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黒猫年代記  作者: @12
第二部 ~Ⅰ~ FENRIR ― 時代に取り残された黒猫 ― Season 4 #038~Season 4 #066
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Season 4「NoX」 #056

第56話「銃を持たない朝」


 レイブン・S・クロウが目を覚ました時、最初に感じたのは静けさだった。


 目を開けても警報灯は見えず、耳を澄ませても砲撃や銃声は聞こえてこない。代わりに一階から食器の触れ合う音が微かに届き、窓の外では朝の風に揺らされた木の葉が擦れ合っていた。


 どこかで鳥が鳴いている。


 それだけだった。


「……何時だ?」


 枕元の時計へ手を伸ばす。


 七時四十分。


「七時四十分!?」


 反射的に起き上がった途端、左腕に痛みが走った。


「いっ……!」


 そこでようやく思い出した。


 ここは営舎ではない。


 クロウ家の自室。


 今日は任務も訓練もない。


 療養休暇の二日目だった。


「……寝てていいのか」


 そう呟いてから、もう一度枕へ頭を戻した。


 しかし眠れない。


 目を閉じても身体が休もうとしなかった。


 営舎ならとっくに起床している時間であり、朝食を終えて装備点検へ入っていてもおかしくない。戦場ならさらに早く起き、夜間に届いた情報を確認していた。


 何もしなくていいという状況に、身体だけが追いついていない。


 レイブンは右手を伸ばした。


 普段なら寝台の近くにあるはずのSG-44はない。


 指先が空を掴んだ。


「……そうだった」


 SG-44もT-51《REAPER》も部隊の武器庫に置いてきた。


 手元にあるのはP-38A《ADLER》だけだが、それも昨夜ヴォルターから「家の中でまで戦争をするな」と言われ、弾倉を外した状態で鍵付きの保管庫へ入れている。


 つまり今の自分には、すぐ手を伸ばせる銃が一本もない。


 妙に落ち着かなかった。


 その時、扉が二度叩かれた。


「兄様?」


「起きてるよ」


 扉が少し開き、ルナが顔を覗かせた。


「おはようございます」


「おはよう」


「お母様が朝ご飯できたって」


「今行く」


 ルナは部屋へ入り、兄の左腕を見る。


「まだ痛い?」


「昨日よりいいよ」


「本当?」


「本当」


 レイブンは右手で妹の頭を撫でた。


「心配してくれてありがとう」


「だって兄様だから」


 その一言に思わず笑った。


「先に行ってて」


「はい!」


 ルナが廊下へ出ていく。


 レイブンも着替えようとして立ち上がった。


 そして。


「……どうやって着よう」


 左腕を見た。


 動かせないわけではない。


 しかし袖へ通そうとすると痛む。


 昨日までは軍服だったので、ある程度無理をして着ていた。


 今日は休暇だ。


 無理をする必要はない。


 そう思いながら右手だけでシャツを広げ、どうにか着ようとしていると、再び扉が叩かれた。


「レイブン?」


「エリシア?」


「入っていい?」


「ちょっと待って!」


 急いでシャツへ腕を通そうとして、左腕が痛んだ。


「っ!」


 声が漏れた。


 扉の向こうが静かになる。


「……今、痛いって言った?」


「言ってない」


「言ったよね?」


「気のせい」


「入るよ」


「待って!」


 扉が開いた。


 エリシア・L・ヴォルハラムが入ってきた。


 軍服ではなかった。


 セレナから借りたらしい普段着を着ており、白い髪も戦場のようにまとめていない。


 レイブンは一瞬、言葉を忘れた。


「何?」


「……いや」


「何?」


「何でもない」


 エリシアが怪訝そうに首を傾げる。


 戦場で見慣れたValkyrieではなかった。


 抵抗軍章も連邦共和国章もなく、銃も装備もない。


 ただのエリシアだった。


「それより」


 彼女はレイブンが持っているシャツを見る。


「着られないの?」


「着られる」


「じゃあ着て」


「今やってた」


「何分?」


「……五分くらい」


「貸して」


「いや、自分で――」


「護衛兼介助」


「その権限強すぎない?」


「いいから」


 エリシアはシャツを受け取った。


「先に怪我してる方から通すよ」


「分かってる」


