Season 4「NoX」 #058
第58話「あと三日」
療養休暇に入って四日目の朝、レイブン・S・クロウは左腕を肩より高く上げても、ほとんど痛みを感じなくなっていた。
傷そのものが消えたわけではなく、包帯の下には魔力弾が掠めた痕が残っている。それでも三日前まで腕を動かすだけで顔をしかめていたことを思えば、回復は順調だった。
鏡の前に立ったレイブンは、左腕をゆっくり前へ伸ばしてから肘を曲げ、続いて肩を回してみた。
「……いけるな」
「何が?」
「うわっ!」
振り返ると、開いた扉からエリシア・L・ヴォルハラムがこちらを見ていた。
「また!?」
「またって何?」
「昨日も同じようなことしただろ」
「扉、開いてたよ」
「……本当だ」
「それより、何してたの?」
「腕の確認」
レイブンは左腕を見せる。
「もうほとんど痛くない」
「だからって勝手に動かさない」
「これくらいなら平気だって」
「今日は軍医さんに診てもらうんでしょう?」
「その軍医に動くところを見せるための確認」
「物は言いようだね」
「本当にそれだけだよ」
エリシアは疑うように見ていたが、昨日までのようにすぐ止めようとはしなかった。
「じゃあ」
「何?」
「腕立て伏せは?」
「してない」
「本当に?」
「本当に」
「筋力訓練は?」
「してない」
「ナイフは?」
「触ってない」
「拳銃は?」
「保管庫」
「〔透明〕は?」
「それ腕関係ないだろ」
「昨日かくれんぼで使った実績があります」
「昨日じゃなくて一昨日!」
「使ったことは否定しないんだ」
「……しません」
エリシアが笑った。
「なら朝ご飯行こう」
「うん」
二人が並んで階段を下りると、台所から焼いたパンの匂いが漂っていた。
レイブンはそれを嗅いだ瞬間、思わず足を止める。
「今日も母さん?」
「何が?」
「朝飯」
「たぶん」
居間へ入る。
だが、台所にいたのはセレナではなかった。
「おはよう」
エリシアが振り返る。
レイブンは隣を見る。
同じエリシアがいる。
もう一度台所を見る。
「……ルナ?」
「兄様、おはようございます!」
ルナがエプロン姿で立っていた。
その後ろにはセレナがいる。
「今日はルナが手伝ってくれたのよ」
「本当に?」
「卵を混ぜました!」
「おお」
レイブンが席につく。
「じゃあ今日の卵はルナが作ったのか」
「お母様と!」
「楽しみだな」
ルナが嬉しそうに笑った。
エリシアも席につく。
ヴォルターはすでに新聞を読んでいた。
「父さん、おはよう」
「遅い」
「まだ七時半だよ」
「軍人なら――」
「休暇中」
レイブンとエリシアの声が同時に重なった。
ヴォルターが新聞を少し下げる。
「……息が合ってきたな」
「父さん」
「何も言ってない」
「絶対また変なこと考えた」
「朝飯を食え」
レイブンは不満そうにしながらも席についた。
朝食を終えると、レイブン、エリシア、ヴォルターの三人は町の郊外にある帝国軍医療施設へ向かった。
セレナも同行すると言ったが、レイブンが「三人もいれば十分」と説得したため、ルナとともに家へ残っている。
軍用車両の後部座席にレイブンとエリシアが並び、ヴォルターが運転する。
「父さん」
「何だ」
「軍医に治ったって言われたら、今日から訓練していい?」
「駄目だ」
「まだ診てもらってないよ」
「療養休暇は七日間だ」
「でも治ったなら――」
「休暇は治療だけのためじゃない」
ヴォルターは前を向いたまま答えた。
「疲労も抜け」
「身体は元気だよ」
「身体だけの話じゃない」
レイブンは少し黙った。
エリシアも窓の外を見ている。
「お前たちはアルケインへ入る前から戦闘任務を続けていた。眠れているつもりでも、頭は休んでいないことがある」
「父さんもそうだった?」
「何度もあった」
「どうやって分かった?」
「セレナに言われた」
「母さん?」
「ああ。家に帰っているのに物音がするたび銃へ手を伸ばしていたらしい」
レイブンは思い当たる。
休暇初日の朝。
目を覚ました直後、無意識にSG-44を探した。
「……俺もやった」
「何を?」
「起きた時、SGを探した」
ヴォルターはそれ以上聞かなかった。
