Season 4「NoX」 #057
第57話「守る者の帰る場所」
療養休暇に入って三日目の朝、レイブン・S・クロウは目覚ましが鳴るよりも先に目を覚ました。
前日のように銃声のない朝へ戸惑うことはなかったものの、長年の習慣は簡単には消えてくれず、窓の外が白み始めた程度の時間にもかかわらず頭だけは完全に覚醒していた。
左腕をゆっくり動かしてみる。
痛みはまだある。
しかし昨日より軽い。
肩の高さまでなら、ほとんど違和感なく上げられるようになっていた。
「……治ってきたな」
だからといって訓練を始めれば、エリシアかセレナ、あるいはその両方から止められることは分かっている。
レイブンは寝台から降りると、昨日とは違って時間をかけながら一人で着替えた。
左腕から袖を通し、無理に肩を動かさないよう右手で布を引く。
少し時間はかかった。
それでも着られた。
「よし」
「何が『よし』なの?」
「うわっ!」
扉の向こうから突然声がして、レイブンは振り返った。
「エリシア?」
「入っていい?」
「いいけど……いつからいた?」
「最後の『よし』くらい」
扉が開く。
エリシアは今日も軍服ではなく、セレナから借りた普段着だった。
「一人で着たの?」
「着た」
「痛くなかった?」
「少しだけ」
「少し?」
「本当に少し」
エリシアは疑うような目で見ていたが、やがて左腕を確認して頷いた。
「昨日より動いてるね」
「だろ?」
「でも訓練は禁止」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてある」
「俺の顔そんなに分かりやすい?」
「最近は」
その一言が妙に引っかかった。
「最近は?」
「何?」
「いや……」
レイブンは少し笑う。
「俺のこと分かってきたんだなと思って」
今度はエリシアが黙った。
「……戦友だから」
「そうだな」
「うん」
二人ともそれ以上は言わず、一階へ向かった。
朝食を終えたあと、ルナは学校へ向かった。
「行ってきます!」
「気をつけてな」
「はい、兄様!」
「帰ったら遊ぼう」
「約束!」
ルナが元気よく手を振り、道の向こうへ消えていく。
レイブンは玄関先から妹を見送っていた。
「学校か……」
エリシアが隣に立つ。
「懐かしい?」
「ちょっと」
「首席だったんでしょう?」
「誰から聞いた?」
「セレナさん」
「母さん……」
「卒業するまでずっと首席だったって」
「昔の話だよ」
「意外」
「どういう意味?」
「もっと問題児かと思ってた」
「俺を何だと思ってるんだ」
「訓練で〔透明〕を使って教官の監視を抜けようとしそうな人」
「……一回くらいなら」
「やったんだ」
「一回だけ」
「やっぱり」
エリシアが笑う。
レイブンも笑いながら家へ戻ろうとしたところで、庭からヴォルターの声がした。
「レイブン」
「何?」
「少し付き合え」
「どこに?」
「歩くだけだ」
レイブンがエリシアを見る。
彼女は肩をすくめた。
「行ってきたら?」
「護衛は?」
「お父さんがいるでしょう」
「確かに」
ヴォルターが眉を上げる。
「俺は護衛扱いか」
「元軍人だろ?」
「今でも軍籍上は技術士官だ」
「じゃあ完璧」
レイブンは靴を履いた。
「行ってくる」
「腕、無理しないでね」
「分かってる」
「本当に?」
「……努力します」
「レイブン」
「無理しません」
「よろしい」
ヴォルターはそのやり取りを黙って聞いていた。
家から少し離れたところで、父が口を開く。
「随分仲良くなったな」
「誰と?」
「分かってるくせに聞くな」
「エリシア?」
「他に誰がいる」
「戦友だから」
「そうか」
「何だよ」
「何も言ってない」
「その言い方、最近みんな使うんだけど」
ヴォルターは笑った。
二人が向かったのは、町外れにある小高い丘だった。
レイブンが子供の頃、父と何度か訪れた場所でもある。
町を見渡すことができ、その向こうには遠く山々が続いていた。
戦争が始まる前と完全に同じ景色ではない。
防空設備が増え、街道には軍用車両が通り、遠くには抵抗軍の監視塔も建っている。
それでも、レイブンには懐かしかった。
「ここ覚えてるか」
「もちろん」
二人は丘の上に腰を下ろした。
「昔、父さんに連れてこられた」
「お前が七歳くらいだったか」
「そのくらい」
「走り回って転んだ」
「それは覚えてなくていい」
「泣いた」
「父さん」
「膝を擦りむいてな」
