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黒猫年代記  作者: @12
第一部 RAVEN ― 黒猫が戦場に立つまで ― Season 1 #01~Season 3 #037
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Season 3「志願兵」 #037

第37話 「最初の帰還」


 帝政歴345年、秋。


 レイブン・S・クロウ、十八歳。


 帝国陸軍特殊即応群第三特殊即応大隊第二中隊第一即応班へ配属されてから、まだ一日も経っていなかった。


 訓練基地を卒業して三週間、その間に何度も自分が軍人になったことを意識してきたはずだったが、装甲車の小さな窓から流れていく帝国西部の景色を眺めていると、それまで胸の中にあった実感がひどく曖昧なものだったように思えてくる。


 窓の外を流れているのは、訓練のために整えられた演習場ではない。


 街道脇には土嚢を積んだ検問所が設けられ、軍用車両と避難民の荷車が同じ道を行き交っている。遠くの農地では収穫期を迎えているにもかかわらず人影が少なく、放棄された畑の向こうには砲撃で屋根を失った納屋が残されていた。


 帝国と連邦共和国との戦争が始まった頃、レイブンはまだ子供だった。


 町の近くまで迫った連邦共和国軍から逃げ、家族とともに避難した時には、戦争とは自分たちの生活を壊しに来るものだった。それから年月が過ぎ、学校を卒業し、志願兵となり、長い訓練を終えた今、自分は逃げる側ではなく、誰かが逃げ切るために戦場へ向かう側へ座っている。


 その変化を考えていたレイブンの耳へ、向かい側から声が届いた。


「〔無名(ノックス)〕」


 顔を上げると、第一即応班を率いるグレイヴ・ハルトマン大尉――〔巨神(アトラス)〕がこちらを見ていた。


「聞いているか?」


「すみません。聞いています」


「なら、俺が今言ったことを復唱しろ」


「……すみません。聞いてませんでした」


 正直に答えると、隣に座っていたエミリア・ヴァイス少尉――〔鍛冶師(フォージ)〕が小さく息を漏らした。


「着任初日からそれ?」


「考え事してたんだよ」


「実戦へ向かってる途中に?」


「だから考えるんだろ」


 言い返したものの、グレイヴから向けられた視線に気づき、レイブンは口を閉じた。


「緊張するなとは言わん」


 グレイヴは怒るでもなく、膝の上に広げた地図へ指を置いた。


「初陣なら余計なことまで考える。だが、現場へ近づいたら頭の中を切り替えろ。家族のことも、昔のことも、帰ってから考えればいい」


「了解、〔巨神(アトラス)〕」


「もう一度説明する。俺たちが接触するのは帝国陸軍西部方面軍第七偵察小隊だ。六名編成で敵情偵察中に異界側武装勢力と接触し、現在は負傷者二名を連れて東へ後退している。最後の通信から三十分以上が経過しているため、今も同じ場所にいるとは考えるな」


 グレイヴの指が地図上の森林地帯をなぞった。


「車両で入れるのはここまでだ。そこから〔女狐(ヴィクセン)〕と〔無名(ノックス)〕が先行する。小隊を発見しても勝手に接触するな。周囲を確認してから報告しろ」


 白金色の髪を持つセリア・ノルト軍曹――〔女狐(ヴィクセン)〕が頷いた。


「新人は私から五メートル以上離れないで」


「了解」


「〔透明(ゴースト)〕は?」


「必要になるまで使わない」


 レイブンが答えると、セリアは僅かに頷いた。


「分かってるならいいわ」


 ニーナ・フェルト曹長――〔反響(エコー)〕は携帯通信端末を操作しながら、レイブンの胸元に取り付けられた無線機を指した。


「それと、あなたの〔透明(ゴースト)〕について一つだけ分かったことがあるわ」


「もう?」


「基地を出る前に簡易測定したでしょう。能力を発動しても無線機の電波そのものは消えない。敵が十分な電子探知能力を持っていたら、発信した瞬間におおよその位置を割り出される可能性がある」


