Season 4「NoX」 #069
第69話「家族の食卓」
クロウ家の前で車が止まった時、レイブン・S・クロウはすぐには降りなかった。
窓の向こうに見えている家は、記憶の中にあるものとほとんど変わっていない。屋根も、玄関へ続く短い道も、母が手入れを続けている小さな庭も、幼い頃から何度も見てきた景色そのものだったが、戦場から帰ってきた今のレイブンには、それらが自分の記憶から切り取られて目の前へ置かれたもののように思えた。
「兄様?」
前の座席からルナ・クロウが振り返った。
「降りないの?」
「降りるよ」
「さっきからずっと家を見てる」
「久しぶりだから」
「家は逃げないよ?」
「知ってる」
「じゃあ早く」
「はいはい」
レイブンが扉へ手を掛けると、隣に座っていたエリシア・L・ヴォルハラムも動いたものの、彼女の手が途中で止まった。
「どうした?」
「……本当に私も入っていいの?」
「ここまで来て何言ってるの」
「だって、今日はあなたが家族と再会する日でしょう?」
「エリシア」
「何?」
「さっきルナに何て紹介したか覚えてる?」
「婚約者」
「なら入る」
「それだけ?」
「それだけ」
エリシアはまだ少し迷っていた。
すると前方からヴォルターの声が飛んできた。
「いつまで車内で会議している。荷物を降ろせ」
「ほら」
「ヴォルターさん、こういう時だけ助かるね」
「こういう時だけって父さんに聞かれたら怒られるよ」
「聞こえているぞ」
二人は同時に黙った。
ルナが笑った。
「父様、耳いいから」
「昔からなんだよ」
「レイブン」
「はい」
「余計なことを教えるな」
「何も教えてないよ」
車を降りた瞬間、レイブンはもう一度家を見上げた。
今度は足が止まらなかった。
玄関へ近づく。
母が先に扉を開ける。
「さあ、入って」
レイブンは玄関の前で立ち止まった。
靴を脱ぐ。
ただそれだけの動作なのに妙にぎこちない。
戦地では靴を脱ぐ機会そのものが少なかった。いつ警報が鳴るか分からず、眠る時でさえすぐ動ける状態にしていた日もある。
それが今は、靴を脱いでいい。
「……変な感じ」
「何が?」
母が尋ねる。
「靴脱ぐの」
「あなた、自分の家で何言ってるの」
「そうなんだけど」
レイブンは靴を揃えようとして、一度置いた位置を直した。
その隣でエリシアも靴を脱ぐ。
「お邪魔します」
母が振り返る。
「エリシアさん」
「はい」
「そこは今日から少しずつ言わなくてもよくなるわ」
「え?」
「婚約したのでしょう?」
「……はい」
「なら、いずれ家族になる人なんだから」
エリシアは何か答えようとして、少しだけ言葉を詰まらせた。
「ありがとうございます」
「でも結婚するまでは一応お客様だから、遠慮しない程度には遠慮してね」
「どっち?」
レイブンが聞く。
「あなたは黙ってなさい」
「はい」
ルナが兄の袖を引いた。
「兄様」
「ん?」
「部屋、見る?」
「俺の?」
「うん」
「残ってるの?」
「あるよ」
「父さん、訓練室に改造してない?」
「俺を何だと思っている」
後ろからヴォルターが言う。
「やりそうだなって」
「お前の私物には触っていない」
「珍しい」
「レイブン」
「はい」
「帰宅初日に説教されたいか?」
「遠慮します」
自室の扉を開けた時、レイブンは今度こそ完全に動きを止めた。
机がある。
椅子がある。
本棚がある。
昔使っていた教本も残っている。
訓練兵になる前に着ていた服。
壁に掛けたままの古い写真。
机の端には、訓練兵を卒業した日に父と母から渡された日記が置かれていた。
レイブンはゆっくり近づいた。
「……これ」
「兄様?」
「父さんと母さんが書いてた日記」
「何の?」
「ルナの」
ルナが首を傾げる。
「私?」
「俺が入隊してから、二人で毎日書いてたんだよ」
「何が書いてあるの?」
「ルナが何したとか、何を覚えたとか、何を食べたとか」
「全部?」
「結構」
レイブンは表紙へ手を置いた。
訓練兵時代。
家にいられなかった自分へ、父と母が残してくれた妹の成長記録。
受け取った時も嬉しかった。
だが今は意味が違う。
戦争へ出てからは、さらに多くの時間を家族と離れて過ごした。
「兄様、読んだ?」
「全部じゃない」
「何で?」
「少しずつ読みたかったから」
「じゃあ今読む?」
「ルナの前で?」
「うん」
「恥ずかしくない?」
「何が?」