「腕上げないで」


「分かってるって」


「痛かったら言って」


「子供じゃないんだけど」


「さっき痛いの隠した人が言っても説得力ないよ」


 レイブンは黙った。


 エリシアが慎重に左腕へ袖を通していく。


 傷口へ触れないよう、ゆっくり布を動かす。


 レイブンはその横顔を見ていた。


「……近い」


「何?」


「いや、何でもない」


「また?」


 左腕が通る。


「次、右」


「右は自分でできる」


「じゃあどうぞ」


 右腕を通す。


 着られた。


「できた」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 エリシアが笑う。


 レイブンは少しだけ視線を逸らした。


「軍服じゃないと変な感じするな」


「私が?」


「うん」


「レイブンも」


「俺は普通だろ」


「NoXに見えない」


「家でNoXだったら嫌だよ」


「じゃあ、ここではレイブン?」


「最初からレイブンでいいって」


「戦場でも?」


「二人の時なら」


 言ったあとで、二人とも少し黙った。


「……じゃあ」


 エリシアが先に口を開いた。


「レイブン」


「何?」


「朝ご飯行こう」


「うん」


 たった名前を呼ばれただけなのに、なぜか昨日までとは少し違って聞こえた。


 階下へ降りると、朝食はすでに並んでいた。


 セレナが焼いたパンと卵、野菜のスープ。


 ヴォルターは新聞を読みながら珈琲を飲んでいる。


 ルナは先に食べ始めていた。


「遅いぞ」


 ヴォルターが新聞越しに言った。


「休暇なんだからいいだろ」


「俺は時間の話をしていない」


「じゃあ何?」


「朝飯」


「まだ八時前じゃん」


「冷める」


「父さん、昔からそこだけ細かいよな」


 レイブンが椅子へ座る。


 エリシアも隣へ座った。


 ヴォルターが新聞を少し下げ、二人を見る。


 特に何も言わない。


「何?」


「別に」


「絶対何か考えてる」


「お前、昨日まで一人で服を着ていたよな」


 レイブンの手が止まった。


 エリシアも止まった。


「何で知ってるの?」


「さっき二階でずいぶん話してたからな」


「聞いてたの!?」


「家が狭い」


「父さん!」


 セレナが料理を運びながら笑っている。


「レイブン、エリシアさんに迷惑かけちゃ駄目よ」


「俺が頼んだんじゃないよ!」


「痛いの隠してたから」


 エリシアが即座に言う。


「Valkyrie!」


「ここではエリシアでしょう?」


「そうだけど!」


 ルナが不思議そうに二人を見る。


「兄様」


「何?」


「エリシアお姉様と仲良し?」


 レイブンは答えに詰まった。


 エリシアが先に笑う。


「戦友だからね」


「戦友って?」


「一緒に戦って、一緒に帰ってくる人」


 ルナは少し考えた。


「じゃあ親友?」


「近いかな」


「じゃあお嫁さん?」


「どうしてそこに飛ぶんだよ!」


 レイブンの声に家族の笑いが重なった。


 朝食後、セレナとルナは買い物へ出かけた。


 レイブンも行こうとしたが、セレナから「怪我人は留守番」と一言で却下された。


 エリシアも残る。


 ヴォルターは庭へ出ていた。


 レイブンは居間のソファへ座った。


 十分後。


 立ち上がった。


「どこ行くの?」


 エリシアが聞く。


「庭」


「何するの?」


「ちょっと身体動かす」


「駄目」


「散歩」


「本当に?」


「本当に」


 庭へ出る。


 ヴォルターがいた。


 古い木製の作業台に何かを広げている。


「父さん」


「何だ」


「何してるの?」


「道具の手入れだ」


 近づこうとすると、ヴォルターが息子の左腕を見る。


「見るだけだぞ」


「分かってるよ」


「お前の『分かってる』は信用してない」


「酷いな」


「十八年間育てた結果だ」


 レイブンが笑う。


 エリシアも庭へ出てきた。


 ヴォルターは作業を続けながら彼女へ視線を向けた。


「ヴォルハラム少尉」


「エリシアで構いません」


「ならエリシア。少し聞いていいか」


「はい」


 レイブンが父を見る。


「俺の話?」


「お前は黙ってろ」


「やっぱり俺じゃん」


 ヴォルターは工具を置いた。


「戦場で、こいつはどう戦ってる?」


 エリシアの表情が少し変わった。


