Season 4「NoX」 #068
第68話「ただいま」
組織的戦闘の停止が全戦域へ通達されてから三日が経過しても、レイブン・S・クロウは朝になるたび、目を覚ました直後に右手を伸ばしていた。
手が探しているものがSG-44だと気づくまで、毎朝ほんの数秒を要した。
枕元に銃はない。
弾倉もない。
戦闘装具もない。
あるのは簡素なベッドと、椅子の背へ掛けられた抵抗軍の隊服、それに前日の治療で巻き直された左肩の包帯だけだった。
「……ああ」
レイブンは天井を見ながら手を止めた。
「そうだった」
今日も出撃命令はない。
その事実を頭では理解しているのに、身体がまだ理解していなかった。
起床して装備を身につけ、武器を確認して弾薬を受け取り、任務内容を頭へ叩き込んでから戦場へ向かう生活が長く続きすぎたせいで、何もしなくていい朝というものが逆に落ち着かなかった。
左肩を動かしてみる。
痛みはかなり引いていた。
傷そのものも、マティアス〔衛生兵〕が予想していたより早く塞がり始めている。
昨日の診察でも言われた。
治りが早い、と。
レイブン自身もそう思う。
しかし若いからだろうと考え、それ以上気にしなかった。
ベッドから身体を起こしたところで、扉が叩かれた。
「レイブン、起きてる?」
「起きてる」
扉が開き、エリシア・L・ヴォルハラムが顔を出した。
戦闘装具は着けていない。
抵抗軍の隊服だけだった。
「珍しい」
「何が?」
「ノックした」
「いつもしてる」
「昨日は?」
「した」
「一昨日」
「した」
「その前」
「……覚えてない」
「ほら」
エリシアが部屋へ入る。
「肩は?」
「昨日よりいい」
「見せて」
「朝から?」
「朝だから」
「どういう理屈?」
「いいから」
レイブンは諦めて隊服の上着をずらした。
エリシアが包帯を見る。
「血は?」
「出てない」
「痛み」
「二くらい」
「十段階?」
「うん」
「本当?」
「三」
「最初からそう言って」
「二・五」
「レイブン」
「三です」
エリシアは満足したらしく頷いた。
「今日パッチに診てもらって、それで問題なかったら移動許可が出るって」
「移動?」
「聞いてない?」
「何を?」
エリシアは少し笑った。
「帰還命令」
レイブンは一瞬、意味を理解できなかった。
「……帰還?」
「うん」
「どこに?」
「それ本気で聞いてる?」
「帝国?」
「帝国」
「俺たちが?」
「私たちが」
「今日?」
「早ければ」
レイブンは立ち上がった。
「痛っ」
「ほら!」
エリシアに肩を押さえられる。
「急に立たない!」
「いや、だって帰れるって」
「帰れるからって傷が消えるわけじゃない」
「準備しないと」
「荷物は?」
レイブンは室内を見る。
ほとんどない。
「……すぐ終わる」
「でしょう?」
「REAPER」
「武器庫」
「SG」
「同じ」
「拳銃」
「同じ」
「装備」
「補給所」
「じゃあ何持って帰ればいいんだ」
「自分」
エリシアが即答した。
「一番大事でしょう?」
レイブンは何も言わなかった。
その言葉を、以前にも何度も別の形で聞いている。
父から。
エリシアから。
仲間から。
武器より先に自分を持ち帰れ。
生きて戻れ。
未帰還だけは許さない。
「……そうだね」
レイブンは笑った。
「それだけはちゃんと持って帰れた」
「私も」
「うん」
午前九時過ぎ、特殊即応部隊の隊員たちは基地中央の簡易ブリーフィングルームへ集められた。
アレクシス・ハルトマン〔猟犬〕が前に立っている。
ニコラス〔梟〕。
ダリオ〔破城槌〕。
マティアス〔衛生兵〕。
そしてレイブン〔無名〕とエリシア〔戦乙女〕。
誰も完全な礼装ではない。
まだ戦時下だからだ。
だが戦闘装備を身につけている者もいなかった。
「まず最初に言っておく」
アレクシスが全員を見る。
「戦争は正式には終わっていない」
室内の空気が少しだけ引き締まる。
「停戦協議は進行中。異界軍残存部隊の武装解除も続いている。未確認魔獣も残っている。したがって抵抗軍そのものが解散するわけではない」
レイブンは黙って聞いた。
「ただし我々の担当作戦区域における任務は終了した」