「もういいって」
ヴォルターが笑う。
レイブンも苦笑した。
しばらく二人で町を見る。
父子だけでこうして座るのは、いつ以来だろう。
訓練兵になってからはヴォルターを父ではなく教官として見る時間が増え、その後は特殊即応部隊へ配属され、第一次異界大戦が始まった。
同じ家族なのに、ゆっくり話す機会は減っていた。
「レイブン」
「ん?」
「昨日、エリシアからお前の戦い方を聞いた」
「聞いてたね」
「負傷者を置いていかないそうだな」
「できる限りは」
「最後まで残るとも聞いた」
「必要なら」
「自分が怪我しても戦う」
「……それは反省してる」
「本当か?」
「半分くらい」
「なら半分しか成長してないな」
「厳しいなあ」
ヴォルターは町から息子へ視線を移した。
「お前が訓練兵だった頃、何になりたいと言ったか覚えているか」
「覚えてるよ」
答えはすぐに出た。
「即応の守護者」
「そうだ」
「家族だけじゃなくて、この世界で助けを必要としている人がいたら、どこへでも駆けつけられる人間になりたいって」
「今でもそう思うか」
「思ってる」
「なら、一つ間違えるな」
父の声が少し低くなる。
「守ることと、自分を使い潰すことは違う」
レイブンは黙った。
「でも、誰かが残らないといけない時はあるだろ」
「ある」
「なら――」
「だからこそ、生き残る方法を考えろ」
ヴォルターは息子の言葉を遮らず、静かに続けた。
「お前が一人を助けるために死ねば、その一人は助かるかもしれん。だが翌日、お前がいれば助けられた十人を誰が助ける」
「……」
「英雄になれと言った覚えはない」
「分かってる」
「本当に分かってるか?」
レイブンはすぐには答えなかった。
アルケインでの戦闘を思い返す。
負傷兵を助けるために走った。
魔力弾を受けた。
左腕が動かなくなった。
それでもSG-44を撃ち、片腕で非常装填を行った。
結果として帰還できた。
だが、それは最善だったのか。
「……分かってるつもりだった」
「なら今から覚えろ」
ヴォルターは自分の右腕を見る。
かつて異界門の向こうで失った腕。
魔力によって再構築された現在の右腕は、外見だけなら以前と大きく変わらない。
「俺は一度、帰れなかった」
レイブンは父を見る。
「三か月だったね」
「ああ」
「母さん、ずっと待ってた」
「知っている」
ヴォルターの声が僅かに柔らかくなる。
「帰還した時、最初に何を言ったか覚えてるか?」
レイブンは笑った。
「『待ったか?』」
「我ながら酷い第一声だ」
「母さん、泣いてたよ」
「そのあと殴られた」
「それ初めて聞いた」
「お前には見せなかったからな」
二人で笑う。
やがてヴォルターは再び町を見る。
「右腕を失ったことより、帰れなかった三か月の方が後悔している」
「……どうして?」
「待たせたからだ」
短い答えだった。
「セレナを。お前を。仲間を」
風が丘を抜けていく。
「だからお前には、できる限り待たせるなと言っている」
レイブンは包帯の巻かれた左腕を見る。
「父さん」
「何だ」
「俺、帰る場所増えたかもしれない」
「家以外にか?」
「部隊」
「そうか」
「同期もいるし、今の仲間もいる。それに……」
そこで言葉が止まる。
「それに?」
「……エリシアも」
ヴォルターは何も言わなかった。
「何だよ」
「何も」
「絶対何か思っただろ」
「戦友なんだろ?」
「そうだよ」
「なら大事にしろ」
予想していたからかいは来なかった。
レイブンは少し驚く。
「父さんなら何か言うと思った」
「俺はお前の父親だぞ」
「だからだよ」
「大切な戦友を大切にしろと言って何がおかしい」
ヴォルターは立ち上がった。
「それが今後どう変わるかは、お前たちが決めることだ」
「……うん」
「帰るぞ」
「もう?」
「療養中の息子を連れ回したとセレナに知られたら、俺まで怒られる」
「父さんも母さんには勝てないんだ」
「結婚してから一度も勝った覚えはない」
「聞かなかったことにする」
「そうしろ」
家へ戻る途中、二人は小さな市場へ寄った。
レイブンが幼い頃からある店も残っている。
「父さん、あれまだ売ってる」
「何だ」
「あの菓子」
レイブンが指したのは、蜂蜜を使った焼き菓子だった。
「お前、昔よく食べてたな」
「買っていこうかな」
「ルナにか?」
「みんなに」
「エリシアにも?」
「当然だろ」
「そうか」
「何だよ、その顔」
「何も言ってない」