 昨夜の食卓では簡単に答えた質問だった。


 今度は父親として聞いているのだと分かった。


「……前に出ます」


「だろうな」


「でも、敵を倒したくて前に出るわけではありません」


 ヴォルターが黙って聞く。


「負傷者がいれば、そちらへ行きます。撤退する仲間がいれば最後まで残ります。誰かが再装填していれば、自分が射線を引き受けます」


 エリシアはアルケインを思い出していた。


「自分が負傷しても?」


「戦いました」


 ヴォルターの目が細くなる。


 レイブンは視線を逸らした。


「エリシア」


「事実でしょう?」


「そうだけど……」


「左腕がまともに使えない状態で、非常装填《エマージェンシー・リロード》までしていました」


「ほう」


「父さん、その顔やめて」


「どんな顔だ」


「帰ったら説教しようって顔」


「正解だ」


「休暇じゃなかったの!?」


「怪我人を殴りはしない」


「治ったら?」


「覚えていたらな」


「絶対覚えてるじゃん……」


 エリシアが笑った。


 ヴォルターも僅かに笑う。


 しかし、すぐに真剣な表情へ戻った。


「エリシア」


「はい」


「こいつが無茶をした時は止めてくれ」


 レイブンが父を見る。


「父さん?」


「俺はもう、お前の戦場にはいない」


 ヴォルターは息子ではなくエリシアを見ていた。


「教官として教えられることは教えたつもりだが、実際に隣で戦うことはできん。俺の代わりを頼むつもりはないし、お前に息子の命を背負わせるつもりもない」


 少し間を置く。


「ただ、こいつが帰ることを忘れそうになったら、一発引っぱたいて思い出させてやってくれ」


 エリシアはすぐには答えなかった。


 レイブンも何も言えない。


「……分かりました」


 やがてエリシアが答えた。


「でも条件があります」


「何だ?」


「私が同じことをしたら、レイブンにも止めてもらいます」


 ヴォルターは息子を見る。


「だそうだ」


「言われなくても止めるよ」


 レイブンは答えた。


「エリシアだって無茶するから」


「私はレイブンほどじゃない」


「昨日俺と一緒に最後まで残ってたの誰だよ」


「それは任務だから」


「ほら」


「それとこれは別」


「同じだろ」


 二人が言い合うのを見ながら、ヴォルターは静かに息を吐いた。


「……なら大丈夫そうだ」


「何が?」


「何でもない」


「父さんまでそれ使うのやめてよ」


 昼を過ぎた頃、セレナとルナが帰ってきた。


 ルナは帰るなりエリシアのところへ走っていった。


「エリシアお姉様!」


「おかえり、ルナ」


「これ!」


 小さな紙袋を差し出す。


 中には髪飾りが入っていた。


「私に?」


「お母様と選んだの」


 エリシアが驚いた顔でセレナを見る。


「私まで……いいんですか?」


「もちろん。せっかく来てくれたんだから」


 エリシアは髪飾りを見る。


 軍用品ではない。


 戦闘に役立つものでもない。


 装甲もなければ、通信機能もない。


 ただ身につけるためだけのものだった。


「ありがとう」


 その声が少しだけ小さくなった。


 ルナが笑う。


「つけて!」


「今?」


「うん!」


 エリシアは白い髪の一部をまとめ、髪飾りをつけた。


「どう?」


「かわいい!」


 ルナが即答する。


 セレナも微笑む。


「似合ってるわ」


「ありがとうございます」


 エリシアは少し照れたように笑った。


 少し離れたところから見ていたレイブンも、思わず口を開いた。


「似合ってる」


 エリシアがこちらを見る。


「……本当?」


「うん」


 視線が重なる。


 レイブンは急に恥ずかしくなった。


「いや、その、普通に」


「普通に?」


「普通に似合ってるって意味」


「ありがとう」


 エリシアは笑った。


 戦場で見る笑顔とは違った。


 生き残った安堵でもなく、恐怖を誤魔化すための笑顔でもない。


 レイブンはその違いを言葉にできなかった。


 午後。


 ルナはエリシアを自分の部屋へ連れていった。


 セレナは夕食の準備を始め、ヴォルターは再び庭へ戻った。


 レイブンだけが居間へ残された。


「……暇だ」


 何もすることがない。


 左腕を使う訓練は禁止。


 射撃も禁止。


 武器整備も禁止。


 部隊への連絡も、緊急時を除いて控えるよう命じられている。


