Season 4「NoX」 #059
第59話「二つの名を刻む」
療養休暇が残り二日となった朝、レイブン・S・クロウは目を覚ましてから、しばらく天井を眺めていた。
左腕の傷はかなり回復している。
前日の診察で日常生活に問題はないと判断され、軽い運動も許可された。痛みもほとんどなく、軍医から予定通り復帰判定を受ければ、再び特殊即応部隊へ戻ることになる。
それを待ち望んでいたはずだった。
仲間のところへ戻りたい。
SG-44をもう一度握りたい。
T-51《REAPER》を背負い、部隊の一員として任務へ戻りたい。
だが、休暇初日に感じていた焦燥は、今では薄れていた。
代わりに別の感情が胸の中を占めている。
あと二日。
その言葉を考えるたび、隣の客室にいる女性の顔が浮かんだ。
「……言うか」
レイブンは小さく呟いた。
しかし、何をどう言えばいいのか分からない。
敵陣へ入る作戦なら手順を考えられる。
偵察経路なら地図を見ればいい。
T-51で狙撃するなら距離、風、弾道、目標の移動速度を考えればいい。
SG-44を使う距離なら身体が勝手に動く。
ところが今日伝えようとしていることには、教本も射撃表も存在しなかった。
「……戦場の方が簡単じゃないか?」
「何が?」
「うわっ!」
扉の向こうから声が聞こえた。
「エリシア!?」
「朝ご飯だって」
「あ、ああ。今行く」
「どうしたの?」
「何でもない」
「何か変だよ?」
「普通」
「本当に?」
「普通!」
「……ならいいけど」
足音が遠ざかっていく。
レイブンは両手で顔を覆った。
「危なかった……」
左腕を動かしても、もうほとんど痛くない。
そのことより今は胸の鼓動の方が気になった。
朝食の席でも、レイブンは普段より静かだった。
セレナはすぐに気づいた。
「レイブン?」
「何?」
「体調悪い?」
「全然」
「傷が痛むの?」
「痛くないよ」
ルナも兄の顔を覗き込む。
「兄様、元気ない?」
「あるよ」
「本当に?」
「本当」
向かい側に座っているエリシアまで疑うように見ている。
「昨日から何か変だよ」
「変じゃないって」
唯一、ヴォルターだけは何も言わず朝食を食べていた。
しかしレイブンがちらりと父を見ると、目が合った。
ヴォルターは息子の顔を数秒見たあと、珈琲を一口飲む。
「……なるほど」
「何が?」
「別に」
「父さん、絶対何か分かってるだろ」
「知らん」
「嘘だ」
「朝飯を食え」
レイブンは納得できなかったが、それ以上追及しなかった。
昼前。
ルナは学校へ行き、セレナは町へ買い物に出ていた。
ヴォルターは書斎にいる。
レイブンは庭に立っていた。
軽い運動が許可されたため、身体の状態を確認する程度に歩いていたのだが、意識は別のところにある。
縁側にはエリシアが座っていた。
彼女はルナから贈られた髪飾りを今日もつけている。
「レイブン」
「ん?」
「さっきから同じところ歩いてない?」
「……そう?」
「五周目」
「数えてたの?」
「暇だから」
「そっか」
また歩く。
「六周目」
「エリシア」
「何?」
「ちょっと付き合ってくれない?」
「散歩?」
「うん」
「いいよ」
エリシアが立ち上がった。
レイブンの心臓が一段大きく鳴った。
二人が向かったのは、前日にヴォルターとレイブンが訪れた丘だった。
町を見渡せる場所。
子供の頃から何度も来た場所。
今日は父ではなく、エリシアが隣にいる。
「ここ?」
「うん」
「昨日言ってた丘だね」
「景色いいだろ?」
「うん」
風が草を揺らしている。
二人は並んで丘を歩いた。
遠くには抵抗軍の監視塔が見え、そのさらに先には第一次異界大戦の影響で設けられた防衛線がある。
戦争が完全に見えなくなる場所ではない。
それでも前線より遥かに静かだった。
「明後日だね」
エリシアが言った。
「復帰?」
「うん」
「軍医が許可してくれれば」
「もう腕は?」
レイブンは左腕を上げてみせる。
「ほぼ大丈夫」
「無理してない?」
「してない」
「ならよかった」
二人はしばらく歩いた。
やがてレイブンが立ち止まる。
「エリシア」
「何?」
「話がある」
「急にどうしたの?」
「ちょっと……大事な話」
エリシアも足を止めた。
「分かった」
向き合う。
レイブンは何度か口を開こうとした。
しかし言葉が出てこない。
「レイブン?」
「待って」
「うん」
「今考えてる」
「何を?」
「言い方」
「そんなに大事なの?」
「かなり」
エリシアの表情も少し真剣になる。