その言葉で、空気が変わった。
「特殊即応部隊は本日一二〇〇をもって前線任務から解除される」
ダリオが小さく息を吐いた。
ニコラスは目を閉じる。
マティアスは椅子の背へ身体を預けた。
レイブンは何もできなかった。
任務終了。
何度も聞いてきた言葉なのに、今回は意味が違う。
「帰還先は各所属国および原隊。今後については停戦協定締結後、改めて命令される」
アレクシスが一枚の書類を見る。
「NoX」
「はい」
「帝国軍特殊即応部隊への帰還」
「了解」
「Valkyrie」
「はい」
「本来なら連邦軍原隊への帰還となる」
レイブンが横を見る。
エリシアも僅かに表情を変えた。
「ただし」
アレクシスが続ける。
「抵抗軍統合司令部および帝国、連邦双方の承認により、暫定的にNoXと同一移送便への搭乗が認められた」
「え?」
レイブンが思わず声を出した。
アレクシスが眉を上げる。
「不満か?」
「逆です」
「なら黙って聞け」
「はい」
「理由は共同作戦における継続的な戦闘記録の整理、およびNoXの負傷に対する護衛任務の完了確認」
ダリオが小声で呟いた。
「建前だな」
「聞こえているぞ、ラム」
「すみません」
アレクシスはため息をついた。
「加えて、婚約関係にある両名を戦闘終了直後に別方面へ移送する合理的理由がないと判断された」
レイブンがエリシアを見る。
エリシアもこちらを見る。
「つまり」
レイブンが聞く。
「一緒に帰っていい?」
「最初からそう言っている」
「ありがとうございます」
「俺に礼を言うな。書類を通した連中に言え」
「誰です?」
「帝国側で妙に話の早かった戦闘技術顧問が一人いる」
レイブンの表情が止まった。
「……父さん?」
「ヴォルター・クロウ」
「父さんだ」
「知っている」
「絶対父さんだ」
「だから名前を言った」
エリシアが笑いを堪えている。
「何?」
「親子だなって」
「まだ何もしてないよ」
「ヴォルターさん、あなたが帰ってくる前から準備してる」
「……怖いな」
「嬉しいくせに」
「うん」
正午。
前線任務解除。
それは式典らしいものもなく、驚くほど静かに訪れた。
時計の針が一二〇〇を示した瞬間に何かが変わるわけではない。
サイレンも鳴らない。
誰かが拍手するわけでもない。
ただアレクシスが腕時計を確認して言った。
「時間だ」
それだけだった。
特殊即応部隊の第一次異界大戦における前線任務は終了した。
レイブンは腕時計を見た。
「終わった」
エリシアが隣で頷く。
「終わったね」
「何かもっとあると思ってた」
「私も」
「こんな普通なんだ」
「戦争の始まりだって、後から考えればそんなものだったのかもしれない」
レイブンはしばらく時計を見た。
やがて顔を上げる。
「帰ろう」
「うん」
武器庫でSG-44を受領した時、レイブンは久しぶりに銃床の刻印へ指を這わせた。
筆記体。
Crow Raven。
まだ正式名称をレイブン・S・クロウとして統一する以前に刻まれた名前が、そのまま残されている。
父が訓練兵だった自分へ持ってきた銃。
あの日の言葉も覚えている。
命ではなく、帰還するのに邪魔な敵を倒せ。
そのための散弾銃だ。
「帰ってきたよ」
小さく呟いた。
「誰に言ったの?」
エリシア。
「こいつ」
「やっぱり武器に話しかけるようになった?」
「違う。父さんに」
「銃越しに?」
「そんな感じ」
続いてT-51《REAPER》が運ばれてくる。
こちらも傷だらけだった。
銃身外装には擦過痕が残り、複合材部分にも細かな傷がある。
それでも機関部は正常。
IBRSも正常。
父から受け取った時より遥かに使い込まれている。
レイブンはそれをケースへ収めた。
帝国軍制式自動拳銃も安全確認を行い、規定の輸送状態へする。
どの武器にも弾は入れなかった。
戦地から帰るための移送だ。
もう薬室へ一発を残す必要はない。
その日の午後、輸送機が基地を離陸した。
窓際にはレイブン。
その隣にエリシア。
機体が上昇するにつれ、何か月も戦った土地が小さくなっていく。
塹壕。
破壊された市街地。
砲撃跡。