「エリシアは?」
レイブンが尋ねる。
彼女は少し迷った。
「最初の夜」
「うん」
「外で車が通った時、砲撃かと思って起きた」
レイブンは彼女を見る。
「言ってなかったじゃん」
「言うほどでもないと思ったから」
「俺には痛いの隠すなって言ったのに」
「それとこれは違う」
「同じじゃない?」
「違う」
「似てると思うけどな」
運転席からヴォルターが言う。
「似た者同士だな」
「違います」
二人の声がまた重なった。
ヴォルターは何も言わずに笑った。
帝国軍医療施設は、前線基地ほど慌ただしくはなかった。
それでも廊下では負傷兵や医療要員が行き交い、窓の外には救急搬送用の軍用車両が並んでいる。
レイブンは診察室へ入る。
担当した軍医は包帯を外し、傷口を確認した。
「順調ですね」
「じゃあ戦闘復帰できます?」
「まだです」
「即答……」
「腕を上げてください」
レイブンは左腕を上げる。
「痛みは?」
「ほぼありません」
「では、こちらへ力を入れて」
軍医が抵抗を加える。
レイブンが押し返す。
少し痛む。
「今は?」
「……少し」
「無理しないでください」
「はい」
数種類の動作を確認したあと、軍医は記録へ書き込んだ。
「日常生活なら問題ありません。軽い運動も明日以降なら許可します」
レイブンの顔が明るくなる。
「射撃は?」
「まだです」
「ナイフは?」
「駄目です」
「格闘訓練は?」
「もっと駄目です」
「SG-44の整備だけなら」
「左腕を使わないなら」
「本当ですか?」
「ただし射撃禁止です」
「分かりました」
エリシアが横から口を挟む。
「この人、武器を触らせたら絶対撃ちます」
「撃たないよ!」
「本当に?」
「……整備だけ」
「今の間は何?」
「何でもない」
軍医が笑いながら書類を渡した。
「療養休暇は予定通り最後まで取ってください。三日後に復帰判定を行います」
「あと三日……」
「長いですか?」
「今の俺には」
「なら、その三日で休む練習をしてください」
レイブンは苦笑した。
「父さんと同じこと言うなあ」
「軍医と教官は、言うことが似るものです」
「母さんも同じこと言います」
「なら三対一ですね」
「エリシアも入れたら四対一」
「諦めてください」
「はい……」
診察を終えて廊下へ出た時、エリシアが急に足を止めた。
レイブンも止まる。
「どうした?」
エリシアは答えなかった。
少し先の診察室から、一人の兵士が出てきた。
若い。
まだ二十代前半に見える。
外傷らしいものはない。
それでも男の顔は青白く、両手が僅かに震えていた。
付き添いの軍人が声をかけても、返事が遅い。
その姿を見たエリシアの表情が変わった。
「エリシア?」
「……何でもない」
しかし足が動かない。
レイブンは彼女の視線を追う。
兵士。
診察室。
扉に記された文字。
戦闘心理医療科。
レイブンは何も聞かなかった。
代わりに少しだけ彼女へ近づいた。
「行こうか」
「……うん」
二人が歩き出す。
施設を出てからも、エリシアはしばらく黙っていた。
ヴォルターは何も尋ねない。
車へ戻ったところで、エリシアが自分から口を開いた。
「父と兄も、ああいうところに通ってた」
レイブンは静かに聞く。
「戦争に参加したあと?」
「うん」
第一次異界大戦より前。
帝国と連邦共和国の戦争が激化していた頃、エリシアの父と兄は前線にいた。
帰還しても戦場で見たものから離れられず、軍医から心的外傷後ストレス障害と診断された。
「父は夜になると眠れなかった」
エリシアは自分の手を見る。
「兄は大きな音がすると、急に周りを見るようになった」
レイブンは先ほどの話を思い出す。
父ヴォルターも、帰宅してなお物音へ反応していた。
自分も起床直後にSG-44を探した。
エリシアも車の音を砲撃だと思った。
「俺たちも……そうなるのかな」
レイブンが言った。
エリシアはすぐには答えない。
「分からない」
「怖い?」
「少し」
「俺も」
ヴォルターが運転席から静かに言う。
「だから休めと言われた時は休め」
二人が前を見る。
「戦場から帰ってくるのは、身体だけじゃない」
ヴォルターは道路から目を離さない。