「部隊のこと?」
「違う」
「怪我?」
「違う」
「家族?」
「少し関係ある……のかな」
「何?」
レイブンは息を吐いた。
これ以上考えても仕方がない。
「俺さ」
「うん」
「今回、怪我して家に帰ってきて、色々考えた」
エリシアは黙って聞いている。
「父さんから、守ることと自分を使い潰すことは違うって言われた。帰る場所を失うなとも言われた」
「うん」
「それで気づいたんだ」
レイブンは町を見る。
「俺には家がある。父さんがいて、母さんがいて、ルナがいる。部隊にも仲間がいる」
そしてエリシアへ視線を戻す。
「でも最近、それだけじゃなくなった」
エリシアの表情が僅かに変わる。
「アルケインで一緒に戦ってる時も、今回一緒に帰ってきてからも、俺はずっとエリシアが無事か気にしてた」
「それは私も――」
「最後まで聞いて」
「……うん」
「戦友だからだと思ってた」
レイブンは苦笑する。
「多分、最初は本当にそうだった」
連邦側へ支援に向かった日々。
NoXという名が広がっていく中で出会った、Valkyrieと呼ばれる女性。
最初はただの共同戦線の兵士だった。
やがて互いの背中を預けるようになった。
負傷すれば心配した。
無茶をすれば腹が立った。
生きて戻れば安心した。
いつの間にか、戦場で最初に探す姿になっていた。
「でも今は違う」
「……どう違うの?」
「エリシアが帰る場所に、俺もいたい」
エリシアが動きを止めた。
レイブン自身も、自分の言葉に驚いていた。
用意していた言い方ではなかった。
もっと格好よく言うつもりだった。
それでも一度言葉が出ると、もう止まらなかった。
「俺が帰る場所にも、エリシアにいてほしい」
「レイブン……」
「第一次異界大戦がいつ終わるか分からない。明後日には俺たちは戦場へ戻る。次の任務で何があるかも分からない」
レイブンは一度だけ視線を落とした。
「だから、戦争が終わってから言おうとは思わない」
もう一度、彼女を見る。
「エリシア・L・ヴォルハラム」
「……はい」
「俺と婚約してほしい」
風が吹いた。
エリシアの白い髪が揺れ、ルナからもらった髪飾りが小さく光った。
「今すぐ結婚してくれって意味じゃない」
レイブンは続ける。
「この戦争を二人で終わらせる。それで二人ともちゃんと帰ってきたら、その時に正式に結婚したい」
エリシアは何も言わなかった。
レイブンの心臓がさらに速くなる。
「……急すぎた?」
返事がない。
「エリシア?」
「ちょっと待って」
「え?」
「今……」
エリシアは顔を背けた。
耳が赤くなっている。
「……嬉しくて、何て言えばいいか分からない」
レイブンは目を見開いた。
「それって」
「私も」
エリシアがこちらを見る。
目元が僅かに濡れていた。
「私もレイブンと帰りたい」
「……うん」
「戦争が終わっても、一緒にいたい」
「うん」
「だから」
エリシアは笑った。
「お願いします」
レイブンは数秒、動けなかった。
「……本当に?」
「こんな時に嘘言う?」
「いや、でも」
「レイブン」
「はい」
「もう一回言わせる気?」
「すみません」
エリシアが笑う。
レイブンも笑った。
どちらからともなく手を伸ばす。
指が触れる。
今度は戦場で負傷者を引き起こすためでも、再装填を手伝うためでもない。
ただ互いの手を握った。
「絶対帰ろう」
レイブンが言った。
「うん」
「二人で」
「うん」
「それで戦争が終わったら」
「結婚する」
エリシアが先に言った。
レイブンは笑った。
「約束」
「約束」
家へ戻った時、ヴォルターは庭の作業台で工具を整理していた。
二人を見る。
そして手が止まった。
「……何だ」
「父さん」
「何だ」
「ちょっと頼みがある」
「その前に聞いていいか」
「何?」
ヴォルターは息子とエリシアを見る。
二人は先ほどから妙に近い。
「何があった」
「……何で分かるの?」
「父親を何年やってると思ってる」
レイブンは頭を掻いた。
エリシアも少し照れたように視線を逸らしている。
「父さん」
「ああ」
「俺たち、婚約した」
ヴォルターの手から工具が落ちた。
金属音が庭に響いた。
「……何?」
「婚約」
「誰と」
「ここにエリシアしかいないだろ」
「いや、それは分かっている」
ヴォルターは珍しく言葉に詰まった。
「いつだ」
「さっき」
「どこで」
「丘」
「誰から」
「俺」
「返事は」
エリシアが答えた。
「お受けしました」
ヴォルターは黙った。
レイブンが少し不安になる。