「じゃあ、偵察中は?」


「基本は受信だけ。どうしても送信する必要がある時は短く。私が指示する」


「了解、〔反響(エコー)〕」


 窓際ではユリウス・ベルナー中尉――〔照準鏡(スコープ)〕が自らの長銃身の半自動小銃を点検していた。


 レイブンがその武器へ視線を向けていることに気づいたのか、ユリウスは機関部を閉じながら言った。


「お前が先行する間、俺は後方から見ている。何か見つけても、すぐ撃とうとするな」


「分かってます」


「本当に?」


「〔鍛冶師(フォージ)〕と同じこと言わないでくださいよ」


「二人から同じことを言われるなら理由があるんだろう」


 エミリアが横から頷いた。


「私もそう思う」


「味方が増えないな……」


 その会話を聞いていたオットー・バルク軍曹――〔城壁(ブルワーク)〕が低く笑った。


 装甲車が舗装路から外れたところで、車体の揺れが急に激しくなった。


 会話が途切れる。


 道路脇に見えていた民家もなくなり、窓の外は深い森へ変わっていった。


 やがて運転兵が速度を落とし、グレイヴが腕時計を確認した。


「目標地域まで約二キロ。ここから徒歩で行く」


 後部扉が開いた。


 冷たい風と一緒に、湿った土と枯葉の臭いが車内へ流れ込んでくる。


 レイブンはSG-44を身体の前へ回し、薬室が空であることを確認してから弾倉を装着した。


 十二番径通常弾。


 訓練弾ではない。


 弾倉を押し込んだ時の金属音が、今までとはまるで違って聞こえた。


 エミリアがその手元を見ていた。


「レイブン」


 コールサインではなく名前で呼ばれ、レイブンは顔を上げた。


「何?」


「怖い?」


 少し考えてから答えた。


「怖いよ」


「意外と素直ね」


「怖くないって言ったら、たぶん父さんに殴られる」


「どうして?」


「怖くなくなった兵士から先に死ぬって言ってた」


 エミリアは一瞬黙ったあと、小さく頷いた。


「だったら、ちゃんと怖がって帰ってきて」


「そっちもな」


「私は後ろにいるから」


「最終訓練でもそう言って途中から前まで来ただろ」


「あれは必要だったから!」


 そのやり取りを聞きながら降車したグレイヴが振り返った。


「二人とも、続きは帰ってからにしろ」


「了解」


 二人の返事が重なった。


 レイブンが地面へ降りると、土の柔らかさが軍靴越しに伝わった。


 演習場と違って、ここには境界線を示す標識も、訓練終了を告げる放送設備もない。


 セリアが先行し、その数歩後ろをレイブンが進む。


 木々の間へ入って十分ほど経ったところで、レイブンは自分の呼吸音が普段より大きく感じられることに気づいた。


 意識して呼吸を整える。


 セリアはほとんど音を立てずに歩いていた。


 レイブンも訓練で教わったように落枝を避け、土の状態を見ながら足を置いていくが、それでも彼女と比べれば経験の差は明らかだった。


 しばらく進んだところで、セリアが片手を上げた。


 レイブンは即座に止まった。


 彼女がしゃがみ込んだ場所には、柔らかい土に複数の靴跡が残されていた。


「六人……いや、ここで増えてる」


 セリアが小声で呟く。


 レイブンも膝をついた。


 軍靴の跡に混じり、形の違う足跡がいくつもある。


「追われてる?」


「可能性が高い。こっちを見て」


 少し離れた草に、黒ずんだものが付着していた。


 血だった。


 訓練場なら赤い染料で済んでいたものが、ここでは鉄臭い生々しい臭気を残している。


 レイブンの胃が僅かに縮んだ。


「大丈夫?」


「……大丈夫」


「無理なら言いなさい」


「進める」