「五歳くらいのルナだよ?」
「別に」
レイブンは日記を開いた。
数ページ進める。
「『今日はルナが――』」
「待って!」
ルナが日記を閉じた。
「どうした?」
「やっぱりダメ」
「何で?」
「何か嫌な予感した」
「さっきいいって言ったじゃん」
「兄様一人の時に読んで」
「分かったよ」
レイブンは笑いながら日記を机へ戻した。
「でも、ありがとう」
「私何もしてない」
「成長してくれた」
「普通だよ」
「それでいい」
レイブンは妹の頭を撫でた。
「普通に大きくなってくれてありがとう」
「兄様、変」
「戦争帰りだから」
「何でもそれで済ませるつもり?」
扉のところからエリシアの声がした。
「いつからいたの?」
「『普通に大きくなってくれてありがとう』くらい」
「ほぼ全部じゃん」
ルナは兄から離れると、今度はエリシアへ近づいた。
「エリシアさん」
「何?」
「兄様って戦場でも変だった?」
「ルナ」
「かなり」
「エリシア」
「すぐ無茶するし、自分が怪我しても他人を先に運ぶし、大丈夫じゃない時ほど大丈夫って言うし」
「ちょっと待って」
「食事を忘れる時もある」
「待ってって」
「寝ない」
「任務中だから」
「一人で敵を引きつけようとする」
「必要だったから」
「大型魔獣に近距離でSG撃つ」
「仕方なかった」
「肩を怪我したままT-51撃つ」
「世界がかかってた」
ルナの目が徐々に細くなった。
「兄様」
「何?」
「座って」
「何で?」
「いいから」
レイブンは自分のベッドへ座った。
九歳の妹が真正面に立つ。
「もう無茶しないで」
「……はい」
「約束」
「軍人だから絶対とは言えない」
「じゃあ」
ルナは少し考えた。
「無茶しても帰ってきて」
レイブンの表情から笑いが消えた。
父と同じだ。
母と同じだ。
エリシアと同じだ。
誰も戦うなとは言わない。
ただ帰れと言う。
「分かった」
「本当?」
「うん」
レイブンは右手の小指を出した。
「約束」
ルナも小指を絡める。
「絶対ね」
「努力する」
「絶対」
「……絶対帰る」
「よし」
エリシアが腕を組んで頷いた。
「私が何回言っても駄目だったのに」
「妹は強いな」
「兄様」
「はい」
「エリシアさんの言うことも聞いて」
「はい」
「よろしい」
夕食の支度が始まった頃、レイブンは台所へ入ろうとして母に追い出された。
「何で?」
「怪我人だから」
「皿くらい運べる」
「座ってなさい」
「暇なんだけど」
「ルナの相手をして」
「ルナはエリシアと話してる」
居間を見る。
ルナとエリシアが隣同士に座っていた。
いつの間にか随分打ち解けている。
「何話してるんだろ」
「気になる?」
「かなり」
「聞き耳を立てるのはやめなさい」
「ゴーストなら気づかれずに」
「レイブン」
「冗談」
母の視線に負けて居間へ戻ろうとしたところで、今度は父に呼ばれた。
「レイブン」
「何?」
「少し来い」
ヴォルターは庭へ出た。
レイブンも後を追う。
夕方の風が吹いている。
戦場とは違う匂いだった。
火薬も。
燃料も。
焼けた土も。
血の臭いもない。
ヴォルターは庭の端で止まった。
「肩を見せろ」
「父さんも?」
「いいから」
レイブンは上着をずらした。
ヴォルターが包帯を見る。
「いつ負傷した」
「第四門杭」
「何日前だ」
「帰還まで含めると……」
日数を答える。
ヴォルターの眉が僅かに動いた。
「包帯を外せ」
「ここで?」
「傷を見る」
「分かった」
レイブンが包帯を解く。
傷跡が現れる。
ヴォルターは黙った。
「何?」
「……これだけか」
「これだけって?」
「報告書では深部まで裂傷が達していた」
「そうみたい」
「縫合は」
「した」
「抜糸は?」
「まだ」
ヴォルターが傷をよく見る。
塞がり方が早い。
あまりにも早い。
「痛むか」
「少し」
「腕を上げろ」
レイブンは上げる。
「ここまで」
「全部上がるのか」
「うん」
「力は」
「入る」
ヴォルターは息子の顔を見る。
「衛生兵は何と言っていた」
「治りが早いって」
「それだけか」
「若いからじゃないかって」
「……そうか」
「何?」
「いや」
ヴォルターはそれ以上言わなかった。
「念のため軍病院で診てもらえ」
「大げさじゃない?」
「命令だ」
「今は教官じゃないんじゃ?」
「父親命令だ」
「それあり?」