第四門杭があった場所。
そして巨大異界門が存在した平原。
「見える?」
エリシアが聞く。
「うん」
「何考えてる?」
「もう来たくない」
「同感」
「でも」
「でも?」
「忘れたくもない」
エリシアは窓の外を見る。
「私も」
レイブンは座席へ身体を戻した。
「エリシア」
「何?」
「帝国に着いたら緊張する?」
「かなり」
「何で?」
「あなたの家族に会うから」
「もう父さんとは会ってるだろ」
「戦場でのヴォルター教官と、婚約者の父親としてのヴォルターさんは別」
「同じ人だよ」
「立場が違う」
「母さんは優しい」
「だから余計緊張する」
「ルナは?」
「一番緊張する」
「何で?」
「九歳でしょう?」
「うん」
「あなたのこと大好きでしょう?」
「多分」
「そのお兄様が突然婚約者連れて帰ってくるんだよ?」
レイブンは黙った。
「……あ」
「今気づいた?」
「俺、ルナに婚約したって言ってない」
「ヴォルターさんから聞いてるんじゃない?」
「父さん、言うかな」
「言ってなかったら?」
「……どうしよう」
「私に聞かないで」
「怒るかな」
「どうだろう」
「泣く?」
「それは困る」
「俺も困る」
二人とも真剣に悩み始めた。
魔王級を相手にした時より難しい顔をしていた。
輸送機は飛び続けた。
戦場から離れるにつれ、地上の景色が変わっていく。
砲撃跡が減る。
破壊されていない道路が増える。
畑が見える。
民家がある。
車両が走っている。
人間が普通に生活している。
レイブンは窓へ顔を近づけた。
「エリシア」
「何?」
「洗濯物」
「……うん?」
「干してある」
「そうだね」
「普通に」
「普通だね」
「すごいな」
エリシアは何も言わず、彼の横顔を見た。
戦争へ行く前なら、レイブンは洗濯物を見て感動するような人間ではなかったはずだ。
畑を見ても。
家を見ても。
道路を走る車を見ても。
それが存在することを当然だと思っていた。
今は違う。
壊れていない家がある。
そこに人がいる。
夕方になれば食事をする。
眠る。
朝になればまた起きる。
誰かにとって何でもない日常が、レイブンには奇跡のように見えた。
「守れたのかな」
レイブンが呟く。
「全部は無理だった」
エリシアが答える。
「うん」
「でも、残ったものもある」
「うん」
「それでいいんじゃない?」
「……そうだね」
帝国領内へ入ったことを知らせる機内放送が流れた。
レイブンの心臓が少しだけ速くなる。
懐かしい地名が聞こえる。
山。
河川。
都市。
そして基地。
かつて訓練兵として過ごした場所から、それほど遠くない帝国軍航空基地へ着陸する。
降下するにつれ、レイブンは窓から滑走路を見た。
人がいる。
軍人。
整備兵。
帰還部隊を迎える関係者。
「……いる」
「誰?」
「分からない」
「え?」
「遠くて」
「じゃあ何で言ったの」
「誰かいるなって」
「それは見れば分かる」
車輪が滑走路へ触れる。
衝撃。
逆噴射。
速度が落ちる。
レイブンは無意識に胸元のドッグタグを握っていた。
「緊張してる?」
エリシア。
「少し」
「私も」
「手」
「何?」
「貸して」
エリシアが手を出す。
レイブンは握った。
「これなら大丈夫」
「子供みたい」
「九歳の妹に会う兄だから」
「関係ないでしょう」
輸送機が停止した。
後部ランプが開く。
帝国の空気が入ってきた。
レイブンは一度目を閉じた。
匂いが違う気がした。
実際には同じなのかもしれない。
それでも故郷の匂いだと思った。
「行こう」
「うん」
二人は立ち上がった。
荷物を持つ。
武器ケースは別途輸送される。
今のレイブンの手に銃はない。
エリシアにもない。
二人は並んで後部ランプを降りた。
一歩。
二歩。
三歩。
レイブンは周囲を見る。
その時だった。
「兄様!」
声がした。
レイブンの身体が止まった。
聞き間違えるはずがない。
戦場へ出る前より少し成長した声。
それでも覚えている。
「……ルナ?」
人の間から、小さな少女が飛び出してきた。
九歳になったルナ・クロウ。
父親に止められるより早く走ってくる。
「兄様!」
「ルナ!」