 本棚を見る。


 昔使っていた教科書。


 父から借りた軍事史。


 学校時代の資料。


 その中に一冊だけ見覚えのあるノートがあった。


 取り出す。


「これ……」


 訓練兵を卒業した日に父と母から受け取った、ルナの成長記録だった。


 入隊してから家へ帰れなかった自分のために、二人が毎日書き続けてくれた日記。


 レイブンはページを開いた。


 ルナが初めて自分の名前を言った日。


 初めて一人で歩いた日。


 父が訓練場から帰るたびに兄の話を聞き、「兄様」という存在を覚えていった日。


 ページをめくる。


 やがて一枚の幼い絵が挟まっていた。


 黒い猫。


 その隣に白い猫。


 黒い方が妙に大きい。


 下には幼い字で、


『にいさま』


 と書かれていた。


「……下手だなあ」


 笑いながら呟いた。


 しかしページを閉じることができなかった。


「何見てるの?」


 いつの間にかエリシアが戻っていた。


「これ」


 レイブンは日記を見せる。


「ルナの日記?」


「父さんと母さんが書いた成長記録。俺が訓練兵だった頃、家にいなかったから」


「見てもいい?」


「うん」


 エリシアが隣へ座る。


 二人でページをめくった。


「これがルナ?」


「三歳くらいかな」


「かわいい」


「今もかわいいよ」


「お兄ちゃんだね」


「妹だから」


 ページを進める。


 レイブンの訓練兵時代の話も書かれていた。


 ヴォルターが家へ帰るたび、セレナとルナへ息子の様子を話していたらしい。


『今日はまた教官に怒られた』


『射撃は悪くない』


『仲間を庇いすぎる』


『本人には言わないが、少しずつ兵士の顔になってきた』


 レイブンは最後の一文で止まった。


「……父さん、こんなこと書いてたんだ」


「嬉しい?」


「本人から言われたことない」


「お父さんらしいね」


「会って二日なのに分かるの?」


「レイブンのお父さんだから」


「それ説明になってない」


 エリシアは笑った。


 そして、しばらく日記を見たあと、少しだけ表情を変えた。


「いいな」


「何が?」


「帰ったら、自分がいなかった時間を見せてくれる人がいること」


 レイブンは彼女を見る。


 エリシアの父はもういない。


 兄もいない。


 第一次異界大戦の中で、帰るはずだった家族を失っている。


「……エリシア」


「ごめん。暗くするつもりじゃなかった」


「謝らなくていいよ」


 レイブンは日記を閉じた。


「話したくなったら、聞くから」


「何を?」


「お父さんとか、お兄さんのこと」


 エリシアは少し驚いたようにレイブンを見る。


「俺ばっかり家族の話してるからさ」


「……長いよ?」


 昨日、自分が言った言葉を返された。


 レイブンは笑った。


「聞く」


「本当に?」


「うん」


「じゃあ……いつか」


「分かった」


 それ以上は聞かなかった。


 夕方になると、ルナが庭へ兄を連れ出した。


「兄様、遊ぼう」


「左腕使わないやつならね」


「かくれんぼ!」


「それなら大丈夫」


「エリシアお姉様も!」


「私も?」


「うん!」


 三人で始まったかくれんぼは、開始から三分で問題が起きた。


「レイブンどこ?」


 エリシアが庭を見回す。


 返事がない。


「ルナ?」


「兄様がいない」


「……まさか」


 エリシアは目を細める。


「レイブン」


 返事なし。


「〔透明(ゴースト)〕使ってないよね?」


 沈黙。


「使ってるでしょう!」


 少し離れたところから笑い声が聞こえた。


「ばれた?」


 何もなかった場所からレイブンが姿を現す。


「ずるい!」


 ルナが頬を膨らませた。


「兄様ずるい!」


「ごめん、ごめん!」


「能力禁止!」


「はい」


 エリシアも呆れていた。


「世界でも珍しい個人スキルを、妹とのかくれんぼに使わないで」


「こういう使い方もあるかなって」


「ない」


「即答だな」


「次は普通に隠れて」


「了解」


 二回目は能力を使わなかった。


 結果、レイブンはルナに一分で見つかった。


「兄様、弱い!」


「ゴーストなしならこんなもんだよ」


「Valkyrieなら?」


「エリシアお姉様!」


「はいはい」


 今度はエリシアが隠れる。


 その様子を縁側から見ていたヴォルターとセレナは、何も言わなかった。