「またそれ!」
結局、レイブンは五人分を買った。
帰宅すると、エリシアとセレナが台所にいた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
振り返ったエリシアの頬に、白い粉がついていた。
レイブンは立ち止まった。
「……何してるの?」
「料理」
「エリシアが?」
「何その反応」
「いや、できるんだ」
「失礼じゃない?」
「戦場でしか見たことないから」
「レイブン」
セレナが笑いながら口を挟む。
「エリシアさん、上手よ」
「本当に?」
「何で疑うの?」
エリシアが少し不満そうに振り返る。
レイブンは台所を覗いた。
昼食の準備らしい。
「味見していい?」
「まだ駄目」
「ちょっとだけ」
「駄目」
「護衛対象への扱いが酷い」
「療養患者がつまみ食いしないで」
「いつから患者になったんだよ」
「三日前から」
「正論……」
ヴォルターが後ろで笑った。
昼食を終えたあと、ルナが学校から帰ってきた。
「兄様!」
「おかえり」
「約束!」
「覚えてるよ」
「今日は何する?」
レイブンが考える。
「何がいい?」
「お散歩!」
「それならできる」
「エリシアお姉様も!」
「もちろん」
結局、三人で町を歩くことになった。
レイブンにとっては見慣れた町だが、エリシアにとっては初めての場所だった。
「あそこが学校」
レイブンが指す。
「レイブンが通ってた?」
「そう」
「兄様、ずっと一番だったの!」
ルナが誇らしげに言う。
「ルナ、それ何回言うの」
「本当だからいいの!」
エリシアが笑う。
「優等生だったんだ」
「昔はね」
「今は?」
「どういう意味?」
「無茶して軍医に怒られる優等生」
「それ関係ないだろ」
町を歩いている間、何人かがレイブンへ声をかけた。
幼い頃から彼を知る店主。
学校時代の教師。
ヴォルターの知人。
そのたびにエリシアは少し離れて待っていた。
「有名人だね」
「父さんが有名だから」
「レイブン自身もでしょう?」
「俺はまだ何もしてないよ」
エリシアは何か言おうとして、やめた。
連邦側ではNoXという名がすでに広がり始めている。
味方を生きて帰す特殊部隊員。
最高の守護者。
本人だけが、その評価をまだ自分のものとして受け入れていない。
「何?」
「何でもない」
「みんなそれ言うなあ」
三人が公園へ入ると、ルナは同年代の友人を見つけて走っていった。
レイブンとエリシアは少し離れたベンチへ座る。
「疲れた?」
「全然」
「左腕は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「ほら」
レイブンはゆっくり左腕を上げる。
かなり動くようになっていた。
「無理しない」
「してないって」
「ならいいけど」
エリシアは遊んでいるルナを見る。
「いい町だね」
「昔はもっと静かだった」
「戦争前?」
「うん」
「戻るかな」
「何が?」
「戦争が終わったら」
レイブンも町を見る。
「戻すんだよ」
「……そうだね」
「そのために戦ってるんだろ?」
「うん」
「でも」
レイブンは少し考えた。
「全部元通りにはならないと思う」
エリシアがこちらを見る。
「父さんの腕もそうだし、エリシアのお父さんやお兄さんも……戻らないものはある」
「うん」
「だから、同じに戻すんじゃなくて、また普通に暮らせるようにするんじゃないかな」
「レイブンにしては良いこと言うね」
「『にしては』要る?」
「要る」
「酷いな」
二人で笑った。
夕方。
帰宅すると、セレナがレイブンの左腕を見た。
「少し腫れが引いたわね」
「もう戦えると思う」
「駄目」
「即答?」
「軍医さんから七日って言われたんでしょう?」
「でも治ったら――」
「七日」
「はい」
エリシアが横で笑っている。
「笑うなよ」
「私は何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
「最近分かるようになった?」
「それ、朝の仕返しだろ」
「ばれた?」
レイブンはため息をついた。
その夜。
食事が終わり、ルナが自室へ戻ったあと、ヴォルターが棚から一本の古い木箱を取り出した。
「レイブン」
「何?」
「少し見せたいものがある」
机へ置く。
箱を開く。
中に入っていたのは、古びた訓練用ナイフだった。
刃は潰されている。
実戦用ではない。
「これ……父さんの?」