 セリアはそれ以上何も言わず、痕跡を追った。


 さらに十五分ほど進んだ頃だった。


 レイブンの身体を、突然冷たい感覚が走った。


 視界に何かが見えたわけではない。


 音が聞こえたわけでもない。


 それでも、自分へ向けられた明確な敵意が森の奥から突き刺さってくる。


 〔殺気看破(アタック・シールド)〕。


「伏せて!」


 考えるより先に声が出た。


 セリアが地面へ身体を沈めた直後、二人の頭上を何かが通過し、後方の木へ突き刺さった。


 矢だった。


「右前方!」


 レイブンはSG-44を構えたが、引き金へ指を掛ける前にセリアが腕を押さえた。


「撃たない。まだ位置が分からない」


「でも――」


「能力で分かるのは殺気の方向でしょう。敵そのものじゃない」


 父にも何度も言われてきたことだった。


 能力が教える情報と、自分が確認した事実を混同するな。


 レイブンは息を整えた。


「〔透明(ゴースト)〕を使う」


「三十秒だけ。右へ回って確認して。深追いしない」


「了解」


 意識を集中させる。


 自分の身体から音が消え、装備同士が擦れる僅かな音まで失われていく。土と汗と金属が混じった臭いも消え、やがて自分の手さえ視界から見えなくなった。


 〔透明(ゴースト)〕。


 レイブンは木々の間を右へ回った。


 ただし、姿が見えないからといって走らない。


 落葉を踏めば動く。


 枝に触れれば揺れる。


 セリアから教えられたばかりのことを思い返しながら、足を置く場所を一つずつ選んだ。


 やがて木々の向こうに、人影が見えた。


 一人ではない。


 三人。


 異界側の装備と思われる弓と短槍を持ち、こちらを探している。


 そのさらに後ろには別の足跡が続いていた。


 敵は三人だけではない。


 レイブンは引き返した。


 セリアの横まで戻り、〔透明(ゴースト)〕を解除する。


「前方約六十メートルに三人。弓二、短槍一。ただし後方にも足跡が続いてる。増援がいると思う」


「よく戻った」


 セリアはすぐ無線機へ手を伸ばした。


「〔女狐(ヴィクセン)〕より〔巨神(アトラス)〕。敵三名を視認、後方に追加戦力の可能性あり。こちらの存在は察知されている。偵察小隊の痕跡はさらに東へ続いている」


『了解。交戦を避けて南へ迂回しろ。こちらも移動する』


「了解」


 無線を切ったセリアがレイブンを見た。


「今のでいい」


「撃たなくて?」


「撃ったら後ろにいる連中まで呼ぶでしょう。私たちは敵を倒しに来たんじゃない」


 レイブンはSG-44を見下ろした。


 父の言葉がまた頭をよぎった。


 帰還するのに邪魔な敵を倒せ。


 倒せる敵をすべて倒せ、ではなかった。


「行くわよ」


「了解」


 二人は南へ迂回した。


 それから二十分ほど進んだところで、ようやく帝国軍の装備が見えた。


 倒木の陰に兵士が伏せている。


 その奥にも人影があり、一人は肩を負傷し、もう一人は脚に応急処置を受けていた。


 六人。


 第七偵察小隊だった。


 セリアは周囲を確認してから姿を現した。


「帝国軍特殊即応群! 第七偵察小隊ですね?」


 銃を構えかけた兵士が、帝国軍の識別章を見て力を抜いた。


「……遅えよ」


「生きてるなら文句は後で聞くわ」


 レイブンも木陰から姿を見せた。


 負傷者の一人がこちらを見た。


「子供じゃねえか……」


「十八です」


「十分子供だろ……」


「喋れるなら歩けます?」


「口の悪い救援だな」


「父譲りです」


 その兵士が痛みに顔を歪めながら、それでも笑った。


 数分後、グレイヴたち本隊も合流した。