「……父さん?」
「待て」
「何を?」
「理解が追いついてない」
「父さんでもそんなことあるんだ」
「息子が散歩に出て、婚約して帰ってくるとは予想してなかった」
「俺も昨日まで予想してなかった」
「お前は計画性というものを――」
「ヴォルター?」
家の中からセレナが出てきた。
「何してるの?」
「セレナ」
「何?」
「息子が婚約した」
セレナが止まった。
レイブンが片手を上げる。
「……ただいま」
「レイブン」
「はい」
「婚約?」
「はい」
「エリシアさんと?」
「はい」
数秒後。
「まあ!」
セレナの表情が一気に明るくなった。
「おめでとう!」
「母さん!?」
セレナは最初に息子ではなくエリシアを抱きしめた。
「えっ?」
「エリシアさん、ありがとう!」
「セ、セレナさん!?」
「こんな息子でいいの?」
「母さん!?」
「はい」
「エリシアまで即答!?」
ヴォルターが額を押さえる。
「騒がしい……」
「父さんも何か言ってよ」
「お前が選んで、エリシアも選んだんだろ」
「うん」
「なら俺から言うことは一つだ」
ヴォルターは二人を見る。
「二人とも生きて結婚式まで来い」
レイブンの表情から冗談が消えた。
「……うん」
エリシアも頷く。
「はい」
「それでいい」
学校から帰ってきたルナへ話した時は、さらに大変だった。
「婚約って何?」
最初の質問がそれだった。
レイブンは困った。
「えっと……」
「結婚する約束よ」
セレナが助け舟を出す。
「結婚?」
「そう」
ルナが兄を見る。
エリシアを見る。
また兄を見る。
「じゃあ」
「うん?」
「エリシアお姉様、本当に兄様のお嫁さんになるの?」
「……戦争が終わったらね」
エリシアが答えた。
ルナの顔が一気に明るくなった。
「やった!」
「そんなに?」
「だってエリシアお姉様が家族になる!」
その言葉にエリシアの表情が止まった。
家族。
父と兄を失ってから、遠く感じるようになった言葉だった。
「……家族」
「うん!」
ルナはエリシアへ抱きついた。
「お姉様!」
エリシアは最初こそ戸惑ったが、やがてルナの背中へ腕を回した。
「……うん」
声が僅かに震えていた。
「ありがとう、ルナ」
レイブンは何も言わなかった。
ただその姿を見ていた。
その日の夕方。
レイブンとエリシアは再びヴォルターの作業台の前へ立った。
「それで頼みって何だ」
ヴォルターが尋ねる。
レイブンは首元へ手を伸ばした。
軍人として支給されているドッグタグを外す。
金属板が二枚。
氏名、軍籍番号、所属、必要な識別情報が刻まれている。
エリシアも自分のドッグタグを外した。
「指輪は?」
ヴォルターが聞く。
「今はいらない」
レイブンが答える。
「戦場に戻るし、装備の邪魔になるものは増やしたくない」
「それで?」
「これを婚約の証にしたい」
ドッグタグを差し出す。
「裏に、エリシアの名前を彫ってほしい」
ヴォルターは息子を見る。
続いてエリシアを見る。
「私はレイブンの名前を」
「なるほど」
ヴォルターは二枚を受け取った。
「正式な軍識別面には触らんぞ」
「もちろん」
「裏面だけだ」
「うん」
「表記は?」
レイブンが答える。
「俺のには――」
少しだけエリシアを見る。
「Elicia L. Volhalam」
エリシアも答える。
「私のには、Raven S. Crow」
ヴォルターは二つの名前を紙へ書き留めた。
「待ってろ」
作業台へ座る。
軍の技術開発にも関わってきたヴォルターにとって、小さな金属板への刻印は難しい作業ではなかった。
しかし今回は慎重だった。
固定具へレイブンのドッグタグを置く。
一文字ずつ位置を合わせる。
小さな金属音が鳴る。
E。
次にL。
そしてI。
文字が増えていく。
レイブンとエリシアは隣で見ていた。
やがて、
ELICIA L. VOLHALAM
という名前が刻まれた。
次はエリシアのドッグタグ。
同じように一文字ずつ。
RAVEN S. CROW
最後の文字を刻み終えたヴォルターは、金属粉を払い、二枚を確認した。
「できた」
それぞれへ返す。
レイブンは自分のドッグタグを見る。
表には自分の情報。
裏にはエリシアの名前。
「……いいな」
エリシアも自分のものを見ていた。
指先で刻まれた文字をなぞる。
「消えない?」
「表面が削れない限りな」
ヴォルターが答える。
「でも戦場で使えば傷はつくぞ」
「それでいいです」
エリシアは微笑んだ。
「傷が増えても、読めれば」