「ああ」
レイブンが手に取ろうとすると、ヴォルターが止めた。
「右手だけで持て」
「分かってる」
柄を握る。
長年使われた痕跡がある。
「昔、教官時代に使っていた」
「近接訓練?」
「ああ。だが今見ると古い」
ヴォルターは苦笑した。
「構え方も、間合いの取り方も、教え方もな」
レイブンはナイフを見る。
「アルケインで使った」
「聞いた」
「実戦用の方だけど」
「怖かったか?」
レイブンは少し黙った。
「怖かった」
「それでいい」
「父さんも?」
「怖いに決まってる」
ヴォルターは息子の手から訓練用ナイフを受け取った。
「銃より近い。相手の顔も、息も、力も全部分かる。格闘も同じだ」
「うん」
「だから、怖くなくなることを目指すな」
「じゃあ何を?」
「怖くても動けるようになれ」
レイブンは父を見る。
「ただし今は休め」
「そこに戻るの?」
「左腕が治ってからだ」
「治ったら教えてくれる?」
「俺の古い方法ならな」
ヴォルターは少し考えた。
「だが、お前が教官になる頃には、俺のやり方を捨てても構わん」
「……捨てる?」
「ああ」
「父さんから教わったものを?」
「軍人が教官から受け継ぐべきなのは、訓練内容そのものじゃない」
ヴォルターは古いナイフを木箱へ戻した。
「次の兵士を、自分たちより生き残れる兵士にするという考え方だ」
レイブンはその言葉を黙って聞いていた。
「俺より良い方法があるなら使え。古いからという理由だけで残すな。俺の息子だから俺と同じ教官になる必要もない」
「俺が教官になるって決まってないよ」
「そうだな」
ヴォルターは箱を閉じる。
「だが、もしそうなった時は覚えておけ」
「……うん」
その言葉は、まだ十八歳のレイブンには遠い未来の話に聞こえた。
自分が父と同じように訓練場へ立ち、若い兵士へ何かを教える姿など想像できない。
今はまだ、教えられる側だった。
それでも父の言葉だけは記憶に残った。
部屋へ戻る途中、廊下でエリシアと会った。
「何話してたの?」
「父さんの昔の訓練の話」
「また軍の話?」
「半分くらい」
「休暇なのに」
「父さんも俺も軍人だから仕方ないよ」
「左腕は?」
「母さんにも聞かれた」
「私は介助担当」
「もうかなり治ったって」
エリシアは包帯を見る。
「じゃあ明日、軍医さんに診てもらおうか」
「ここに軍医いないだろ」
「近くの帝国軍施設に行けばいるってヴォルターさんが」
「いつの間に相談したの?」
「昼」
「俺抜きで?」
「患者に拒否権はありません」
「横暴だ……」
エリシアが笑う。
「早く治したいんでしょう?」
「うん」
「ならちゃんと診てもらう」
「分かったよ」
「よろしい」
二人はそれぞれの部屋へ向かう。
レイブンが扉を開こうとした時、エリシアが呼び止めた。
「レイブン」
「何?」
「今日、お父さんと話せてよかった?」
少し考える。
「うん」
「ならよかった」
「エリシアも今度一緒に行く?」
「どこに?」
「丘」
「あの二人で行ったところ?」
「景色いいよ」
「行きたい」
「じゃあ腕が治ったら」
「約束ね」
「うん」
エリシアが客室へ戻る。
レイブンも自室へ入った。
寝台へ横になる。
今日も一発も銃を撃たなかった。
それでも昨日ほど落ち着かなくはない。
父と話し、妹と歩き、エリシアと笑った。
戦場から離れた時間の中にも、自分が守りたいものは確かに存在していた。
むしろ戦場にいないからこそ、それがはっきり見えるのかもしれない。
守るために戦う。
けれど、自分を使い潰してはいけない。
自分自身も、誰かにとっては帰ってきてほしい人間なのだから。
レイブンは左腕を見た。
傷は少しずつ治っている。
休暇はいずれ終わる。
SG-44を再び手に取り、T-51《REAPER》を背負い、〔無名〕として戦場へ戻る日が来る。
その時もきっと、エリシアは〔戦乙女〕として隣にいる。
ならば二人で帰ればいい。
それだけは、どれほど戦争が長くなっても忘れないようにしようと思った。
やがて瞼が重くなる。
眠りに落ちる直前、父が丘で口にした言葉がもう一度浮かんだ。
守ることと、自分を使い潰すことは違う。
その意味を本当に理解するまでには、まだ長い時間が必要だった。
けれどその夜のレイブンは、少なくとも明日の朝までは誰かを守るために銃を握る必要がないことを受け入れ、自分を待つ家族のいる家で静かに眠りについた。