 オットーが脚を負傷した兵士を支え、エミリアが肩の負傷者の装備を確認する。ニーナは西部方面軍との通信を回復させ、ユリウスは追跡してくる敵がいないか後方を監視した。


 グレイヴは負傷者の状態を確認すると、即座に撤退経路を決めた。


「来た道は使わない。敵に見られている。南東へ抜けて車両と合流する」


 レイブンは周囲へ意識を向けた。


 先ほど感じた殺気はない。


 だが安心はできなかった。


 帰るまでが任務。


 その言葉が、今までとは違う重さを持って胸に残った。


 撤退を始めて一時間ほど経った頃、後方から乾いた音が響いた。


 矢が木へ当たった。


「追いつかれた!」


 ユリウスの声と同時に全員が身を低くした。


 レイブンの〔殺気看破(アタック・シールド)〕が複数の敵意を捉える。


「左後方! 四……いや、もっといる!」


「〔照準鏡(スコープ)〕、牽制! 〔城壁(ブルワーク)〕、負傷者を前へ! 〔鍛冶師(フォージ)〕、援護につけ!」


 グレイヴの命令が飛ぶ。


 ユリウスの半自動小銃が発砲し、後方の敵を遮蔽物へ押し込んだ。


 レイブンもSG-44を構えた。


 今度は撃つ。


 敵を倒したいからではない。


 後ろには負傷者がいる。


 彼らを帰すために、追跡を止める必要がある。


 父から渡されたSG-44の引き金へ指を掛ける。


 初めて実弾を人へ向けるという事実に身体が拒絶するような感覚があったが、それでも敵影が木の間から姿を現した瞬間、レイブンは照準を合わせた。


 発砲音が森に響いた。


 訓練弾とは比較にならない反動が肩へ伝わり、火薬の臭いが鼻を刺す。


 敵影が遮蔽物の向こうへ消えた。


 当たったのかどうかは分からない。


 確かめようとも思わなかった。


「〔無名(ノックス)〕、下がれ!」


 グレイヴの声に従い、レイブンはすぐ位置を変えた。


 ユリウスが牽制し、レイブンとエミリアが交互に射線を作り、その間にオットーとセリアが負傷者を運ぶ。


 数分だったのか、もっと長かったのか、レイブンには分からなかった。


 やがて追撃の音が遠ざかった。


 敵を撃退したのではない。


 追跡を諦めさせるだけの距離を稼いだのだ。


 車両へ到着した時には、太陽が西へ大きく傾いていた。


 最後の負傷者が装甲車へ乗せられたことを確認したグレイヴが、人数を数える。


「第七偵察小隊、六名」


 次に自分の班を見た。


「第一即応班、七名」


 誰も欠けていなかった。


「全員帰るぞ」


 その一言を聞いた時、レイブンはようやくSG-44から力を抜いた。


 帰りの装甲車では、誰も最初ほど話さなかった。


 レイブンは自分の手を見ていた。


 震えていた。


 戦闘中には気づかなかった。


「止めようとしなくていい」


 隣からエミリアが言った。


「……見えてた?」


「見えるわよ、それだけ震えてれば」


「情けないな」


「初めて実弾を撃った日の私なんて吐いたわ」


「エミリアにもそんな時あったんだ」


「どういう意味?」


「いや、もっと平気そうだから」


「平気な人なんて、たぶんそんなにいない」


 レイブンは黙って頷いた。


 しばらくして、エミリアがSG-44へ目を向けた。


「何発撃った?」


「三発」


「覚えてるんだ」


「忘れられそうにない」


「なら忘れなくていいんじゃない?」


 その言葉に、レイブンは返事をしなかった。


 基地へ帰還した頃には、すっかり夜になっていた。


 着任初日に初実戦へ出て、負傷者を連れて戻ってきた。


 それでも、基地の時間は何事もなかったように流れている。


