃を構えた姿。
負傷した自分を怒鳴りながら介抱する姿。
休暇中に笑う姿。
そのどれとも違った。
エリシアが隣まで来る。
「何か言って」
「……綺麗」
「それだけ?」
「言葉が出ない」
「なら許す」
二人は笑った。
形式は簡素だった。
しかし誓いだけは、二人自身の言葉で行った。
「レイブン・S・クロウ」
エリシアが彼を見る。
「私はあなたと帰ります。戦場でも、家でも、どんな世界でも、あなた一人に帰る道を探させません」
レイブンはその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。
「エリシア・L・ヴォルハラム」
今度は自分の番だった。
「俺も君と帰る。俺だけ生き残るんじゃなくて、君だけを帰すんでもなくて、二人で帰る。どれだけ遠くへ行っても、何年かかっても、帰る場所を二人で作る」
エリシアの目に涙が浮かぶ。
「約束?」
「約束」
二人は互いの胸元からドッグタグを取り出した。
裏面。
戦時中、正式な指輪を用意できなかった二人がヴォルターへ頼み、互いの名前を刻んでもらったもの。
レイブンのものにはエリシア。
エリシアのものにはレイブン。
「これ、どうする?」
エリシアが聞く。
「残す」
「結婚しても?」
「むしろ結婚したから残したい」
「私も」
新しい指輪が二人の指へ収まる。
それでもドッグタグは外さなかった。
戦争の中で交わした最初の約束だからだった。
「では」
式を見守っていたヴォルターが前へ出た。
レイブンが嫌な予感を覚えた。
「父さん」
「何だ」
「その顔、教官の顔なんだけど」
「これより訓示を行う」
「結婚式だよ?」
「知っている」
「父さん」
「姿勢を正せ」
レイブンの身体が反射的に伸びた。
エリシアまで姿勢を正した。
アレクシスが横を向いて笑いを堪えている。
「二人とも」
ヴォルターの声が変わった。
訓練兵を前にした時と同じ、よく通る声だった。
「戦場における任務は明確だ。命令を理解し、仲間と連携し、生きて帰還する。だが家庭には作戦命令書がない」
レイブンが少し笑う。
「笑うな、クロウ」
「はい、教官」
「夫婦間では上官も部下もない。勝敗もない。片方だけが正しいと思った時ほど相手の話を聞け」
「はい」
「レイブン」
「はい」
「無茶をするなとは言わん」
「言わないんだ」
「お前に言っても無駄だからな」
周囲から笑いが起きる。
「ただし、一人で決めるな。今後、お前には帰りを待つ人間ではなく、一緒に帰る人間がいる」
レイブンの表情が真剣になる。
「はい」
「エリシア」
「はい」
「こいつが馬鹿をしたら止めろ」
「了解しました」
「即答?」
「訓示中だ、黙れ」
「はい」
「だが止められない場合は、一緒に生きて帰る方法を探せ」
エリシアが頷く。
「はい」
ヴォルターは二人を見た。
「最後に一つ」
声が少しだけ柔らかくなる。
「未帰還は許さん」
レイブンの目が僅かに見開かれた。
T-51《REAPER》を受け取った日の言葉が蘇る。
必ず生きて、その笑顔を家族に見せろ。
「今までは一人ずつに言っていた。今日からは二人に言う」
ヴォルターは息子と、その妻になった女性を見た。
「どこへ行こうが、何と戦おうが、何年かかろうが、二人で帰ってこい。それがクロウ家における唯一の絶対命令だ」
レイブンは父を見る。
隣にはエリシアがいる。
「了解」
レイブンが答える。
「了解しました」
エリシアも続いた。
ヴォルターが眉を寄せる。
「違うだろう」
「え?」
「今日は軍務ではない」
レイブンは意味を理解した。
エリシアを見る。
二人で笑う。
「うん、父さん」
「必ず帰る」
エリシアも頷いた。
「二人で帰ってきます」
「それでいい」
ヴォルターはようやく教官の顔をやめた。
「結婚おめでとう」
その瞬間、ルナが我慢できなくなったように二人へ飛びついた。
「兄様! エリシア姉様! おめでとう!」
エリシアが固まった。
「……今、何て?」
「エリシア姉様!」
「もう一回」
「エリシア姉様!」
エリシアが両手で口元を押さえた。
「レイブン」
「何?」
「私、今すごく嬉しい」
「俺より?」
「今だけは」
「負けた」
ルナが二人を抱きしめる。
レイブンも右腕で妹を抱き、エリシアもその輪へ加わった。
ヘレーネがそれを見ながら笑う。
「賑やかな家になるわね」
母も頷いた。
「ええ」
エリシアの母は娘の姿を見ながら、静かに涙を拭った。
その後の宴は、式そのものより賑やかだった。
アレクシスたちは戦場でのレイブンの失敗談を次々と暴露し、エミリアは訓練兵時代の話まで持ち出した。
ルナはそれを一つ残らず覚えようとし、レイブンは何度も止めようとしたが、誰も味方してくれなかった。