「頭まで帰ってくるには時間がかかることがある」
レイブンはその言葉を胸の中で繰り返した。
帰還。
これまで自分は、基地や家へ辿り着くことだと思っていた。
だが、それだけではないらしい。
帰宅すると、玄関が開くより先にルナが飛び出してきた。
「兄様!」
「ただいま」
「どうだった?」
「治ってきてるって」
「もう痛くない?」
「ほとんど」
「よかった!」
ルナは兄へ抱きつこうとして、途中で止まった。
「左、痛い?」
「今日は大丈夫」
「じゃあ右!」
そう言って右側から抱きつく。
レイブンは笑いながら妹の頭を撫でた。
「ただいま、ルナ」
「おかえりなさい、兄様」
そのやり取りを少し後ろから見ていたエリシアの表情が、ほんの少し柔らかくなった。
昼食後、ヴォルターは技術局から届いていた書類を確認するため書斎へ入り、セレナは家事を始めた。
レイブンは居間の椅子へ座っている。
目の前の机には、一冊の本。
軍事史。
開いてから十五分。
一ページも進んでいない。
「暇そう」
エリシアが向かいへ座った。
「暇だよ」
「本読んでるじゃない」
「文字が頭に入らない」
「あと三日」
「長い」
「三日くらいすぐだよ」
「エリシアは暇じゃないの?」
「暇」
「じゃあ何かしよう」
「何?」
レイブンは考えた。
「……散歩?」
「午前中行ったでしょう」
「カード?」
「あるの?」
「昔のがどこかに」
「探してみる?」
二人で棚を探す。
古い箱が見つかった。
中にはカードと、小さな盤上遊戯の駒が入っている。
「これ何?」
「父さんに昔教えてもらった」
「難しい?」
「そんなに」
「やろう」
机へ盤を広げる。
レイブンがルールを説明した。
三十分後。
「……負けた」
「もう一回?」
「待って」
レイブンは盤面を見つめる。
「初めてだよね?」
「うん」
「何でそんなに強いの?」
「戦術考えるの好きだから」
「それ反則じゃない?」
「何が?」
「連邦軍人が帝国の盤上遊戯で帝国軍人に勝つの」
「戦争じゃないんだから」
「もう一回」
「いいよ」
二戦目。
レイブンが負けた。
「……もう一回」
「むきになってる?」
「なってない」
三戦目。
また負けた。
「エリシア」
「何?」
「本当に初めて?」
「本当」
「Valkyrie怖い」
「NoX弱い」
「それ戦場で言うなよ」
「じゃあレイブン弱い」
「もっと酷い」
エリシアが笑う。
その笑い声を聞きながら、レイブンも笑った。
夕方、学校から帰ったルナが加わった。
「私もやる!」
「ルナにはまだ難しいぞ」
「兄様が教えて!」
「いいよ」
レイブンが妹の隣へ座る。
駒の動かし方を一つずつ説明する。
エリシアは向かいから見ていた。
戦場で兵士へ指示を出すNoXとは違う。
声を荒らげることもなく、妹が間違えても笑いながら何度でも説明する。
「兄様、これは?」
「それは斜め」
「こっちは?」
「前に二つまで」
「分かった!」
ルナが駒を動かす。
「違う?」
「合ってる」
「やった!」
エリシアは少し笑った。
「何?」
レイブンが気づく。
「教えるの上手いね」
「そう?」
「うん」
「父さんの真似してるだけだよ」
「ヴォルターさんはそんなに優しく教える?」
レイブンは黙った。
「……いや」
「でしょう?」
「訓練場だと鬼だった」
書斎からヴォルターの声が飛んできた。
「聞こえてるぞ」
「事実だろ!」
「明日から鍛え直してやろうか」
「療養中!」
「よく覚えてたな」
「都合のいい時だけ忘れると思うなよ!」
家の中に笑い声が広がった。
夕食後、ルナが宿題を始めた。
レイブンは隣で問題を見ている。
「ここ違う」
「どこ?」
「計算」
「えー……」
「もう一回やってみ」
ルナが鉛筆を動かす。
エリシアは少し離れた場所で本を読んでいた。
セレナが隣へ座る。
「エリシアさん」
「はい?」
「ありがとうね」
「何がですか?」
「レイブンと一緒に帰ってきてくれて」
エリシアは少し驚いた。
「私は……護衛を命令されただけです」
「それだけじゃないでしょう?」
セレナは息子を見る。
「戦場でも」
エリシアは答えなかった。