 食堂では遅番の兵士が夕食を取り、整備棟では車両の修理が続き、通信室からは次の作戦に関する報告が飛び交っていた。


 戦場から帰ったからといって、戦争そのものが終わるわけではない。


 装備を返却し、SG-44の整備を終えたレイブンが営舎へ戻ろうとすると、グレイヴに呼び止められた。


「〔無名(ノックス)〕」


「はい」


「初陣の感想は?」


 レイブンは少し考えた。


「思ってたのと違いました」


「何がだ?」


「もっと……敵と戦うことばかり考えるものだと思ってました。でも実際は、味方がどこにいるか探して、負傷者を運んで、敵を避けて、最後に少し撃って……」


「それでいい」


「いいんですか?」


「お前は英雄になるためにここへ来たのか?」


「違います」


「なら十分だ。今日、俺たちが助けに行った六人は帰ってきた。俺たち七人も帰ってきた。それが結果だ」


 レイブンは黙って聞いていた。


「ただし、一つ覚えておけ」


「はい」


「今日は全員帰れた。次もそうなる保証はない」


 その言葉だけは、胸の奥へ重く沈んだ。


「だから毎回、帰る方法を考えろ。敵を倒す方法より先にな」


 父と同じだった。


 言い方は違っていても、教えていることはよく似ている。


「了解、〔巨神(アトラス)〕」


 グレイヴが去ったあと、レイブンは一人で営舎へ向かった。


 途中、軍用郵便の受付がまだ開いていることに気づいて足を止める。


 少し迷った末、備え付けの紙を一枚もらった。


 机に座り、ペンを握る。


 誰へ宛てるかは決まっていた。


『父さん、母さん、ルナへ。』


 そこまで書いてから手が止まった。


 今日撃った三発のことを、九歳の妹へどう説明すればいいのか分からなかった。


 結局、しばらく考えた末に別の言葉を書いた。


『初めての任務から、ちゃんと帰ってきました。』


 それだけなら嘘ではない。


 その下に、もう一行だけ付け足す。


『ルナへ。兄様は約束を一回守りました。次も守ります。』


 書き終えると、レイブンはようやく小さく笑った。


 それからの日々、〔無名(ノックス)〕という名は少しずつ第一即応班に馴染んでいった。


 帝政歴345年の冬には三度の偵察任務と二度の救援任務を経験し、十九歳を迎える頃には、セリアから足跡の読み方を教わり、ユリウスからは自分が見つけた敵を味方へ正確に伝える方法を叩き込まれていた。ニーナとの試験によって〔透明(ゴースト)〕使用時の通信制限も整理され、エミリアはSG-44の作動記録を取りながら、レイブン本人より細かく故障や消耗の傾向を把握するようになっていった。


 家へ帰れる日は多くなかった。


 それでも休暇が取れれば必ずクロウ家へ戻った。


 九歳だったルナは十歳になり、帰るたびに少しずつ背が伸びていた。最初の頃は玄関へ飛びついてきた妹も、やがて照れながら「お帰りなさい、兄様」と言うようになり、セレナは息子の軍服についた傷を見つけるたびに何も聞かず修繕した。


 ヴァルターだけは、帰ってきた息子の顔より先にSG-44を見ることが多かった。


「銃身、焼いたな」


「任務でちょっと」


「ちょっとでここまで焼けるか」


「……結構撃ちました」


「整備しろ」


「帰ってきた息子に最初に言うことがそれ?」


「帰ってきたから言えるんだろうが」


 そんなやり取りも、いつしかレイブンにとって帰郷の一部になっていった。


 だが、帝国の外では戦争が終わる気配を見せなかった。


 帝国と連邦共和国の戦線が膠着し始める一方、世界各地に開いた異界門から侵入する勢力との衝突は増え続け、帝国軍は国境戦争と異界側への対処を同時に続けることを余儀なくされた。