レイブンも頷く。
「俺も」
二人は再びドッグタグを首へ下げた。
金属板が胸元へ戻る。
軍人であることを証明する識別票。
本来なら、最悪の場合に遺体を識別するためにも使われるもの。
だからこそ二人は、そこへ別の意味を加えた。
死んだ時に誰なのかを示すだけではない。
生きて帰った時に、誰が待っているのかを忘れないための名前だった。
「父さん」
「何だ」
「ありがとう」
「礼なら結婚式の日に言え」
「まだ先だよ」
「だから生きろ」
ヴォルターは息子の胸元を見る。
「その名前を遺品にするな」
レイブンはドッグタグを握った。
「絶対に」
エリシアも自分のタグを握る。
「二人で持って帰ります」
「ならいい」
夜。
家族で夕食を囲んだ。
ルナはまだ婚約というものを完全には理解していなかったが、エリシアがいつか本当に家族になるということだけは理解していた。
「エリシアお姉様」
「何?」
「結婚したらここに住むの?」
エリシアが止まる。
レイブンも止まる。
「それは……」
「まだ何も決めてないよ」
レイブンが助ける。
「じゃあ兄様と二人?」
「多分……」
「赤ちゃんは?」
レイブンが咳き込んだ。
「ルナ!」
「何?」
「それはまだ早い!」
「どうして?」
「どうしてって……!」
エリシアは顔を赤くして俯いている。
セレナは笑いを堪えきれず、ヴォルターは無言で食事を続けていた。
「父さん助けて!」
「自分で婚約したんだ。自分で何とかしろ」
「見捨てるな!」
久しぶりにクロウ家の食卓が大きな笑い声に包まれた。
夜更け。
レイブンは眠る前にドッグタグを持ち上げた。
裏返す。
そこには、
ELICIA L. VOLHALAM
と刻まれている。
指で文字をなぞる。
戦争が終わったら結婚する。
言葉にすれば単純な約束だった。
しかし第一次異界大戦の最中にいる二人にとって、その約束は未来そのものだった。
生き残る理由。
帰る理由。
明日を見る理由。
扉が小さく叩かれた。
「レイブン?」
「エリシア?」
「まだ起きてる?」
「うん」
扉を開ける。
エリシアが立っていた。
彼女もドッグタグを手にしている。
「見せて」
「いいよ」
二人は互いのタグを並べた。
レイブンの胸元にはエリシアの名。
エリシアの胸元にはレイブンの名。
「不思議だね」
エリシアが言った。
「何が?」
「朝まではなかったのに」
「名前?」
「うん」
「後悔してる?」
「まさか」
エリシアは笑う。
「嬉しい」
「俺も」
少し沈黙する。
「レイブン」
「何?」
「戦争が終わったら」
「うん」
「ちゃんと指輪も欲しい」
レイブンは一瞬驚いたあと、笑った。
「分かった」
「忘れない?」
「忘れない」
「本当に?」
「約束する」
「じゃあ私も」
エリシアは自分のタグを握る。
「それまでこれでいい」
「仮の婚約指輪みたいなもの?」
「そう思えば悪くないでしょう?」
「むしろ俺たちらしいかも」
「軍人っぽすぎるけどね」
「確かに」
二人で笑った。
やがてエリシアが自分の部屋へ戻ろうとする。
「おやすみ、レイブン」
「おやすみ、エリシア」
数歩進んだ彼女を、レイブンが呼び止めた。
「エリシア」
「何?」
レイブンは胸元のドッグタグを握った。
「必ず帰ろう」
何度も交わしてきた言葉。
しかし今夜は意味が違った。
エリシアも理解した。
自分の胸元にある金属板を握る。
「うん」
そして笑った。
「二人で戦争を終わらせて、二人で帰って、結婚しよう」
「約束」
「約束」
エリシアが客室へ戻る。
レイブンも扉を閉じた。
あと二日。
それが終われば二人は再び軍服を着る。
SG-44も、T-51《REAPER》も、P-38A《ADLER》も戻ってくる。
レイブンは再び〔無名〕となり、エリシアは〔戦乙女〕として戦場へ立つ。
けれど一つだけ、休暇前とは違うものがあった。
軍服の下。
防弾装備のさらに内側。
誰からも見えない胸元に、それぞれ相手の名前がある。
撃つための装備ではない。
守るための装甲でもない。
生きて帰ることを忘れないための、小さな約束だった。
その夜、レイブンは初めて、戦争の終わった先にある自分の人生をはっきりと思い描いた。
そこには銃声がなかった。
軍用無線もなかった。
NoXという名を呼ぶ声もなかった。
ただエリシアがいて、父と母がいて、ルナがいて、自分がいる。
いつか本当にその場所へ帰るために。
二人は明後日、再び戦場へ向かう。
胸に互いの名を刻んだまま。