「ヴォルターから聞いたわ。あなたが何度もあの子を助けてくれたって」
「レイブンにも助けてもらっています」
「なら、お互い様なのね」
「はい」
セレナは柔らかく笑った。
「これからも、よろしくね」
その言葉にエリシアは少し戸惑った。
「……はい」
やがて小さく笑う。
「こちらこそ」
その会話をレイブンは聞いていなかった。
ルナの宿題に夢中だった。
夜。
ルナが眠ったあと、レイブンは台所へ水を飲みに行った。
そこにはエリシアがいた。
「眠れない?」
「水飲みに来ただけ」
「私も」
二人で水を飲む。
家は静かだった。
「今日さ」
レイブンが言う。
「病院のこと?」
「うん」
エリシアはコップを見る。
「ごめん」
「何で謝るの?」
「思い出させたかなって」
「レイブンが何かしたわけじゃないよ」
「でも」
「大丈夫」
エリシアは少し間を置いた。
「……忘れたいわけじゃないから」
「お父さんとお兄さん?」
「うん」
「そっか」
「辛いけど、忘れたくない」
レイブンは頷いた。
「なら、覚えてていいと思う」
「レイブンも?」
「何?」
「もし戦争で辛いことがあったら」
エリシアは彼を見る。
「忘れようとしない?」
レイブンは少し考えた。
「分からない」
「……そうだよね」
「でも」
続ける。
「一人で抱えないようにはする」
「誰に話すの?」
「父さん。母さん。仲間」
少し間を置く。
「エリシアにも」
彼女が顔を上げる。
「私にも?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ話す」
「私も話していい?」
「もちろん」
「約束?」
「約束」
エリシアが右手を出した。
「何?」
「約束」
「子供みたいだな」
「嫌ならいいけど」
「嫌とは言ってない」
レイブンも右手を出す。
二人の小指が触れた。
「辛いことを一人で抱えない」
エリシアが言う。
「うん」
「無茶したら止める」
「それ父さんとも約束しただろ」
「もう一回」
「分かった」
「ちゃんと帰る」
「それは絶対」
二人は指を離した。
「あと三日だね」
エリシアが言う。
「うん」
「戦場に戻りたい?」
レイブンはすぐには答えなかった。
四日前なら迷わず「戻りたい」と言っていたかもしれない。
今は少し違う。
「仲間のところには戻りたい」
「うん」
「でも、ここから離れたくない気持ちもある」
「私も」
「エリシアも?」
「ここ、私の家じゃないのにね」
「いいじゃん」
「何が?」
「帰ってきても」
エリシアが瞬きをする。
「次の休暇とか」
レイブンは少し照れながら続けた。
「母さんもルナも喜ぶと思うし、父さんも……たぶん」
「レイブンは?」
予想していなかった質問だった。
「俺?」
「レイブンは、私がまた来てもいい?」
少しだけ沈黙があった。
しかし答えは難しくなかった。
「もちろん」
レイブンは笑った。
「また一緒に帰ってくればいい」
エリシアも笑った。
「うん」
外では夜風が木々を揺らしていた。
遠くで車が一台通る音がした。
エリシアの肩がほんの僅かに動いた。
レイブンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
ただ隣にいた。
しばらくすると、エリシアの肩から力が抜けた。
「戻ろうか」
「うん」
二人はそれぞれの部屋へ向かった。
あと三日。
それが終われば、レイブンは再びSG-44を受け取り、必要なら通常装填で空になった銃を戦闘へ戻し、次の接敵が予想されるなら戦術装填で薬室の一発を残したまま備え、身体が思うように動かない状況に陥れば非常装填を選ぶことになる。
エリシアも再び銃を持つ。
〔無名〕と〔戦乙女〕へ戻る。
けれど今夜の二人はまだ、レイブンとエリシアだった。
戦場から身体だけでなく心まで帰ってくるには時間が必要なのだと知った二人は、残された三日間を以前ほど長いとは思わなくなっていた。
その時間が終わった時にもう一度戦場へ立つためにも、今は銃を置き、眠り、食事をし、家族と笑い、互いに言葉を交わす。
それもまた、生きて帰るために必要な時間なのだと、レイブンは少しずつ理解し始めていた。