「ある」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
ヴォルターは家へ戻ろうとした。
レイブンが呼び止める。
「父さん」
「何だ」
「ありがとう」
「何がだ」
「SG」
ヴォルターが振り返る。
「役に立った」
「そうか」
「何回も助けられた」
「銃に助けられたと思うな」
「え?」
「使ったのはお前だ」
「でも」
「銃は道具だ。持ち主が帰ろうとしなければ、どれだけ優れた武器でも連れて帰ってはくれん」
レイブンは黙って聞いた。
「T-51も」
「あれはどうだった」
「重い」
「十キロを切らせただろう」
「父さんが?」
「開発局がだ」
「でも口出したんでしょ」
「少しな」
「少し?」
「かなりだ」
「やっぱり」
レイブンは笑った。
「REAPERも帰ってきた」
「壊したか?」
「傷だらけ」
「撃てるなら問題ない」
「俺と同じ?」
「お前は撃てても問題がある」
「扱い違わない?」
「銃と息子を同じにするな」
「……父さん」
「何だ」
「それ、ちょっと嬉しい」
「知らん」
ヴォルターは家へ戻った。
レイブンも後を追おうとして、庭から見える空を一度だけ見上げた。
青白い異界門はない。
普通の夕焼けだけだった。
食卓には、レイブンが覚えている料理が並んでいた。
豪華な軍の祝賀食ではない。
母が家で作る料理だった。
それだけで十分だった。
「いただきます」
全員の声が重なる。
レイブンは一口食べた。
止まった。
「どう?」
母が聞く。
レイブンは咀嚼する。
飲み込む。
もう一口。
「レイブン?」
「……母さん」
「何?」
「これ」
「口に合わない?」
「逆」
レイブンは少し俯いた。
「ずっと食べたかった」
母は何も言わなかった。
ただ少しだけ笑った。
「ならたくさん食べなさい」
「うん」
戦場では食事は燃料に近かった。
食べられる時に食べる。
味より量。
時間がなければ携行食。
警戒しながら食べたこともある。
片手にSGを置いたまま食事をしたこともある。
今は武器がない。
周囲を警戒する必要もない。
正面には父。
隣にはエリシア。
向かいには母とルナ。
ただ食べればいい。
だが途中で、外から大きな音がした。
近所で何かが倒れたらしい。
それだけだった。
それなのにレイブンの身体が先に動いた。
椅子を引き。
身体を低くし。
右手が腰へ向かう。
拳銃はない。
そこでようやく止まった。
食卓が静かになった。
「……ごめん」
レイブンは椅子へ座り直した。
「反射で」
エリシアは何も言わず、テーブルの下で彼の左手を握った。
「大丈夫」
「うん」
「ここは家」
「分かってる」
「ゆっくりでいいよ」
「……うん」
ヴォルターも何も言わなかった。
軍人だった父には、息子がなぜ動いたのか分かっていた。
母も追及しなかった。
ルナだけが少し心配そうに兄を見ている。
レイブンは妹へ笑いかけた。
「びっくりしただけ」
「本当?」
「本当」
食事が再開する。
しばらくしてルナが聞いた。
「兄様」
「何?」
「NoXって何?」
レイブンの箸が止まった。
「どこで聞いたの?」
「父様」
全員がヴォルターを見る。
「俺か?」
「前に言ってた」
「何と」
「『NoXの戦闘報告がまた来た』って」
「……言ったかもしれんな」
「父さん」
「機密内容は話していない」
「そこじゃないよ」
ルナが兄を見る。
「兄様がNoXなの?」
レイブンは少し考えて頷いた。
「そうだよ」
「どういう意味?」
「〔無名〕」
「名前がない?」
「訓練兵の時につけられたコールサインだった」
「兄様には名前あるよ?」
「レイブン・S・クロウ」
「そう」
「俺もそう思う」
エリシアが笑う。
「でも、その名前がそのまま残った」
「戦場ではNoX?」
「うん」
「じゃあ家では?」
「レイブン」
ルナは少し考える。
「兄様でいい?」
「もちろん」
「じゃあ兄様」
「何?」
「おかわり」
「自分で取れるでしょ」
「兄様が帰ってきた記念」
「何それ」
笑いながらルナの皿を受け取る。
戦場でどれほどNoXという名が広まっても、この家では兄様だった。
そのことがレイブンには妙に嬉しかった。
食後。
レイブンは風呂に入った。
湯へ身体を沈めた瞬間、思わず声が漏れた。
「……生き返る」
自分で言ってから笑った。
戦場では短時間のシャワーで済ませることが多く、温かい湯へ身体を沈めるなど久しぶりだった。