レイブンは荷物を置いた。
左肩のことも忘れた。
しゃがもうとしたところへルナが飛び込んできた。
「うわっ」
抱きつかれる。
左肩が痛む。
だが今だけは何も言わなかった。
「兄様! 本当に兄様!?」
「本物だよ」
「帰ってきた!?」
「帰ってきた」
「本当に!?」
「うん」
「もう行かない!?」
レイブンは一瞬だけ答えられなかった。
軍人である以上、もう二度と戦場へ行かないとは約束できない。
だから嘘は言わなかった。
「今日は行かない」
「明日は!?」
「明日も」
「その次は!?」
「しばらく行かない」
ルナがさらに強く抱きついた。
「よかった……」
声が震えていた。
レイブンは右腕で妹を抱きしめた。
「ただいま、ルナ」
「……おかえりなさい、兄様」
その声を聞いた瞬間、レイブンの目が熱くなった。
顔を上げる。
少し離れた場所。
母がいた。
以前より少し痩せたように見えた。
それでも同じ顔だった。
そして、その隣。
ヴォルター・クロウ。
戦闘技術士官でも。
教官でも。
兵器開発へ口を出す頑固な軍人でもない。
ただ父親として立っていた。
レイブンはルナと手を繋いだまま二人へ近づいた。
「母さん」
母は答えなかった。
代わりに抱きしめられた。
「おかえり」
それだけだった。
レイブンも母の背へ右腕を回した。
「ただいま」
母が離れる。
最後に父を見る。
ヴォルターは腕を組んでいた。
「……父さん」
「何だ」
「帰った」
「見れば分かる」
「もっと何かないの?」
「遅い」
レイブンは笑った。
「ごめん」
「怪我は」
「左肩」
「見せろ」
「エリシアとパッチにも同じこと言われた」
「なら三人目だ」
「親子だなあ」
「何がだ」
ヴォルターが一歩近づいた。
レイブンは何か言われると思った。
だが父の右手が息子の頭へ置かれた。
「よく帰った」
レイブンの笑顔が止まった。
「……うん」
「命令は守ったな」
「父さんが言ったから」
「教官として言った」
「父親としてもだろ?」
ヴォルターは答えなかった。
それだけで十分だった。
「ただいま、父さん」
「ああ」
ヴォルターの手が頭から離れる。
「おかえり、レイブン」
レイブンは目元を擦った。
「泣くな」
「泣いてない」
「昔からそこは変わらんな」
「父さんも目赤いよ」
「気のせいだ」
「母さん」
「赤いわね」
「おい」
ルナが笑った。
レイブンも笑う。
その少し後ろで、エリシアだけがどう入ればいいのか分からず立っていた。
そして最初に気づいたのはルナだった。
「兄様」
「何?」
「あの人」
「あ」
レイブンの表情が固まった。
エリシアも固まった。
ヴォルターだけが面白そうに二人を見る。
「何だ、戦場では魔王級を前にしても動けたくせに、九歳の妹相手では動けんのか」
「父さん、知ってたなら助けて」
「自分で何とかしろ」
「教官」
「今は父親だ」
「便利だな、その使い分け!」
母が小さく笑った。
レイブンは諦めてエリシアへ手を伸ばした。
「エリシア」
「……はい」
珍しく緊張している。
レイブンの隣へ来る。
ルナがじっと見上げる。
「この人は、エリシア・L・ヴォルハラム」
「はい」
「連邦軍の兵士で」
「はい」
「戦友で」
「はい」
「俺の命を何回も助けてくれて」
「そこまで説明する?」
「必要かなって」
「それで?」
ルナが聞いた。
レイブンは一度エリシアを見る。
彼女が小さく頷いた。
「俺の婚約者」
ルナが止まった。
「……こんやくしゃ?」
「うん」
「兄様の?」
「うん」
「お嫁さん?」
「これからね」
ルナはエリシアを見る。
エリシアも緊張したまま少女を見る。
数秒。
レイブンには数分に感じられた。
「エリシアさん」
「はい」
「兄様を連れて帰ってきてくれた人?」
エリシアは少し驚いた。
「……うん。でも、レイブンも私を連れて帰ってくれたよ」
「じゃあ」
ルナがエリシアへ近づいた。
「ありがとう」
エリシアの表情が柔らかくなる。
「どういたしまして」
「兄様、すぐ無茶するから」
「知ってる」
「言うこと聞かないから」
「それも知ってる」
「ルナ?」