 帝政歴346年。


 十九歳となったレイブンの所属する第一即応班にも、異界門周辺での任務が増えていった。


 そして、その年の終わり。


 基地へ戻ったレイブンは、作戦室の地図に新しい印が増えていることに気づいた。


 帝国領北東部。


 既存の異界門から遠く離れた地域に、これまで確認されていなかった反応が記されている。


「〔反響(エコー)〕、これ何?」


 ニーナは端末から顔を上げた。


「今日入ったばかりの情報。まだ異界門だと確定したわけじゃない」


「でも、反応は似てる?」


「似てるから調査するのよ」


 その会話を聞いていたグレイヴが、作戦資料を机へ置いた。


「第一即応班にも予備命令が出た。正式な出動命令が下りれば北東部へ向かう」


 レイブンは地図を見つめた。


 十八歳の秋、初めて実戦へ向かった時には、戦場というものが自分の知っている世界の延長にあると思っていた。


 国境があり、町があり、道路があり、その先に敵がいる。


 しかし異界門だけは違う。


 その向こうには、この世界の地図そのものが通用しない。


 父が右腕を失った場所も、その向こう側だった。


「〔無名(ノックス)〕」


 グレイヴに呼ばれ、レイブンは地図から目を離した。


「はい」


「明日から北東部派遣を想定した装備へ切り替える。〔透明(ゴースト)〕についても、魔力探知に対する有効性を再検証する」


「了解」


「何かあるか?」


 レイブンはもう一度、地図上の印を見た。


「……父さんが昔、向こう側で何を見たのか、少しだけ気になっただけです」


 グレイヴは答えを急かさなかった。


「本人から聞いたことは?」


「ほとんどありません。聞こうとすると話を変えるので」


「なら無理に聞くな。話せないことには、話せないだけの理由がある」


「分かってます」


 そう答えながらも、レイブンの視線は新たな反応地点から離れなかった。


 翌朝、基地の空には冬の雲が低く垂れ込めていた。


 レイブンはいつものようにSG-44を受け取り、銃床に刻まれた Crow Raven の文字を親指でなぞってから、弾倉を装具へ収めていった。


 十八歳で訓練基地を卒業し、三週間後に特殊即応部隊へ配属され、着任初日に初実戦を経験した。それから一年余りが過ぎた今、十九歳になったレイブンにとって〔無名(ノックス)〕――NoXという呼び名は、もう訓練兵時代の仮名ではなかった。


 無線からその名を呼ばれれば、自然に身体が動く。


 助けを求める声があれば、その場所へ向かう。


 そして、必ず帰ろうとする。


 装備を整えたレイブンが待機室へ向かう途中、基地全体へ緊急招集を知らせる警報が響いた。


 廊下を歩いていた兵士たちが一斉に足を速める。


 レイブンも走り出し、第一即応班の作戦室へ入った。


 そこではグレイヴが、昨夜までとは違う表情で北東部の地図を見ていた。


「〔巨神(アトラス)〕、何があった?」


「反応地点が開いた」


 レイブンの足が止まる。


「異界門ですか?」


「ああ」


 グレイヴは机上の命令書を取り上げた。


「それも、帝国軍がこれまで観測したものより大きい」


 エミリアが装備庫から戻り、レイブンの隣へ立った。


「出動?」


「第一即応班に先遣調査命令が下りた。現地部隊と合流し、門周辺の状況を確認する」


 グレイヴは全員を見渡した。


「出発は二時間後だ」


 レイブンは地図上の異界門を見つめたまま、無意識に右手をSG-44へ添えていた。


 父がかつて三か月もの間、帰ることのできなかった場所。


 その世界へ続くものと同じ門が、再び帝国領内で開いている。


 そして今度は、父ではなく自分に先遣任務が与えられようとしていた。


 十九歳になった〔無名(ノックス)〕は静かに息を吸うと、隣に立つ仲間たちとともに出動準備へ向かった。

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