左肩の傷を濡らさないよう注意しながら目を閉じる。
静かだった。
静かすぎる。
数分すると、逆に落ち着かなくなった。
目を開ける。
扉を見る。
窓を見る。
何もない。
「家だ」
自分へ言い聞かせる。
「ここは家」
それからようやく肩の力が抜けた。
夜。
レイブンは自室のベッドへ横になった。
眠れない。
柔らかすぎる。
静かすぎる。
暗すぎる。
戦地では遠くで何かしらの音がしていた。
発電機。
車両。
航空機。
警備兵の足音。
砲撃。
今は時計の音さえ大きく聞こえる。
寝返りを打つ。
左肩が少し痛む。
「……眠れない」
目を閉じる。
数分。
開ける。
また閉じる。
その時、扉が小さく叩かれた。
「兄様?」
「ルナ?」
「起きてる?」
「起きてる」
扉が少し開く。
「どうした?」
「兄様が本当にいるか確認しに来た」
「何それ」
「朝になったらいなくなってそうだから」
レイブンは言葉を失った。
「……いるよ」
「本当に?」
「うん」
「明日も?」
「いる」
「朝も?」
「いるよ」
ルナは安心したように頷いた。
「おやすみ、兄様」
「おやすみ、ルナ」
扉が閉じる。
レイブンは天井を見る。
「朝になったらいなくなってそう、か」
家族も同じなのだ。
自分だけが戦争から日常へ戻れずにいるわけではない。
待っていた家族もまた、自分が帰ってきた生活へ慣れようとしている。
しばらくすると、もう一度扉が叩かれた。
「今度は誰?」
「私」
「エリシア?」
扉が開く。
「ルナちゃん来た?」
「来た」
「廊下で会った」
「エリシアは?」
「私も眠れない」
「そっちも?」
「静かすぎる」
レイブンは笑った。
「同じだ」
エリシアは部屋へ入り、椅子へ座った。
「戦場だと静かになれって思ってたのに」
「いざ静かになると怖い」
「うん」
しばらく二人は話した。
作戦のことではない。
明日の朝食。
ルナ。
エリシアの母へいつ会いに行くか。
正式な結婚をどうするか。
どこに住むか。
軍を続けるか。
答えが出ない話ばかりだった。
それでよかった。
「レイブン」
「何?」
「肩、まだ痛い?」
「少し」
「見せて」
「今日何回目?」
「いいから」
包帯を確認する。
エリシアの表情が変わった。
「……レイブン」
「何?」
「朝より塞がってない?」
「そう?」
「見て」
鏡を使う。
レイブンも傷を見る。
「……確かに」
「こんなに早い?」
「若いから?」
「それで済む?」
二人は少し黙った。
だが異常と断定できるほどの知識はない。
「明日、病院行こう」
「父さんにも言われた」
「なら決定」
「はい」
エリシアが包帯を戻す。
「これで寝られそう?」
「多分」
「じゃあ戻る」
「エリシア」
「何?」
「ありがとう」
「何が?」
「一緒に帰ってきてくれて」
エリシアは微笑んだ。
「こっちこそ」
「明日もいる?」
「いるよ」
「朝も?」
エリシアはルナと同じ質問だと気づいたらしい。
「いる」
「そっか」
「おやすみ、レイブン」
「おやすみ、エリシア」
扉が閉まる。
レイブンはもう一度横になった。
今度は目を閉じても、不安は少なかった。
家にいる。
父がいる。
母がいる。
ルナがいる。
隣の部屋にはエリシアがいる。
明日もいる。
その言葉だけで十分だった。
やがて眠りに落ちる。
深夜。
家族全員が眠った頃。
レイブンの左肩では、傷ついた組織の再生が静かに続いていた。
本来なら数週間を必要とする損傷が、日を追うごとに異常な速度で塞がっていく。
本人は知らない。
エリシアもまだ知らない。
ヴォルターだけが僅かな違和感を覚えているに過ぎない。
そして同じ頃。
客室で眠るエリシアの身体にも、目に見えない変化が起きていた。
長期間の戦闘で蓄積したはずの微細な損傷が、眠りとともに修復されていく。
古傷さえ、ほんの僅かずつ薄れていた。
二人が異界軍との戦争で何に触れたのか。
いつから変化が始まっていたのか。
なぜ二人なのか。
答えはまだ誰も持っていない。
ただ一つ確かなことがあるとすれば、この夜のクロウ家には、戦場から帰還した二人の兵士が眠っていた。
そして朝が来れば、二人は目を覚ます。
今日より少しだけ傷を失った身体で。
戦争が終わりつつある世界で、これから自分たちが何年生きることになるのかなど、まだ想像することさえないまま。