「怪我しても大丈夫って言うから」
「ルナさん?」
「知ってる」
「エリシアまで?」
「全部経験済み」
ルナはしばらくエリシアを見たあと、何かに納得したように頷いた。
「じゃあ大丈夫」
「何が?」
レイブンが聞く。
「兄様を任せても」
「俺の意思は?」
「兄様は黙ってて」
「九歳に言われた……」
ヴォルターが笑った。
母も笑った。
エリシアまで笑っている。
「味方がいない」
レイブンが呟く。
「いるでしょう」
エリシアが言った。
「こんなに」
レイブンは周囲を見た。
父。
母。
妹。
婚約者。
誰も欠けていない。
少なくとも、この場所では。
レイブンは静かに息を吐いた。
「帰ろうか」
母が言った。
「家に?」
「家以外にどこへ帰るの」
レイブンはその言葉を聞き、もう一度笑った。
「うん」
基地を出る時、レイブンは一度だけ後ろを振り返った。
滑走路。
輸送機。
軍人たち。
そして遠くにある戦争。
第一次異界大戦は、まだ正式な終戦文書への署名を待っている。
抵抗軍も存在する。
武装解除も続いている。
それでも今日の自分には、もう一つ別の任務がある。
家へ帰る。
父と母と妹と食卓を囲む。
婚約者を家族へ紹介する。
眠る。
明日の朝、銃を探さずに目を覚ます。
そんな何でもないことを取り戻す。
車へ乗り込む前、ヴォルターが息子へ聞いた。
「レイブン」
「何?」
「志望動機はまだ変わっていないか」
訓練終了の日。
満身創痍で帰還した十八歳の自分が、父へ言った言葉を思い出す。
家族だけではなく、この世界のためならどんな場所へでも駆け付けられるような即応の守護者になりたい。
レイブンは少し考えた。
「変わった」
「そうか」
「家族だけじゃないって言ったけど」
ルナを見る。
母を見る。
エリシアを見る。
最後に父を見る。
「家族も世界も仲間も、どれか一つじゃなくて、帰りたいって思ってる人が帰れるようにする兵士になりたい」
ヴォルターは何も言わなかった。
「教官的には?」
「今は教官ではない」
「じゃあ父さん的には?」
ヴォルターは車の扉を開けた。
「及第点だ」
「厳しいな」
「満点は取らせん」
「何で?」
「取ったと思った瞬間から成長しなくなる」
「やっぱり教官じゃん」
「職業病だ」
レイブンは笑った。
そして家族とともに車へ乗り込んだ。
戦場では〔無名〕と呼ばれた兵士が、その日初めて何のコールサインも必要としない場所へ帰っていく。
そこではNoXである必要はない。
特殊部隊員である必要もない。
T-51《REAPER》の射手でも、SG-44を握る守護者でもない。
ただの息子で。
兄で。
そして、これから夫になろうとしている一人の青年だった。
車窓の向こうを帝国の街並みが流れていく。
レイブンはその景色を見ながら、隣に座るエリシアの手を握った。
「エリシア」
「何?」
「ただいまって、いい言葉だな」
「そうだね」
「また言えるかな」
「何度でも言えばいい」
「そのたびに?」
「私が、おかえりって言う」
レイブンは笑った。
「じゃあ、約束」
「うん」
「必ず帰る」
「私も」
前の座席ではルナが二人の会話を聞いていたが、今は何も言わなかった。
ただ、兄の手がもう銃ではなく誰かの手を握っていることを見て、小さく笑った。
やがて車は、クロウ家へ続く道へ入った。
レイブンが何年も思い描き続けた場所が、少しずつ近づいてくる。
戦争から帰るということは、国境を越えることでも、基地へ到着することでもなかった。
待っている人の顔を見て、「ただいま」と言うことだった。
レイブン・S・クロウは、その日ようやく第一次異界大戦から帰還した。
しかし彼自身も、エリシアも、まだ気づいてはいなかった。
左肩の傷が、通常なら考えられない速さで塞がり始めていることに。
長い戦争の中で酷使された身体が、疲弊するどころか少しずつ別の法則へ適応し始めていることに。
そして数十年後、百年後、そのさらに先でも、この日の「ただいま」を二人が鮮明に覚えていることになるなど、この時の二人に知る由もなかった。
今はただ、家が近づいている。
それだけでよかった。