「NoXが大型魔獣を前にして――」
「ハウンド、それは言わなくていい!」
「兄様、聞きたい」
「ルナまで!」
「私は知ってる」
「エリシアは黙ってて!」
笑い声が家の中へ満ちた。
銃声ではない。
警報でもない。
負傷者の叫びでもない。
ただ誰かが誰かを祝って笑っている。
レイブンは途中でそのことに気づき、少しだけ黙った。
「どうしたの?」
隣のエリシアが聞く。
「聞いてた」
「何を?」
「音」
「音?」
「みんな笑ってる」
「うん」
「こういうの、守りたかったんだと思う」
エリシアが彼の手を握った。
「これからも守ろう」
「二人で?」
「二人で」
夜が深くなり、客たちが一人ずつ帰っていく。
最後まで残った家族と戦友たちに見送られながら、二人は庭へ出た。
レイブンは夜空を見上げる。
エリシアも隣に立つ。
左手には新しい指輪。
首には古いドッグタグ。
過去と未来を一つずつ身につけているようだった。
「エリシア」
「何?」
「名前、どうする?」
「考えてた」
「うん」
彼女は指輪を見る。
「エリシア・L・ヴォルハラムとして生きてきた時間は消したくない」
「もちろん」
「でも、あなたと家族になったことも名前に残したい」
レイブンは黙って待った。
「軍の正式な登録を変更する時に決める」
「分かった」
「ただ」
「ただ?」
エリシアが彼を見る。
「今日からあなたは、私の夫」
レイブンは少し照れた。
「エリシアは俺の妻」
「うん」
「……すごいな」
「何が?」
「昨日まで婚約者だったのに」
「今日から夫婦」
「実感ない」
「私も」
「そのうち?」
「何十年も一緒にいれば嫌でも実感するんじゃない?」
「何十年か」
「長い?」
「いや」
レイブンは彼女の手を握った。
「それくらいじゃ足りない気がする」
「欲張り」
「百年くらい?」
「生きられるわけないでしょう」
「じゃあ、生きられるだけ」
「それなら」
エリシアも握り返した。
「最後まで」
「うん。最後まで」
二人は笑った。
その約束が、普通の人間にとって想像もできないほど長い時間を意味することになるとは知らずに。
家の中では、ヴォルターが窓越しに二人を見ていた。
「あなた」
妻が隣へ来る。
「何だ」
「嬉しそうね」
「普通だ」
「そう?」
「息子が結婚しただけだ」
「その『だけ』のために何日準備したの?」
ヴォルターは答えなかった。
「買い物リストまで作って」
「時間を稼ぐ必要があった」
「特殊即応部隊の皆さんへ連絡して」
「必要だった」
「お義母さんとエリシアさんのお母様の移動まで手配して」
「軍の輸送網を少し借りただけだ」
「楽しんでたでしょう?」
「……少しな」
妻は笑った。
「良かったわね」
「ああ」
ヴォルターは庭に立つ二人を見る。
「帰ってきた」
「ええ」
「二人とも」
「ええ」
父親はそれ以上言わなかった。
その夜、軍の記録とは別の場所で、一つの新しい家族が生まれた。
戦場では〔無名〕と〔戦乙女〕。
抵抗軍では互いの背中を預ける一個分隊。
家へ帰れば、レイブンとエリシア。
そして今日からは夫と妻だった。
第一次異界大戦はまだ正式な終結日を迎えていない。
世界には傷跡が残り、異界門についても分からないことが多い。
二人の身体で進んでいる不可解な変化についても、答えは出ていなかった。
それでも、この日だけは誰も未来の戦争について語らなかった。
誰も次の作戦を考えなかった。
ただ二人が生きて帰り、同じ家族になったことを祝った。
やがて二人は家へ戻ろうとした。
玄関の前でレイブンが立ち止まる。
「エリシア」
「何?」
「帰ろうか」
エリシアは彼の左手を握る。
「うん」
「二人で」
「二人で」
扉を開ける。
「ただいま」
レイブンが言った。
「ただいま」
エリシアも続いた。
奥からルナの声が返ってくる。
「おかえり、兄様! エリシア姉様!」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に笑った。
その夜から、レイブン・S・クロウとエリシア・L・ヴォルハラムにとって「帰還」という言葉は、戦場から生きて戻ることだけを意味する言葉ではなくなった。
どれほど遠くへ行っても。
どれほど長く戦っても。
どれほど世界が変わっても。
二人で同じ扉を開け、「ただいま」と言う。
それが二人の帰還になった。
そして後に数百年を生きることになる二人にとって、この日交わしたヴォルターの訓示は、軍のどんな命令より長く守られることになる。
――未帰還は許さない。
――必ず二人で帰ってこい。
その命令だけは、時代が変わっても消えることはなかった。