 ただ二人とも、笑っていた。


 夜。


 ルナが眠ったあと、レイブンは一人で庭へ出た。


 左腕にはまだ包帯が巻かれている。


 昼間より痛みは減っていた。


 空を見る。


 星が見える。


 戦場でも同じ空を見たことがある。


 だが、あちらでは星を見る余裕などほとんどなかった。


「また一人でいる」


 背後から声がした。


「エリシア」


 彼女が隣へ来る。


 昼間にもらった髪飾りをまだつけていた。


「眠れない?」


「まだ寝るには早い」


「腕は?」


「大丈夫」


 エリシアが見る。


「本当に?」


「今日は本当に」


「ならいい」


 二人で空を見る。


 しばらく会話はなかった。


 気まずくはない。


 銃声のない沈黙に、少しずつ慣れてきていた。


「今日さ」


 レイブンが口を開く。


「うん」


「変な感じだった」


「何が?」


「銃を一回も触らなかった」


「休暇なんだから普通でしょう?」


「今の俺には普通じゃないんだよ」


「……そっか」


「朝起きて、飯食べて、ルナと遊んで、日記読んで」


 レイブンは自分の右手を見る。


「一日終わった」


「いい日だった?」


「うん」


 迷わず答えた。


「すごく」


 エリシアが笑う。


「私も」


「本当?」


「うん」


 髪飾りへ触れる。


「こういうの、久しぶりだったから」


「家族と過ごすの?」


「それも」


 エリシアは少し考えた。


「誰かの家で、戦争のことを考えないで笑ったこと」


 レイブンは黙って聞いていた。


「父と兄がいた頃は、普通だったんだけどね」


「……うん」


「普通って、なくなってから分かるんだね」


 レイブンにも覚えがあった。


 幼い頃、セレナの料理を食べ、ヴォルターの帰りを待っていた日々。


 連邦との戦争が激化し、異界門が世界中へ開き、避難生活が始まるまでは、それが特別なことだと思ったことなどなかった。


「俺も昔は分からなかった」


「何が?」


「父さんが帰ってくること」


 レイブンは家の明かりを見る。


「軍人なんだから仕事が終われば帰ってくるって思ってた。でも異界門の向こうで行方不明になった時、初めて帰ってくることが普通じゃないって分かった」


 エリシアは何も言わない。


「だから父さん、俺にあんなに帰れって言うんだと思う」


「レイブンも?」


「何?」


「誰かに言うようになるのかな」


「帰れって?」


「うん」


 レイブンは少し考えた。


「もう言ってるかも」


「誰に?」


 隣を見る。


「エリシアに」


 彼女が瞬きをした。


「私?」


「アルケインでも言っただろ。一緒に帰ろうって」


「……言ってた」


「だから次も言うよ」


「次?」


「戦場に戻った時」


 レイブンは笑った。


「絶対一緒に帰ろう」


 エリシアはしばらく何も答えなかった。


 やがて、小さく笑う。


「うん」


 そして今度は彼女から言った。


「レイブンも絶対帰ってね」


「もちろん」


「無茶して腕怪我しないで」


「努力します」


「そこは『しない』って言って」


「戦場で絶対は――」


「レイブン」


「……怪我しません」


「よろしい」


「母さんみたい」


「明日セレナさんに言っておく」


「やめて」


 二人の笑い声が夜の庭に小さく広がった。


 それを掻き消す砲声は聞こえない。


 警報も鳴らない。


 レイブンの手にはSG-44もP-38Aもなく、エリシアも銃を持っていなかった。


 その夜だけは〔無名(ノックス)〕も〔戦乙女(ヴァルキリー)〕も必要なかった。


 そこにいたのは、左腕を怪我して家へ帰ってきたレイブンと、彼を護衛するという名目で休暇を与えられたエリシアだった。


 家の中からセレナが二人を呼ぶ声が聞こえる。


「レイブン、エリシアさん。身体冷やすわよ」


「今行く!」


 レイブンが答える。


「戻ろうか」


「うん」


 二人は並んで家へ向かった。


 玄関の明かりが足元を照らしている。


 戦場で撤退地点を示す灯火とは違う。


 誰かを待つ家の明かりだった。


 レイブンはその光の中へ足を踏み入れながら、明日も銃を持たなくていいという事実を、今度は少しだけ素直に受け入れることができた。

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